F.CHOPIN、ショパン、晩年の傑作の出版とサンドの企み
ショパンはモーツァルトのレクイエムの楽譜をロゼールにノアンへ送ってほしいと頼んだのが3か月前だった。ノアンは既に8月の終わりになっていた。
ショパンは出版社との交渉には長年苦しんで来た。そのため、ショパンは歳をとればとるほど、それまでの経験から用心深くなっていた。
作品60、61、62、3曲とも、恐らくは3曲とも1年以上前から取り組み1年前には既に出来上がっていた可能性がある。
サンドが謎の友人?に「今、坊やが書いている曲は傑作でね・・・」と情報を漏らしてフフフと陰で微笑むのは、お金が目当てか。。まさか、それをショパンから内緒で取り上げて売り飛ばしてお金を山分けしようという魂胆か。。
この時書いていたサンドが言う傑作とは作品60、61、62のことでない可能性が、だとしたら、ちょうど3か月前にショパンはモーツァルトのレクイエムを気にしていた。
ショパンはマヨルカ島で書き上げたプレリュードのときもバッハばかり弾いていた。
バッハの平均律から生まれたショパンのプレリュード。
そして、ショパンは今ノアンで、ドラクロアにベートーヴェンを披露したり、モーツァルトに詳しいドラクロワとショパンは音楽談義をしたりしていたのだ。
ショパンが弾いたベートーヴェンの曲は何の曲だったのか、それは誰にもわからないのだ。
しかしながら、ドラクロアは「ショパンは神々しく弾いた」と言った。もしかしたらベートーヴェン晩年の大作の大宗教曲〈ミサ・ソレムニス〉をノアンの壊れたピアノで弾いたのかもしれない。どちらにしても、ショパンはこの時期、レクイエムに関心を持っていたことは確かのようだ。
さて、話は戻るが、チェリストのフランショームへショパンは出版のことをドラクロアに間に入ってもらい頼んだ。
続けて、出版以外のことを書いたショパンだが、フランショームがショパンの手稿譜のことで勝手な真似が出来ないようにという意味もあったのではないか。
「その後は、お元気ですか? そして、あなたの妻と親愛なる子供たちはどうしていますか? あなたが田舎にいることを私は知っている(サンジェルマンを田舎と呼べるのなら)
それは、あなたに多くの良いことをもたらしていることでしょう。
そちらの天気は快晴でしょう。私が そこに行って、あなたとおしゃべりをしたら、時間が足りなくなることでしょう。
ドラクロワがあなたに私の手稿譜の届けるために私の書簡を書き直す余裕はありません。ちょうど彼はノアンを出発するところです。」
ドラクロアの滞在は、2、3日の滞在ではなかったのだ、少なくとも19日ー30日としたら12日間居たことになる。
「彼は私が一緒に楽しい時を過ごした中で最も賞賛に値する芸術家です。
彼はモーツァルトを崇拝しているため、彼はモーツァルトのすべてのオペラを暗記しています。
本当に今日の私の書簡はシミだらけだ。お許しください。
さようなら、
親愛なる友人。
私はいつもあなたを愛し、毎日あなたのことを考えています。
ショパン
あなたの奥様への敬意と親愛なる子供たちへのキス。」
ショパンはこの書簡をドラクロアに直接フランショームへ渡してもらったのだ。そのことでシュレジンガーの後継者ブランデュス氏との出版の交渉はうまくいったのか。。
同時に、ショパンは作品60、61、62をロンドンのヴェッセル社へ出版の交渉をするために、 ショパンのパトロンでもある銀行家のレオへ、この3曲の写しを送った。
価格は30ポンドでヴェッセル社は買い上げ、レオはショパンの口座にそのお金を振り込んだ。
30ポンドとは現在の約283790円に相当し、当時の馬が160頭または牛400頭分に値して、熟練した商人が32年間働いた賃金に相当していた。ショパンはこれで借金を返済できたのかはわからない。
クリスチャン・ルドルフ・ヴェッセル(1797-1885)がウィリアム・ストダートと共に設立したウェッセル&ストダート・オブ・ロンドンは、1824年から出版に携わりました。
ウェッセルは1833年にショパンの作品を出版し始め、
1836年には、ショパンの作品の英国の独占出版権を取得しました。
作品60、61、62の3つの作品の著作権をヴェッセルへ30ポンドで譲渡したショパンの契約書。