NHKの動物解放バッシング
最終更新:2020年3月20日
動物解放運動の危険視は今になって始まったことではない。古い例としては、ヒトラーが菜食主義者だったとの指摘を通し、動物解放思想にナチス的性格が宿っていることを暗にほのめかす言説が挙げられる。より風呂敷を拡げ、動物解放は動物と人間を同列に置く点で、人間の地位と権利を脅かす思想だという説も、とりわけ左翼や人権擁護派を名乗る知識人によって唱えられてきた。そして9・11以降は、広く社会正義運動をテロリズムとして弾圧する動きが強まり、動物解放はイスラム過激派にも匹敵する脅威として語られることとなった。
反駁は既に多くの論者が提出しているのでここでは省略するが、このような議論は何度も繰り返され、その粗雑さと陳腐さにもかかわらず、常に一定の好評を得る。多くの人々にとって、肉食をはじめとする快楽にノーを突きつける動物解放の主張は居心地が悪くなる訴えであり、ましてこれが社会の支持を得つつあるなどという想像は耐えがたい。そこで、口の立つ者たちは動物解放が社会にとっていかに有害かを力説し、他の大勢がそれを自分好みの真実として受け入れる構造ができあがる。動物解放に携わる活動家が稀に直接行動(direct action)の一環で違法行為や迷惑行為におよんだ際、鬼の首を取ったような大騒ぎが起こるのもこのためであり、つまるところ人々は、本気で動物解放運動の脅威を気に病んでいるというより、それが脅威であることを示す「物証」を欲しているにすぎない。動物解放が社会悪であることを「証明」できれば、自分は動物たちの搾取と殺害の上に成り立つ今の生活習慣を反省せずに済む、というわけである。
NHK国際報道の記事「池畑キャスターの視点 殺生禁断? フランスの『アグリバッシング』を考える」(*1)は、そのような人々の要望に応えるべく、粗雑で陳腐な動物解放批判に新たな一章を付け加えた。原稿用紙6、7枚分の短い記事に、事実誤認、恣意的な編集、一面的な取材、的外れな結論が凝縮されているさまは目もくらむばかりであるが、実のところ、これは巷に溢れる他の動物解放批判とそう水準の異なるものではない。この記事は動物解放を危険視する世間の言説、それも公式の報道機関によって発信されるそれが、いかに粗末な議論のもとに成り立っているかをよく表している。以下ではその欠陥を確かめ、本記事やそれに類する言論が社会運動におよぼす悪影響を考えたい。
まず、本記事はその冒頭から誤りを露呈する。表題では「殺生禁断?」の文言が用いられ、導入部では不殺生の解説などがあって、動物解放に取り組む活動家があたかも殺生への反対を根本理念としているかのような議論がなされているが、もはや分厚い専門書を読むまでもなく、ネット上の関連情報を軽くさらうだけでも分かるように、動物解放を唱える活動家たちの大半は不殺生をよりどころとはしていない。めざすのは人為的な苦しみの一掃である。動物解放論に触れたことのない一般人がそうした理念を知らないのは当然としても、報道機関のキャスターまでがこの初歩的な概念の混同を犯し、あまつさえそれを広めるようでは話にならない。
続く節では「フランスを代表する食材に暴力的ともいえる糾弾」との煽情的な見出しが使われているが、では「暴力的ともいえる糾弾」とはどのような活動かと思ってみれば、たかだか町中でペンキをまき散らして抗議の声を上げるくらいのもので、おそらく活動家たちがペンキの後片付けまでしたであろうことを考えると、何が暴力的なのかさっぱり分からない。仮に後片付けをせずに活動家たちが解散したのだとしても、迷惑でこそあれ、やはり何が暴力的なのか分からない。まして同じ節で言及されているフォアグラ生産現場の動画公開が暴力的などということであれば、言語道断である。暴力の告発自体が暴力的だというのであれば、防犯カメラに移された児童虐待の様子を公開する行為や、戦争被害の報道なども暴力的ということになる。NHKは『映像の世紀』が暴力的ドキュメンタリーだというのだろうか(無論、同番組が戦時性奴隷制の問題を無視している点で暴力的というなら私も異論はない)。
この節ではフォアグラに反対する動物解放NGOの動画が掲載されているので、一見、公平を期しているように思えるが、この動画のオリジナルと思われる以下の動画を見れば、そうも言えないことが分かる。
3分38秒の動画が、NHKの編集ではわずか28秒に短縮され、強制給餌や断嘴(くちばし切断)の様子も短すぎて分かりにくいものとなっている。不適格とされた雛たちが容器に放置されて死んでいく様子、フォアグラ生産に不向きとされる雌の雛たちがレンダリング容器に詰め込まれて窒息死している様子、強制給餌で力尽きた末に廃棄された鳥たちの様子などは、NHKの動画には全く映し出されない。フォアグラ生産に伴う残酷な現実、ひいては活動家たちを直接行動に駆り立てる背景をこのように切り捨てた形で、本記事は暴力的な動物解放活動家が罪なき農家らを悩ませているように語るのである。
次の節では農家におよぶ妨害活動の事例が紹介されている。農家の飼育施設に「殺し屋」などの落書きをする行為が、動物解放の目標を達成する上で有効な戦略かは疑問であるが、この程度の行為はいたずらの域を出ず、これまた国際報道で取り上げるほどの重大案件とも思えない。放火に関しても、欧米圏では社会規範への反抗に破壊的手段を用いるのが珍しくないのであるから、そのような背景の違いを考えず、日本の尺度だけで深刻さを図ることはできない。加えて動物業者や警察機構による「動物解放テロリズム」の捏造ないし自作自演も古くから行なわれてきたことであり、さらには警察のおとり捜査官が活動家に犯行をそそのかすといった工作も行なわれる(*2)。したがって犯人すら分からない曖昧な状況で活動家の犯罪について評価することはできない。少なくとも動物解放運動の歴史において、直接行動が人的被害を出した例は僅少であり、死者を出した例は皆無である。そんなことであれば、世界的にみられる脱搾取派(ビーガン)や動物解放活動家に対する脅迫、殺害予告、ネット空間から学術書までをも埋め尽くす無数の罵詈雑言、南米で頻発している活動家の暗殺などの方がよほど深刻である。そして、畜産による動物たちの被害、畜産による自然破壊とそれによる先住民文化の破壊、畜産物の普及による伝統的食文化の破壊、畜産業者による政府の操作と活動家の弾圧などを全て差し置き、動物解放活動家の散発的な迷惑行為だけを世界最大の脅威のごとく語る報道機関の偏向性こそが何よりも問題である。
しかしそれに加えて本記事の悪質な点は、こうした一部の活動家による直接行動を、脱搾取(ビーガニズム)の広がりと関連づけていることだろう。なるほど直接行動におよぶほどの活動家は脱搾取派であるのが常識だが、そうした活動家は脱搾取が今日ほどの知名度を得る以前から存在しており、一方で脱搾取派の多くは、直接行動どころか特に積極的な抗議活動を行なっているわけでもない。脱搾取と直接行動を安易に結び付けるのは飛躍である。本記事は「アグリバッシング」の背景に脱搾取の広がりがあると論じることで、脱搾取派を犯罪予備軍のごとく位置づけるが、まさにこの議論自体が国内外の脱搾取派に対するバッシングとなっている。
最後に、著者は結論として、畜産業者を「バッシング」するのではなく、議論を重ねて家畜の扱いを改め、「現代に合う殺生のあり方」を模索すべきである、との見解を示しているが、動物搾取を前提した上で表面的な飼育環境改善に留まる道など、初めから動物解放論者のシナリオにはない。最も穏健な解放論者であっても、模索するのは「現代に合う殺生」ではなく、殺生に至る搾取の全廃である。各論的批判を終えるに当たり、ジョン・ソレンソン氏の著書『捏造されるエコテロリスト』の一節を引用することとしよう。「虐待はシステムに組み込まれているばかりか、システムを成り立たせる基盤そのもの、システムの核である。……単に動物がどう扱われるかの問題ではないのであって、動物をそのように利用すること、それ自体が虐待なのである」(*3)。
さて、以上のように、NHK国際報道が発表したこのたびの記事は、偏向と先入観にゆがめられた杜撰な内容のものだった。しかし上述の通り、動物解放運動への敵意が広がる社会では、かかる雑文であっても好意的に受け入れられる。動物支配の特権を手放したくない人々は、動物解放運動が暴力的であることを「期待」し、メディアはかれらの求める「物証」を差し出す。もとより人々は自分を騙したいのであるから、物証の内容が正しいか否かはどうでもよいのである。
しかし量産される動物解放バッシングの問題は、不公正な情報が広まるだけに留まらない。それ以上に危惧されるのは、メディアが構築する「過激な動物解放」という見方を、活動家たち自身が内面化する事態である。活動家たちはこのような言論を耳目にするたびに、そこで糾弾される事例を反面教師として受け止め、そこから適度に距離を置いて「自浄」すなわち内部批判を行なうように求められる。顰蹙や反感を買いたくないという心理は誰にでもあり、動物解放の糾弾はその心理に働きかける。「迷惑者」「過激派」あるいは「テロリスト」のレッテルを貼られる不安のもと、活動家たちは何を訴えるにも、どんな行動を起こすにも慎重になる。主張はなるべく穏健に訴え、残酷な描写は用いず、せいぜいビーガン生活の楽しさを平和的に広める。今日では動物解放に携わる人々自身が「押し付けはよくない」「過激な訴え方は逆効果」などと言いだす始末であり、活動家たちがみずから運動の可能性を狭めている。マジョリティ好みの「良い活動家」になろうという努力が行き着く果ては、世間への遠慮である。これは社会正義の敗北というよりない。
そもそも動物解放をはじめとする社会正義は、抑圧的な既成秩序に異を唱える運動である以上、大なり小なり急進性を帯びるものであって、そうでなければおそらく存在意義はない。社会はその急進性に、逸脱者やテロリズムを連想させる「過激」「暴力的」などのレッテルを貼るが、そこで活動家が考えるべきことは、いかに急進性を隠すか、殺ぐか、ではなく、それらのレッテルがいかなる政治的意図のもとに用いられているのか、である。結局のところ、法律にしたがった抗議やデモ行進も「過激」と目される。「過激」のレッテルは活動家たちを萎縮させ、世間にとって都合のよい穏健派へと向かわせることで、社会正義の牙を抜く装置にほかならない。私たちはマジョリティの論理を反映した動物解放バッシングに振り回されることなく、冷静な視点から個々の活動の評価を試みるとともに、社会正義への偏見を強めるメディアの不正に抗っていく必要があるだろう。
*1 NHK国際報道「池畑キャスターの視点 殺生禁断? フランスの『アグリバッシング』を考える」https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/bs22/special/2020/03/0316.html(2020年3月17日アクセス)。
*2 ジョン・ソレンソン/井上太一訳『捏造されるエコテロリスト』(緑風出版、2017年)を参照。
*3 Ibid., p.348-9