F.CHOPIN、ショパンのレクイエムは何処へ・・・、そしてドラクロアの心の糧だったショパン
もしも、もしもだ、オペラを書くことを一番の目標としていたショパンがレクイエムを書いていたら、いったいどんな作品だったであろうか、そして、どんなにか美しい曲だったであろうか。
ショパンの作品はまさか何処かに埋もれてしまったのか、それともサンドが誰か他の作曲家に売ってしまったのか。それとも、ワルシャワのイザベラの家で起きた事件で燃やされてしまったのか。謎は深まるばかりだ。。ショパンはバッハもモーツァルトのオペラもベートヴェンもスコアを網羅していた。勿論、自身の作曲のため。
疑問が浮かんでくるのだ・・・・。
さて、それからノアンの館は9月になった。サンドとショパンはまだノアンに居た。
ドラクロアはショパンに頼まれたようにパリに帰りフランショームへショパンの手稿譜と書簡を手渡した。
それをノアンのサンドに報告したドラクロアであった。
「ショパンは、間違いなくフランショーム氏から聞いていることでしょう。
ショパンへフランショームは手紙を書く準備をしていました。パリに到着の翌日、私は、預かった大切な小包(手稿譜のこと)を個人的にフランショーム氏に手渡しました。
私は自分のお金の袋よりも、(手稿譜を)街頭で盗まれないか気が気でありませんでした。」
パリの治安が悪かったことがドラクロアの言葉から分かるのだ、ショパンの手稿譜は郵便で送るのも心配であったショパンだが、そうしてドラクロアが密かにパリまでショパンの血と涙の手稿譜を運んだのだ。
「親愛なる偉大なショパンがノアンで私に与えたものに匹敵する喜びは、パリでは何処にも見つけられません。
ショパンが私に与えたもの、それは心の糧となるものです。
今日では最も稀なことで、実際にすべての時代においても最も稀なことです。それで、私は彼に私の愛情と敬意を送ります。私を忘れないでくださいとショパンに伝えてください。」
大都会パリの人々は心を病んでいるとドラクロアは見ていた。そして、なによりドラクロア自身がパリで疲れた心をショパンの演奏とショパンと語り合うことで癒されたのだ。
ドラクロアはショパンに報告するのではなく、あえてノアンの館の主人であるサンドに
報告し、ショパンがサンドにひどい目に遭わされないようにとショパンを敬った。
ショパンの唯一の友人ドラクロアとはそういう人柄であった。
1848年フランスのブルージュで描かれたサンドの似顔絵 作者不明