宗門の禅者『鎌谷仙龍 老師』
山陰東部の中核市・鳥取市から南へ約16キロ。JR因美線が乗り入れ、若桜鉄道若桜線の起点ともなっている郡家駅を中心とした旧郡家町(現在は八頭郡八頭町)の郊外、冬になると降雪が1メートルを超えるという閑静な山間に、その一画を占有するかのような堂々とした寺容を誇る、普門山大樹寺があります。
創建年代は不詳ですが、中世の戦火などで、度々焼失の憂き目にあったと言います。明暦年間(1655〜58)に現在の地に再興され、曹洞宗に改められて鹿野町の譲傳寺末となりました。
大樹寺のホームページによると、寺号の「大樹」とは、将軍や為政者の雅称で、後漢の将軍・馮異が諸将の論功の際に、席を退いて大樹の下に座ったという故事に因んだとされ、元々は安芸の国人・毛利豊元(元就の祖父)の家臣で、八頭郡津黒城城主だった安藤義光公の菩提所だったと伝えられています。
境内には、推定樹齢四〇〇年以上、樹高八.七メートル、幹回り一.八五メートル、枝張り十.五メートルにも及ぶ大きな椿の木があります。茶人大名として名高い織田有楽斎が愛好した銘木であることから「有楽椿」と呼ばれ、町指定の記念物となっています。正にこれこそが、寺名「大樹」の由来と言われても不思議ではありません。
この大樹寺には、かつて昭和三十年から五十二年まで、当時中国地方で唯一の専門僧堂が置かれ、祖道を慕う真実の学人を打出する道場でした。その住職・堂頭として仏道修行に励まれたのが、鎌谷仙龍老師(一九〇四〜一九八二)です。今回は、筆者が大樹寺様へ拝登して、仙龍老師の弟子である、大樹寺現住の鎌谷龍心老師(左)と、法清寺ご住職の吉田龍明老師(右)のお二人に、仙龍老師の人となりや家風についてお話を伺いました。
仙龍老師は明治三十七年、鳥取県八頭郡船岡村(当時)生まれ。幼い頃から大変勉強好きだった老師は、父の死後に「寺の小僧になると、上の学校へ行かせてもらえる」という言葉に釣られて大樹寺に入り、大正六年、十四才で山根仙翁師について出家得度します。
ところが、期待していた学校教育は受けさせてもらえなかったと言います。当時、広大な境内・寺領地には田畑があり、檀家も相当数あったことから、檀務や普請に忙殺される日々だったためで、「勉強がしたかったのに、勉強の勉の字もなかった」と、仙龍老師は当時のことをよく振り返っておられました。
しかし、いわゆる「勉強の虫が治る」ことはなかったようで、昭和三年、師匠に嘆願して、眼蔵会の聴講するために、25才で初めて永平寺に上山します。その時には岸沢惟安老師提唱の「有時」の巻を拝聴しました。
すると聴講者の中に、威儀がしっかりしている人を見つけ、「あなたの師匠はどなたですか?」と訪ねたところ、当時、名古屋市護国院僧堂の単頭だった橋本恵光老師に随身していた中村道融師という方で、この方から初めて橋本老師の人となりと家風を伺い、出家以来初めてとも言うべき法悦に心を踊らせます。
翌年に発足参学を許され、護国院僧堂で橋本恵光老師に初相見します。
橋本恵光老師(一八九〇―一九六五)については、ここで詳しくご紹介をするまでもなく、綿密な家風で知られた、近現代でも屈指の禅匠としてあまりにも有名ですが、仙龍老師は寺籍を大樹寺に置きながらも、以来三十六年間、橋本老師に随身されます。
龍心老師曰く「橋本恵光老師無くして、鎌谷仙龍は語れない」。
橋本老師は仙龍老師以上に、一生参学の大事を体現した方で、行事や威儀については高祖大師への原点回帰を旨とし、仏典や祖録の参究に当たっては、常に諸橋轍次編の『大漢和辞典』を傍らに置きながら、日々字義を商量されます。そのせいもあってか、実は橋本老師にはご自身の著作は少なかったと言われます。常に勉強し続けて、解釈にもこれで良しと脱稿することがなかったのです。完全に納得したら、その成果を出版したい、という思いはあったが、生涯で完全に納得することがなかったのではないか、と龍心老師は推察されます
そのため、自ずと口伝が主となる橋本老師の教えや提唱を、文字で残さなければ、教えが受け継がれ残っていかないと考えた仙龍老師は、独学で速記法を覚えて、橋本老師の提唱をひたすら筆録していきます。
仙龍の主著である『正法眼蔵弄精魂集』などの講述は、橋本老師の提唱をなぞってほぼ写したものと言ってもいい内容だと言います。
そして仙龍老師ご自身も、橋本老師の参学の態度をそのまま受け継がれます。提唱での漢文の読み方一つとっても、聞法者にとって分かりやすく、かつ祖師方の仰ることを曲解や加飾せず、真っ直ぐ間違いないものになるよう、商量されたと言います。
橋本老師には多く直弟子がいたと言いますが、みんなそれぞれ寺を持ってしまうと随身されなくなり、やがては仙龍老師が随身の筆頭として位置付けられていきます。
そして仙龍老師の弟子である龍心・龍明両師も、本師を介して、橋本門下の家風を継承していると、強く意識しておられました。
昭和十八年、大樹寺の住職だった河田仙雄老師が亡くなられます。
仙龍老師には元々兄弟子が二人いて、後住についてもこの両名で、という思いがあったので、橋本老師への随身を全うされていましたが、その後住に関する問題が発生し、檀家総代による強い懇願もあって、仙龍老師が大樹寺を継ぐことになります。内心では橋本老師の元で参学を続けたかったようですが、大樹寺が荒廃させないための、苦渋の選択だったようです。昭和二十三年、仙龍老師は四十五才で大樹寺二十一世に就いて晋山されます。
そして昭和三十年に僧堂を建立、橋本老師を師家として拝請して大樹寺専門僧堂が開単します。
四・九日の放参もなく、東は豊岡市、西は出雲市の範囲で托鉢する峻厳な家風でありながら、多い時は二十人ほどの修行僧がいたそうです。そのほとんどが、本山安居を終えてなお、橋本老師の指導を求めて雲集したもので、その中には、後に本山後堂を務められた、若き日の本田祖芳老師もおられたと言います。仙龍老師は住職ではありましたが、自身はあまり出張ることなく、橋本老師の家風を前面に掲げた僧堂運営を心掛けられたそうです。
昭和三十四年、仙龍老師は橋本老師に「行ってこい」と背中を押されて大本山永平寺単頭に就任、三十八年まで務められます。橋本老師は三十九年に永平寺西堂に就任されますが、翌年に遷化されます。
すると仙龍老師は橋本老師が師家を務めていた新居浜・瑞応寺、名古屋・海善寺、大樹寺の師家となられます。そして、橋本老師の家風を守り尽くすことはあっても、破り離れることはなかったと言います。橋本老師の没後は「安心して話を聞ける人がいない」と嘆息されていたとも聞きます。
昭和四十三年には永平寺の後堂に就任。翌年から四十九年まで眼蔵会講師を務められます。
昭和四十五年、全日本仏教会の国際事業の一環で、韓国・忠清南道に「仏教伝来謝恩碑」の建立が発願されます。当時の全日仏の理事長は曹洞宗管長で永平寺七十四世 佐藤泰舜禅師でした。しかし佐藤禅師は盲目だったため、碑銘の揮毫を仙龍老師が代筆されます。実は、仙龍老師の初めて弟子であった中川龍定師が大東亜戦争で出征し、昭和二十年に朝鮮半島で戦病死、その荼毘式を橋本老師の導師で厳修したと言います。四半世紀後に訪れた因縁、あまりご自身のことを多く語られることのなかった仙龍老師ですが、その時の心情は如何許りだったか、拝察するに余りあります。
昭和四十八年、本山後堂を辞任して乞暇。五十年には大樹寺での年頭の摂心で『正法眼蔵』身心学道巻を提唱した後に罹病、身体に不自由をきたしたため、五十二年には大樹寺を龍心老師に譲り退董、専門僧堂も閉単します。
それでも昭和五十五年には、二祖国師七百回忌大遠忌事業で、本山版『正法眼蔵』を威儀如法で全巻口誦して録音するという浄行を円成されます。
昭和五十七年に遷化。世寿七十九才。正に懐奘禅師の行実そのままの「孝順」の大道を歩まれたご生涯だったと拝察します。
それには橋本恵光老師のみならず、「師匠がほとんど寺に居なかったから、自分が土台石になる」(龍心老師 談)覚悟で、本師仙龍老師の留守を守った、大樹寺現住の龍心老師の存在も欠かせなかったと、筆者には思われてなりません。鎌谷仙龍老師の師資関係、そして無私の孝順を尽くされた学道は、現代に生きる私たちにとっても大いに垂範となるものでした。
参考資料『雍容室語録』『正法眼蔵弄精魂集 鎌谷仙龍提唱』『鎌谷仙龍講述 正法眼蔵 身心学道』『鎌谷仙龍 正法眼蔵 菩提薩埵四攝法』
(副住職 記)<曹洞宗参禅道場の会 会報『参禅の道』第71号 所収>