宗淵寺/願興寺

「100日後に死ぬワニ」

2020.03.21 06:40

今話題の「100日後に死ぬワニ」について。

正直に言うと、個人的にはそこまで熱中していないのですが、テーマもテーマなので、このホームページにもログを残しておきます。

作品は上のリンク、世間の反応については下のリンクをご参照下さい。

繰り返しになりますが、私はこの作品が世間から熱狂的な注目を集める現象には関心を持ちましたが、マンガとして特に「おもしろい」と熱中するには至りませんでした。

なぜなら、この作品で描かれているテーマや情景は、僧侶である私には日常のことで、殊更に目新しい内容ではなかったからです。


そうは言っても、ご友人を事故で亡くされたという、作者の方の経験に裏付けられた物語の筋立てには、深い真摯なメッセージを読み取れます。

でもそれは私にとっては、あくまでも日々のお勤め、檀信徒の方との交流で感じる日常の感興です。


敢えて言えば、手法・便法が時宜に適って巧みだったということでしょうか。

同じテーマを、私たち僧侶が凡百の言葉を積み上げても、この作品の圧倒的な訴求力の足元にも及ばない現実を、深く自戒するところがあります。


最終回の感想について、すでに各所で語り尽くされた感もありますから、ここでは最小限に留めて2点ほど指摘させて頂きます。


まず1つ目は、このワニの物語は、読者である私たちは、自分のこととして見ているのと同時に、「身近な縁者の生と死」としてワニを見ていたのではないでしょうか。

逆に言えば、それだけ現実の3次元世界で、「メメント・モリ」(死を忘れるな、という教訓)がないことの証明でもあります。


もう1つ重要なのは、最後の「100日目」だけ、物語の人称が変わっていること。

99話までは主人公のワニの一人称的なコマ割りだったので、もしかしたら最後も「ワニという自己の死」として描かれる可能性もありました。

でも最終話で描かれたワニの死は、それ自体をフォーカスせず、あくまで「第三者の死」として描かれていました。

縁者や知人が持つ、何かあったかもしれないという漠然とした胸騒ぎ、そしてそれでもこの世の日常は続いていく無常観の描写。

この人称と視点の転換こそ作者の卓見であり、死の本質に迫っていると感じました。


単行本になったら、法事でお参りの方に、待合室で読んで頂くために、控え室に置いておくと最良の一冊になるかもしれません。


ただし、この作品を「エサ」にした自己啓発系のセミナーもあるようなので、注意が必要です。

(副住職 記)