備蓄すること。
今回の騒動で、あらゆるものを備蓄しないといけない状態になるかもしれない‥
そんな話を耳にした。
確かにそうかもしれません。
一ヶ月分、あるいは一年分の蓄えがあれば、きっと安心でしょう。
ただ、僕は、その備蓄という行為が必要なのは、トイレットペーパーやマスクといった生活必需品のことではないのではないか。そう思っています。
今、僕らが、明日のため、子供のため、未来の暮らしのために、備蓄をしないといけないのは、知識や関係性といった、目には見えない「繋がり」や「文脈」や「物語」です。
本来、無形のそういったものは、意識していなくても構造の中で自律的に機能しているので、特別に意識していなくても問題にはなりませんが、今回のような構造そのものが揺らぐような事態になると深刻な機能不全を引き起こします。
その為、たとえ生活必需品が潤沢に備蓄されていても、構造の基本に組み込まれた「関係性」や「物語」といった屋台骨を失うと、人は人でいることが保てなくなります。
なぜかといえば、トイレットペーパーもマスクも代用品はいくらでも見つけられるけれど「僕とあなた」の、関係性に代わるものは決して見つける事は出来ないからです。
アイデンティティとは、誰にとって自分が「余人をもって替えがたい存在」となっていて、かつ、自分にとって「余人をもって替えがたい存在」が、いる状態でのみ安定するものです。
それは、人対人とは限りません。自然や思い出や仕事。あらゆる自分の外側で起こる物事との「関係性」の中で、複雑なバランスの上で安定しているものです。
そして、関係性とは自分と対象との間を往来し続けるもので、決して一方通行では成り立ちません。
構造が安定している普段は、意識しないことだけれども、僕たちは独りでは決して生きられません。
赤ん坊が一番最初に口にする言葉は、ママやパパであって、決して「私」ではありません。
それは、私という存在を認識する為に、人は常に、自分の外側の存在を必要としていることを意味しています。
自分とは内側から勝手に出来るものではなくて、むしろ外との接点の側の「薄い膜のようなもの」が自分という姿を形取っているだけです。
中に詰まっているものは、成長する中で培った知識や、誰かから得た影響、全て外から得たものにすぎません。
それは、つまり、自分という存在は「関係性」の中でしか生まれないことを意味しています。
「今は、ラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるもの。”土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう”。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」
シータはムスカにそう言いました。どれだけ蓄えや力があっても、誰もいない空っぽの玉座は、玉座ではなくお墓です。
シータにあって、ムスカになかったもの。
それが「繋がり」や「関係性」ではないでしょうか。
今の僕らの状況は、もしかしたら、かつてラピュタ人の辿った末路と同じようなものではないだろうか。そんなことをふと思います。
昔の人はうまい言葉を残してます。例えば「貧」と「貪」は違うと言いました。
・貪とは、今欲しいと溜め込む様だ。どれだけ得ても足りないと求める様。
・貧とは、分け与えて、何も持っていない様。
どちらもまずしさをあらわす言葉ですが、僕らは今こそ、その違いについて考えなければいけないでしょう。
目には見えない「恐怖」に対抗しうるのは、目に見えるお金や薬ではなく、同じように目には見えない「安心感」だけなのです。