「宇田川源流」 「コロナウイルス」を「痛快」と表現する朝日新聞の新聞社としての体質と「言論で仕事をする人」の「言論に対する無責任」
「宇田川源流」 「コロナウイルス」を「痛快」と表現する朝日新聞の新聞社としての体質と「言論で仕事をする人」の「言論に対する無責任」
今の日本の言論界、もっと言えば、ジャーナリズムや新聞社、テレビ、メディアの人々に最も欠けているものが「責任」であると思う。
ネットの社会になって、芸能人の発言などで、様々に「炎上」することがあるが、実際に、それらの話などにおいて、私自身はあまり不謹慎などというつもりはないのである。
まあ、彼らは基本的に「言葉を商売にしている人」ではないし、また様々な感じ方が存在するというのが本来のないようになっている。もちろん内容にもよる。しかし、「不謹慎」などという前に、その人の真意をくみ取る方が先ではないか。そのように思う。
コミュニケーションというものはそもそも「発信者」と「受信者」の相互のコンセンサスがあり、ある程度の範囲内で理解するように努力するという前提がある。それだけに「皮肉で笑える」という現象があるわけだし、「一部だけを切り取って揚げ足取りをしない」というのが本来の姿である。
そのような、コミュニケーションの前提条件を無視して、一部をとらえて炎上というのはあまり良い傾向にはない。日本人の正常なコミュニケーションを阻害しているとしか言えないし、そのようなコミュニケーションの前提がわかって居ない人はSNSにおいてあまり相手にする必要はないのではないか。
一方、ジャーナリストなど言葉で仕事をしている人は「別」である。
ある意味で、「マス=コミュニケーション」であるから、相手が様々な人がいるという前提であり、なおかつ暗黙の了解などは存在しない前提である。そのために、しっかりと説明しなければならないし、また、それだけの技術が求められる。当然に、そのことに関しての「責任」も求められるし、当然にその影響力の大きさも存在する。
しかし、そのことが全く分かっておらず「個人」だから何をしてもよいと思っている人がいる。それもマスコミの中でである。
はっきり言って、「言論の自由」であっても「言論の無責任」は許されないし、また、その「自由」にも、ジャーナリストとしての前提があるはずではないか。
朝日新聞社広報、編集委員の「不適切な投稿」を謝罪 新型コロナを「ある意味で痛快」と表現
朝日新聞社広報の公式ツイッターが2020年3月14日、同社の小滝ちひろ編集委員を、専門的な情報発信を担う「ソーシャルメディア記者」から取り消したと発表した。
「報道姿勢と相容れない行為だった」
小滝氏は13日、新型コロナウイルスをめぐり、ドナルド・トランプ米大統領の発言などに触れた「朝日新聞デジタル」の記事を紹介しつつ、
「あっという間に世界中を席巻し、戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄く。新コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」
とツイート。不適切なのではないかとの指摘が相次ぎ、のちにアカウントは削除された。
これを受けて、広報ツイッターは14日、同氏の投稿を「不適切な投稿」とし、「報道姿勢と相容れない行為だった」と重く受け止めていると投稿。「本人が説明やおわびなしにアカウントを削除したことも不適切でした。深くおわびします」と続けた。加えて、
「ウイルスの威力の大きさを表そうとしたようですが、『痛快』という表現は著しく不適切で、感染した方や亡くなった方々のご遺族をはじめ多くの皆様に不快な思いをさせるものでした」
として、同氏の「心からおわびします。深く反省しています」とのコメントを併せて掲載した。
2020年03月14日 17時48分 J-CASTニュース
https://news.nifty.com/article/entame/etc/12144-596057/
朝日新聞の、それも編集委員である小滝ちひろという人物が、「コロナウイルスは痛快」と表現した。
そもそも、「編集委員」とは、様々な記者が取材し、そしてその記者が記事にしたものを編集し、そして限られら紙面の中において、その内容を吟味して取捨選択し、編集する人物である。
新聞などは、雑誌と異なり一人の編集者がすべてを編集するのではないので、委員改正のように集団でなって居り、その委員というような感じになっている。
つまり何が言いたいかといえば、記事の取材や記事を書くこともすべてできる「ベテラン」であり、マスコミにおける重鎮であるといえる。つまり「言葉のプロ」である。
その「プロ」が「プロの立場」で「コロナウイルスは痛快」といったそうだ。
子どもが「痛快」という単語を覚えたてで使ったわけでもないし、また芸能人が何かの皮肉を込めていったわけでもない。もちろん朝日新聞の紙面でやったのではないにしても、編集委員とわかっている前提で、そのような話をするということは、果たして正しいことなのであろうか。
まあ、本人を知っているわけではないし、その話をしたわけでもない。朝日新聞の新聞社としての体質から考えれば、まあ政府批判の一つの「皮肉」として書いたのではないかと想像できる。
しかし、そもそも「国難」といえる状況の時に、「痛快」などと表現をしてコロナウイルスの蔓延を楽しんでいるかのような表現をすることが、言葉のプロとして正しいことなのであろうか。
このような人物を編集委員としておいている朝日新聞は、「コロナウイルスで何人もが犠牲になりなおかつ経済的に疲弊し、会社が倒産していることを痛快と思っている新聞社である」ということになるのではないか。
そしてそのことが「指摘された後」初めて「謝罪」したものの、普段政権担当者に対しては失言で「辞任すべき」と書いている新聞社は、なぜかこのような身内の不祥事においては全くそのようなことはせず、単純に謝罪しているだけで終わりであり、この小滝千尋という編集委員に、プロフェッショナルとしての責任を追及しないという態度をとっているのである。
これが「朝日新聞社」である。
なぜマスコミのほかの会社はこれに対して怒りを感じないのであろうか。このようなことをする人、このようなことをする会社があれば、マスコミ全体の信用が落ち、そして、マスコミ全体の品位が下がるだけではなく、日本という国が「コロナウイルスが蔓延すれば、喜ぶ国ではないか」と誤解され、日本人が海外においてあまり良い立場にならなくなる状態になるのである。
一人の心ない「発言」、それも「プロとしての無責任な発言」が。ネットという国際空間を通じて世界において日本全体を貶めることになる。このような「言論の無責任」を許していてはいけないのではないか。