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桜と武士道

2022.11.19 10:12

花の代名詞のような桜。なぜ日本人は桜を愛するのでしょうか?

https://naitoseifu.com/archives/1448 【日本人が桜を愛でる本当の理由は、花が散った後にこそある】 より抜粋

桜は花が終わった後に葉が広がります。

桜の花が咲き誇っていた何倍もの葉っぱが茂るのです。

これが何を物語っているかおわかりになりますか。

少し順番に整理してみましょう。

「花」とはすなわち現在です。「今」を象徴している存在です。

花が今を象徴しているということは、自分自身を重ね合せているのです。

花が見事に咲くというのは、自分自身が桜のように見事に咲きたいという願望でもあるのです。

そして人間は生まれた瞬間から死に向かって生きています。

桜も一週間や二週間で散るのがわかっていても、力いっぱい見事なまでに咲きます。

生まれた瞬間から死に向かう人間だからこそ、その生を力一杯生きたいという気持ちと、桜の見事なまでの咲き方に相通じる気持ちを持つのです。

そして見事に散りたいと思っても不思議はありません。

桜は散った後に、葉が茂り枝が伸び大きく成長してゆきます。

自分と言う「花」は精一杯咲き誇り、その生を尽くして散る。

自分はそれで終わりかもしれないけれども、そのあとには若葉や伸びる枝に象徴される「未来」があるという事なのです。

桜には日本人の心情や魂に訴えかけるものがあるだけではなく、生と死に結びついてDNAや遺伝子レベルで私たちは感じているのです。

パッと咲いてパッと散る姿が見事と言うだけではなく、全力で咲き誇り散りゆく姿の一途さ。

花の後に芽吹く若芽や枝の勢いから感じる、未来への可能性の広がり。

これこそが日本人の心情や魂に訴えかけるのだと私は思っています。


緋桜や富士見櫓を仰ぎたる 五島高資

   *             *          *

葉桜の波の逆巻く櫓かな  高資

城に葉の濤と砕ける五月かな  高資

花は葉に城は沙の波に浮く  高資

太刀打ちに光る小太刀や花の城 五島高資

 北辰一刀流演武ー 一緒にいる人: 日高見 ヒビキ 場所: 宇都宮城

花のもと小よく大を制しけり

小手ありて花びらひとつ散りにけり


日本人の心情や魂に訴えかける桜。それは武士道精神にあるのではないでしょうか?

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6789259  【武士道・フィジカルケアー・エーテルヒーリング】


https://toyokeizai.net/articles/-/164538

【日本人はなぜ「桜」をこんなにも愛するのか】  より

心躍る春がやってきました。これまでたくさんの国を見てきましたが、日本ほど豊かな四季に恵まれたところはないと思います。雪月花に花鳥風月。天然の気候に動植物までが四季を装って心を華やがせます。

それを感じ取る日本人の心も実に豊か。風物を愛(め)でるだけの遊覧であっても、「桜狩り」「蛍狩り」「紅葉狩り」などと称する言葉づかいに、自然への感受性の高さを感じます。 

春を告げる花といえば何でしょう? パリに春を知らせる花はミモザ(mimosa)です。春とはいえまだ冷たい2月から3月ごろ、黄色の小さな花の群れがマルシェや花屋さんに現れ、季節の変わり目を感じる心を湧きたてます。冬を越え躍動する春への胸騒ぎでしょうか。

3月8日は「国際女性デー」でした。国連は1975年以降この日を国際女性デーと定め、女性の完全で平等な社会参加の環境整備を世界各国に呼びかけています。国際女性デーは“ミモザの日”とも呼ばれます。男性から女性へ、あるいは女性どうしでミモザを贈る習慣が南欧ではあり、街中がミモザであふれます。春こそ女性の季節であることを体が知らせ、人々は胸騒ぎの春の訪れを大喜びしているのです。ほとんどの動物がもつ発情期の熾火(おきび)が、人間の女性に残っているのを感じる生命の季節です。

「花」といえば「桜」

日本で春を知らせる花は梅でしょうか、それとも桜? フランスのミモザのように季節に先駆ける花となれば梅です。「花の姉」とも呼ばれて時を駆けるだけでなく、寒さを切り裂きにおい立つ香は凛然たるもの。唐代の人が牡丹に夢中となるまで、もっとも中国で人気があった花でもありました。

奈良時代に編まれた『万葉集』の中で詠まれた梅は110首であるのに対して、桜は43首です。しかし、平安時代になると日本人の人気は桜一辺倒となって、勅撰八代集の初めである『古今和歌集』では春の部133首のうち桜が74首で梅は26首、最後の『新古今和歌集』となると春174首のうち桜が135首で梅は17首という結果となります。こうして、花と桜は意味を同じくするようになりました。

奈良時代から平安時代になって日本人の好みが変わったのではおそらくなく、桜が好きであることは変わらないのです。ただ、飛鳥時代に海の向こうから渡来した文明の摂取に懸命となっていたので、海の向こうのものはなんでも尊いと思うしかなかったのでしょう。あたかも明治の御一新で西洋崇拝に陥り、金髪碧眼ワンダフルとなったのと同じですね。

桜のどこに美しさを感じますか? 「花は桜木、人は武士」という言葉があります。武士の潔さは死に際にあり、桜もまた散り際が見事であるから美しいとされるのが通説です。ただ、これが本当だとは思えません。

桜の美しさをうたった歌の白眉は本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」だと思います。戦前戦中の人でこの歌を知らない人はいません。この歌は国のために強いられた死で散った、多くの若者を悼むものとして記憶されています。まさに「歌書よりも軍書に悲し吉野山」だったのです。

散華(さんげ)という語は、辞書で引いてみると「仏を供養するために花を散布すること、またその花」とありますが、末尾に「誤って、華と散ると解し、戦死を指していう」という語義が載っています(『広辞苑』)。人々は若くして散った命を哀惜して、誤用を自覚しつつ死を美しく飾るために使ったのでしょう。けれど、散華が陶酔を呼び覚まし、戦意高揚につながったことも否定できません。

ただ、宣長の込めた意味は違います。『玉勝間』の中で「花はさくら。桜は山桜の葉赤くてりてほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」と書き、花の散り際には触れずに、満開こそ美しく、敷島の歌も「ただうるはしい」と述べています。

朝日に照り映えて咲きほこる山桜の美しさこそ、日本人の心なのです。花は咲いてこそ花であり、花の美しさを表現することができます。人間も生きて生き抜いてこそ、他者と協働して自らのレゾンデートルを発揮できると思われるのです。散るのが美しいとすれば、生き抜いてこそなのです。

そして、美しさは力となります。梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と書きました。桜が狂気なのではない、桜の美しさが度を超しているのです。ナイーブな感受性は、美しさにおののき狼狽します。

ここにおいて美は力に転じ、暴力性をも有することとなります。なんとセンシュアルなことでしょうか。美しいがゆえに強い、これが大和心すなわち日本人の心なのです。


https://rika-english-cafe.com/love-for-cherry-blossoms/ 日本人と桜。 | Rika's English Cafe

http://cyclist.ldblog.jp/archives/53142365.html 春めき桜ポタ★日本人はなぜ「桜」をこんなにも愛するのか?