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「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 戦国時代の物語を書くときに必ず出てくる「忍び」

2020.03.17 22:00

「宇田川源流」【大河ドラマ麒麟がくる】 戦国時代の物語を書くときに必ず出てくる「忍び」

 久しぶりに大河ドラマについてブログを書いてみよう。最近コロナウイルス禍のはなしばかりで、全く面白くない。このような時にはブログの方も、どうしてもころなういるすばかりになってしまう。なるべくそれを避けるようにしているのであるが、結局ニュースになることがそれしかないということになるので、つまらない内のようになってしまう。ネタを探す方も一苦労で、一面全てが「コロナウイルス関連」であることも少なくない。そのような状況では、まったくニュース解説のブログが成立しないのである。

まあ困ったものだと思いながら、とりあえず、今回は「大河ドラマ麒麟がくる」で一つお題を探してみた。

今回の「大河ドラマ」は「明智光秀の既成概念を変える」ということなので、まあ、様々な既成概念を完全に無視胃sて「新しいドラマ」としてみれば面白い。例えば、松平広忠の死について、なかなか面白いのは、かなり野心的な物の見方を書いているということではないか。まあ、通説では「部下に殺される」ということで、竹千代、のちの徳川家康の父は部下を把握しきれていなかったというようなことになっていた情けない父親であったとして、家康との対比をさせるような小説的書き方になっていたが、今回は、織田信長が、今川に対して先手を打って暗殺したことになっている。まあ、事実として確定したものではないのでこの辺は構わないのであるが、このように書くことによって、何らかの伏線になってゆくのであろうということはなんとなく想像がつくのである。

 さて、そのそもそも論としては、史実として当時の東美濃富川の国の代だはかなりさまざまな生き気があった。実際に東海道や美濃、日だの街道だけではなく、山を越えた街道がいくつかあり、そこをとって、東美濃の遠山氏などは、様々に動いていた。ある意味で、明智城や妻木陣屋のあった東美濃というのは、信長・秀吉・家康・光秀といった戦国の英雄たちのもっとも隠された部分を持っているブラックスポットではないかというような気がするのである。

「麒麟がくる」岡村隆史・菊丸の正体判明!

 15日に放送された「麒麟がくる」(NHK総合・毎週日曜20時~ほか)第9回「信長の失敗」で、謎に包まれていた岡村隆史演じる菊丸の正体が判明し、制作統括の落合将がコメントを寄せた。(※ネタバレあり。第9回の詳細に触れています)

 織田信長(染谷将太)の盟友となり後に「本能寺の変」で信長を討つ智将・明智光秀(長谷川博己)の、謎めいた前半生に焦点を当てた本作。岡村演じる菊丸は、第一回「光秀、西へ」で初登場。光秀が野盗にとらわれていた菊丸を救って以来、敵か味方かわからないが度々光秀の周囲に出没して危機を救っていた。第四回「尾張潜入指令」で、瀕死の重傷を負ったという織田信秀(高橋克典)の容体を探るべく尾張に向かった光秀のお供に加わった際にも、その道中で明らかに「只者ではない」そぶりをみせ、ネット上で「何者なのか」と話題になっていた。

 菊丸は、元は三河出身の農民という設定で、岡村は「菊丸にはちょっと謎な部分もある気がして……それについてスタッフさんに聞いてみたのですが、みんな目をそらして誰も教えてくれません(笑)。『歴史の勉強はしなくて大丈夫です』『そのままでいいです』と言われています」とミステリアスなキャラクターに触れていたが、第9回でついに正体が明かされることとなった。

 制作統括の落合は、その菊丸に対して以下のように解説している。「その正体は、竹千代(徳川家康)の実母・於大とその実兄・水野信元に仕える忍びです。水野兄妹の命を受け、情勢に翻弄された悲運の少年・松平竹千代に害が及ばぬよう、影で竹千代を守り続けます。その眼の奥には、自らの生まれ故郷・三河へのあくなき愛があります。駿河と尾張の狭間で翻弄される悲しき三河の民を、岡村さんが全身全霊で演じてくれています。家康が本役・風間俊介さんになってからも、陰になり日向になり、家康を全力で守っていきます。正体が明かされた菊丸を、今後ともよろしくお願いいたします!」

 岡村は本作が大河ドラマ初出演。今後の光秀と菊丸との絡みにも注目したい。(編集部・石井百合子)

2020年3月15日 20時45分

https://www.cinematoday.jp/news/N0114713

 さて、今回の大河ドラマでは、その美川から尾張・東美濃を舞台に活躍する忍びの勢力が出てきた。これが岡村隆史演じる菊丸である。

はっきり言ってしまって、まあ、この作の「池端俊作」先生においては、そのような感覚があるかどうかはわからないが、私のようなあまり文章のうまくない作家にとってみると、「忍者」というのは、「物語のつじつまを合わせるジョーカー的な存在」である。例えば斎藤道三が岐阜城(このころは稲葉山城ですが、あえて岐阜と使って現在の件名から位置がわかるように書いた。)にいて、三河国のことなどはわからないはずでああっても、忍びがいて情報を持ってくれば、本人が行く必要もなくわかるということになるのである。つまり、ネットや携帯電話のない時代に、情報をしっかりとわかりまたは遠隔地における状況を把握するということに関して、忍びを使ってつじつまを合わせるというようなことになる。場合によっては時空を超えたり工作をさせたりすることも、忍びがいれば楽なあなしだ。逆に、そのような忍びは、アメリカ人の言う「忍者」になり、いつの間にか人間の存在を超えたスーパーマンになってしまうのである。

まあ、そのように「つじつま合わせの存在」がそのまま存在するということになる。その人がいないと成り立たないのであるが、一方で、その人は存在を消してしまう存在になる。

まあものがたりのなかには、その忍者にスポットを当てたものもある。真田十勇士や、司馬遼太郎の梟の城などは、まさにその傑作といえよう。

さて、上記にもあるが、岡村隆史演じる菊丸が、「三河への愛」ということを言いだしている。人間にとって「愛」は羽うようであるがその「愛が強すぎること」が、様々な事件を起こしたり、あるいは大きな問題になったりするということになる。そのことの付箋がすぐにここにある。

今回の「広忠殺し」と、そのことによる「信長・家康・光秀」のわだかまり、そして、のちに出てくるが家康の長男である信康の切腹と、築山殿と武田の関係。いずれも、「東美濃」というブラックボックスの中で様々に動いている問うような感じになっているのである。

すでに、完全に「岐阜県の物語」になってしまった今回の大河ドラマ「麒麟がくる」は、その岐阜県のあまりスポットライトの当たっていなかった東美濃のなぞ解きにかかる楽しさをいせてくれているのである。