天皇陛下と国民の信頼関係は二千有余年日本の伝統である。
★日本国(天皇制)が、何故、二千数百年も続いたのか、を検証してみたい。
★今上天皇陛下(平成天皇)が譲位して『平成』が終わり、『令和』となった。
紀元2679年(平成31年5月1日)には譲位なされ5月1日には新天皇が即位する『御代変わりの年』である。これで今上天皇は126代目の天皇である。
★2600有余年、人類の歴史に、これだけ続いた国家は世界に類を見ない。
現在の日本が経済大国として繁栄しているのは、昭和天皇、今上天皇(平成天皇)、が二代続いて日本は世界史にも稀な偉大な天皇を頂いていた事に感謝して改めて検証してみたい。
★昭和16年12月8日の勃発した大東和戦争は、昭和20年8月の15日にポツダム宣言受諾、と言う形で終戦。
ポツダム宣言とは、米国大統領、英国総理大臣、中華民国主席が日本の降伏のための定義及び規約を、1945年7月26日、ポツダムに集い、協議した結果の、宣言である。
ソ連(ロシア)は、無線で内容の説明を聞き、参加の意の了解はしたが,参加書の署名はしていない。
★ ―日本の天皇陛下と国民の信頼関係―
8月12日に御前会議に臨席された天皇配下は一言も発言はなされず、黙ってお聞なされるだけで、正に『君臨すれども親裁せず』は、堅持され、御前会議に臨席するが発言しない。と、漏れ伺っている。 専制皇帝でない証拠である。
★しかし、陸軍が主張する本土決戦で、玉砕となれば、日本人は絶滅する。
★敵国が要求するポツダム宣言を受諾し、降伏すれば国は滅ぶが日本人は生き残れる。
★参列者の意見は、『国体維持には天皇陛下の戦争責任で処刑される事がないか?』、の危惧から確認しようとすると、陛下は、
「嫌、朕一人で責任をとれるなら、大慶の至りだ」、
「日本人さえ生き残れば100年後には、国家は再建できる」。
「嫌、100年では難しい。300年は係ると思え」。で一決した
★御前会議に、この知らせを聞いた参列者の啜り泣きは、号泣に替わった。 後は録音して、8月15日に、如何に流すか?であった。
★『朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告ク(ぐ) 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ 其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ ・・・・・・「忍び難きを偲び、耐えがたきを堪え・・・・・。 ・・・・・・、「偲び仇を偲び、耐えがたきを堪え・・・」の玉音放送を聞き、
誰が召集した訳でもないのに、群衆が日比谷公園に集まって皇居に向かって正座して伏し拝んでいるのだ。
★同じ敗戦国でもドイツなら国民なら、皇帝に第一次世界大戦での敗戦責任の追及し、皇帝は国内に居たたまれずオランダに亡命し、墓にありかもも定かでない。
★対する日本は、国民は、皇居を伏し拝み、自分達の力が足らず、この『聖戦』と言われた大東亜戦争に負けた事を皇居に向かって詫びたのである。
★半月後、占領軍総司令部に、陛下がマッカーサー司令官を訪ね、頼んだ事等、神ならぬ国民が知る筈がない。
―天皇陛下がマッカーサー司令官を訪ねたー
日本占領軍司令部ができた数日後の9月の始め、天皇陛下が通訳一人を伴って総司令部に、司令長官であるダグラス・マッカーサーを訪ねた。
★マッカーサ―は、陛下が二個師団の近衛師団の精鋭の守る皇居に住んでいる、のは事前の調査で解っていた。皇居である元の江戸城は、徳川家を守るために造った要塞でもある。
★これを如何にして逮捕するかの思案をしていた。
★そこに目当ての陛下が、ひとりで自分を訪ねて来たのだ。 喜びを噛みしめ、MPに即座に逮捕できるよう命じた。
★「命乞いか?亡命希望か?」。尊大にソフアーに収まって立って迎えもしない。
★国際ルールに従った、挨拶が終わると、陛下は直立したまま、陛下は開口一番、
「我が方が受諾したポツダム宣言では、戦争犯罪人を裁くとある」。
★『朕』が日本国の最高責任者である。彼等は朕の部下で朕の命で働いたに過ぎない。
従って部下に戦争責任はいない。
「強いて戦争犯罪人を裁くなら朕を裁け!」。
「裁いた結果が極刑(死刑)であっても、甘んじて受ける」。
通訳はそのまま通訳して良いか迷ったが、・・・。
★天皇陛下は、自分の命の変えても部下の命を守ろうとしたのだ。
★世界戦史に例を見ないこの言葉に驚いたマッカーサーは、すっくと立ち上がって、
「日本の天皇陛下とはそのようなお方でしたか?」、私も、陛下の臣下に産まれたかった。 と、臣下の礼をとった。
陛下の肩を抱きかかえるようにして、ソフアーに座らせ、「陛下はお疲れのようだ。
コーヒーでも差し上げ、少しお休みをして頂け」と、部下に命じた。
★さらに陛下は、風呂敷包(皇室名義の有価証券の入った)を差出し、これが朕の自由になる資産の全てである。
八千万の国民が、戦災で家、衣類も全て焼かれ、その日の食べ物にも困っている。
閣下の御力で、国民を飢えから救って頂きたい。と、いうのだ。
★戦災に合い、家も生活用品を全て亡くし、その日の生活に困っている国民の生活を心配しているので。これは昭和天皇だけではない。
―天皇と国民の間はー
★第16代仁徳天皇も『高殿に登りて見れば、民の竈は衰えにけり』(煙が出ていない)と、国民は食事の為の煮炊きもできて出来な事である。 この国民の生活心配しているのは日本国の伝統的な、天皇と国民の互いの思いやりである。
★そして貢物(課税)の停止を六年、天皇は衣の新調は愚か、皇居の雨漏りさえ偲んだ生活であった。 「高殿に登りて見れば、煙り立つ民の竈は賑わいにけり」。 「民が豊かになった事は、朕も豊かになったのだ」。
★三年、また三年の計六年の租税の免除で、豊かになった人民は、進んで貢物(税金)納め、国民の力を総動員して皇居の修理の材木運びに汗を流したのだ。
★天皇陛下だけではない。
時の皇太子殿下、現在は『上皇』である平成天皇は、占領軍が、皇太子を愚民化せんと教育係りに付けた、バイニング婦人も、殿下と日常接する内に殿下の人徳に接する内に、日本の皇室、皇族の私利、私欲のなさは、ヨーロッパの王様には違う事に気が付、全世界に日本を宣伝する働きとなってしまった。
★上皇のなった平成天皇もまた、天皇となった平成は、天災が多発した時代である。
陛下は災害に被害者の避難所を回って見舞い、服装ジャンパーで避難所の床に座り込み、被害者と視線を合わせ、御見舞いするのだ。
この国民と天皇は苦楽を共にする、日本の伝統とし永久に続くであろう。
★この天皇陛下と国民の信頼関係は、連綿と二千年も続いていて、国民は愚か、敵の司令官までが、自分の命に代えても国民の為を思う、陛下の人徳に驚き、臣下の礼でお答えする。
臣下の礼をとった敵の司令官が、「私のできる事なら何なりと申し付け下さい」。
★天皇がお帰りの時は、打って変わって玄関まで送りに出る。
この日本人と天皇陛下の信頼関係があってこそ、あの激しかった戦闘も、陛下の終戦の詔勅以来、一発の銃声も聞く事はなかった事は、日本と言う国家が天皇中心に統一が取れていた事を無言で語っている。
―占領が始まり我々の価値観は一変したー
敗戦でアメリカ中心の占領軍の指揮下に入ると説明され、教育現場は一変、混乱を極めた、と言っても、物理的には粛々と進められている。
校庭片隅に建てられた『奉安殿』と呼ばれた小さな建物に保管されていた『御真影』と呼ばれた天皇陛下の写真、勅語等は、先生方が泣きながら燃やしていた。
★僕等は校庭の中央に、『剣道の防具、竹刀、木刀』の類は校庭に集められ焼却された。
さらに僕たちは、教科書の勅語、青少年・学徒に賜りたる勅語。戦争や、軍神を美化してもの、戦記物は墨で塗りつぶされるか、切り捨てられた。
先生は淡々と無表情でこの作業を指示していた。
何か間違っている。
「先生も昨日の先生と同じ顔だ!」。
僕は切り取って家に持ちかえり、「忘れてなる物か!」と繰り返し読んで頭に叩き込んだ。
―小学時代から学校教育を疑っていたー
★進駐軍がやってきました。 示威行動か、京都中心の烏丸通りを、銃剣を担いだ米兵が、隊伍を組んで後進しています。 休憩時間がくると、三々五々、兵隊達は銃剣を地面に寝かせ、その上に腰を下ろして休んだ時は煙草を吸い、ガムを噛む、ガムの糟は吐き散らすのだ。
それに比べて日本軍は「小休止!」と命じられ時は、姿勢は崩すが、腰は下ろさない。
「大休止!」の命が出て初めて腰を降ろすのだ。
その時は銃剣を三丁で組たて、決して地面に平積にしない。軍律の厳しさは、日本兵の比ではない。
「何でこんな連中に負けたんだ?」、と不思議であった。
★それの周りを取り囲むように、同級生の児童が見守っている。
アメリカ兵は、「ほれ!」と、犬か猿に餌を与えるように投げる。
それを拾わんと、我先に飛びつくように走って拾うと元の場所へ駆け戻り、次に投を待って、投げたら拾わんと、身構えて待つ。
★『やめろ!餓鬼ども!』と、蹴散らしたかった。
だが、銃剣を持った米兵の前では、その勇気はなかった。
私は街角に隠れて泣いた、涙はこぼれて止まらない。
「何で!何で!』。ついこないだまで、『欲しがりません、勝までは!』、『鬼畜!米英撃滅!』と誓ったではないか。
「負けたんだ!日本は!」。
★学校ではこんな作業は粗方済んだ頃、僕は数人の級友を引き連れ、教員室に先生を訪ねした。
「先生!戦争は負けたんでショ!」、
「負けたら僕達死ぬんでショ」、
「何時死ぬんです? 手投弾は何時呉れるんです」。
先生は「・・・・・」は黙ったままです。
時間が流れに従って、後ろの友達は一人、一人と減って、僕と先生も二人で黙って向き合ったままであった。
日も暮れる頃になった、先生は重い口を開き、 「もう、お家に帰りなさい。戦争は終わったんだ、君達は死ななくて良いんだ」。
「これからはアメリカと仲良くするんだ!」。 僕も黙ったまま、家に帰りました。
帰っても黙ったままで、父母と何の話もしませんでした。
翌日も黙って学校に行きました。 先生にあっても、昨日の事などは、黙って何も言いません。 友達も昨日のこと等、何も言いません。
何か別世界に来た気がしました。「何か可笑しい!」、「何か、間違っている、」疑う毎日であった。
★これが私戦後生活の始まりで、学校教育を疑って係るのが『私の人生のスタートライン』であった。
★戦後は物量(生産力)負けた日本人はアメリカ文化に心酔し、『アメリカを見習え!』、『アメリカに追いつけ!』、『アメリカを追い越せ!』を合言葉で高度成長を直走り世界二位の経済大国となった。
★アメリカも、過去に犯した日本人の排斥は失敗だったと、気が付いた。 しかも、その時は大東亜戦争(米国名は太平洋戦争)でアメリカ兵も多くの血を流し、日本と死力を戦ったので、300万の将兵の血も流れているのだ。
★日本も、無差別絨毯爆撃で、広島、長崎への原子爆弾投下で、無辜の民も80万も犠牲を出している。
★これは、日本がアジアの共産化の防波堤の役割をしていたのに、スターリンの謀略に係ったアメリカが、自身で壊してしまい、シナ大陸を共産党の毛沢東の献上した結果になってしまった。
★ロシア革命(1917年)で王朝を滅ぼし、一族を虐殺、共産主義政権、「ソビエト社会主義共和国連邦」は、敗戦がほぼ確定した、日本との『日ソ不可船条約』を、突如破棄。 独,ソ戦に勝利した重装備のソ連軍が、満、ソ国境を越え、雪崩れ込んできた。
★一方の日本は『世界最強と言われた関東軍の精鋭は、沖縄の攻略を終え、本土上陸の備の為、呼び戻され、本土各地に防衛陣地構築に汗を流していた。
そして毛沢東の後を継いだ、習金平率いる共産チャイナが、世界の覇権をアメリカと争っているのである。
★それに気が付き、反省したアメリカは、今度は日本を『最大で最強の同盟国』として、西側の一員となった。 今では『G・7』(先進七ケ国)の一員として、アメリカのトランプ大統領と、日本の総理大臣・安倍晋三と「ドナルド」、「シンゾウ」呼び合いG・7をリードしている。
★国民に「忘れろ、と言うのは無理であるが、歴史の一頁には留めて置くが、日本には『過去の事水に流す』と言う言葉がある。
★勇者と勇者の戦いが終われば敵、味方はない。今では日米安全保障条約を締結、最高の同盟国である。
第一次世界大戦の終了したのが1918年。 百年前に国際連盟の発足したのが1920年1月10日に常任理事国の日本の始めの提案が、『人種差別の撤廃と植民地の解放』である。
大東亜戦争には日本は敗れたが、旗印とした、『人種撤廃もアジアの植民地解放』は莫大な犠牲を払ったが、完成したのである。
『無差別絨毯爆撃』、『原爆投下』等は水に流し、日米協力し、世界の新秩序を建設し、リードして行こうではないか。
これでこそ、前回の大戦で、『♪ 東洋平和の為ならば~♪何~んで~命が惜しかろう~♪』と、死んで戦死した三百万の英霊も、靖国神社の神殿で安らかに眠れるであろう。
★書き進めるうちに色々な事が判ってくる。 驚いた事には全面的野武装解除された筈の、『大日本帝国海軍』の伝統が脈々と、途切れる事はなく続いているのだ。
★終戦の年、(昭和20年の9月2日)に解体された筈の海軍で、機雷除去の部隊だけが、復員局所属、海上保安庁に所属は替わったが、日本の近海にアメリカ軍が投下、または日本海軍が敷設した無数とも言える機雷の除去作業に黙々と励んでいたのだ。
★もうひとつ驚いた事は、『淡々会』という親睦会である。
既に退役はしたがアメリカ海軍・大将の『ジエイムス・アワー』と、日本国・第六代海自幕僚長(海兵64期)の内田一臣氏、同じく、第11代海自幕僚長、(海兵67期)中村悌次氏の友情と努力の結果である。
『大将のジエイムス・アワー』が海軍少尉の時に「日本海軍の終焉と、海上自衛隊の歴史」の論文を書くことになって、調べる内に海軍兵学校の伝統を絶やしては勿体ないと、日本政府やアメリカ海軍の関係者に働きかけたのだ。
★しかし、国内では憲法上で軍隊と名乗れない日陰者である。
この日陰者海上自衛隊を世界中の『日本海軍』と名乗れるよう、日本だけではない、世界の認めさせる為の努力を生涯尽くした『ジエイムス・アワー提督は、1996年1月Ⅰ日、眠るように生涯を閉じが、胸には日本政府から送られた『勲一等旭日大綬章』を胸には飾られていた。
★海上自衛隊の幕僚長以下の隊員は、黙々と訓練に励み、時期が来れば「異常なし」の報告書だけを残し、何らの功績もなく、後進に譲って消えて行く彼等は真の抑止力なのだ。
★進歩的という知識人が軍国主義者と忌み嫌う、
帝国海軍の連合艦隊司令長官・山本五十六元帥が、部下の指導で、常に語った言葉が、
『百年兵を養うは、戦で勝つ為ではない。戦を起こさぬ為である』。
何と薀蓄のある言葉である。
了) 豊永高明 拝、