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平泉に夕日が沈む

2020.03.25 07:19

平泉に沈む夕日  2020年3月24日

2019-08-06 18:55:35 

平泉に夕日が沈む

平泉の「夕日が沈む西の山」は 金鶏山

http://hiraizumi.or.jp/archive/sightseeing/index.html  より抜粋

金鶏山

まちづくりの基準となった象徴の山

中尊寺と毛越寺のほぼ中間に位置する円すい状の山。頂上には経塚があり、「平泉を守るため黄金の鶏を埋めた」や「北上川まで人夫を並べ、一晩で築いた山」などの伝説が残っています。

http://www.uchinome.jp/oasis/zinbu/World_heritage03_1.html  

【世界遺産平泉 金鶏山の夕日】  より

金鶏山の夕日・・・

子どもの頃から知っていた藤原秀衡が一晩で土盛りをして築いた山。そして、平泉を守るために一対の黄金の鶏を埋めたと言う伝説が伝えられ、金鶏山として親しまれている標高98m程の山です。あまりにも有名な割にはその存在がはっきりとしませんが、無量光院跡の正面に見えるこんもりと盛り上がる山です。

正直の所、今まで無量光院跡は知っていましたが、通り過ぎると田んぼの中に松林がある・・、その程度の理解しかしていなかった私です。世界遺産指定の話題が出た頃、田んぼ跡に水が張られたという報道があり何回か訪れた無量光院跡です。池(ふだんは田んぼ跡)の側に駐車場があり、案内板が二枚あります。

一年に二回、山頂と無量光院本堂跡を結ぶ正面に夕日が沈みます。案内板には四月中旬と書かれていますので、お空の様子を見て4月14日に訪れてきました。日没を待ち受け、撮影時刻は17:21~17:48の間の画像から選んであります。夕日の撮影は明るさが違いますので、周辺風景と山頂部とのバランスの表現が難しいと思います。明るさや色調の変化がありますが、夕日の状況をお分かり頂ければ幸いです。

画面説明と撮影時刻は、画面代替えテキストからご覧下さい。

「金鶏山」・・・

奥州藤原氏が山頂で経塚営んだ信仰の山。ふもとは、金峯山蔵王権現堂の跡と伝えられる「花立廃寺跡」や、「義経妻子の墓」が祀られる先手堂がある。金鶏や埋蔵金の伝説に彩られた山でもある。

全域が史跡指定。 (※平泉ぐるーりマップ、平泉「魅」どころ・・・より)

無量光院跡駐車場には数人の方々が車で来られていました。撮影するために三脚をセットしていたら、同年代の地元の女性に声をかけられました。「今日十四日は、金鶏山の真上に日が沈むよ・・。子どもの時から十四日と教えられていたの・・。日が出てきたから見に来ているの・・」、とのことです。

側で撮影していた地元の男性は、「毛越寺に居たら夕焼けがきれいだったのでこっちに来たが、それほどではないよね・・。昨日十三日は真上に夕日が沈むので、ここにも三十人ほど来ていたよ・・」、お聞きしていて例年の十四日は昨日だったのかなと思いました。そう言えば今年は閏年ですから、本命は昨日だったのかなあと思いました。地元の新聞報道によると、大勢の方々が訪れていたと報じられていました。

「八月は三十日だよ・・」と教えてくださった地元の女性でした。天候にもよりますが、八月にも来てみたくなりました。調子づいた私は、翌日の四月十五日に金鶏山を訪れ頂上まで登ってきました。後日紹介いたします。

https://www.library.pref.iwate.jp/ex/hiraizumi/alacarte02.html

【平泉を訪れた人々(2) 芭蕉・曾良】より

江戸時代の俳人・松尾芭蕉[1644-1694]とその弟子・曾良[1649-1710]が「おくのほそ道」の旅に発ち、初夏の平泉を訪れたのは、西行の旅より遅れて約500年後の元禄2年(1689)のことでした。芭蕉は46歳、5歳年少の曾良が41歳の時です。

「おくのほそ道」は、歌枕をたずねる旅だったと言われています。旅が始まった元禄2年は、丁度、西行の500年忌にあたりました。かつて西行が先人を慕ってみちのくの歌枕をめぐったように、芭蕉もまた敬愛する西行や能因の足跡を追い、また、義経ゆかりの地を訪れようと旅立つのです。旅の直前、門人に宛てた手紙の中で、芭蕉は「能因法師、西行上人の踵の痛みも思い知らん」と記しています。

元禄2年3月27日(新暦5月16日)の早朝、曾良を伴い、江戸・深川を発った芭蕉は、日光、松島、平泉、象潟、金沢などを経て、同年8月21日(新暦10月4日)頃、「おくのほそ道」むすびの地・大垣(岐阜県)に到着します。大垣にしばらく滞在した後、芭蕉は今度は伊勢に向けて出立し、江戸に戻ったのは深川を発ってから2年7ヵ月後の元禄4年(1691)10月27日(新暦12月16日)でした。

「おくのほそ道」が完成するのはそれからさらに2年半後、元禄7年(1684)春のことになります。

おくのほそ道

芭蕉が訪れた頃の平泉は、西行が見た黄金期とは違い、仙台藩四代藩主綱村が整備をはじめてはいたものの、中尊寺等の整備はまだ行われておらず、「三代の栄耀一睡の中にして」滅び、わずかに金色堂と経蔵が残るだけでした。

三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高舘にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時の移るまて泪を落し侍りぬ

夏草や 兵どもが 夢の跡

卯の花に 兼房みゆる 白毛かな  曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に圍て、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

五月雨の 降りのこしてや 光堂

『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)

「おくのほそ道」

平泉に到着した芭蕉一行は、まず源義経最期の地と言い伝えられている高館にのぼりました。北上川と両岸に広がる古戦場跡に、義経らをしのび、世の無常さを感じながら、「時の移るまて泪を落し」たとあります。曾良の句にある「兼房」とは、室町時代に書かれた軍記物語『義経記(ぎけいき)』の登場人物・十郎権頭兼房のことです。兼房は義経の正妻・久我の姫君の守り役で、義経に付き従い、衣川の館で最後まで戦い奮死しました。

高館を後にした二人は中尊寺へ向かっています。現在、金色堂脇には、「五月雨の降りのこしてや光堂」の句碑が建てられていますが、芭蕉が金色堂を詠んだとして有名なこの句は、草稿にはなく、代わりに「五月雨や年々降りて五百たび」「蛍火の昼は消つゝ柱かな」の二句が掲載されています。この二句は、浄書の段階で抹消され、新たに案じられた「五月雨の降りのこしてや光堂」の句が残されました。これらの推敲の跡は、曾良が芭蕉から与えられ、その子孫に伝えられたといわれる「おくのほそ道」(曾良本)に残っています。

曾良旅日記

「おくのほそ道」行脚に随行するにあたり、曾良はさまざまな書物から巡歴予定の歌枕を抜書きして、それをまとめたノートを旅に携帯しました。この歌枕覚書(名勝備忘録)のあとに収められている「元禄二年日記」には、芭蕉との旅の様子が詳細に記されており、創作部分も多い「おくのほそ道」を研究する上で、貴重な資料となっています。

平泉行について書かれているのは、5月13日(新暦6月29日)の日記です。この日の午前10時頃、芭蕉と曾良は、前日泊まった一関から平泉に向けて出発しました。

十三日 天気明。巳ノ尅ヨリ平泉ヘ趣。一リ、山ノ目。壱リ半、平泉ヘ以上弐里半ト云ドモ弐リに近シ(伊沢八幡壱リ余奥也)。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂)・泉城・さくら川・さくら山・秀平やしき等ヲ見ル。泉城ヨリ西霧山見ゆルト云ドモ見ヘズ。タツコクガ岩ヤヘ不行。三十町有由。月山・白山ヲ見ル。経堂ハ別当留守ニテ不開。金鶏山見ル。シミン堂、无量劫院跡見。申ノ上尅帰ル。主、水風呂敷ヲシテ待、宿ス。

『おくのほそ道』(萩原恭男 校注/岩波書店/1991)

「曾良旅日記」

日記中に見える「さくら山」は西行が歌に詠んだ束稲山、月山・白山はそれぞれ月山神社・白山神社、また「シミン堂」は新御堂が訛ったもので無量光院の通称です。芭蕉の「おくのほそ道」では「二堂開帳す」とありますが、実際には、二堂のうちの1つ、経堂は、「別当が留守にて開かず」拝見できなかったことが、曾良の日記から分かります。達谷窟は遠かったため断念、また毛越寺にも立ち寄っていないようです。

芭蕉と曾良が一関の宿に戻ったのは、午後4時頃。このとき二人が泊まったと伝えられる金森邸は、芭蕉が2泊したことから「二夜庵」と呼ばれ、現在その跡地には石碑が建てられています(一関市地主町)。