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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、ショパン、最晩年と見なされる傑作が生みだされた時期の謎・・・

2020.03.16 10:03

ショパンは2か月前までは、「新作は3曲あるが、まだ仕上がらないのだよ」とパリのフランショームに告げていた、作品60、作品61、作品62の3曲のことだ。

ショパンは7月初めには曲の構想は出来ていたのだが、納得できる完成には至っていなかった。その苦しんでいる間に親友のドラクロアが会いに来てくれたことがショパンに良いインスピレーションを与えたのかもしれないのだ。

ドラクロアがノアンに来たのが8月19日頃、そこから3日程の滞在で8月21日頃にノアンを発ったとしたら、その後、ショパンは書きかけの3曲が約1週間程で一気に完成したということになる。芸術家というものは、まったくはかどらないかと思えば、物凄い集中力で一気に出来上がるときもある。ショパンが演奏したベートーヴェンを聴いてドラクロアも刺激を受け、ショパン自身もドラクロワと芸術談義をしたことが創作の霊感をもたらしたのであろう…。とも考えられるが…、実はショパンはこの傑作は1年以上前の1845年の夏に姉ルドヴィカに「このノアンを発つ前に作品60、作品61、作品62を仕上げることに集中しなくてならない」と話していた。

つまり、それ以前から3曲とも取り組んでいたことになるのである。やはり、フランショームへこの夏の7月初めに「まだ仕上がってない」と伝えたのは見せかけの話だったかもしれない。それだけショパンが用心深くなっていたとも考えられるのだ。

そして、8月30日。フランショームへショパンは書いた。「親愛なる友へ、ブランデュス氏へ渡してもらう、私の手稿譜、作品60、作品61、作品62を送ります。」ショパンは3曲もの傑作をついに生みだしたのであった。

「ジャック・マホ へ3曲渡してください。彼はブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から貰った1500フランの金をあなたに支払うであろう。」

ジャック・マホ氏はパリで出版の仲介業者としてインプリントというブランド名を持ち業務していた。(それからずっと後の1851年に出版社となる)

ショパンは、それまではフォンタナやグシマーワといった友人と出版の交渉に当たっていた。しかし、それが出来なくなり、友人とは言え、パリ音楽院の教授の職に付いたフランショームのことはショパンとしては出版の交渉に当たってもらうことは信用ができなくなっていた。

そこで、パリで知られるようになって来ていたジャック・マホを仲介することにしたのだった。

「支払いの時だけ手稿譜を手渡してください。

次の手紙で、5OOフランの紙幣を入れて私に送ってください。残りは私のためにとっておいてください。

あなたに多くのご面倒をおかけしました。

私は今月はパリへ行くので、このようなご面倒をかけないようにしたいと思っています。

しかし。マホにヘンテル社に渡す手稿譜を写譜したものと取り換えないようにと頼んでください。

ヘンテル社のために書かれた手稿譜は、私は訂正はしません。

ライプツィヒ(ヘンテル社)の校正刷りですが、私の写しは明瞭であることが重要です。

[手稿楽譜の写しはヘンテル社に渡されました。

パリのブランデュス氏には手稿譜が残りました。]

そして、ブランデュス氏に私に2つ送るように伝えてください。

校正刷りを私が保管するためです。」

ショパンは、2つ送るようにという意味は、写しと最終的な校正刷りを送ってくるようにフランショームに要請した。恐らくは、ショパンは手稿譜は送ったものとは別に自分の手書きの写しを手元に持っていた。ショパンは自分の作品をいつも改ざんされてきたことで用心深くなっていた。ショパンはいつも最低でも3部は自分で写しをして持っていた。

ショパンは写しを頼める信頼できる仲間がこの頃いなかったのだ。

ショパンのこれらの傑作はもしかしたら1年前に仕上がっていたのかもしれない・・・

だとしたら、サンドが今ショパンが書いている作品は傑作ですと友人に話していた曲はいったい何だったのであろうか・・・。


ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社

ドイツの楽譜出版社

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