鳥羽院の時代 1.鳥羽院政開始
社会科学は実験できるか?
結論から言うと、できない。
こうすればより良い社会、より良い法律、より良い経済、より良い政治を作り出せるかを試行錯誤することはあっても、その全ては現実の暮らしとなって人々の日常に降り注ぐ。どんなに実験のつもりであったとしても、実験そのものが日常を破壊したとき、実験は失敗であったと認めて元に戻そうとしても、破壊された日常が勝手に元に戻ることはない。「こうなるはずだ」という理論を立てることは可能でも、「試してみたらこうなった」という証拠を用意することはできない。それが社会科学の宿命である。
しかし、実験に極めて近い例証を提示することは可能である。
一つは歴史。もう一つは人文地理。
過去にどのようなことが行われどのような結果となったかを示すのが歴史であり、他の国や他の地域で、現在進行形でどのようことが行われ、どのような結果となっているかを示すのが人文地理である。結果を生み出すのに要した条件や環境が異なるので必ずしも完全に再現するわけではないが、それでも、より良い暮らしのために考えたアイデアがどのような結果をもたらすのかの例証として歴史も人文地理も役に立つ。
たとえば、三四六年もの長きに渡って死刑執行をしなければどういう社会になるかという実験はできない。仮に実験として始めることができたとしても、答えが出るのは三四六年後になる。その答えに基づいて改めて判断するとしても、そこには三四六年間に渡って積み重なった現実がある。これは実験とは言わない。だが、大同五(八一〇)年九月一一日から保元元(一一五六)年七月二八日の三四六年間にかけて死刑を実施しなかった歴史ならばここに示すことができる。
そして、なぜ死刑の無い時代が終わりを迎えたのかも示すことが可能となる。
本作では、白河法皇の亡くなった大治四(一一二九)年から、死刑の復活した保元元(一一五六)年までを記していくこととなる。本作に至るまでの記述は死刑の存在しない社会がどのような社会であったのかの記述である。本作で記すこととなるのは、死刑の存在しない歴史はいかにして終わりを迎えたか、である。死刑執行をしなければどういう社会になるかという、実験に極めて近い例証がここに記されることとなる。
本作で追いかける歴史の流れを記す前に述べておかなければならない考え方がある。
弁証法という思考方法は、一つの意見(テーゼ)に対する反論(アンティテーゼ)を用意し、意見(テーゼ)と反論(アンティテーゼ)とを止揚(アオフベーヘン)させることで、より優れた意見(ジンテーゼ)を作り出し、より優れた意見(ジンテーゼ)を新たな意見(テーゼ)として反論(アンティテーゼ)を用意し、止揚(アオフベーヘン)の後にさらなるより優れた意見(ジンテーゼ)を作り出すという流れの繰り返しにより最適解を導き出すという思考方法である。反論や批判に対して否定的な感情を持つ人もいるであろうが、弁証法という思考方法に従えば反論や批判はむしろ歓迎すべきことである。
なぜか?
最適解はあくまでもその時点での環境において最適となるように生み出された意見であり、時間とともに環境が変わってしまったら最適解は現時点の環境における最適な意見とはならないからである。そのため、アンティテーゼが常に生み出される環境が用意されていれば、その時点の環境に合わせた、さらに優れたジンテーゼが生まれる、生まれ続ける。
述べておかなければならない考えは、この、弁証法についてである。
弁証法の考え方は国政においても例外ではない。この国をどのようにすべきか、この国が抱えている問題に対してどのように対処すべきかの意見を常に戦わせ続ける仕組みを用意するというのは、より優れた意見を作り出し、より優れた社会構造を構築し続ける効果を持つ。法も、経済も、歴史も、実験することの許されない社会科学の一部であり、実験が許されないからこそ、思考を用いて最高の結論を導き出す仕組みを用意する。ゆえに、多くの国では議会、すなわち意見(テーゼ)と反論(アンティテーゼ)との討論の場所に権力を与えることによって、議会での討論を経て生み出された最適解を法とし、法に基づく社会構造の構築を図っている。
どんなにその時点で最良の意見であったとしても環境は日々変化するものであり、環境の変化は人間の手でどうこうなるものではない。人間の手でどうこうならないのは自然環境だけではなく、最良の意見によって構築された社会構造そのものも人間の手でどうこうなるものではない。社会構造の盲点を突いて違法ではないものの人として評価できぬ方法で私益を得る者も現れる一方で、社会構造では救い出すことのできない貧しい者もまた現れる。最良とされる意見や、最良の意見によって生み出された法に対して常に批判と反論をぶつけるのは、意見を現実に合わせて変化させることで、社会構造を常に最良であり続けさせる効果を持つ。
平安時代に国会などないが、議政官の討論によって議決するという仕組みを設けていたことは、その時々の環境の変化に合わせた国政の整備を可能とする仕組みを設けていたことにつながっていた。それが藤原独裁であったとしても、全ての法は議政官の討論を経た結果であった。
「つながっていた」「結果であった」と過去形で記したのには理由があり、白河法皇の院政時に、この仕組みが完全に崩壊したのだ。全ては白河法皇の意思で決まり、議政官は白河法皇の意思に追随するだけの儀礼的な存在へと変貌してしまったのである。法は議論の結果ではなく白河法皇の意思の文章化となり、白河法皇だけが法を定め、改め、廃する権利を持つという仕組みになってしまった。おまけに、白河法皇という人は自分の過ちを絶対に認めない人であった。こうなると、当初の意思が誤りであった場合は無論、当初は正しくても時期とともに環境に合わなくなったために意思に誤りが見られるようになったというケースでも、意思に対する反論を掲げることができなくなってしまったのだ。さらに言えば、白河法皇だけは反論が許されたが、白河法皇は白河法皇に対する反論を示さなかった。
この政治体制が生みだしたのが、白河法皇の院政期の末期に見られた惨状であった。失業が増え、生産性が悪化し、目に見えて貧しくなり、昨日よりも今日、今日よりも明日の暮らしが悪化していく。それまで無縁であった飢饉が日常の光景になり、餓死が日常の光景になり、いつ自分が苦しみ続けた末の死を迎えたとしてもおかしくないという思いが日常の光景となったのが白河法皇の院政であった。誰かどうにかしてくれという悲痛の叫びは、白河法皇の死の直後、いや、白河法皇の死の前から、鳥羽上皇への期待となって結実していたのである。
とは言え、鳥羽上皇が明確な政治信条を持っていたのかは甚だ疑問である。祖父の白河法皇の展開した政治によって貧しさが悪化し、格差問題は解消どころかさらなる歪みへと変貌してしまったことは理解していた。だから、悪化の原因を取り除かねばならないというところまでは理解できていたのである。そこまではわかっていたのだが、そこから先はわかっていなかったのだ。政治家に対する非難の言葉の一つにポピュリストというのがあるが、政治家としての鳥羽上皇の政治を評すならポピュリストという言葉しか出てこないのである。
先に、反論や批判は歓迎すべきことであると記したが、歓迎に値しない反論や批判も存在する。権力を握れない現状に対する不平不満のはけ口として批判を用いている場合である。
どういうことか?
批判だけならば現状をそのまま受け入れるより簡単なのだ。現状をそのまま受け入れる無批判な姿勢を示す人たち、その多くは一般庶民である人たちに対して、上から目線で幻滅だの退廃だのと嘆く声を挙げる人を見かけるが、現状を受け入れるのと、現状を批判するのとでは、現状を受け入れる方がより高い能力を必要とする。現状を受け入れる能力すら持たないがために社会的地位を掴めないでいる人に残された最後の自尊心こそが批判という形となって現れるとしても良い。批判が自尊心の根底である人というのは、自らの知性、教養、一般常識、基礎学力といった資質の不足から来る社会的地位の低さという現状に怒りを抱くと同時に、世間から向けられる冷たい視線にもまた激しい怒りを示す。自らが無能者であるという現実はいかなる理由であろうと認められることではなく、その現実へと向かい合わせようとする視線は敵以外の何物でもないのだ。
この意味での批判と、弁証法でいう反論(アンティテーゼ)としての批判とを区別することは容易である。建設的な意見を戦わせるのがアンティテーゼであり、最終的には人格攻撃にまで至る無味乾燥な批判が無能から来る批判である。この両者を区別ができない人を探す方が難しい。しかし、後者の意味での批判しかしない者に対し、自身のことを反論(アンティテーゼ)ではなく批判しかできない無能者だと悟らせることはもっと難しい。
白河法皇の死の直後に迎えることとなった鳥羽上皇の時代の不幸は、この自覚の無さより始まる。鳥羽上皇は自身を白河法皇に対する反論(アンティテーゼ)と考えていたが、実際はただの批判者でしかなかったのだから。
大治四(一一二九)年七月七日の白河法皇の死は一つの時代の終わりを告げる出来事であった。
政治家としては他に並び立つ者のない権威を手にし、平家物語によれば、賽の目、鴨川の洪水、寺社のデモを除く全てを自分の意のままに操れると豪語した人物の死である。おまけに、日本国最大の資産家だ。白河法皇の元に残された資産は国家予算すら凌駕するものがあり、公的地位に頼らずとも、その資産だけで望み通りの政策を展開することも可能なほどであった。
これだけの人物の死なのだから権力の空白が生じると考えるところであるが、実際には生じなかった。白河法皇の死が予期せぬ出来事というわけではなかったからである。すでに七七歳という高齢であり、晩年は明らかに病人としか形容できずにいた人物が迎えた死であり、これからの社会はどうなるのだろうかという漠然とした不安は生じたものの、権力の空白だけを考えるならばその空白はただちに埋まった。来るべきときに備えて準備は整えられていたのであるから。
まず、白河法皇が個人的に所有していた資産は全て鳥羽上皇が相続することとなった。荘園の所有者が白河法皇から鳥羽上皇へと名義変更され、建物も、所有する財物も、祖父から孫への遺産相続という形で継承されることとなった。
その一方で継承されなかったものもある。白河法皇の政策だ。特に、白河法皇が心血を注いだ殺生禁断令の断絶は早かった。白河法皇が亡くなった瞬間に議政官に殺生禁断令の廃止の議案が出され、議案は賛成となって上奏され、ただちに崇徳天皇の名で廃止命令が下され、殺生禁断令違反で逮捕された者は釈放された。この流れに対する議政官の面々の反発はなかった。以前から問題だと考えてきた法律ではあったが、白河法皇に逆らえないというただそれだけの理由で黙認してきたのである。白河法皇の顔色を伺う必要が喪失したなら容易に黙認から否認に転じるのは当然であった。
白河法皇が自らを土葬とすることを要請したのを鳥羽上皇が無視して火葬とさせたのも、白河法皇の影響からの脱却をアピールする絶好の機会になった。白河法皇はもういない、白河法皇にはもう従わなくていい、白河法皇の機嫌を気にする必要もない、こうした自由の雰囲気が生まれたのである。
当時の人は自由の時代の到来を考えたであろうし、現代人もそうだったのではないかと考える。
しかし、当時の人の捉え方と現代人の捉え方とで決定的に違うことが一つある。
当時の人が考える自由は貴族の自由であり、現代人が考える自由は武士の自由である。当時の人は白河法皇の時代が終わって次なる権力者の時代になったがゆえに、権力層たる貴族たちにかつてのような自由が戻ったと考えたであろうが、現代人は平安貴族の時代が終わり武士の時代が始まったがために、それまで自由を手にできずにいた人たちにも自由が届いたと考える。白河法皇の時代にも武士はたしかに姿を見せていたし、社会における重要な存在になってもいた。しかし、白河法皇の時代の武士はあくまでも貴族に雇われた存在であり、平忠盛のように国司に上り詰めることはあっても、さらにその上、中央政界に身を置いて腕を振るうことは考えられなかった。
しかし、白河法皇の死後、武士は政界を揺るがす存在へと成長していくのである。
何が起こったのか?
これは二つの要因が存在する。
一つは武士の成長。武士である者が資産をはじめとする諸々の社会的地位を掴み、社会的地位に応じた権威と権力を行使することで中央政界にまで影響を与えるようになったのである。
そしてもう一つ。このもう一つの理由の方が大きいのであるが、貴族が衰退していったのである。経済は必ずしもゼロサムゲームではないが、誰かが衰退すれば、衰退して生じた隙間を誰かが埋める。その隙間を埋める存在が武士であった。
武士権力の萌芽をこの時代の人たちがどう考えていたのかについて、大治四(一一二九)年八月三日にそのヒントが見える。この日、平忠盛が白河法皇の四十九日法要のために九体仏の造立し奉納したのであるが、これで当時の人は一つのことに気づかされた。武士の持つ資産だ。
貴族が寺院に対して何かしらの資産を奉納することは珍しくない。ときには寺院そのものを奉納することすらある。国司経験もある平忠盛が亡き白河法皇のために何かしらの奉納をすることもおかしな話ではないのである。
ただ、平忠盛は貴族であると同時に武士でもあった。平忠盛自身は自分のしたことを貴族としての行動と考えたであろうが、周囲の貴族はそうは思わなかった。武士が自分たちと同列に並んだと考えたのだ。
人間、平等を崇高な理念と思ってはいても、本心から言えば平等を好みはしない。平等とは、自分が、自分より恵まれている人と同じ立場に上り詰めることであり、自分の横に誰かが追いついてくることではないのだ。自分より社会的地位の低い人たちの間で競争があり、自分より低い位置の中で均等となったり、あるいは、自分より低い地位において立場が逆転したりすることがあるのは強い関心を示すことではない。関心を示すとすれば娯楽としての関心である。ところが、自分より下に見ていた人が自分と同格になるという平等は強い関心を示すようになる。より正確に言えば、断じて受け入れられないこととして強い関心を示すこととなる。
平忠盛は武士である。
武士とは貴族よりも格下の存在であり、社会的地位も、資産も、貴族を上回るものではない。上回るものであってはならない。
武士とは都市ではなく田舎(当時の言葉では「鄙(ひな)」)の存在であり、洗練された都市の文化とは無縁の存在である。
武士は文化的な生活を過ごしておらず、また、文化的な資質も有さない。
これら、当時の貴族たちが考えていた貴族と武士との差異を平忠盛は簡単に埋めてしまったのだ。
いや、それだけならまだいい。自分たちよりはるかに格下に考えていた人物が自分たちと同格になるという平等ですら断じて受け入れられないのに、このときの平忠盛は、自分たちを追い抜く存在へとなってしまったのである。
嘉承三(一一〇八)年一月一九日、出雲国で反乱を起こしていた源義親を討ち取ったという連絡が平正盛から届き、同月二九日には討ち取った源義親の首を掲げた平正盛の軍勢が京都に凱旋。源義親の首は検非違使の手によって晒し首となった、はずであった。
ところが源義親はまだ生きているという伝説が広まっていたのである。
源義親生存伝説は、源義親に生き残って欲しいという思いから生まれた伝説ではない。平正盛を信じられないという思いから生まれた伝説であり、平正盛の後ろにいた人物に対する批判から生まれた伝説である。
平正盛の後ろにいた人物とは誰か?
白河法皇である。
絶対的な独裁者が認めた人物を否定することで、絶対的な独裁者を否定することを目論んだのだ。永久五(一一一七)年には越後国で源義親を名乗る人物が現れ、その翌年には常陸国で源義親を雇ったとされる人物が逮捕された。保安四(一一二三)年には源義親と名乗る人物が逮捕されて検非違使に引き渡された。
こうした源義親生存伝説のピークは白河法皇が亡くなった三ヶ月後の大治四(一一二九)年九月五日に迎えた。なんと、源義親が宇治にまで姿を見せたというのである。しかも、鳥羽上皇は宇治にまで来た源義親を名乗る人物を保護するよう命じたのだ。これが鳥羽上皇の時代における藤原忠実についての最初の記録である。隠遁生活している藤原忠実に対し、あくまでも私的に保護するように命じたのであるが、私的であるとは言え、いや、私的であるからこそ、源義親を名乗る人物の保護を藤原忠実に命じたことは大きなインパクトとなって響き渡ったのである。
源義親も藤原忠実も白河法皇が否定した人物である。その人物を鳥羽上皇が認めたということは、暗にではあるが、鳥羽上皇が白河法皇を否定することにつながる。
これを平忠盛はどのように見ていたのか? 自分の父の偉業を否定されたのである。それでも平忠盛は自らの役割を遂行し続け、鳥羽上皇と待賢門院藤原璋子の警護の最高責任者であり続けていた。
鳥羽上皇は白河法皇の相続をしたが、院という組織だけを考えると、白河院に勤める者は白河法皇個人のために、鳥羽院に勤める者は鳥羽上皇個人のために勤める者として朝廷から派遣された者であり、よほど優秀な者でない限り兼職はせず、理論上、白河院に勤める者は白河法皇が亡くなった瞬間に院での職務を終える。その中には平忠盛も含まれている。実際、最も古い鳥羽院の判官代の名簿と最も新しい白河院の判官代の名簿とを比較すると、一人しか重なっていない。そして、その一人は平忠盛ではない。ゆえに、平忠盛は白河法皇逝去と同時に院と離れるのが本来あるべき姿であるのだが、平忠盛は白河法皇逝去後にそのままスライドとして鳥羽院で働くようになったのである。
一見すると白河院から鳥羽院に異動したということになるのであるが、そうは簡単ではない。サラリーマンの感覚で行くと勤務先部署の廃止による転勤といったところであるが、現在のサラリーマン感覚における勤務先部署の廃止と同様に全員が新しい部署にこれまでの役職のままで異動できるとは限らない。新しい部署に異動できるのは新しい部署がスカウトした人材だけであるのと同様に、白河院で働いていたからといって無条件で鳥羽上皇のもとで働けるようになるわけではないのである。白河院のみで勤めていて鳥羽院の名簿に名の無かった平忠盛が、白河法皇の逝去に合わせて鳥羽院での勤務にスライドできたのは、この時点での平忠盛の能力を鳥羽上皇が評価していたということの証拠である。
鳥羽上皇が評価しなかったのは平正盛、いや、より正確に言えばその背後にいる白河法皇であって、平正盛の子の平忠盛の能力は評価していたのだ。
イジメ問題は現代日本に始まった話ではない。昔からあったし、日本国外でも見られる話である。ここで着目すべきは加害者側。被害者にどのような落ち度があると加害者がどんなに主張しようと、イジメ問題の責任は加害者側のみに存在する。イジメを良くないことだとどんなに啓蒙したところで、加害者が悔い改めることはない。さらに言えば、自分たちのしていることがイジメだとすら気づいていない。その代わりに、自分を被害者であると訴え、イジメの被害者への攻撃を正義と考えている。
大治四(一一二九)年一一月、平忠盛が賀茂臨時祭の新舞人に選ばれた。このこと自体は何らおかしなことではない。位階で考えても、役職で考えても、妥当とするしかない。しかし、自分たちよりはるかに格下に考えていた平忠盛が新舞人に選ばれたとあっては、貴族たちが面白く感じるはずはない。
平忠盛が賀茂臨時祭の新舞人に任命されたのはこれが最初ではない。一〇年前の元永二(一一一九)年一一月にも当時二四歳であった平忠盛は任命されている。元永二(一一一九)年のときはそのダンスの見事さで「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と記録に残ったほどであるが、それから一〇年を経ている。元永二(一一一九)年の平忠盛は、貴族の一員としてカウントされてはいても、その位階は低い。国司経験があるとは言っても多くの貴族にとっては眼中にない存在である。ダンスの見事さが評判になろうと、また、若き有力武士として着目される立場であろうと、貴族たちにとっては格下の存在であったのである。このときはまだ。
ところが、それから一〇年を経て、平忠盛は従四位下まで位階を伸ばした。こうなると貴族の一員にカウントされるどころの話ではない。現実問題としてはまあまだ先のことであるかもしれないが、理論上は議政官の一員としてカウントされうる地位にまで上り詰めていたのである。しかも、この武士は資産も手にしている。おまけに、一月にはまだ一二歳である息子の平清盛を左兵衛佐に任命させている。理屈はわかっている。瀬戸内海の海賊を追捕する危険性に対する見返りとして、幼い息子の早期抜擢は理解できる話である。命がけとなる海賊追捕は、自分の身に何かあった瞬間に一族郎党が路頭に迷う危険性をはらんでいる。その危険性を回避するために、公的地位を確保させた状態で幼い息子を京都に残すことはおかしな話ではなかった。
ただし、理解できることと納得できることとは全く別の話である。いかに危険な任務であろうと、一二歳の息子を貴族の一員に加えさせるという藤原摂関家でなければ受けることのできない特権を求めて実現させたというのは納得し難い話なのである。しかも、自分たちより格下に考えている存在が、自分たちに並び、自分たちを追い抜いた。
というタイミングで、数多くの貴族が列席する賀茂臨時祭の新舞人を務めた。一〇年前、ダンスの見事さで京都中の拍手喝采を受けたとき、多くの貴族たちにとっての平忠盛のダンスは自分たちより格下である若者のパフォーマンスであったが、大治四(一一二九)年の平忠盛のダンスは、格下のくせに自分たちを追い抜いた者のパフォーマンスとなったのである。
結果、貴族たちは平忠盛に罵声を浴びせ、手当たり次第にモノを投げつけることとなった。
イジメを醜悪なものとして捉えるのは第三者であって、加害者にとっては特に気に留めることの無いこと、さらに言えば正義の行使であり何の問題もないことである。ここで、平忠盛は罵声を投げつけられようと、モノを投げつけられようと、ただ黙って耐えていた。
ただし、耐えることと、イジメの被害を黙って受け入れることとは別の話である。
武士として併記される清和源氏はこのころ何をしていたか。
平忠盛と同年齢である源為義は、平忠盛よりも先に一族のトップに立っていた。何しろ一三歳で一族のトップを務めていたのである。もっともこれには事情があり、源義家亡きあと清和源氏のトップを務めていた源義忠が天仁二(一一〇九)年二月に暗殺され、その時点で真犯人とされた源義綱は息子たちが次々を自害していく様子を目の当たりにして出家したのち佐渡へ流罪、のちに真犯人と判明することとなる源義光も常陸国へ逃亡と、清和源氏のトップに立つ人物が一人もいなくなってしまっていたのである。そこでトップとして祭り上げられることとなったのがこの時点で一三歳の源為義であった。
源為義は、白河法皇の院政の全盛期において、鳥羽上皇の命令に従う数少ない、それでいて朝廷の誰もが無視できぬ強力な軍事組織を作り上げることに成功していた。つまり、白河法皇亡きあと、朝廷の最大権力者となった鳥羽上皇の手元には源為義が、そして、源為義の指揮の元で動くことのできる清和源氏という強力な軍事集団が存在していたこととなる。
ところが、鳥羽上皇は源為義に対する処遇を誤るのだ。
先に平忠盛が従四位下にまで上り詰め、臨時賀茂祭の新舞人にまで選ばれたことを記したが、源為義は何も無かったのだ。
おまけに、亡くなったとされる源義親が鳥羽上皇の私的な要望として宇治の地で保護されている、ということになっている。ところが、源義親の息子である源為義が源義親とされる人物と面会できずにいるのである。
鳥羽院政開始時点の源為義の公的地位は検非違使である。貴族のステップアップとしては順当なところではあるが、もう一五年以上もそのままであったのだ。たしかに、源為義が、そして清和源氏が検非違使であるというのは京都の治安維持を考えれば、この時点で選ぶことのできる最善の方策であったろう。しかし、検非違使という職務は貴族のステップアップの職務であるとされていた時代にあって、いかに検非違使として功績を残そうと、検非違使のまま留め置かれるというのは納得のいくことでは無かった。自分と同年の平忠盛が、上流貴族たちに嘲笑され、モノを投げつけられる屈辱を受けたとしても、源為義はその舞台に立つことすら許されておらず、それどころか亡くなったとされる父を名乗る人物が権力のための道具に利用されているのである。
先に、自分より格下と考えていた人物が自分と同格になり、さらには自分を追い抜くことに対する心理を記したが、自分と同格にある存在が自分よりはるか遠く、自分の想像できぬところまで高く上り詰めているのを眺めなければならないというのも、心理的に複雑なものがある。自分にはとてもではないができないと脱帽するほどの努力をし、誰にでも認められるだけの結果を残した者が、自分にとっては想像もできぬほどの高い場所に上り詰めることは受け入れられる。しかし、自分の方が努力した、自分の方が苦労した、自分の方が結果を出したにもかかわらず、あいつだけが上り詰めて自分は上り詰めていないというのは納得できることではなかった。
清和源氏は鳥羽上皇の手にしている武力の一つというレベルの話ではない。鳥羽上皇にとっての最大最強の武力である。その武力のトップが内心に不満を抱え込んでいるというのを、当時の人の多くが知っていたわけではない。しかし、情報の重要性を知っている人物ならば絶対に知っている。
知っている人物とは誰か?
白河法皇の崩御と同時に政界復帰を果たした藤原忠実である。
藤原忠実に対する評判は良くないものも多いが、それでも康和元(一〇九九)年から政治の表舞台に立っていた人物である。情報の重要性を意識していなかった過去があったとしても、さすがに三〇年間も政治の世界に立っていれば情報の重要性は理解できているし、情報を掴み取ることの必要性も理解できるようになっている。
このタイミングで藤原忠実は、清和源氏のトップが鳥羽上皇のもとから離反する可能性ありという情報を掴み取ることに成功したのだ。
白河法皇のスタートさせた院政という政治システムは、この時点ではまだ不明瞭なものがあるシステムであった。一方、藤原摂関政治は、後世の我々から眺めればすでに衰退期を迎えていた政治システムであったが、この時代の人からすれば盤石な政治システムとされていた。
ただし、盤石な政治システムといっても、内情は、白河法皇の崩御まで宇治で謹慎していた藤原忠実と、現役の関白である藤原忠通との親子間の対立が存在していた。対立とは言うものの、両者は互角な関係ではなく、この時点では関白藤原忠通のほうが藤原摂関家の中でも権勢を得ていると誰もが考えており、宇治で謹慎していた藤原忠実は過去の人という扱いを受けていた。
ただし、ここで清和源氏という武力を手にしたらどうなるか?
宇治の藤原忠実と、鳥羽上皇のもとで冷遇されはじめてきていた源為義との間で書簡の往復が始まった。
平忠盛が賀茂臨時祭で新舞人として舞っていた頃、源為義は鳥羽上皇から一つの指令を受けて奈良へと向かっていた。
その指令とは、興福寺の僧徒の逮捕指令、特に、暴動の首謀者として混乱を招き寄せた興福寺の僧侶である信実を逮捕することである。これは検非違使の職務として何らおかしなことではない。しかし、京都から奈良へ向かう途中で宇治に立ち寄り、そこで藤原忠実と面会をしたことで事態は急変する。
大治四(一一二九)年一一月一七日、検非違使源為義に奈良への派遣を命じ、そろそろ捕縛完了の連絡がくる頃であろうと考えていた鳥羽上皇の元に、驚愕のニュースが飛び込んできた。
主犯である僧侶の信実の逮捕を断念し、証拠不充分として保護したという連絡が届いたのである。これに鳥羽上皇は激怒し、保護した信実を京都に連行するよう命じるが、検非違使がいかに警察権と司法権の両方を持っていようと、証拠もなく逮捕し、証拠もなく有罪とすることはできないだけでなく、むしろ、嫌疑不充分でありながら有罪であると決めつけて騒動を起こす人たちから容疑者を守る義務が存在する。これはいかに未熟な警察制度の国であろうと、あるいは、いかに程度の低い司法の地域であろうと変わらない。有罪と決まっていない容疑者には推定無罪の原則が存在し、検非違使であろうと、現代の警察であろうと、そうした容疑者を守る義務が存在する。
自らの命令に逆らった源為義に対する鳥羽上皇の怒りはかなりのものがあり、実に、およそ一七年に渡って鳥羽上皇のもとから離れることとなる。
その代わり、源為義は、そして清和源氏は、藤原摂関家と、特に藤原忠実と接近するようになる。鳥羽院政が始まったばかりというまさにこのタイミングで鳥羽上皇のもとを離れるのは、一見すると得策ではない。これから鳥羽上皇の時代になるというのだから、これからも鳥羽上皇のもとに仕えることで自身の栄達を果たせるようになると考えるのが普通である。しかし、少し考えると、その考えは甘いものだと痛感するようになる。なぜか?
鳥羽上皇は源為義に検非違使としての出動を命じた。これは白河法皇の時代と何ら変わらぬ処遇である。鳥羽上皇に時代を迎えれば白河法皇の頃よりも上の地位を手にできると考えていたのに、いざ鳥羽上皇の時代を迎えたら、これまでと何ら変わらない日常となっていたとあっては、鳥羽上皇に対して純粋な敬意を払えるであろうか。
その職務において現時点で最高のパフォーマンスを発揮している人材を、本人の意を無視してその職務に留め置かせるというのは、組織全体を考えれば最善でも、留め置かれ続けている個人にとっては最善とは言えない。他の職務、あるいは、より上の職務への転身を願いながら現状のままとされるというのは組織からの離脱を決意するきっかけとして充分なのだ。
源為義は検非違使として最良の職務を果たしているかもしれない。そして、検非違使として源為義を出動させることは鳥羽上皇にとって最上の結果をもたらすかもしれない。しかし、源為義自身が検非違使であり続けることを受け入れるかどうかは全く関係ない話なのである。ましてや、同年の平忠盛が、自分では望むことのできずにいる地位と職務を手にしているとあっては、納得するなど難しい話になる。
院庁そのものは白河法皇より前から存在していた組織であるが、院庁を朝廷の職務と密接につなげることに成功したのは白河法皇である。院庁の職務には朝廷の職務に匹敵する権威があり、朝廷の職務と院庁の職務の双方を行き来することがキャリアアップになるという筋道を作り出したのは、院庁に優秀な人材を集めることに成功した一因でもある。
院庁と朝廷の人材の行き来については鳥羽上皇も残していた。ただ、検非違使の源為義だけは例外となっていたのだ。朝廷の職務である検非違使のままとされ、検非違使としての職務をどれだけ遂行しようと検非違使であり続けることを命じられたのだ。本人の望まぬ職務を要求され、一刻も早い上昇を願いながら無視されたとあっては、検非違使としての職務を全うすることは、検非違使ではないより上の職務への出世ではなく、検非違使の職務の継続につながる。これでは検非違使としての職務を遂行する意欲など湧きようがない。
検非違使としての源為義が、興福寺の僧侶である信実を逮捕するのではなく保護したのは、厳密に言えば法の正しい適用であるが、鳥羽上皇のもとに仕える一個人としては許されざる裏切りである。普通に考えれば、鳥羽上皇の命令に背いた瞬間に、鳥羽上皇の時代が続く限り、出世は潰える。ただし、鳥羽上皇のもとでの出世が無いとわかってしまった後ならば話は別だ。このままではどんなに職務を遂行しても出世を果たせないとわかったら、命令に従う意欲も、懸命に働く意欲も、失う。
では、鳥羽上皇を裏切って藤原忠実のもとに身を寄せれば出世できるのか?
現時点での出世だけを考えればその答えは否であるが、現時点での出世以外の実利と将来の出世を考えればその行動は不正解ではない。何しろ、朝廷の公的地位が名目上のものとなろうと、あるいは公的地位を剥奪されようと、藤原摂関家の内部での地位が約束されるのである。藤原氏というのは現在の自民党に比すべき組織である。自民党という政党は、権力をその手に握ることが憲法で約束されている政党ではない。しかし、自民党員になって自民党から立候補して国会議員になる以外にこの国の権力を手にする方法は、現実問題として、無い。それほどまでに強固な勢力を持った政党であり、抱え込んでいる人材も無視できぬものがある。
平安時代の藤原氏というのは現代の自民党に相当する。ただし、現代の自民党は誰でも入党できるのに対し、平安時代の藤原氏は藤原氏の一員として生まれなければ藤原氏の勢力に加わることができない。藤原氏に生まれなかった者は国家権力の要衝に就くことはできない。とは言え、藤原氏以外の生まれの者も藤原氏の権力を利用して自身の栄達を望むことは不可能では無いのだ。それが、藤原氏に仕える身になることである。
藤原氏ほどの組織となると抱える人材も多大になる。荘園の経営と管理だけでもかなりの人材を要するし、警護の人材は常に不足気味だ。これを全部藤原氏だけでこなすなど到底無理な話で、必然的に藤原氏以外の人材を私的に雇うこととなる。私的な雇用であるから朝廷における公的地位を得るわけではないが、藤原摂関家の中の職務に就くことは、社会的地位も、収入も、無視できるものではない。条件次第では公的地位を捨てて藤原氏における指摘地位を選ぶ方が賢明であったりする。
源為義を藤原摂関家で抱え込むことは、藤原摂関家という一つの政党の中に源為義と清和源氏という有力な組織を抱え込むことを意味する。源為義の立場に立つと、検非違使であり続けるよりもはるかに高い社会的地位とはるかに多い年収を獲得することができることを意味する。これだけでもメリットのあることだが、ここで藤原摂関家のもとに身を寄せるともう一つのメリットが生まれる。
始まったばかりの鳥羽院政がいつまで続くかわからない上に、その政治的スタンスも不明瞭である。善かれ悪しかれ白河法皇の政治的スタンスは明瞭なものであったのに対し、鳥羽上皇は白河法皇への協力と反発という二律相反する立場の人であった。おまけに、そもそも鳥羽上皇は白河法皇のように事前から自らの組織を構築して藤原摂関家と対抗する政治システムを作ったわけではなく、白河法皇の作り上げたシステムを利用しているだけである。権力を掴むことを願わなかったといえば嘘になるが、権力闘争の末に権力を掴んだのではなく、白河法皇の逝去に伴って権力が転がり込んできたようなものである。さらに言えば、白河法皇の院政というシステムは完全無欠のものでなく、手直しを絶対に必要とする。白河法皇は手直しを認めなかったが、鳥羽上皇はそこまで頑迷ではないし、頑迷になる理由もない。そして、手直しとなると藤原摂関家への歩み寄りとなる。そのとき、藤原摂関家内部で地位と資産を築き上げている者がいるなら、歩み寄りの結果は相応の高さを期待できる。少なくとも検非違使のままということはない。これが源為義の視点に立っての将来のメリットである。
さて、源為義が逮捕ではなく保護した興福寺の僧侶である信実であるが、この人の生涯を追うと、信実自身は源氏の出身であるが、その生涯は藤原摂関家の人間と密接につながっていることがわかる。興福寺という藤原氏の氏寺の僧侶なのだから当然と言えば当然であるが、それだけではない。この人について言えば興福寺の武力を統率して各地で暴れまわってきた記録が残っているのだ。それも、藤原摂関家の利害のために行動している記録が次々と出てくる。ただでさえ南都北嶺と称される二大武装組織の片方を手に入れている藤原忠実のもとに、鳥羽上皇のもとを離れた源為義が加わる。これで、藤原忠実は二つの巨大な軍事組織を手に入れたことになる。
院政は藤原摂関政治の次に来た政治体制であるが、それは後世の視点から眺めた評価であり、同時代の人はそのように考えていない。大治四(一一二九)年当時の人は藤原氏に対し、民主党政権の頃の自民党に似た感覚を持っていた。現時点では政権を担っていないものの、ついこの間まで政権を握っていたし、次に政権を担うことになるであろう集団として藤原氏を眺めていたのである。ただし、藤原忠実と藤原忠通の親子間の対立も存在していて、そこは一枚岩ではない。一枚岩ではないが、他の追随を許さない一大政治勢力であり、藤原忠実が源為義率いる清和源氏の勢力を手に入れたことは、倫理的にはともかく、論理的には納得できることであった。
もっとも、藤原忠実が清和源氏を手にして勢力を拡大させていくことを鳥羽上皇が黙って受け入れていたわけではない。明白な敵対関係を宣言してはしなくとも、自分に取って代わることのできる勢力が存在しているだけで充分に脅威だ。鳥羽上皇は断じて民間人ではない。民間人ではないが、朝廷権力の外に位置するという点では、民間人である藤原氏と同じである。払われる敬意は天皇に匹敵するとは言え、鳥羽上皇の周囲を固めるのは朝廷権力に基づく人材ではなく、院という私的機関に属する人材である。いかに大治四(一一二九)年時点での国家権力を手にしていようと、鳥羽上皇の行使できる権力は私的な権威によるものなのである。これが白河法皇であれば権力闘争の勝者であるという点で圧倒的な権威を手にできていたであろうが、鳥羽上皇にはそれがない。
しかし、鳥羽上皇には、他の誰もが行使できない権力を行使できた。
人事権だ。
厳密に言えば、推薦であって決定ではないが、鳥羽上皇の推薦とあれば無視することなどできない。
いかに藤原摂関家に私的に仕えることで実利を手にできたとしても、そこに相応の社会的地位が存在していたとしても、朝廷権力が付与する地位は絶対的なものがある。検非違使のまま留め置かれていた上に、検非違使よりもはるかの上の社会的地位と報酬を用意したから藤原忠実は源為義を引き抜くことができたのであり、源為義に対して検非違使よりも上の職務や位階を朝廷が付与したなら、源為義は鳥羽上皇のもとを離れることはなかったと断言できる。
人事に不満を感じて組織を離れた人がいるというのを放置していては、人材の流出は止まらない。かと言って、組織を離れた人により高い地位を用意して復帰を促すのもまた組織に留まることのメリットを感じなくさせてしまう。組織に残って働くよりも組織を抜けるという騒ぎを起こすほうが出世するとあっては、誰が真面目に働くようになろうか。
年が明けた大治五(一一三〇)年一月七日、鳥羽上皇は平忠盛を正四位下に叙した。これが鳥羽上皇院政における最初の叙位である。同年である平忠盛と差が付けられたことに対する怒りが源為義の根底に存在していたことを知らなかったのか、それとも、知っていて叙したのか、鳥羽上皇のこの人事は、そのどちらであろうと、よく言えば冷徹な、悪く言えば陰湿なものであった。おまけに、この瞬間に鳥羽院の院司として名を載せるようになっている。
それまで上流貴族としてカウントされることのなかった平氏の人間が正四位下というかなりの高い地位を手にしたというのは、血筋が理由で出世できずにいた人と、鳥羽上皇のもとに残って働く人には希望を、血筋のおかげで出世できていた人と鳥羽上皇のもとを去った人には絶望をもたらした。だからと言って、表立っての反対はできない。何しろ平忠盛には瀬戸内海の海賊追補という、誰もが認めなければならない結果が存在していたのである。結果を出した人物を、毎年一月に発表することが恒例となっている人事発表(当時の言葉では「除目(じもく)」)で評価するというのは何らおかしなことではないのだから。
鳥羽院政の開始時点の有力武士団して忘れることのできない存在がもう一つある。
陸奥国平泉に拠点を構える奥州藤原氏だ。
大治四(一一二九)年、兄との血なまぐさい対決を制して奥州藤原氏のトップに立った藤原基衡について正確な生年はわからない。死去年から逆算して大治四(一一二九)年時点では二五歳前後であったろうと推測されている。
源平合戦後に繰り広げられた源頼朝と奥州藤原氏との争いである奥州合戦で平泉が陥落した際に、数多くの資料が灰になって消えたことは知られている。そのため、奥州藤原氏自身が残した同時代史料は数少なく、奥州藤原氏について知るには、後世に記された史料、京都をはじめとする他所で残された史料、考古学での発掘品といった現地の同時代史料以外の歴史資料を参照するしかない。
ただでさえ奥州藤原氏に関する歴史資料は少ないが、その中でも群を抜いて少ないのが奥州藤原三代の二代目の藤原基衡である。特に、藤原基衡が二〇代から三〇代にかけてどのような暮らしをし、どのような統治をしていたかの記録が全くと言っていいほど存在しないのである。
そのほとんど無い記録において、この頃の藤原基衡について語ることのできる唯一と言って良いのが、平泉という土地そのものに残る記録である。
平泉の寺院として多くの人が真っ先に思い浮かべるであろう寺院は金色堂で有名な中尊寺であるが、藤原基衡は中尊寺に並ぶ寺院を再興させている。中尊寺は平泉の北西にそびえ立つ標高一〇〇メートルほどの高地にあり、中尊寺から平泉の街から仰ぎ見る平泉のランドマークで的存在であったのに対し、その寺院は平地の生活基盤となることを目的とするために再興された寺院であった。まさに都市として発展し拡大しつつある途上において、その寺院は次第に平泉の市街地の中心を為すようになっていくのである。
その寺院の名を毛越寺(もうつうじ)という。本来は「もうえつじ」であったが、「もうつじ」や「もおつじ」と呼ばれるようになり、次第に「もうつうじ」と呼ばれるようになった。蛇足ではあるが、コンピュータの漢字変換ソフトで「もうえつじ」と入力しても「毛越寺」と変換されないが、「もうつうじ」と入力すると「毛越寺」と変換される。しかし、ネット検索サイトで「もうえつじ」とひらがなで入力すると、そのように書く人が多いせいか「毛越寺」の検索結果が出てくる。
毛越寺はもともと嘉承三(八五〇)年に円仁が創建したという記録があるが、大火で消失して荒廃しており、藤原基衡がトップに立った頃は建設中の都市である平泉に存在する空き地という位置づけであった。この毛越寺を再興させたのが藤原基衡である。ただ再興させただけでは記録に残らない。藤原基衡がその名を記録に残すことになったのは、再興した毛越寺が「吾朝無双」、すなわち、日本で最高の寺院と評される絢爛さで、平泉だけでなく日本全国の評判になったからである。
藤原基衡がいかに予算を投じて毛越寺の絢爛さを作り上げたかのエピソードが毛越寺自身に残されている。
毛越寺再建時、藤原基衡は本尊の製作を京都の高名な仏師である雲慶に依頼した。依頼を受けた雲慶は依頼者である藤原基衡に対して、上等、中等、下等の三段階の出来があるがどれにするかと返答したところ、藤原基衡は中等での製作を依頼した。雲慶はそれならば三年間の製作期間をいただきたいと回答した。
それからが凄かった。藤原基衡は依頼から三年間に渡って雲慶に対し報酬を払い続けたのだが、それらの種類と量が凄まじいのだ。毛越寺に残された三年間の記録を合計を記すと以下の通りとなる。平泉産の砂金が一〇〇両、大陸から輸入した鷲の羽根が一〇〇本、幅一〇メートルはあろうかという北海道から取り寄せたアザラシの毛皮が六〇枚、安達産の絹織物が一〇〇〇疋、羽毛を編み込んで作り上げた希婦細布(けふのせばぬの)二〇〇〇端、奥州産の駿馬五〇頭、麻の布が三〇〇〇端、信夫(しのぶ)(現在の福島市)名産の絹織物である信夫毛地摺(しのぶもちずり)が一〇〇〇端。これだけの分量を一度に運んだのではなく、三年間に渡って途切れることなく平泉から京都へと送られ続けたのである。現在の貨幣価値に直すと、少なく見積もっても三年間の合計は一五億円に達する。
藤原基衡からの支払いはそこで終わらない。完成後に完成報酬として贈ったのが生美絹(すずしのきぬ)。これを三艘の船に積んで贈ったところ、雲慶は冗談まじりに「嘉悦きわまりなしといえども、なお練絹(ねりぎぬ)こそ大切なり」と返答。それを耳にした藤原基衡は、最高の仏師に対する支払いとしてあまりに礼を欠いていたと猛省してただちに練絹を用意し、これもまた三艘の船に積んで贈った。船一艘の絹織物となるとそれだけで一億円近くになる。成功報酬三億円を贈ったあと、もう一度三億円分の成功報酬を贈りなおしたというのだから、「ちゃちゃっと作ってくれない?」のあとの「お金とるの?」と言い出す現代日本人の祖先とは思えない行動である。
もっとも、いかに絢爛であっても、それだけで日本全国から人を呼び寄せることはないのがこの時代である。そもそもこの時代は現代のように気軽に旅行に出かけることが可能な時代ではない。旅は命懸けであり、よほど強い信仰心を持っている人でもなければ寺院目当てに平泉にまで足を運んで帰ってくるなんてことはない。ところが、この時代、毛越寺に多くの人が詰めかけたという記録が残っているのである。毛越寺の絢爛さに惹かれて観光しに来た人たちではなく、平泉に移り住むことを決意させる要素を毛越寺で確認した人たちである。
確認したもの。それは水だ。
毛越寺の絢爛さは、本尊もさることながら、庭園に構築された池と、池の中州に建設された浄土庭園に尽きる。そして驚かされるのが、平泉は三方を川に囲まれている都市でありながら、そして、その平泉の街中の寺院でありながら、どの川からも毛越寺の庭園に水が引かれていないということ、すなわち、池の水が全て湧き水であるということである。
平泉という都市の名は、平らな場所に水が湧き出ると言うところから来ている。ただ湧き出るというレベルではなく、広大な池を作り出すほどの豊富な湧き水があり、湧き水は生活用水としても水稲耕作の農業用水としても充分だった。おまけに、水質はかなり高く衛生的である。衛生的な水を豊富に利用できるのは都市として発達するのに必要な要素であるが、あまりにも多すぎると水害に悩まされる。ただでさえ川に囲まれている平泉は水害の危険性を伴った都市であったのだが、藤原基衡は毛越寺の庭園を利用することで都市平泉の水量調節に成功したのである。
大治五(一一三〇)年二月二一日、関白藤原忠通の長女である藤原聖子が崇徳天皇の中宮に冊立された。事象だけ見れば藤原摂関政治の全盛期に見られた光景である。崇徳天皇が一二歳、藤原聖子が九歳という幼さであり、結婚適齢期という言葉は無くともその概念は存在していたこの時代の人に結婚適齢期の中宮冊立であるか否かを質問すれば、ほとんどの人が確実に否と答えるであろう。だが、中宮冊立にはまだ早いと考え、数年後まで待たせるべき年齢であるか否かという問いにもやはり否と答えるであろう。藤原摂関家に生まれた女子が幼くして宮中に入ること自体は当然のことと考えられていたのであるから。
関白藤原忠通はこれで自身の未来を築くことになったと考えたであろう。父が健在であり、また、父は清和源氏を招き入れるのに成功したことで強大な権勢を手にするようになってはいたが、それでも父の藤原忠実は宇治に隠遁している身である。藤原摂関家の実権は息子の藤原忠通の手に存在しており、同時に、藤原忠通は関白として他の追随を許さない圧倒的権威を持った貴族であったのだから。
ただし、藤原忠通には一つ泣きどころがあった。後継者である男児がいないのだ。
いかに権勢を掴んでいようと世襲による権力継承システムである以上、自身に男児がいないというのは権力継承に失敗していることを意味する。かつて藤原道長は藤原頼通の次の藤原摂関家の後継者に藤原氏ではない源師房を指名したが、このようなことを考えるのは藤原道長が摂関政治の継承を藤原氏の世襲よりも優先させると考えて平然としているほどにドラスティックな考えの人だからであり、平々凡々な人物はそのようなことを思いつきもしない。
藤原忠通に男児がいないことへの対処法については、父も子も同じ結論を出していた。藤原忠通の弟である藤原頼長を後継者とするのである。天治二(一一二五)年にはすでに藤原忠通は弟の藤原頼長を養子として迎え入れており、この頃の人は誰もが藤原忠通の後継者は弟にして養子である藤原頼長であると考えていた。なお、養子となった時点では藤原頼長という名でなく、菖蒲若(あやわか)という幼名である。
藤原頼長はこの時点でまだ一一歳である。満年齢でなく数えで年齢を記すから一一歳なのであり、現在の満年齢で言うと一〇歳、学齢で言うと小学四年生である。小学四年生では何かあったときの後継者とするにはたしかに若すぎる。しかし、一〇歳ともなれば世の中のことはわかってきているし、政治にも経済にも自分の意見を持つぐらいはできるようになる。政務の代行をしろと言われるなら、さすがに万全とまでは言わないにせよある程度までなら充分可能だ。おまけに、藤原頼長はこの時期にはすでに神童としての評価を確立していた。下手な大人では簡単に言い負かされるだけの学力を手にしており、今すぐ何かあったらさすがに一〇歳では問題あるだろうと考えている人であっても、藤原忠通の後継者がこの神童であるなら将来は安泰であると考えたのである。
藤原頼長はその資質が後に問題となってくるが、大治五(一一三〇)年時点では最上の選択とみなされていたのだ。
この頃、平安京で一つの話題が渦巻いていた。
源義親を名乗る人物である。
藤原忠実が宇治から平安京に向かうと源義親を名乗る人物も行動を共にし、藤原忠実の邸宅の中の小屋に居住するようになった。
これだけでもミステリアスなのだが、他にも源義親を名乗る人物が登場したのである。大治五(一一三〇)年八月になると北陸から上洛しつつあるという情報が届き、八月九日に近江国大津に到着したとの連絡が届いた。ここで二人の源義親の名乗る人物が登場したこととなるが、この段階でもまだ源為義との面会は果たせずにいる。面会を果たせないのは京都在住の源義親を名乗る男性だけでなく、大津到着の源義親とされる男性の二名ともに面会を果たせずにいるのであり、息子に会わせれば解決するのではないかという誰もが考える解決方法はなぜか誰も実行していない。
その代わり、大治五(一一三〇)年九月九日に源義親の元妻と、京都在住の源義親とされる男性との面会が行われ、京都在住の源義親とされる男性は源義親ではないと断定された。しかし、京都在住の源義親とされる男性は元妻のほうがニセモノであると主張し自分は間違いなく源義親であると宣言した。ただし、この段階でもなお源為義との面会は果たせずにいる。
二人の源義親とされる男性が併存することになった結果、大治五(一一三〇)年一〇月一四日についに爆発した。大津に留め置かれていた源義親とされる男性が強引に上京し、現在の四条大宮のあたりで、京都在住の源義親とされる男性と衝突したのである。これが二人きりで面会したというならまだ穏当な話になろうが、衝突の瞬間を平安京内外から詰めかけた数千の群衆が見つめていたこともあり、京都の源義親とされる男性が大津から来た源義親とされる男性を捕縛するに至った。結局、大津から強引に上京した男性は、自分は源義親では無く、唆されて源義親を名乗るようになり強引に上京しようとしたと述べるにいたった。ただし、誰がこの男に対して源義親を名乗るように唆したかは最後まで不明なままであった。
一方、自分こそ正当な源義親であると宣言した男性に待っていたのは凄惨な結末であった。大治五(一一三〇)年一一月一二日夜半、騎兵およそ二〇名、歩兵およそ四〇名からなる軍勢が襲撃し、源義親とされる男性とその周囲を固めていた郎従一三名、合わせて一四名が殺害されたのである。
このニュースは当初、平忠盛による犯行であるという噂が広まったが、平忠盛は噂を即座に否定。そもそも当日のアリバイが存在していただけでなく、平忠盛にとって、源義親を名乗る男性の存在はたしかに父の偉業を否定する目障りな存在であるものの、殺害するという選択肢はそもそも存在しないのである。
事件翌日、真犯人として新しい人物の名が挙がってくる。検非違使大夫尉源光信である。先に、現在の四条大宮のあたりで源義親を名乗る二人の男性が衝突したと記したが、大治五(一一三〇)年の地図でいうと源光信の邸宅前である。自分の邸宅前で乱闘が繰り広げられた検非違使というのは面目丸つぶれである。
とは言え、犯行の動機とするには弱い。にもかかわらず、一一月一五日に源光信は逮捕され、一一月二三日は早くも裁判となり、最高刑となる流刑が科され、土佐への配流が決まった。さらに、源光信の弟の源光保も右兵衛尉の職を解かれ、これで源義親を名乗る人物に関する事件は全て解決したこととなる。果たしてこれで解決と言っていいのかはわからないが。
上流貴族は大部分が藤原氏で、ときどき村上源氏がいるというのが当たり前であった時代、藤原氏と同様に娘を皇族に嫁がせていた高階氏がピンポイントで存在感を見せたり、大江匡房のように源氏でも藤原氏でもない個人がその学識で存在感を見せたりすることはあったが、そのどちらも、婚姻関係であったり、あるいは個人の学識であったりといった、貴族社会において納得できる要素での存在感の発揮であり、また、彼ら自身も貴族社会の一員と見られてはいた。ゆえに、さほど大きな問題となっていなかった。
しかし、平忠盛は違った。
功績がないわけではない。それどころか、海賊に対して武力で立ち向かって治安の回復と維持に務めたのだから、日本国と日本国民に対する功績で言うなら高階氏や大江匡房を軽く上回る。ゆえに、功績に対する評価を考えるならば平忠盛が貴族の一員になり、貴族社会に姿を見せること自体はなんらおかしな話ではない。だが、そもそも平忠盛は貴族とみなされてはいなかったのだ。貴族ではなく武士とみなされ、貴族の集う場に姿を見せたとしてもそれは身辺警護のボディーガードであって貴族の一員ではなかった、はずであった。
その平忠盛が貴族の一員と振る舞い出したのが、他の貴族の逆鱗に触れた。なぜ平忠盛がここにいるのかという公然とした不満が渦巻いていたのである。功績を知らないわけではないが、文武両道どころか、文を尊び、武を卑下する当時の風潮では、まさに武によって国家に対し、そして国民に対して功績を果たしたことそのものが、平忠盛を貴族の一員とカウントさせない理由になった。貴族なら、京都に留まり、血など見せず、文だけで功績を残すべしというのが当時の考えだったのだ。現代の感覚でいけば、いや、当時の感覚で言っても、逆鱗に触れると感じて怒りを見せる方がおかしいが、怒りを見せる貴族たちに言わせれば、平忠盛は身分をわきまえぬ無礼者であり、怒りを見せる自分たち貴族は平忠盛の為した犯罪の被害者だと言うこととなる。
これはイジメ問題にもつながる話として先にも記したことであるが、加害者は自分を加害者と認めない。それどころか被害者であると訴え、自分の行動を被害者が加害者に見せる正義の抵抗の姿であると主張する。小学生や中学生でもあるまいし大の大人がイジメなど、と思うかもしれないが、これは普通に存在する。しかも、自分が加害者だと自覚することのないまま存続させている。たとえば首相官邸前デモを、あるいは、沖縄の米軍基地前でのデモを思い浮かべていただきたい。彼らのやっているのは、ターゲットが内閣であったり在日米軍であったりと言った違いはあるが、その中身は明らかにイジメである。徒党を組んで自分が気に入らないと考える存在を執拗に攻撃し、攻撃する相手に人権があるという感覚を持たないのみならず、同じ人間であるとすら考えていない。ただただ攻撃し、相手が逆らおうものならそれを以って自らを被害者であると主張する。こうした彼らに対して圧倒的大多数の日本人が支持を示さないのも、その頭の悪さと下品さに由来する。圧倒的大多数の日本人は彼らより頭が良く、そこまで下品ではない。
話を平安時代に戻すと、鳥羽上皇が平忠盛を一人の貴族として扱ったことに対する不平不満が渦巻いたのである。たとえば、大治五(一一三〇)年九月五日に鳥羽上皇が開催した和歌会は数多くの貴族が招待されたが、その中に貴族としての平忠盛がいた。このことに対し、貴族たちは鳥羽上皇の前だと言うのに平忠盛に対して公然と罵倒を繰り広げたのである。目の前で繰り広げられている罵詈雑言に対して鳥羽上皇は苦言を呈したが、自分たちを被害者だと考えている貴族たちは、自分たちに害を為していると、すなわち、彼らの言い分に従えば加害者であるということになっている平忠盛に対して、被害者としての抵抗を見せているにすぎないとして、平然としたのである。このとき、平忠盛はただ黙って耐えていたという。ただし、黙って耐えている父と同じ行動を、息子の平清盛もするようになるかは別の話である。このとき、平清盛一三歳。
このときの貴族の多くは藤原氏である。そして、彼らのほとんどは藤原摂関政治への回帰を願っているし、それは徐々に達成されつつあると考えている。
白河法皇の構築した院政という政治システムについては彼らも理解していたが、院政というものはあくまでも白河法皇個人の資質に基づいて構築した臨時の政治システムであり、鳥羽上皇が白河法皇の政治システムを継承したことは認めても、院政そのものが永続するとは考えていなかったのである。
彼らのその感情は、上流貴族の人事を見ればその通りであると結論づけられるであろう。上流貴族の人事という点で言うと、ただ一人、平忠盛という例外があるが、それ以外は藤原摂関政治の回帰がたしかになされている。
しかし、彼らには見えていない現実があった。
この時点の日本国の経済情勢だ。
藤原摂関政治全盛期と、大治五(一一三〇)年時点とでは、そもそも経済情勢が大きく違う。藤原摂関政治全盛期は、荘園といってもせいぜい全体の二パーセント、時代とともに増えはしたがそれでも一〇パーセント程度であり、残る大部分は荘園ではない公有地であり租税対象であった。それが、今や荘園でない土地の方が珍しく、かつては荘園であるか否かでその土地の評価としていたのが、今や、どの土地も荘園であることは明白である以上、荘園であるか否かではなく誰の荘園なのかが価値基準となる時代へとなったのだ。
さらに、荘園のランクで最上位に君臨するのが、藤原摂関政治の頃には存在しなかった院の荘園であった。かつては藤原氏や有力寺社が有力な荘園領主として君臨して莫大な資産を手にしていたのだが、今や院が最大の荘園領主であり、院が最大の資産家である。かつてであれば不足する国家資産の埋め合わせを藤原氏が行うことで藤原氏の権力行使につなげることもできたが、院そのものが資産を手にした以上、国家資産の不足を埋める第一選択肢も院になり、藤原氏でなく院が最大の外部権力となったのである。藤原氏が上流貴族の役職を占めていることは事実であるが、資産に基づく権力行使で言えば藤原氏は二番手へと衰退したのである。イメージで言うと、それまでずっと政権与党であった政党をはるかに上回る存在感を有する政党が誕生したと言うところか。
さらにもう一つ問題となったのが格差問題である。藤原摂関政治と院政期とで、どちらがより大きな格差のある時代かと言えば、藤原摂関政治の方に軍配が挙がる。白河法皇の政治を見ても、その父である後三条天皇の政治を見ても、格差解消に苦慮したことが窺えるし、実際に格差の縮小に成功してもいる。ただし、格差の甚だしさで言えば藤原摂関政治の方が酷いが、格差を乗り越える可能性で言うと院政の方が悪化している。後三条天皇はすでに荘園住民である者が得ている利権を剥ぎ取り、白河法皇は自身が荘園領主となることで既存の荘園住民の得ていた利権を多くの人にばらまいたことで格差を減らしたのだ。
格差は試験に似ている。試験とは、試験の合格者だけが勝者であり、不合格者は本人の努力の有無に関係なく敗者となることが決まる。この点で格差の決定と試験での合格不合格に似ている。その比較に喩えて言うなら、後三条天皇は試験の合格者を不合格とさせることで、白河法皇は不合格者を激減させることで、試験に似た格差決定を減らそうと画策したのだ。これが、自動車の運転免許のように合格者が何人いても構わないという試験であれば何の問題もなかったであろうが、社会における格差問題というのはそう簡単なものではない。
格差問題は解決しなければならない大問題であるが、同時に、本人の努力で手にした資産と地位を捨てさせて良いものでもない。同じだけの努力をした人が自分と同じ資産と地位を手にすることは受け入れても、自分より少ない努力で自分と同じ資産と地位を手にしたり、自分と同じ努力をした人が自分より乏しい資産と地位だからといって、すでに資産と地位を手に入れている人から資産と地位を取り上げたりすると、待っているのは平等ではなく不況である。努力が報われないというのは簡単に勤労意欲を失わせるし、イノベーションも簡単に消え失せる。格差が無く、誰もが豊かな暮らしであるというのは、聞こえはいいが、そんなものはあり得ない。それよりも、働けば働いただけ豊かになり、格差があっても本人の努力次第で乗り越えることができるという社会の方が豊かになる。格差の負け組であったとしても、全体が平等である社会の平均的な暮らしに比べればはるかに豊かな暮らしだ。そのような社会を壊してしまったのが後三条天皇であり白河法皇である。格差問題の解消を目的とした荘園制度の整理と引き換えに、日本国の経済は完全に崩れ去ってしまっていたのだ。
この経済情勢を無視して藤原摂関政治の再興を願っても無駄な話だ。一般庶民が藤原摂関政治の復活を願うことは見られたが、それは藤原道長の時代の豊かさを取り戻すことが目的であり、藤原氏が摂政や関白として、あるいは太政大臣や左大臣として権勢を振るうことを願っているのではない。それに、藤原摂関政治が政治システムとして復活したとしても、かつての豊かさを取り戻すためには荘園の割合をその時代に戻さなければならない。つまり、一度は手にした荘園住人という地位を捨てろと命じるに等しい。格差問題の解決が難しいのは、格差問題そのものよりも、格差を無くそうとして何かを与えたとき、それが間違いだとわかった後に、与えた何かを無効とする方法が無いという点にある。与えた権利や与えた資産を取り上げないと元に戻すことにはならないが、誰が、どうやって、どのように取り上げることができようか。しかも、与えてから一日とか二日とかしか経過していないというのではない。後三条天皇即位からカウントするなら大治五(一一三〇)年時点で六八年という歳月が経過しているのだ。生まれたときにはすでに持っていた資産と権利を、祖先に間違えて与えたのだから返せと言われて素直に返す者は、いない。
この時代において藤原摂関政治への復旧を願うというのは二つの意味において現実が見えていない意志であったと言えよう。一つは、藤原氏がすでに時代のトップランナーではなくなっているという現実、もう一つは、荘園がもはや制御できないレベルで増殖しているがために不況となっているという現実。そして、後者が現在進行形でもたらしている不況の解決を前者への着目で解決しようというのだから、二重の意味で現実離れしていたとも言える。
では、どうすべきだったのか?
時代の悪化を察知する声は多かった。そして、古き良き時代への回帰を願う声も多かった。ただしその声の中身は、藤原氏が政治権力を再び握ることではなく、藤原道長の時代の暮らしの豊かさを取り戻すことであった。つまり、藤原氏が政治権力を握る必要はなく、鳥羽上皇のもとに継承された院政のままでも構わないのである。結果を出すならば。
大治五(一一三〇)年時点の朝廷が採るべきであったのは、増えすぎた荘園を、それはそれとして放置した上で、荘園に代わる新しい努力評価システムを構築することであった。そんなことは可能なのか?
結論から先に記すと、可能。
努力評価システムというのは二つの観点がある。社会的地位と資産という二つの観点である。そして、この時代の朝廷ではこの二つが位階という客観的指標により密接につながっていた。努力すれば位階が上がり、位階が上がれば給与が増え、より上の役職が手に入る、すなわち、社会的地位の向上が図れる。これをより広く開放すれば良かったのである。庶民は無位無官でなければならないなどという法はないし、実際に、高くはないとは言え、また、応じた給与が必ずしも支給されていたとは限らないとは言え、位階ならば持っているという庶民は珍しくなかった。庶民に位階を配り、さらには努力に応じて位階を上げること、これはこの時代の法でも不可能ではなかった。
というところで視点を平忠盛に戻していただきたい。
平忠盛自身は桓武天皇の血を引いているし、国司も務めてきた実績も持っている。ゆえに、貴族の一員としてカウントされてもおかしくはない。おまけに、瀬戸内海の海賊を鎮圧したという功績を持っている。こうなると、貴族の一員なだけでなく、功績に応じた評価として位階が高まり、役職が高まり、給与が上がってもおかしくはなくなる。それを他の貴族が面白く思わないのは、彼ら貴族が平忠盛のことを武士だと、すなわち自分たちよりも格下の存在だと考えていたからで、法に従えば平忠盛が貴族であることのほうが正解なのである。
これがもし、平忠盛という一人の人間だけでなく、この時代のこの国の全ての人に適用されていたらどうなったであろうか? そう。平忠盛をモデルケースとして、誰もが平忠盛のように努力と功績に見合った結果が与えられるという仕組みができたらどうなるであろうか?
鳥羽上皇に対し、貴族たちから不平不満が聞こえていたのはその通りである。ただし、鳥羽上皇はその不平不満を受け入れなかったどころか、より強固になって推進した。平忠盛だけを特別扱いしたのではなく、既存貴族の特別扱いをやめたのである。その上で、努力し、功績を残せば、位階が上がり、地位が高まり、収入が増えるという仕組みが存在することを明らかにしたのである。これが鳥羽上皇の示した格差問題の対処法、より正確に言えば格差問題の短絡的解消を目論み生まれた社会問題への対処法である。
ただし、成功はしなかった。なぜか?
資産だけでなく、地位も世襲できるから意味があるのだ。自分が生きている間は努力に見合った結果が得られるが、自分の死後、自分の子や孫が自分の地位と資産を継承できず、子自身が、孫自身が努力して結果を出さなければ親や祖父と同じだけの資産と地位を掴めないというのは、正義感溢れる人にとっては推奨される社会状況であっても、現実的ではない。どのような家庭に生まれようと同じスタートラインから人生の競争が始まり、生まれ育った環境は何らハンデとならず、ただただ本人の資質と努力だけでその人だけの人生が定まるというのは、空想世界の話であって現実世界の話ではない。ましてや、この時代は親の社会的地位によって官界におけるスタートラインが上下する。父や兄が有力貴族であるならそれだけでポールポジションだ。
年が明けた大治六(一一三一)年一月五日、平忠盛の子の平清盛が、一四歳にして従五位上になった。武士の子の若き貴族入りは異例ではあったが、親の位階を考えればそれは順当なものであった。
この、親の位階を考えての順当と、武士である伊勢平氏の貴族界での振る舞いとの差異が、この時代の貴族たちの反発を呼び寄せた。
大治六(一一三一)年一月二九日、天承への改元が発令された。
この頃、一人の少年が着目を集めていた。
関白藤原忠通の弟で、兄の養子となっている藤原頼長である。
まずは元服時に改めた名が注目を浴びた。「頼長」という名は「御堂宇治殿御名字なり」という理由で選ばれた名である。「御堂宇治殿」とは御堂こと藤原道長と宇治こと藤原頼通の総称であり、古き良き藤原氏の時代を思い浮かべる人にとっての最高の時代を意味する語でもあった。
その名だけでも評判の礎となったが、この時点ではまだ一二歳という、現在の学齢でいうとまだ小学生の少年であるにもかかわらず、すでにその博識と学問の冴えも評判になっていた。いかに現在の学齢で小学生であろうと、元服を迎えている以上、大人として扱われてもおかしくはない。理論上は。本来ならば、いかに神童と扱われていようと、役人として、あるいは下級貴族として経験を積んでからでないと国司をはじめとする相応の役職に就けないものであるが、藤原頼長は関白の養子であるだけでなく、前関白藤原忠実の次男だ。ただでさえ藤原摂関政治の復活を望む声が多いのに、そこに飛び込んできた神童の知らせとあっては期待しないほうがおかしい。
もともと、関白藤原忠通の支持率はさほど高いものではない。何かをやらかして支持率を下げたというのではなく、何もしなかった、いや、白河法皇という存在に圧倒されて何もできなかったから、支持率が下がるのである。
支持率というのは本質的には経済情勢とつながっている。暮らしぶりが良くなったからと言って上がるとは限らないし、景気が悪くなったからと言って下がるとも限らないが、それはむしろ例外で、暮らしが良くなったと感じれば支持率も上がるし、暮らしが悪くなったと感じれば支持率は下がる。ここで問題となるのは、何を基準として暮らしの良し悪しを判断するかという問題である。よく見られるのは、昔の自分の暮らしぶりと現在との比較である。以前より暮らしが悪化しているという実感は、たとえ数字が否定しようと簡単に覆せるものではない。また、自分自身の経験だけでなく、親や祖父母の世代の暮らしぶりも比較対象として挙がりやすい。親や祖父母の歩んできた人生を自分は過ごせないのだと実感したら暮らしぶりの向上を感じることはできない。さらには、他者との比較がある。現在では国境を超えた土地の暮らしぶりも容易に把握できるようになっているから、より簡単に自分の暮らしぶりを比較できる。他国より自国の方が暮らしにくいとなったら、暮らしが良くなったと実感できはしないだろう。
話を天承元(一一三一)年の日本国に戻すと、他国との比較は容易ではなかったが、自分の過去との比較、そして、親や祖父母の代との比較はさほど困難ではなかった。そして一つの答えが出ていた。藤原摂関政治の最盛期の頃、この時代の人たちが「御堂宇治殿」と称していた時代の暮らしぶりがピークで、それから後は落ちてきているという答えである。無論、その原因の全てが白河法皇の展開した院政にあるわけではないが、院政という人災が暮らしを悪化させているという認識はこの時代の庶民に形成されていた。そして、白河法皇院政期の関白である藤原忠通に対する不満が不支持へとつながっていたのである。
それでも、これまでであれば藤原忠通を選んでいた。何しろ藤原摂関政治の正当な後継者だ。藤原摂関政治の復活を望むなら、白河法皇院政の継続になろうと藤原忠通が関白であり続けることを選ぶしか選択肢がなかったのである。現在でも見られる「代わりがいないから現状維持を選ぶ」形式での支持だ。
ところが、そのタイミングで、神童藤原頼長の登場である。さすがに一二歳の少年では実績などあるわけないが、実績なき少年であるからこそ未来への期待が持てたのである。甚だしいのになると、藤原忠通の政界引退と同時に藤原頼長を関白に推す声まであったのだから、もはやこれは異常事態であろう。
この若き貴族に対する期待に、鳥羽上皇は目に見える形で応えた。
まずは位階だ。一二歳にして従四位下である。
次は役職、役職と言っても名誉職なところはあるが、伊予権守に任命している。伊予守であれば、伊予国司として、伊予国、現在の愛媛県の統括を職掌とするが、権守だと国司としての職務はほとんど無く、名誉職である。
ところが、この名誉職であるはずの伊予権守の役職を、少年は名誉職に留めることのできないレベルでこなすのである。具体的には荘園だ。荘園の許認可権は国司にある。その許認可申請を藤原頼長が却下したのだ。
荘園という格差の代名詞に対して、この時代の人たちが抱いていた思いは「けしからぬ存在」である。自分自身が荘園の住民であり、かつ、自身の所属する荘園が対象となるのでない限り、荘園が取り締まりを受けるというのは、経済的損失はともかく感情としては溜飲の下がることであり、その溜飲の下がることを一二歳の少年がやったというのは拍手喝采のニュースとなったのである。
この決断で獲得した庶民の支持は、自らを天才と考える一二歳の少年にとって自尊心満たし、増幅させるに充分なものであった。古今東西、自分のことを天才と考える者は数多い。その中には本当に天才である人もいるが、多くの場合は天才であると自称するのみで中身の伴っている人物ではない。無論、天才を自称する人自身もそのことを知っている。ただし、同時にこうも考えている。天才を自称する人のうち本当に天才なのは一握りであるが、自分はその一握りに含まれている、と。経済不振から来る社会情勢の悪化を考えたとき、天才を自負しながらそれを無視することはありえない。それが社会科学にいかに無知であろうと、いや、無知であるからこそ、天才である自分ならば自身の知力で問題を解決できると考える。傍目には何とも図々しい考えに感じるが、その考え自身は珍しいものではない。日常生活を過ごしていれば、誰であれ、身の回りを見渡すだけでそういう人は見飽きるほど目に映るものだ。ましてや、藤原頼長は一二歳の少年である。このぐらいの年代の少年は自分に対する万能感が強い。
世の中の悪事を愁い、その中でも大問題の一つである格差問題を憂慮する人は多い。憂慮しない人を探すほうが困難なほどであるし、そのために政界に身を投じる人も珍しくない。ところが、実際に解決方法を打ち出せる人は少ない。少ないのは当然で、そのようなものがあるなら既存権力者がとっくに実現させているのである。
しかし、自己を天才と考える者はそうは考えない。政権担当者の知力が劣っていると一刀両断して終わりだ。その上で、天才である自分なら問題を解決できると考えている。ただし、実際にどうやって解決するのかというアイデアは、ゼロではないが、かなり乏しい。アイデアを掲げたところで、そのようなアイデアなどとっくに失敗例として積み上がっているだけのことなのだ。それでもアイデアを述べるならばまだマシと言える。画期的なアイデアそのものがなく、現政権を批判するのみで政界に飛び込もうとするのもよくある話だ。批判しかできない者も、悪意を持って政界に飛び込もうとしているのではない。彼らとて現状の問題を憂う人ではあるのだ。憂う人ではあるのだが、解決策が思い浮かばないというのが現状だ。現状を憂いながら現状の問題を解決できないことへの苛立ちは、やることなすことにケチを付ける空虚な批判に終始する人間へと向かわせ、さらには、惹きつける何かがあればすぐに飛びつく人へとなる。
惹きつける何かとは何か?
これには二種類ある。机上の空論と、空想上の過去だ。前者を左翼、後者を右翼としてもいい。現状を憂う人はどうすれば現状を改善できるかを考えるものであるが、答えを出せずにいるのが通常態だ。というときに机上の空論や空想上の過去が答えとして明示されたら、いかにもな答えを見つけた、かのように見える。特に自分を天才と自負する者はその度合いが甚だしい。これは一二歳の藤原頼長も例外では無かった。
一二歳の藤原頼長が魅了されたのは律令だった。藤原摂関政治が否定してきた律令制を、よりによって藤原氏の次期当主と目論まれている一二歳の少年が理想と考えるようになってしまったのだ。律令制の精神が汚されたことが現在の苦境の原因であり、律令制へ回帰を果たせば現在進行形の社会問題を解決できると少年は考えたのである。それがもたらす意味を気づくことも無いままに。
一二歳の少年が拍手喝采に包まれたことで、実の兄であり、かつ、養父でもある藤原忠通は苦境に追い込まれた。無理もない。藤原忠通は、父の藤原忠実のエラーと、今は亡き白河法皇の失政によって生じたマイナスの両方を同時に挽回することを求められ続けていたのである。しかも、エラーの挽回に失敗していた。特に白河法皇の政策そのものによって失敗し続けていた。白河法皇の失政を挽回するには白河法皇によって権利と権力を得た者からそれらを取り上げねばならないが、そんなものは余程の例外だ。トマ・ピケティが二〇〇一年に著した「格差と再分配:二〇世紀フランスの資本」(邦訳二〇一六年)で挙げた第二次大戦直後のフランスはその余程の例外の一つであるが、隣国に全国土を占領され、やっと解放となったというタイミングで住まい以外の全てを失った人に住まいを失った人のことを考えさせるという、よく言えば冷徹、悪く言えば残酷なことをできる人は少ないし、それを可能とする社会情勢はもっと少ない。
この時代の人たちもわかっていたのだ。荘園制が格差の根源であるが、荘園制があるからこそ自分はいい暮らしをしているのだと。ただし、この時代の人たちも格差は大問題と考えていたが、そこで考える格差問題の解決策とは自分が自分よりも恵まれている人と同待遇になることであって、自分より恵まれていない人が自分と同待遇になることではない。ましてや、そのために自分の負担が増やされるなど断じて認められないとも考えている。問題解決を求めるが負担は引き受けたくないという思いは、現政権への非難と、まだ見ぬ新政権の待望につながる。それも、まだ見ぬ新政権に数年前まで自分たちが非難していた人物が含まれていても躊躇しない待望論につながる。
伊予権守として荘園を取り締まった藤原頼長への期待は、藤原摂関政治の正統な後継者であるという要素も伴って膨らんだ。突如現れた一二歳の少年に希望を託すほどになってしまったという言い方もできよう。実の父である藤原忠実が宇治の地に隠遁しているのも、現政権から距離を置いているというプラス要素になった。藤原忠実への評判は惨たるものがあったが、それでも永年勤続のキャリアならばある。頼りないとされていながらも最低限の政策をこなしてきた実績については存在する以上、藤原忠実という人間の再評価も促されてきてはいたのだ。もっとも、この再評価には藤原忠通への悪評も含まれていたのであるが。
鳥羽上皇は庶民の期待に応えるように、天承元(一一三一)年八月一七日、藤原頼長を越前国司に任命した。越前国といえば国司を目指す貴族にとって一大目標となっている国である。琵琶湖と日本海とをつなぐ地点の統治を職掌とするのだから、領域内の統治だけでなく領域外の、さらには日本海の向こうの国々に関する情報収集と連絡も求められるという重要な職務であるが、同時に、得られる資産も大きい。国司を任期まで勤めあげれば一生分の資産を獲得できると言われていた時代にあって、越前国のそれは、この時代の国内総生産第一位の美濃国のそれと同等、あるいは美濃国以上と見られていたのである。その越前国司に一二歳の少年を任命したというのだから、ある者は何たることであるかと驚愕し、またある者は来たるべき明るい未来への希望を見出した。
年が明けた天承二(一一三二)年一月三日、何の前触れもなく一人の人物が朝廷に姿を見せた。
宇治に隠遁していたはずの前関白藤原忠実である。
もっとも、その兆候は前年のうちから見えていた。まず、天承元(一一三一)年一一月九日、近衛府から藤原忠実の随身が派遣されたのである。現在で言うと要人警護のSPだ。従一位という人臣最高の身でありながらこれまで随身がいなかったのかと言われても、藤原忠実の位階はいかに高かろうと役職には就いていない以上、役職に連動する随員もいないのは、実質上はともかく、理論上はおかしなことではない。ただ、理論上はその通りでも、左大臣藤原家忠と右大臣源有仁の二人に匹敵する位階の人物だ。ここで随身が派遣されたのは、むしろあるべき姿に戻ったというべきであろう。
ただし、一二月一七日に非公式ながら鳥羽上皇のもとに姿を見せているとなると話は変わる。非公式と言っても派遣された要人警護の随身たちが周囲を固めているのだから藤原忠実が公的に移動したことは周知の事実になる。これで何も起こらないと考えたとすればその方がおかしい。
その答えが出たのは、藤原忠実が鳥羽上皇のもとに姿を見せてから七日後の一二月二四日のこと。越前国司藤原頼長に対して従三位の位階が与えられ、同時に右近衛中将にも就任した。ただし、三位になれば手にしていてもおかしくない参議の役職をこの時点の藤原頼長は得ていない。さすがに一二歳で参議という議政官の一員の地位を与えるには躊躇したと言うこともあるだろうが、藤原頼長自身の性格もここにあったろう。すでに述べたように藤原頼長は律令制への回帰を目指している。自分が越前国司であることは律令制における貴族として何らおかしなことではないし、越前国司がその功績を認められて従三位に昇格することも律令の上では認められることである。しかし、越前国司でありながら議政官の一員になることは受け入れられなかったのだ。だったら右近衛中将との兼職はどうかと言うことになるが、越前国という日本海沿岸の警備と日本海の向こうの国々との折衝も職掌とする職務にある者が、右近衛中将という武官の地位を兼任することはおかしなことではなかった。最前線にあって、いざというときに国の軍事力を動かせるというのは、不合理どころか、極めて合理的な話である。
藤原忠実が姿を見せた頃の議政官の構成は下記の通りである。
かつて藤原北家から最大氏族の座を奪い取った村上源氏は五名に減っている一方、過半数を割り込んだはずの藤原北家は物の見事に復活している。
上記の表で注目していただきたいのはこの表に藤原忠通がいないという点である。この時点の藤原忠通の役職は関白のみであり、大臣ではない。すなわち、議政官の一員ではない。事実上はともかく、理論上は法を作る会議に参加する権利を持たない。この時代の貴族の序列を示す公卿補任では先頭に載っているのだから権力と無関係とは断じて言えないが、藤原忠通は関白としての職務を遂行することはできても、律令に定められている権力で職務を遂行することはできないのである。
では、関白とはどういう役職であるのか?
天皇の相談役である。摂政と違って、書類にサインをしても、あるいは印鑑を押しても、全くの無価値とまでは言わないが、法的効力を得るわけではない。議政官の審議を経て上奏されてきた法案が効力を持つのは天皇の御名御璽が必要であり、これが摂政であるなら摂政のサインと印鑑で天皇の御名御璽の代わりとすることができるが、関白のサインや印鑑は、法案を正式な法とするための一連の手続きのどこにも無い。
天皇の職務のうち、関白が代理を務めることが許されているというケースで天皇の代理を務めることはあるが、その頻度も摂政ほど多くはない。
ただし、関白のみに与えられている特権は存在する。国政における情報を誰よりも先に目にすることができるという特権であり、この特権のことを内覧と言う。
とは言え、内覧は関白になれば自動的に手にする特権というわけでない。一方、関白でなくとも内覧の権利を持つという先例も存在する。たとえば藤原道長は、藤原道長は自身の日記が「御堂関白記」と呼ばれるほどの人でありながら、生涯、関白を務めたことはない。それでいて、内覧の特権は最大限に生かし続け、内覧の特権を最後まで保持し続けていたのである。一般に、まずは内覧の特権を与えて、次いで関白の役職を与えるという手順を踏むので、藤原道長は内覧の特権を得た段階で自身の出世をストップさせ、ついに関白に就くことなく人生を終えたこととなる。
この先例が、天承二(一一三二)年一月一四日に蘇った。
鳥羽上皇が、内覧の特権の所有権を、関白藤原忠通から、この時点で無役職となっている藤原忠実に変更すると発表したのだ。一見すればこれは先例の復活であるが、もう一面を見ればこれは前代未聞であった。
藤原道長は内覧の特権を得ながら、およそ二〇年間に渡って左大臣であり続けた。ただし、その間、誰かが関白を務めたわけではない。関白は空位で、ただ、内覧の特権だけが関白ではない藤原道長のもとに存在したのだ。しかし、このときは関白が存在している。藤原忠通という関白が存在していながら、内覧の特権が関白ではない者の手に渡ったのである。
この不明瞭さを当時の資料も困惑を伴って記している。前述した公卿補任において貴族のトップに記載されているのは関白藤原忠通であり、内覧の特権を得た藤原忠実は、役職順に記されている公卿補任において、三位以上の位階を持ちながら役職を持たぬその他の者の中の一人として記されているにすぎない。複数いる役職なき貴族の中では最初に登場するが、そこでは第一線を退いた前太政大臣と記されているのみで、前関白であることと、天承二(一一三二)年一月一四日に内覧の特権を得たことは、ともに小さく備考として記されているにすぎない。内覧の特権という備考の有無の違いはあれど、この記し方は藤原忠実が宇治に隠遁してからずっと続いており、これまで通り宇治に隠遁していれば公卿補任の記載方法と何ら齟齬は起こらなかったであろう。しかし、内覧の特権を得て鳥羽上皇のもとに姿を見せただけでなく朝廷にも姿を見せたとなると、複雑な話になる。
藤原摂関家のトップをめぐる争いが混沌としていた頃、この時代の貴族たちの注目を集める一つの出来事があった。正四位下備前守平忠盛が鳥羽上皇御願の得長寿院を完成させつつあったのである。貴族がいかに裕福であろうとも、寺院を一つ完成させるというのは簡単な話ではない。おまけに、得長寿院には十一面観音をはじめとする一千体もの仏像が奉納されている。得長寿院は現存していないが、現在も残る三十三間堂とほぼ同規模の寺院であったことは当時の資料から確認できる。
自分たちより格下に考えていた人物が、これだけの寺院を個人資産で作り上げたとなると、良くて感嘆、あとは嫉妬から生じる怨嗟を呼び起こす。この頃、貴族たちは平忠盛をこのように嘲笑し、嫉妬と怨嗟を慰めていた。
「いせへいじはすがめなりけり」と。
英語のポットに対応する漢字は二種類あり、一つは壺、もう一つを甕という。甕と書いて「かめ」とも「へいじ」とも読む。この二つは何が違うかというと、注ぎ口が容器の最大直系の三分の二未満、つまり、注ぎ口が細くなっていれば壺(つぼ)であり、三分の二以上、つまり、注ぎ口が広ければ甕(へいじ)となる。この時代、伊勢国で作られている甕(へいじ)はあまり質が良くなく、特に保存能力が低いために、慎重な保存を要する酒ではなく、保存能力が低くてもどうにかなる酢の保存に用いられることが多かった。「いせへいじはすがめなりけり」を文字通り解釈すれば、伊勢国の甕(へいじ)は質が低いので酢の保存ぐらいにしか役に立たないという悪評である。
が、ここに二重の意味が存在する。
「伊勢甕は酢甕なり」ではなく、「伊勢平氏は眇なり」ともなるのだ。
平忠盛は先天的に両目の視線が揃わない斜視であった。現代でもおよそ三パーセントの人が先天的に斜視であり、視力の矯正や手術で治療できるが、この時代、そのようなものはない。そして、人の外見を、それも生まれながらの外見を嘲笑う対象にするのは知的レベルの低い下品な人間によく見られることであるが、平忠盛を嘲笑しようという貴族はまさにそれに該当した。「斜視」は「眇(すがめ)」とも言う。伊勢国の甕(へいじ)の質の悪さを言うだけであると彼らは言うであろうが、そのような言い逃れが通用するほど世の中甘くはない。誰もが、平忠盛の外見を嘲笑していると感じたのである。
天承二(一一三二)年三月一三日、得長寿院落成。同時に平忠盛の昇殿が許された。
昇殿とは、内裏の清涼殿にある殿上の間に昇ることが許されることであり、三位以上の位階を持つ、あるいは参議以上の役職を持つ者は全員が無条件で許されていたが、そのどちらでもない者は天皇の許可があってはじめて許された。つまり、昇殿が許されること自体が上流貴族であることを意味する特権であり、武士である平忠盛が許されたというのは、自分を武士よりも格上の存在と考える貴族たちにとって、自分たちの世界に格下が入り込んでくることを意味するのである。
それでもこのときはまだ平穏無事であった。いや、平穏無事に見えていた。
嫉妬や怨嗟は理屈でどうにかなるものではない。客観的指標を示して、自分の方が上だという前提を思い上がりであると証明しようとしたところで、嫉妬や怨嗟の根源である自己優越感は覆せるものではない。だからこそ、嘲笑のネタを探して、絶好のネタを見つけて、笑っていたのである。
それでも殴り合いになったら勝てるかどうかはわかる。自分の方が上だが殴り合いだと負けるという感情を持ったままでは、本来の意味での平穏無事とはならない。ただし、殴り合いで負けると思わせ続けることに成功するなら、本来の意味と同じ結果としての平穏無事を手にできる。
平忠盛が選んだのはこの方法であるが、それはもう少し後の話となる。
天承二(一一三二)年という年は、前年からの不作による食糧不足の年であった。と同時に、疫病が流行した年でもあった。この二つの順番はわからない。食糧不足が栄養状態を悪化させて疫病への抵抗を落としたのか、疫病が労働人口を減らして食糧生産を落としたのか、それはわからない。
わかっているのは、この二つが同時に社会を覆ったということである。
院政の創始である後三条天皇の荘園整理は食糧生産性を悪化させていた。
荘園内の全ての産業を荘園住民だけでこなすことなどそもそもできるものではない。そこで、荘園住民以外の力も借りて農業をはじめとする荘園内の産業を成立させていたのだが、荘園整理は荘園以外の住民という概念を減らした。つまり、人手不足だ。この時代の記録を紐解くと、農地をはじめとする荘園は増えている一方で、人口増加は荘園増加に追いついていない。つまり、産業あたりの人口は減っている。現在のように機械科の進んだ時代ではないから、産業あたりの人口がそのまま産業の生産性に直結する。結果は、産業生産性の低下、特に、農地をはじめとする食糧生産生の低下を招いた。
かといって、元に戻すこともできなかった。これは格差問題なのだ。恵まれている荘園住民と、荘園以外の住民という恵まれない存在との格差問題なのだ。そして、格差を無くすことを最優先に掲げているのが荘園整理なのだ。荘園整理で産業生産性が落ちたからといって荘園生理前の格差を復活させるわけにはいかない。
というところで天候不順が加わる。藤原道長の時代と比べて明らかに寒冷化してきている。寒冷化してきているのは日本国だけではなく全世界的に寒冷化が進んでいる。寒冷化のせいで農作物の収穫が減り、減った食料の穴を埋めるべく、他の土地への侵略を繰り広げている。ユーラシア大陸の西に目を向ければノルマンコンクエストがあり、中東に目を向ければ十字軍があり、東に目を向けると後のモンゴル帝国の萌芽が見え、宋は領土を半分に減らして金が中国大陸の北部を支配するまでに至った。
荘園整理に加えて天候不順もあったせいで、藤原道長の時代を一〇〇とすると、この時代の食糧生産性は九三にまで減ってしまっている。その上、人手不足のせいで、一人当たりの労働量が増えている。同じだけ働いても得られる収穫が減ってきただけでなく、以前以上に働いても以前より少ない収穫しか残せなくなってしまっているのだ。
この問題に朝廷は無力だった。天承二(一一三二)年八月一一日、長承への改元が発表された。そこにははっきりと、疫病、および、食糧不足対策のためと謳ってある。何とかして吉兆と結びつけることも珍しくないのに、はっきりと凶兆を改元の理由にあげたのだから珍しいとするしかない。ついでに言えば、天承へ改元したその翌年にまた改元したというのだから二重に珍しい話である。
改元から間もなくの長承元(一一三二)年九月二四日、鳥羽上皇が宇治に行幸した。ただの旅行ではない。鳥羽上皇の院政の中心勢力がどのような面々で構成されるかの世間へのアピールであった。
宇治で鳥羽上皇を出迎えたのは藤原忠実であり、鳥羽上皇の周囲を固めているのは、現時点で議政官の一員となっている者ではなく、平忠盛と同時に昇殿の許された若手貴族たちであった。この面々が鳥羽上皇院政における側近である。藤原忠実一人が五五歳という高齢であり、あとの貴族たちは一人を除いて皆若い。その一人というのは、このとき三六歳になっていた平忠盛である。
平忠盛は武士でありながら昇殿を許されたとして大いに注目を集めたが、実は、同時期に昇殿が許された者は平忠盛一人ではない。少なくとも一三名が昇殿を許されている。平忠盛が武士であるという点がこのときの昇殿で特筆されたが、本来ならもう一つ、特筆されなければならないところがあった。貴族たちの若さである。平忠盛一人が三六歳というこの時代で言えば壮年であったのに対し、他の面々のほとんどは若手貴族であったのだ。昇殿が許されることそのものが若手貴族の通過儀礼なところもあるが、それを加味しても、鳥羽上皇の周囲を見ると世代交代という言葉以外の形容が浮かばないほどである。
鳥羽上皇はなぜ若手の貴族を抜擢したのかだが、理由は簡単だ。新しい時代を作り出そうというとき、野心あふれる若者を呼び寄せることは珍しくない。おまけに、この時点の議政官は最年少の右大臣源有仁でも三〇歳であり、議政官の平均年齢は五〇歳に近い。この既存権力との違いをアピールするのに自分たちの若さを使うというのは有効な手段となった。
新しい政権を作り出そうというときに若さを前面に打ち出すというのは、常套手段であるとはいえ、危険性もはらんでいる。若さの敵は古さだ。そして、人は自分の古さを容易に認めようとはしない。自分が中高年であるという意識、自分が高齢者であるという意識は、知識としては存在していても、深層心理としては存在していない。若さを前面に打ち出すということは、自分の深層心理が全否定されることを意味するのだ。それまでは自分が若者であり既存権力を打倒する側だと考えていたのに、ある日突然、自分よりも若い者が現れ、自分を打倒しようと行動するようになるのを目撃する。これで平然としていられようか。
若さへの反発は下克上に対する反発とほぼ同じである。自分よりも格下に考えていた存在が自分を追い抜こうというのである。理屈でいかに自分を納得させようと、追い抜かれるのだという現実を受け入れることは難しい。
長承元(一一三二)年一一月二三日、受け入れることのできない現実を直視させられたことに対する反発が最悪の形となって現れた。
現在でも一一月二三日は特別な日である。勤労感謝の日として祝日となっている。
一一月二三日を特別な日とするのは近年に始まったことではなく、少なくとも飛鳥時代にまで遡ることができる。もっとも、正確に言えば一一月二三日ではなく、日付を十干十二支で表したときの二番目の卯の日であり、一一月中旬の特定の一日という言い方の方が正しいか。
この日に宮中で開催される行事を新嘗祭(にいなめのまつり)という。現在は新嘗祭(にいなめさい)という呼び方をするが、意味するところは同じである。その年の収穫を天皇が神に感謝する儀式であり、明治維新後に新暦が導入されたときに新嘗祭の日が新暦の一一月二三日に固定され、現在の勤労感謝の日へとつながった。
この時代の一一月中旬は旧暦で記すから一一月の後半であり、現在のカレンダーに直すと一二月後半から一月初頭、つまり、真冬である。この真冬に開催される宮中行事で一つの陰謀が発覚した。
平忠盛暗殺計画である。
平忠盛は昇殿を許されている身であり、天皇が宮中で行う行事に参加することが許されている身である。この、昇殿が許されているという場面を利用して、犯行者たちは平忠盛を暗殺しようと計画したのである。さらに言えば、新しく昇殿が許される身になった者に対し、新嘗祭において闇討ちをすること自体は以前から何度も起こっていた。これは平氏に限らず源氏や藤原氏でも同様で、物騒な定例イベントであることは認めても、闇討ちが起こることそのものは予定通りのことではあった。その定例イベントが暴発して死者が出ることとなったとしても、問題ではあっても不幸な出来事と片付けられる可能性が高かったのである。
とは言えこれは杜撰極まりない計画であった。
昇殿を許されているのは貴族本人である。貴族の周囲を固めるボディーガードがいたとしても、ボディーガードが入っていけるのは直前までであり、新嘗祭に臨席できるのは本人だけだ。平忠盛の暗殺を図るとき、ボディーガードのいない場所というのは襲撃する側にとって好都合であったとしても、襲撃する側、すなわち犯行者というのは他ならぬ貴族自身となる。ただでさえ血が流れることを嫌悪しているのが貴族というものだ。理屈の上では殺害を理解できても、人を殺すということは深く理解できていない。一方で、平忠盛は武士である。さすがに人を殺して平然としていられるなどという人間ではないが、経験している場数が違う。
おまけに、このような物騒な知らせに関する情報網を平忠盛は持っている。いや、武士であれば誰もが持っている。自分が暗殺される可能性があるというのに平然としていられるわけはない。
平忠盛は刀を持参して宮中に参内した。さらに、貴族たちの面前で刀を抜いて、刀で自分のヒゲを剃っているかのような仕草まで見せたのである。これで貴族たちの暗殺計画は終わった。いかに一対多であると言っても、戦場を駆け巡った経験が豊富なだけでなくまさに刀を抜いている平忠盛相手では、数を頼りに暗殺を試みようとしても通用しない。
もっとも、平忠盛暗殺計画とは言うが、そもそもどうやって殺害しようとしたのかはわかっていない。もしかしたら素手で殴り殺そうとしたのかもしれない。
どう言うことか?
参内するとき、刃物を持ち込むことは禁止されているのである。拳銃などない時代、誰かを殺そうとするのに最も使われたのが弓矢、次いで刃物であるが、その双方とも本来なら平忠盛は持たないはずであった。だから人海戦術でどうにかなると考えたのかもしれないが、持ってはならないはずのうちの一方である刃物を平忠盛が持っているとなって、一瞬にして暗殺計画は頓挫したのだ。
ただし、暗殺計画は頓挫しても、平忠盛の社会的な抹殺はできると考えたようで、貴族たちは崇徳天皇と鳥羽上皇に、平忠盛が禁止されているはずの刃物を持ち込んだことを訴え出たのである。律令に従えば追放刑だ。
無論、平忠盛がそれを知らないわけではない。知っていて刀を持参したのである。それだけではない。平忠盛は自分が持参していた刀を貴族たちに見せたのである。
持ってきてならないのは刃物であって、平忠盛の持ってきた刀は違法ではなかった。どういうことか? その刀は木刀だったのだ。本来の刀であれば刃がある部分に銀箔を貼っているから遠目には刃物を持ち込んだかのように見える。しかし、よく見ると銀箔だとわかる。そして、木刀の持ち込みであれば律令違反ではない。
平忠盛が機転を利かせて危機を回避したことに貴族たちは悔しさを隠せなかったと言うが、平忠盛の身に危機が迫ったこと自体に悔しさを隠せなかったのが平忠盛の子の平清盛だ。すでに貴族の一員とカウントされている平清盛は、伊勢平氏の誰よりも朝廷における平忠盛の処遇を目の当たりにしていた。
父が貴族たちにどのような仕打ちを受けたか、あるいは現在進行形でいかなる仕打ちを受けているかを、平清盛は嫌という程知っている。
このような仕打ちを受けていると知っていて、こうした貴族たちに尊敬の念を示すとすればその方がおかしい。平清盛の心の中に到来したのは復讐心である。貴族たちへの復讐心が平清盛の心中を支配することになったのである。
とは言え、忘れないでいただきたいのは、このときの平清盛はまだ一二歳の少年であったということである。貴族たちはそれなりの年齢の、よく言えば青年、素直に言えば中年である。現在の感覚で行くと、小学六年生の少年が二〇代から五〇代の大人の集う場所に放り込まれたわけである。
このぐらいの年齢の者は難しい。自分は大人だと思うが周囲は大人だと思わない。かといって子供扱いするような年齢でもない。身長差がさほど見られるわけでもないし、言うこともやることも大人扱いされたとしておかしくない内容だ。と同時に、幼稚性もある。言うことややることで反発を抱くとしても、幼稚性由来とあれば耐えることも不可能ではない。不可能ではないが、大人がやったときとほぼ同様の被害を生じさせる。おまけに、平清盛は自分のすることを父が受けた、そして自分が受けた被害に対する復讐であると喧伝するから、止むことはない。
復讐は何も生まないという言い方があるし、同意もする。ただし、それは第三者の意見であって、復讐を果たそうとしている者にとっては余計な忠告でしかない。ましてや、自分のことを正しいと信じ込んでいる一二歳の少年が相手だ。復讐を果たした後ならば意見として受け入れることはあるだろうが、復讐を果たすまでは復讐を止める言葉の全てが迷惑になり、邪魔になる。また、これは年齢と関係ない話であるが、復讐をしようとしている者は自分のことを被害者だと考えている。犯罪があり、犯罪の加害者が犯罪を悔いることなくいることが許せないと考えているのだ。そして、自分のすること、あるいは、しようとしていることの全てが被害者の抵抗であり、全て許されるという考えを持っている。
貴族たちへの反発を隠すことは無かった平清盛であるが、それでいて、異例の若さで貴族界に身を投じている。父の海賊討伐に対する褒賞として位階が上がったからで、位階を得た一族のトップ後継者とみなされている若者に、しかも京都に居を構える者に、貴族界に出入りしないという選択肢は、無い。だからこそ、一二歳という若さで貴族界に姿を見せるようになった。
想像していただきたい。貴族たちへの復讐心に燃える若者が貴族界に入ってきているのである。しかも、一二歳という異例の若さで。
有力貴族でもここまでの厚遇はない。だからか、平清盛は平忠盛の子ではなく亡き白河法皇の子であるという噂さえ登場するほどであった。そして、平清盛がこの噂を耳にしてどのように感じたかは容易だ。自分は尊敬する父の息子ではなく白河法皇の子であると、すなわち、母の不貞で生まれた子だと言われているのである。これで怒りを抑えることができようか。繰り返すが、このときの平清盛はまだ一二歳の少年だ。
一方、怒りを隠せないだけでなく自分たちへの復讐を公言してはばからない平清盛のことを貴族たちが快く受け入れるであろうか? スタートは自分たちが平清盛の父に対してしてきた仕打ちであり、あるいは平清盛を傷つける噂であるとは言え、自分が被害者になることを快く思う者はいない。ついでに言えば、貴族たちは自分たちが平忠盛にしてきた仕打ちについて何かしらの問題があるとは全く思っていない。彼らに言わせれば、自分たちのしてきたことは、自分たち上流階級の世界に対して格下の者が入り込んできたことに対する正当な行為であり、褒められこそすれ貶される謂れはないのである。噂についても、そうでなければ自分たちの自我が保てないという、第三者にとっては理解できないが当人にとっては極めて重要な意味がある。平清盛が見せるようなそれらに対する反発は、貴族たちの立場に立つと許されざる犯罪であり、自らは被害者以外の何者でもないと考える。
互いが互いを被害者と考え、互いが互いに被害者としての正当な抵抗をすべきと考える。この二つの思いが交差すると何が生まれるか?
一触即発の事態である。
平清盛はまだ一二歳の少年であるといっても、伊勢平氏のトップの後継者であり、いざとなれば伊勢平氏の軍事力を動員できる立場なのである。こうなると、一二歳の少年だからといって侮ることはできない。
一二歳の少年だと侮ることができないのは伊勢平氏の軍事力を操れる可能性があるという点もあるが、この少年はもう一つ、トップに立つにふさわしい資質を身に付けていた。
それは、部下への思いやりである。
武士団というのは現在の組織的な軍隊と違うとは言え、基本的にはトップダウンの、それも年功序列ではなく実力順でのピラミッド型をした組織である。その組織において、平清盛は、武士としての実力ではなく父が平忠盛であるという一点で高い地位に身を置く立場になっていた。となると、実力も自分より上、そして、年齢も自分より上の部下がいるのもおかしくない。
伊勢平氏の武士団の武士にとって平清盛は、尊敬する平忠盛の息子であるから高い地位にあるというのは納得していたのであるが、その納得が、より高い忠誠を伴った納得になってきたのである。
何をしたのか?
平清盛は部下を全力で守ったのだ。
武士団に限らず、組織のトップや中間に立つ者は、部下のミスに直面することもあるし、部下の失言に直面することもある。部下が外部とトラブルを起こすこともある。このとき、平清盛は誰よりも先に駆けつけ、ミスを咎めるどころか、ミスの原因となった身体の不調を心配し、トラブルで伊勢平氏側に非があれば代表として頭を下げ、非がないとなれば部下に代わって全力で相手に立ち向かった。
雪が降りしきる中の警備は寒かろうと衣類を買って与え、幼くして伊勢平氏に仕えている子を見れば兄が弟を守るかのように接し、本来ならば厳罰になるであるはずの居眠りですら居眠りするほどの疲労を溜め込んでいるのだと考え、病気や怪我で横になっている者がいれば薬を手配し、平清盛本人が見舞いに足を運んだ。部下が幼い子を残して亡くなったとき、平清盛が幼い子の育ての親になると誓い、実行した。この時代の常識では、貴族の元に仕える人はその貴族のことを気に掛けるが、貴族の側は気に掛けることがない。部下が病で倒れたという知らせを受けても無視するか、あるいは不吉なことを言うなという罵倒の言葉が飛び出るのが当たり前であった時代に、平清盛は違っていたのだ。
くりかえすが、これらは全て、一二歳の少年がしたことである。父が尊敬する平忠盛だから自分たちの上に立つと考えた武士はもういなかった。平忠盛の子であると同時に、尊敬する上官としての平清盛を彼らは見たのだ。
伊勢平氏に何が起こっているのかは、この時代のほとんどの人が知っていた。だからこそ、一二歳の少年だと侮ることができなかったのだ。
平清盛を伊勢平氏の次期後継者と見る人は多かったが、それはやがていつかは後継者となるであろうという話であり、今すぐ後継者になることは考えられなかった。平忠盛に何かあったとき、伊勢平氏のトップに立つのは、平忠盛の弟で、この時点では右馬助(うめのすけ)、すなわち、朝廷の騎馬の責任者である平忠正であると考えられていた。朝廷における騎馬の責任者は、単に馬の飼育だけをしていればいいというものではない。オートバイも乗用車も無い時代おいて馬を操って弓矢を駆使する武人というのは、朝廷のボディーガードとして極めて重要な位置にあっただけでなく警察権力の一翼も担っていたのである。現在で言うと警視庁の機動隊の隊長と言ったところか。
その評価が、平清盛の脚光によって一変した。やがていつかは平清盛がトップになるであろうという評価から、今まさに平忠盛に何かがあったとしてもやはり平清盛がトップに立つべきだという評価に上がったのである。その一方で、平忠正は伊勢平氏を構成する武人の一人であり、伊勢平氏のトップに立つ器ではないとまで扱われるようになったのだ。
平清盛が脚光を浴びると同時に、平忠正の記録はだんだんと減ってくる。それまで右馬助(うめのすけ)であったのがいつの間にか解官され、鳥羽上皇の命令によって朝廷から追放されたという記録ならば残っている。それからは藤原摂関家の周囲に仕える武士として名前だけが記されるようになり、ときおり藤原頼長の日記に登場するだけの存在になっていくのである。
平忠正が再び歴史の表舞台に登場したとき、平忠正は伊勢平氏の後継者でなく、平清盛と敵対する存在として現れることとなる。
伊勢平氏の武士たちが平忠盛を尊敬し、その後継者である平清盛にも敬意を払うようになった理由はそれだけではない。人の上に立つ者には、自分の下に従う者を保護する義務がある。保護する義務を果たさずに忠誠だけを求める者には上に立つ資格を持たないという言い方もできよう。この意味で長承二(一一三三)年時点の平忠盛は、できる限りのことはしていたとは言える。しかも、自分の右腕になるはずの弟の平忠正は鳥羽上皇の命令で追放され、その代わりの右腕がまだ一二歳である自分の長男であるというハンデも背負った状態なのであるから、これ以上の成果を求めるのは困難とも言えよう。
しかし、藤原氏でも村上源氏でもない貴族としてはよくやっていた、さらには武士とみなされている貴族としてはよくやっていたとは言えるが、他の貴族よりも、あるいは寺社よりもよくやっているとは言い切れなかった。
現在でも言えることであるが、同じ仕事でありながら給与の高いところと低いところとがある。給与以外の待遇でも明白な違いがあるところが存在する。この差はどこからくるのか。
単純化すれば、売上である。売上の多いところほど給与は高いし待遇もいい。世間一般に知られた企業であっても大して売上が無いために給与が安かったり待遇が悪かったりする一方で、ネームバリューは低くても売上が良好なために給与の高さと待遇の良さを実現させているところがある。平安時代で言うと藤原摂関家や有力寺社が売上のトップに来て、その他の貴族や有力でない寺社がその次に来る。白河法皇以後はこのヒエラルキーに院が加わる。知名度で言えば貴族のほうが寺社よりも高いものがあるが、売上で行くと寺社のほうが上に来る。そのため、抱えている人たちに対する待遇でも貴族より寺社のほうが上に来る。
このヒエラルキーにおいて平忠盛の位置は決して高くなかった。知名度もそうだが、何より、売上が低いのだ。
ここで言う売上とは何か? 荘園の生み出す生産である。荘園から生み出される資産が貴族や寺社の売上となり、売上が仕える者への給与になる。この意味で、平忠盛の売上は低かった。ゆえに、平忠盛に仕える伊勢平氏の武士たちの給与はお世辞にも高いものではなかった。とは言え、以前と比べれば高くなっている。それまでは貴族に仕える身になるなど夢物語でしかなかったのに、今では貴族の随身だ。武士団の一員なだけではネームバリューもないどころか、この時代の感覚ではむしろ白眼視される地位だが、貴族の随身となれば社会的ステータスは一気に跳ね上がる。現代日本の感覚で行くと、不安定な非正規雇用から東証一部上場企業の正社員になったぐらいの違いがある。とは言え、東証一部上場企業でも違いはある。日経二二五構成銘柄企業ともなれば文句なしの超一流企業だが、世の中にはそうでない東証一部上場企業の方が多い。以前の平忠盛のもとに仕えるのと現在の平忠盛に仕えるのとでどちらを選ぶかと言われれば現在の平忠盛を選ぶが、現在の平忠盛と現在の藤原摂関家とどちらを選ぶかと言われれば現在の藤原摂関家を選ぶという言い方もできる。非正規雇用から一部上場企業の正社員になったのだからステータスアップではあるが、一部上場企業の正社員の間でも目に見える格差は存在する。東証一部上場企業の正社員が日経二二五構成銘柄企業に転職するなんて言うのはよく見られる話だが、平忠盛と藤原摂関家との間にもまた同様の格差が存在していたのである。
これを平忠盛はどうにかしようとした。とは言え、莫大な収穫を残す荘園を新しく手に入れるなど無理な話だ。そのような荘園があるなら、その荘園は間違いなく藤原摂関家や有力寺社、あるいは院の保有する荘園となっている。新しく田畑を開墾して荘園とすることも理論上は可能だが、優秀な荘園となりうる土地などとっくに開墾されている。この時代になっても開墾されていない土地と言うことは、誰かが開墾に挑戦し、そして失敗したという土地であることを意味する。
平忠盛が狙ったのは荘園以外で資産を手にする方法であった。
ただ、そんなものがこの時代に存在したのか?
結論から言うと、あった。
貿易だ。宋との間の貿易に目を付けたのだ。 五代十国の混迷から中国大陸の統一を掴み取ったのが宋であるが、この時代になると中国大陸の統一は過去の栄光とするしかない国へと変貌していたのだ。領土の北半分を金帝国に奪われ、南半分だけが宋の残された領土となっていたのだ。歴史用語では、中国大陸全土を制圧していた時代を北宋、北半分を失って以後の時代を南宋としている。
領土が半分に減ったのであるのだから、普通に考えればこれは衰退以外の何物でもないが、南宋に限っては衰退どころか再興隆を呼び起こしたのだ。
着目すべきは、まさに領土の北半分を奪われたことにある。金帝国の支配下のもとで暮らすことを選んだ者も多かったが、金帝国の支配下に降るのをよしとせず宋の国民であり続けることを選ぶために中国大陸を南下する者もまた多かったのである。
急激な豊かさを生み出すときは、そのほとんどが急激な人口増加を伴っている。先に人口の増加があり、そのあとで豊かさを伴わせていると言う言い方もできよう。経済学ではこの現象を「人口ボーナス」と言い、日本の高度経済成長の理由としても挙げられている。ただし、急激な人口増加が必ずしも急激な豊かさを生み出すわけではない。人口の急増と豊かさとをつなげるためには、何より、急増した人口を養いきるだけの経済基盤が必要となる。特に食料を軸とした経済基盤が必要となる。
その食料を軸とする経済基盤を長江より南の華南地域は持っていた。
コメだ。
昔から華南地域のコメの生産性の高さは知られていたが、ここに急激な人口増加が伴った。コメというのは、田畑に投じなければならない労働量が他の穀物よりも多い一方、労働量を増やせば増やすほど大量の収穫が他の穀物よりも見込めるという穀物である。もっとも、毛沢東の大躍進政策や金日成の千里馬運動といった失敗もあるが、平均程度の知性の執政者が上に立つ国であればそのような失敗はしない。
農業の機械化など存在しないこの時代、労働量とは人数と等しい。田畑への人数の増加だけが田畑の収穫量を増やすポイントとなると言ってもいい。しかも、労働量を投じれば投じるほどより大量の収穫を記録することが計算できる。それまでも労働量と収穫量との関係性は知られていたが、その収穫量に見合うだけの労働量が存在しなかった。しかし、今やその労働量が存在するようになったのである。結果は大量収穫だ。増えた人口を補う収穫を記録するなどというレベルでは済まず、領土の半分を失う前には想像もできなかったコメの生産量が生み出されたのだ。
食料を得るために必死になっていた暮らしから、食料の心配など必要ない暮らしへと切り替わった。コメの心配は、コメをどうやって手に入れるかという心配ではなく、余ったコメをどうするかという心配へと変わったのだ。
人間、食料の心配が無くなれば他のことへと手を出せるようになる。衣食住の必要を満たすのではなく、それまでは贅沢品とみなされていた製品を手に入れること、あるいはモノではなくコトへの出費にも手を出せるようになる。読み書きを学ぶことも本を買って読むことも可能になる。科挙に挑んで文官として任官するという将来設計も描ける。私欲の発露ではあるが、それらは全て、生活水準の向上を生み出す。
さらに、華南地域から華北や中原といった地域への物品の輸送が義務ではなくなった。それまでは宋帝国の領域内の輸送であり、華北の生み出した物品を華南へ、華南の生み出した物品を華北へ運ぶのは国として果たさねばならぬ義務であった。そのための人員も予算も北宋にとって無視できぬものであった。しかし、華北や中原が金帝国の支配下に組み込まれたことにより、義務ではなく国際貿易に変わったのだ。華北と華南とを結ぶ陸路と水路は隋の時代にはもう成立していたから、南から北へ物品を送ること自体はこれまでと同じ方法でいい。ただし、南から北へと送るのは中国大陸の北部を制圧した金帝国の仕事であり、金帝国が宋の生み出した生産を欲しいというなら金帝国が予算を出して運ばねばならないのである。
金帝国が南宋に対して運んでくるように命令しても無駄である。何しろ金帝国は宋を侵略した国であり、侵略された側には侵略した側の命令に従う義理などない。実際上は平和を実現させていても名目上は戦争中であるというのがこの時代の金帝国と南宋との関係性である。この状態で金帝国が南宋の物品を欲しいというなら、南宋に攻め込んで奪い取るか、あるいは、名目を棚上げして宋から物品を買わねばならない。前者はともかく後者を選んだなら、金帝国が出費した上で金帝国へと物資を運んでもらわなければならない。物資の輸送がそれまでは宋の国家予算であったのが今では他国の予算となったのである。宋は出費を減らすこととなったのだ。
この南宋との貿易を平忠盛は考えるようになったのだ。
貿易そのものは北宋時代から続いており、南宋になって急に始まったものではない。日本は公的に北宋の政策に乗ったわけではないが、民間人が個人的に宋の掲げる貿易振興策に乗っていたのである。ここまでは問題なかった。問題は、平忠盛という公的地位にある人間が、あくまでも一個人として宋との貿易に乗り出そうとしたことにある。これは本来であればスキャンダルになる話であった。
貿易の基本は、一方の国では余っていてもう一方の国では不足しているものを互いに交換することであり、WIN・WINに終わるのが貿易の鉄則なのであるが、宋との貿易は必ずしもWIN・WINとはならなかった。これは北宋時代からすでに成立していた仕組みであるが、宋は国内の港に市舶司(しはくし)を常置させて港での貿易を監視させていたのである。宋の港を利用できるのは市舶司(しはくし)の認めた者、具体的には宋の国民のみであり、たとえば日本との交易に特化した港湾設備や船であろうと、利用できるのは宋の国民に限定されていた。
日本で必要とする品を宋から運んでもらい、宋が必要とする品を日本から宋へ運ぶのも宋の商人に限定される。宋の商人が日本へ持ち込んだものを日本人が日本国内で売り買いするのは日本人の自由だが、日本人が宋に向けた製品を作って宋に向けて輸出しようとしても、船に積み込むところから先は全て宋の国民に限定され、日本人は船に積み込む前の売買しか関われないのだ。日本人がいかに宋に向けて売りたいと考えても、宋の市舶司(しはくし)が許可しないと宋の港を利用できないというのでは、宋に品を持ち込むとなると、市舶司(しはくし)の言い値で売るか、あるいは密貿易しかない。民間人ならともかく、貴族が関わるとなったら、市舶司(しはくし)の許可を得るとなると売国行為、許可を得ないと密貿易。どちらも有罪になる案件だ。普通に考えるなら。
それを平忠盛はクリアするのだが、その前に、この時代の日本と宋、すなわち南宋との交易について語っておく必要がある。でなければ、なぜ平忠盛がクリアできたか説明できないからである。
この時代の南宋が不足していたのは、第一に木材である。急激な人口増加に建築用資材としての木材が枯渇し、南宋では木材をいかに求めるかに苦心していたのである。実際、密貿易で木材を手に入れることもあり、南宋の国内で木材の値段が急騰していた。一方、日本から海外への木材の輸出には特に制限がなかっただけでなく、むしろ木材の余りが見られていた。
また、日本の生み出す鉱産資源、特に、硫黄や水銀といった鉱産資源の不足は南宋を悩ませていた。鉱産資源の不足は南宋時代に始まったことではなく遣隋使の頃にはすでに存在していた話であり、遣隋使や遣唐使は必ず日本からこれらの鉱産資源を持ち込んでいた。遣唐使が廃止されても私交易で取引され続けており、ときに木材と同様に密貿易という手段をとることもあった。二一世紀初頭は中国のレアメタルをいかに求めるかに苦心していたのが日本の側だったのだが、平安時代は逆に日本のほうがレアメタル、いや、レアというほどではないが産業に必要な鉱産資源を供給する側だったのである。
宋の需要という点で、意外なところでは書物がある。唐の時代は唐のほうが圧倒的に多くの書物を生み出していたのであるが、唐の衰退と五代十国の混迷で多くの書物が失われていた。その書物を日本は持っていた。失われた古典が日本国内に存在するということで、日本国内に保存されていた古典の書物そのもの、あるいはその複写を逆輸入することはよく見られた。
これらが南宋の需要であったが、日本側の需要はどうであったか? 南宋の需要の最後に挙げた書物は日本側の需要でもあった。遣唐使の廃止からこの時代までの間に源氏物語をはじめとする女流文学を生み出した日本国であるが、実用書という点では欠けていた。数学や天文学といった理系の書物もそうだし、政治学や経済学といった社会科学の本も乏しかった。遣唐使の時代までに持ち込まれた書物が残され複写され学ばれ続けていたが、新しく生み出すというのはほとんど無く、あったとしてもそれが国境を超えた評判を呼ぶことはなかったのである。なお、現代はそれぞれの言語で文章を記し様々な言語に訳されるが、この時代の東アジアは漢文が共通の図書言語として存在しており、日本に残されていた古典の書物も、南宋からもたらされた最新の書物も翻訳することなくそのまま流通した。
日本の需要として語らねばならないのが医薬品である。医薬品の多くは日本国内で生み出せず、中国大陸からの輸入に頼らなければ医療が維持できなかったというのが少なくとも鎌倉時代までの日本国の医療事情であったのだが、その需要はこの時代に一つのピークを迎えていた。どういうことかというと、南宋の急激な人口増加が南宋での伝染病の散発的な流行を生み出し、伝染病の流行への対策が南宋の医学水準を高めるという皮肉なサイクルを生み出していたのである。伝染病には国境などない。人が行き来をすれば、人が行き来しなくても生物が行き来をすれば、生物が行き来しなくても物が行き来すれば、伝染病は簡単に国境を越える。南宋で伝染病が流行すれば、タイムラグはあるにせよ日本でも伝染病は広まる。その伝染病対策としての医薬品が南宋にあるなら、日本は何としても輸入する必要があった。
それよりも何よりも、宋から日本に大量に渡ったのが貨幣である。これは今の時代でもそうだが、貿易を物々交換(=バーター取引)で完結させるというのは容易な話ではない。特に、物品を大量に求めたいがこちらから提供できる物品は少ないというときは現金決済となる。貨幣が国外に出て行くときは外貨の流出と言うし、自国に他国の貨幣が入ってくるときは外貨準備高が増すと言う。これは南宋に限らず北宋の時代から続いていた話であるが、日宋貿易における需要は日本よりも宋のほうが圧倒的に大きかった。日本はそこまで宋の物品を求めていなかったが、宋は日本の物品を求めていたのだ。その結果、宋の貨幣が大量に日本へと流れ込むこととなった。この時代の宋の貨幣は現在の米ドル紙幣に相当する国際通貨でもある。その国際通貨が国外に流出していることは北宋時代から悩みのタネであり、南宋になってさらに深刻化した悩みのタネでもあったが、経済の現実の前にはどうにもならなかった。
おまけに、貨幣には現在では想像できない利用方法もあった。船のバラストだ。宋は日本の物品を大量に必要とする一方、日本は宋の物品をそこまで必要とはしない。必要とする物品だけを積んで日本と宋の間を行き来するとなると、日本から宋へ向かう船は大量の荷物を積み込んだ船となるが、宋から日本へ向かう船はスカスカとなる。荷物が少ないと身軽になると思うかもしれないが、船の航海を考えると身軽であるがゆえに危険だ。ある程度の荷物を積み込まなければ船は安定しないのである。荷物が無いときに荷物の代わりに船に積み込む物品のことをバラストという。紙ではなく銅でできている貨幣ならばバラストとして使うこともできたのだ。
つまり、需要は日本よりも宋にある。そして、日本との交易は儲かるというのが宋の国内で共通認識として成立している。先に南から北へ、すなわち、南宋から金帝国物資を運ぶのには金帝国が出費しなければならなかったと書いたが、これは陸路や内陸運河の話である上に需要は金帝国側にある。南宋としては困っている侵略者が頭を下げて物資を恵んでくれと言ってきているわけだから、強く言えるし溜飲の下がる話にもなる。しかし、日本相手となると話は変わる。需要は南宋であり、貿易してくれと南宋が日本に対して頼み込むという図式なのだ。
陸路と海路とでは海路のほうが容易に監視できるから市舶司(しはくし)という役職も成立する。そして、市舶司(しはくし)という役職はかなりの人気職になっていた。儲かるのだ。
金帝国が海路でやってくるなら市舶司(しはくし)の出番となるが、多くは陸路であり、市舶司(しはくし)の出番はない。おまけに、金帝国相手の国際貿易は儲かるものではない。南宋として監視すべきは軍事流入であるが、こちらは対処できているし、貿易で侵略を食い止めることができるなら安い出費とも言えるが、その管理監督の役職は儲からない。軍事目的でない純粋な商取引を金帝国の商人が望むなら、そして手に入れた物品が正当な商取引であるならば、陸路や運河を使って南宋から金帝国へと運び出してもいいが、そのための予算は金帝国が負担するこというスタンスを取り続けるよう命じられていたと同時に、軍事行動の気配があればただちに動くよう報告する義務も課されていた、つまり、結構な激務でもあったのだが、役職に対する実入りは少なかったのだ。
一方、日本相手の海運は儲かった。外貨が流出するから国としてはマイナスだが、莫大な資産を築けるため個人としてはプラスだった。平忠盛が目を付けたのはこの点である。宋人が操る船で南宋まで運んで南宋で売る。ただし、日本の物品を宋人のうちの誰にするかは日本に選択権がある。欲しい人がたくさんいるなら売値は上がるのだ。こうなると、強く出ることができるのは日本のほうだ。市舶司(しはくし)の許可を得なければ南宋の港を使えないと言っても、市舶司(しはくし)は南宋でただ一つというわけではなく港ごとに存在する。つまり、日本が相手にすべき市舶司(しはくし)は複数存在する。複数存在すれば市舶司(しはくし)間の競争が始まる。こうなったら、日本は日本国内の港に物資を並べて待てばいい。あとは南宋から船がやってきて買い取ってくれるのだが、その買い取りが宋人間で、それも全員が正当な資格を持った者の間での競争を生み、日本側の視点に立つと、より高く買うと申し出るところが続出する。いくら高くても南宋に持ち帰れば日本に支払った以上の利益を得られるとあれば出費は惜しまない。
平忠盛が目をつけたのは肥前国神崎荘である。現在の佐賀県神埼市に存在していた荘園であり、現在では「神埼」と二文字目を埼玉県の埼の字で記すが、当時は「神崎」と山編で記していた。神崎荘はもともと皇室領であり、白河法皇以後は院の所有する荘園となっていたが、平忠盛はその所有権の一部を手に入れただけでなく管理監督権を手に入れたのである、と書くとわかりにくくなるが、荘園を現在の株式会社と考えれば難しい話ではなくなる。皇室領から院の所領となり、白河法皇の死により鳥羽上皇の手に所有権が移ったということは、株式会社神崎荘の株式を鳥羽上皇が相続したということであり、神崎荘の所有権の一部を平忠盛が手に入れたということは、平忠盛も株主になり、鳥羽上皇の持株比率が下がって平忠盛の持つ株式が増え、経営権を持つ株主として経営に参画するようになったということである。もっとも、筆頭株主は鳥羽上皇のままであるだけでなく、持株比率の構成から言っても株式会社神崎荘は鳥羽上皇、別の言い方をすれば株式会社鳥羽院を親会社とする子会社であり、平忠盛は無視できない大株主ではあるが、あくまでも株主の一人に留まるというところか。
神崎荘への経営参画権を入手することに成功した平忠盛は、さっそく荘園内の港を南宋に向けて開放した。こう読むと神崎荘の領域内の海港に宋の船が来ることを平忠盛が許したと見えてしまうが、実際はそうではない。そもそも神崎荘に海はない。有明海が近いといえば近いが、平忠盛が目をつけるまでは、海とは無縁の田園地帯というのがこの時代の神崎に対する認識であった。
しかし、平忠盛はそう考えなかった。神崎荘を手に入れることは外港を手に入れることに等しかったのである。表向きは。
平忠盛の表向きの説明は以下のようなものであった。
荘園内を南北に流れる城原川は有明海に注いでいる。有明海は干満の差が激しいだけでなく、満潮時には有明海に流れ込む川に有明海の海水が逆流する。気象庁にも、有明海の満潮が七メートルを記録したとき、有明海の海水が海抜四メートルの平野にも流れ込んだという観測記録が残っている。さらに、この時代の海水面は最大で現在より六〇センチは高かったことも地形の観測結果から判明しているから、海水の逆流は現在以上のものがあったであろう。この有明海の海水が流れ込む先というのが城原川であり、城原川に面しているのが神崎荘なのである。神崎荘を平忠盛が手に入れることができたのは神崎荘が城原川という難問を抱えた荘園だからであり、皇室領であるという点をクリアしたとしても、「逆流さえなければぜひとも欲しい荘園なのだが、逆流を制御できなければ利益など出ないというのでは、皇室が許したとしても食指が動かない」という共通認識があった、つまり、不人気な土地だったからである。
その上で、平忠盛はこう説明した。田園風景となると海水の襲来は損害以外の何物でもないが、海運を考えると一概にデメリットとは言えなくなる、と。海に面していなくとも、川沿いの港が海に面するのと同じだけの港湾設備に生まれ変わるのだ。満潮になれば水位が上がり、船底の深い船でも内陸である神崎荘まで入ってくることが可能になる。船荷の積み下ろしを潮が引くまでの間に終えるのはさすがに無理でも、内陸であろうと水位さえ維持できれば海船だって停泊し続けることは可能だ。船荷の積み下ろしを終えたあとで次の満潮を迎えれば、今度は有明海を通って東シナ海に出て南宋へと航海できる。さらに言えば、停泊用の水位維持は荘園内の洪水制御と水不足対策にも転用できる。あくまでも理論上は。
南宋は中国大陸の北半分を喪失した国であり、南宋から日本に向けて航海するとなると、長江流域から東シナ海を一気に横断するか、あるいは、台湾、八重山、沖縄本島、奄美を経て九州南部に到着した後で、九州西部を航海するというのが一般的である。そのどちらでも有明海に行くのは容易だ。ただし、有明海はゴールではなく、ゴールはあくまでももう少し北にある博多であり、有明海はむしろ寄り道である。博多港は現在でも日本有数の港であるが、この時代は日本有数などというレベルに留まらない日本最大の貿易港であり、日本と宋との貿易は博多で執り行うのが通例で、博多には宋人が常駐しているほどであった。ただし、博多港は太宰府の管轄下にあり、博多港を利用するには太宰府の許可が必要だった。今で言う関税であるが、宋にとっては太宰府の役人に支払う賄賂でもあった。
その博多港の利用義務が無くなるだけでなく、有明海から博多港までの航海までもが不要となると、宋の商人にとっては二重の意味で有明海経由で神崎荘を利用するほうが有利になる。航海技術が時代とともに発展してきたとは言え海上航海の危険性は無視できるものではないし、何と言っても博多港の利用料が不要に、すなわち関税がゼロになるのだから。
こうなると、表向きの理由も納得できるものとなる。ただし、難点もある。
この難点を記す前に、表向きの理由への糾弾はできなかったのかについて記しておかなければならない。
城原川を遡上してやってくる宋の船は市舶司(しはくし)の認可した正当な船だから、平忠盛がしようしていることは密貿易ではない。その正当な船が競い合って神崎へとやってくるのだから市場の原理が働く。要は、儲かる。より高値で売れるのだが、それも違法ではない。ただし、純然たる民間人のビジネスであるならそれでも問題ないが、平忠盛という貴族が天皇の許可なく市舶司(しはくし)という国外の権力と接することになると、この時代の感覚ではスキャンダルとなる。
正確に言うと、この時代の宋との交易は黙認であって是認ではないのだ。国が堂々と認めた政策ではなく、建前上は認めないが、無位無官の一般庶民が貿易をするならばそこまで厳しく取り締まらないし、博多港を利用して太宰府の認可を得るなら何も言わないというのがこの時代の日本国のスタンスであった。こうなると、平忠盛は荘園領主ではあるが平忠盛本人が貿易に身を乗り出したわけではないという理屈は成立しない。いや、他の貴族ならお目こぼし願える状況だとしても、平忠盛はただでさえ他の貴族たちから憎まれている。比喩的な意味ではなく実際に殺されそうになったほどなのだから、スキャンダルでも起こそうものなら失脚だけで済めば御の字とするしかないという場面なのだ。
ところが、平忠盛は何のお咎めも無かった。正確に言えば、スキャンダルとして告発されてもおかしくないところであったのだが、実際には誰も告発できず、誰もスキャンダルとして取り上げることができなかったのだ。本音からスキャンダルではないと考えたからではない。平忠盛は、貴族の誰かがスキャンダルとして語ろうものなら、語った貴族自身がその瞬間に政治生命が終わりを迎えるという場面を作り上げることに成功したのだ。
その成功の要素とは、鳥羽上皇の院宣である。株式会社としての荘園の親会社でもある鳥羽上皇が貿易を許可しており、自分は鳥羽上皇の代理として肥前国神崎荘で貿易をしているのだという図式を作り上げることに平忠盛は成功したのだ。
これは上皇という地位の不明瞭さを活かした例であった。
天皇に仕える者が他国と通商をするには天皇の許可が必要で、そうでない場合はたとえ相手方の、この場合は南宋の市舶司(しはくし)の認可を得た貿易であっても違法となる。この時代の日本は国策として保護貿易政策を選んでいたため、庶民が通商に乗り出すぐらいなら黙認できてはいたが、貴族が通商に乗り出す、あるいは庶民でも大規模な通商に乗り出すとなったらただちに国の査察が入った。
もっとも査察が入るところまではあっても取り締まられるケースはさほど多くなかった。多くの庶民が南宋の市舶司(しはくし)の許可を得て貿易に乗り出しているだけでなく、それで生計を立てている者も数多くいたのだ。取り締まろうものなら失業するというだけならまだマシで、交易で生きる者から交易を取り上げたら、山賊になるか海賊になるかというのが経験則として存在していたのだ。なぜなら、黙認であろうと国が公的には認めていない方法で生きるというのは、そのほうが生活しやすいからという理由ではなく、それでなければ生活できないからという理由のほうが強い。ここで生活の手段を奪われたら、待っているのは生き残るために犯罪に手を染めるという選択肢しかない。その選択肢を選ばせるぐらいなら黙認のほうがまだマシだった。
ところが、庶民ではなく鳥羽上皇であるというのが大問題になった。これが法皇であったらまだどうにかなるのだ。事実上はともかく、理論上、法皇とは出家した一僧侶であり、法皇としてではなく、自分が身を寄せる寺院として貿易に乗り出すというのであれば理論上は可能なのだ。平忠盛に法皇が許可を与えたとなったら議論を呼びはするだろうが、寺院への協力という仏教信者の行動だと言い逃れをすることは不可能ではない。しかし、この時点の鳥羽上皇は出家していない。後に出家するが、長承二(一一三三)年時点ではまだ鳥羽上皇は出家をしていない。その鳥羽上皇が平忠盛に許可を出したのだ。
天皇が許可を出したなら問題はなかったのだが、鳥羽上皇は天皇ではない。天皇を辞した皇族であり、天皇と同格の敬意を受けるが、法制度上は天皇としての義務を免じられると同時に天皇としての権利を全て喪失している。その上皇が個人的に市舶司(しはくし)の許可を得て個人的に貿易をしたらどうなるか? あるいは鳥羽上皇が平忠盛に市舶司(しはくし)との通商を認める許可を出したらどうなるか? これは難しい話になった。
平忠盛のスキャンダルとして告発しようものなら鳥羽上皇を法廷に招き入れることになる。しかも、違法かどうかの話し合いではなく、日本国の統治システムの根幹を揺るがす論争を招く。
平忠盛個人の失脚を狙うにはあまりにも大きすぎる。
大きすぎるがゆえに、平忠盛の貿易をスキャンダルとして告発できない。
この微妙なバランスの図式がここに成立した。
これで、難点の説明とその解決策が明記できる。告発できないという図式が成立していないとできない解決策だからである。
神崎荘を手に入れ、城原川を利用しての貿易をする権利を、すなわち博多港を利用しないで良いという権利を手に入れた平忠盛は、本丸へと乗り出した。城原川はダミーであり、実際に計画していた外港は他にあったのだ。いかに干満の差を利用して城原川を遡上させての交易路を作ろうと、それだけで船舶停泊需要を満たせるわけではないだけでなく、航行に支障が生じる。最悪の場合は船が座礁してしまう。これが神崎荘での貿易をすることの難点だ。その問題の解決策として、平忠盛は城原川だけではこなせない船舶の緊急避難先として別の港の使用許可を求めた。
それこそ博多だ。
この時代最大の貿易港を、そして現在でも日本有数の貿易港を、貴族である平忠盛が、太宰府の許可を得ることも、太宰府への関税も払うこと無く、私的な海外貿易のために使用するという特権を獲得したのだ。何しろ、平忠盛にとっては私的でも、南宋にとっては市舶司(しはくし)が許可した正式な交易であり、支障が出ることはそのまま国際問題に発展する。太宰府が許可を出さなくても博多港側で使用許可を出さないという選択肢はなかった。それでも一貴族の要請であれば博多港でも対処しようがあったかもしれないが、平忠盛は鳥羽上皇の許可を提示している。これでは二重の意味で選択肢が無くなる。博多港を太宰府の一機関とするのではなく、博多港を独立した組織として扱うことに成功したのだ。
博多港から太宰府までは距離があるが、博多港から神崎荘までは博多から太宰府までの間よりも距離がある。ただし、道路は整備されていた。現在でも、博多から那珂川町、吉野ヶ里町を経て、神埼市へと向かう国道三八五号線があるが、当時もほぼ同じルートで街道が走っていたのである。しかも、その街道は太宰府を通らないルートであった。この時代の九州の街道はそのほとんどが太宰府を経由するルートであったが、神崎と博多を結ぶ街道は太宰府を経由しないという珍しい街道であり、そのために太宰府の管理下に置かれなかったのである。神崎から博多港まで直線距離で三〇キロメートルはあるが、この時代、三〇キロメートルは陸路でどうにかなる距離だ。この時代の九州で太宰府の管理を経ることなく自由自在に使える道路はそう多くない。その多くない道路の一つが博多と神崎とを結ぶ道路だった。
さらに、神崎から博多へは陸路だけでなく水路も利用可能だった。城原川を遡り、坂本峠の部分だけは陸路だが、そこから先は那珂川を使って博多湾まで物資を運ぶことができる。外洋航海用の大きな船でなく河川航行用の小さな船であるが、水路であれば陸路より簡便に物資を運ぶことができるのは大きな魅力だ。
博多に着いたらそこから先はこれまでと同じ仕組みの、しかし、太宰府への支払いを免除された取引だ。博多には宋の商人が常駐していて宋の商人の集まる街も形成していた。
それにしてもなぜ、平忠盛が乗り出す前は誰も宋との交易を目論まなかったのか?
これには三つの理由が考えられる。
一つは、平忠盛だからこそ貿易のリスクを低く抑えることができたという点。平忠盛以外が貿易に乗り出した場合、利益よりもリスクの方が高くなってしまう可能性が高かった。
貿易というのは、理論上は莫大な富をもたらすビジネスである。国内で大量に流通しているため安値で手に入るモノを、そのモノが不足していて高値で売れる国外に持ち出し、その代わりに国外で安く手に入るが国内では高値であるモノを運んできて国内に売るというビジネスなのだから、一回の往復での収入のポイントが、国外から国内と、国内から国外の、計二回存在する。そのため、貿易業の利益率は三〇パーセントを超えるのが通常であるだけでなく、利益率三〇パーセントを下回る流通経路は不採算と見なされて閉ざされる運命を持つ。ただし、これは暴利ではない。利益率三〇パーセントとなるとかなり好成績なビジネスという印象を受けるかもしれないが、忘れてはならないのは、この時代の航海が現在と比べものにならない危険性を伴っていたことである。航海技術は未熟であったし、海賊の出没する危険性も高かった。沈没したり海賊に襲われたりしたら人命も失われるし、人命を何とも思わない人間であっても船荷がもたらす利益がゼロとなると考えたら平然としてはいられない。損害保険という概念の無い時代、沈没や海賊の襲撃に対する損害を埋めるためには他の船で稼いだ利益で損失補填するしかない。それこそ三〇パーセントの利益率を出さなければ収支をプラスマイナスゼロに持って行くことはできなかった。貿易が莫大な利益をもたらす可能性があることは知られていたが、それでも貿易に参入することを考えなかったのは、利益率三〇パーセントというハイリターンを見込めるビジネスではあるものの、そのリターンを簡単に食いつぶすハイリスクを伴うビジネスだと知れ渡っていたからである。これでは尻込みするのも当然だ。
ところが、平忠盛はこのビジネスで莫大な利益を記録するのである。どういうことかと調べてみれば何のことはない、リスク回避に成功したのである。船は宋の船であり、日本から南宋へ物資を運ぶのも、南宋から日本へ物資を運ぶのも宋人で、モノの受け渡しは、表向きは肥前国神崎で、実際には博多で行われ、平忠盛の利益も同じ箇所で確定する。そこから先の船旅のリスクは全て宋人が負担するのだから、平忠盛は利益を得てリスクを切り捨てることに成功したことになる。それではリスクを押し付けられている宋人だけの大損ではないかとなるが、忘れてはならないのは、関税が要らないという点ともう一つ、平忠盛という人が海賊追補に功績のあった人であるということ、すなわち、海賊に睨みが利く人だということである。海賊の立場に立つと日本と宋とを結ぶ貿易船は絶好の獲物だ。船そのものの警護レベルは高いが一回の襲撃で莫大な利益が得られる。ただし、平忠盛が睨みを効かせている船となると、いかに一回の襲撃で莫大な利益を得ることができようと、襲撃に対する取り締まりをまともに喰らって終わりだ。奪い取ったモノを返すだけで済むなんて甘すぎる見通しで、自分だけでなく海賊の集落全体が平忠盛率いる軍勢の襲撃を喰らって絶滅するのが目に見えている。海賊相手に理屈は通用しないが殴り合いは通用する。殴り合いで負けるとわかっている相手に襲いかかることはない。宋人にしてみれば航行するリスクを一手に押しつけられている格好になるが、平忠盛相手ならば、少なくとも日本近海においては海賊の心配をしなくて済む。関税が要らないだけでなく利益率三〇パーセントの大部分を損失補填から解放できるとあっては、平忠盛を選ぶのは自然な流れであった。
平忠盛はこの利益で得た資産を伊勢平氏の武士たちに分配した。企業として捉えると、会社の新規事業で得た利益を従業員の基本給アップに回すようなものである。新しい事業ではあっても既存事業と全く無関係ではない。伊勢平氏という企業で考えると、武士たちによる海賊追補という事業があることを前提とした交易という新事業があり、この二つの事業は密接につながっていて互いに独立させることはできない。ゆえに、貿易で得た利益を武士たちに回すことは当然の話であった。
平忠盛以前に貴族が宋との貿易を目論まなかった理由の二番目は、貿易のもたらす経済への影響にある。貿易の利益率は三〇パーセントを超えるのが通常であると前述した。そして、その利益が平忠盛に仕える武士たちの待遇を上げたとも記した。ただし、政治家として忘れてはならない一点においては欠けていた。国民を以前より豊かにしたかどうかという一点である。そのためには、貴族というものが私利私欲にまみれた存在であるという固定観念をいったん捨ててしまわねばならない。
そもそもなぜ、市舶司(しはくし)を通じた商取引を貴族たちが表立って天皇に求めなかったのか、あるいは鳥羽上皇に求めなかったのか。結論から言うとそれが国の政策だからということになるのだが、もう少し突き詰めると、自由貿易と保護貿易、そしてグローバル経済という語に行き着く。
自由貿易とグローバリズム、保護貿易とローカリズムは密接につながっている。そして、多くの人はこう考える。自由貿易とグローバリズムが正しく、保護貿易とローカリズムは時代遅れである、と。ところが実際にはそう単純に言い切れるものではない。貿易は、貿易そのもので儲ける人と、自分の作ったモノを高く買ってくれる人が出ることと、自分が欲しいものが安く手に入りやすくなるという点で魅力的ではあるが、海外に勝てない製造業にとっては大打撃であるし倒産の危険性も高まる。また、それまで国内に豊富にあるがために安値であった製品が海外に流出することで値上がりしてしまう。つまり、今までより豊かになる人と、今までより貧しくなる人の双方が表出してしまう。政治家が保護貿易を訴えるときというのは、自身や自身の支持者が自由貿易で貧しくなる可能性が高いからというだけでなく、国民生活全体が貧しくなる可能性を危惧しているときと考えてもいい。
貧しくなると言っても社会福祉政策でどうにかすればいいではないかというのは早計に過ぎる。国民生活全体が貧しくなったら社会福祉でカバーできる割合を超えてしまうのだ。それならば、無理して自由貿易に乗り出すより、保護貿易と言われようと国内産業と国民生活を守るほうが賢明だ。失業者に必要なのは、社会福祉ではなく就業である。より正確に言えば、職に就いていることによって得られる社会的存在価値の維持である。失業者の増加を食い止めるためならば保護貿易という批判を受けることも厭わないというのも政治家としての資質の一つである。無論、保護貿易は何であれ素晴らしいというものではない。保護貿易であるがために消費者の負担が大きくなっているケースも珍しくないし、自由貿易であれば就業できたのに保護貿易であるために就業できずにいる人も存在する。貿易政策において政治家に求められるのは、どのようなバランスをとれば、より多くの人を豊かにできるか、誰一人貧しくなることなく以前より豊かになるかを見定めて適宜修正することであり、それはこの時代の貴族たちも理解するところであった。
グローバリズムに目を向けて自由貿易を掲げるのは、国民生活を向上させるとは限らない。一方で、グローバリズムを無視して国内産業だけに視点を向けても、やはり、国民生活を向上させるとは限らない。だからこそ、政治家は国民生活を前提として貿易政策を掲げる必要がある。近年では、従来のイメージとは逆に、中国が自由貿易を、アメリカが保護貿易を掲げているが、単純にいうと、製品が国外で売れるなら自由貿易を掲げ、他国の製品に駆逐されるなら保護貿易を掲げるだけのことで、何らおかしな話ではない。政治家の立場に立つと選挙区の有権者の主産業が他国から駆逐されるというなら保護貿易を掲げ、選挙区の有権者の主産業が海外に羽ばたけるというなら自由貿易を掲げる。選挙区だけでなく国内全体を見渡して、輸入より輸出が増えると考えるなら自由貿易を掲げ、輸出より輸入が多くなると考えるなら保護貿易を掲げる。それだけのことである。自由貿易と保護貿易とでは保護貿易のほうが利己的に感じる人も多いが、一概にそうとは言い切れない。国内経済に無頓着なのか、国民生活を無視しているのか、グローバリズムという言葉に酔いしれて国内に目を向けること無く自由貿易を掲げるのと、グローバリズムによって受けることとなる国内産業への影響を考えて保護貿易を掲げるのと、どちらが国民生活を考えた選択なのかと言いたくなる。
平忠盛は言うだろう。貿易によって自身とその周囲が豊かになるだけでなく、日本国内全体の生活水準の向上が図れると。実際、平忠盛が主として輸入することとなったのは、医薬品を除けば生活必需品というわけではなく、肥前国神崎荘の遺跡からもそれまで高価ゆえに庶民には手の届かなかった陶磁器が大量に発掘され、一般庶民の手にも届くようになったことが推測されている。また、宋銭の大量流入によって日本国内で貨幣経済が復活して経済の流れがスムーズになったことは当時の記録にも残っている。それらはともに貿易のもたらした功績である。
宋銭の大量流入は通貨過剰によるインフレを招きだしているではないかという批判もあるが、これも平忠盛の立場に立つと、適度のインフレは経済を活発化させるという反論もできる。物価高騰と賃金上昇は連動しており、物価上昇局面に入れば、物価上昇から少し遅れてから、しかし、物価上昇率を上回るスピードで賃金は上がる。貿易拡大による宋銭の大量流入で経済を活性化させると考えるのは間違いではない。
ただ、日本国民全体を豊かにしたというと、その答えは否なのだ。
平忠盛の貿易活性化により豊かになったのは一部の人、特に平忠盛とその周囲の人たちだけであり、多くの人にとってはむしろ逆になっていた。物価上昇局面に入れば賃金も連動して上がると前述したが。これを逆にするとどうなるか? すなわち、物価をそのままにして賃金を先に上げるとどうなるか? 適度なインフレでは無くハイパーインフレを招く。物資がまたたく間に市場(しじょう)から駆逐され、生産に要する費用を捻出できぬまま、生産者に負担が押し付けられることになるのだ。
どういうことか?
物価上昇は生産者の給与を上げるだけでなく、生産設備の向上や生産環境の改善を伴い、生産を質量ともに向上させていく効果を持つ。つまり、今後の需要増加に耐えうる状況を作り出すことができる。だが、物価が上がらずに賃金が上がったらどうなるか? 需要が急騰する一方で供給が需要に追いつかなくなる。そのため、少ない供給に対する大量の資金という図式になり、賃金上昇率を上回る物価上昇率を招く。物価上昇に伴う賃金アップを果たしても、生産設備や生産環境の改善が伴わないままでは供給に変化など無い、あるいはむしろ悪化しているのだから、物価はますます上がっていく。
インフレの恐ろしいのはここだ。良かれと思って始めた賃金アップが物価上昇にあっという間に追い抜かれ、賃金が上がる前よりも苦しい暮らしになる。苦しい暮らしになるのは賃金が上がる人だけでなく、いや、賃金が上がる人はまだマシで、賃金が上がらない人の生活は絶望的に悪くなる。二〇世紀の大戦期間のドイツやハンガリー、今世紀のジンバブエやベネズエラで起こったことだ。おまけに、平忠盛は貨幣の大量流入の結果のほとんどを平氏の武士たちに渡していて、一般庶民にはさほど回していない。ゼロではないが乏しいとするしかない。こうなると、平氏の武士たちはインフレ環境下でやや苦しい暮らし、その他の人は極めて苦しい暮らしとなる。相対的には豊かになっても絶対的には苦しい暮らしだ。具体的に言えば、以前より苦しい暮らしとなる。
おそらく、貴族たちは経済のあるべき流れとして物価と賃金の関係について知っていたが、平忠盛は知らなかった、もっと言えば間違って理解していたのでは無いかと言えるのだ。今でも左がかった人と話をすると、どう考えても経済学の基礎を理解していないと言うべきか、間違って理解していると言うべきか、ハイパーインフレを起こしたのと同じ人と同じ思考をしている人が多いことに気付かされるが、こうした考えの人は昔からいたということか。
貴族たちが貿易を考えなかった理由の三番目にして最大の理由は、南宋がまさに戦争をしている最中の国だという点である。しかも、戦争において劣勢にある国だという点である。
南宋は北宋から続く王朝であるが、そのスタートは金帝国の前に北宋が敗れ去った末に誕生した亡命政権である。かつて中国大陸全土を制圧していた頃の面影は半分しか無くなり、南宋が経済的豊かさを手にしたと言っても一時的に戦争が止まっている間の例外的時代であるというのがこの時代の認識であった。そして、ほとんどの日本人はこのように考えていた。中国大陸はそう遠くない未来、金帝国によって統一されることになる、と。その上でこうも考えていた。金帝国の軍事力は日本海を超えたとしてもおかしなことではない、と。
日本はかつて渤海国を最大の同盟国としていた。しかし、その渤海国は契丹によって滅ぼされた。当初は契丹を警戒していた日本であるが、同時期に中国大陸を襲っていた五代十国の混迷の末に、軍事力で宋が中国大陸統一を果たすと契丹よりも宋の方が脅威となった。宋を脅威と見たのは契丹も同じで、この結果、日本と契丹との緩やかな同盟関係が誕生した。この同盟の仮想敵国は宋である。
ところが、その契丹が金帝国の前に敗れ去ったのみならず、金帝国が宋の北半分を制圧したのである。南半分に亡命政権ができたと言っても、いつ、金帝国が宋の残る半分を制圧するかわからない。海を隔てた国の出来事であるとは言え、また、海軍力の乏しい金帝国であるとは言え、日本海の向こうに、そして、東シナ海の向こうに大帝国が成立したとあっては、いつ、その大帝国の軍事力が日本に向けられるかわからないのだ。実際、ついこの間まで契丹に服従することで存続を図ってきた高麗は、契丹に変わる覇者となった金帝国にいち早く臣従することで安寧を確保していたのである。陸で国境を接していないことは時間的猶予を図ることを許しても、絶対平和を許す要素にはならない。刀伊の入寇は忘れられない出来事であったし、かつては新羅人が、現在は高麗人が中心となっている海賊の脅威は現在進行形で忘れることのできない出来事なのだ。金帝国がこうした脅威を取り締まるなら歓迎すべきことになるが、その保証はどこにもない。
より恐ろしいのは脅威に加担する側になることである。
日本がここで南宋と公的な関係を築くことは、金帝国を仮想敵国とする同盟関係を南宋との間に結ぶことにつながりかねない。日本がいくら同盟関係はなく商業関係のみであると主張しようと、軍事力を行使する側にそのような理屈は通用しない。
古今東西様々な侵略があるが、理由なしに侵略を始める者はいない。侵略を始める者は、復讐を、あるいは解放を名目にして軍事行動を起こす。たとえば、ヒトラーは復讐を、スターリンは解放を名目に侵略を繰り広げた。理由を見つけることができないときは理由を捏造する。ヒトラーはドイツ人が殺害されたことを、スターリンは共産主義による解放を求める訴えがあったことを捏造して、侵略を始めた。理由がなければ理由を捏造して始めるのが侵略というものだ。だが、それでも理由無しには侵略を始めない。理由無き侵略は大義を得られず、軍勢指揮を困難にさせるのである。
民間人ならともかく日本の朝廷に仕える貴族が南宋と貿易をするということは、金帝国の視点に立つと、南宋と日本が公的に金帝国に対抗する軍事同盟を結んだに等しくなる。たとえ本人にその意思がなかろうと、そして、多くの貴族がその意思を持っていなかろうと、一人の貴族の行動は、その国全体の行動と同一視されうる。現在でも、一人の議員の勝手な行動が、その国の国民の意思も、その国の議会の意思も無視したものであるにもかかわらず、議員が行動したというまさにその一点で、その国の意思と行動であると判断されてしまうことは多い。ネットの普及によって情報の正確性が向上し、マスメディアが国の意思と行動と報じようと一般庶民は単なる一議員の勝手な行動であると正しい判断ができるようになったが、それでもまだ、その判断を下せるのはある程度のネットリテラシーのある者に限定されている。ネットどころかマスメディアすらなかった時代、それだけの情報処理をこなせる者はそこまで多くはない。
平忠盛は、自分の行動が金帝国に絶好の侵略理由を与えてしまうことに気づかなかったのか?
それは考えづらい。他の貴族と違って実際に軍を率いて海賊追補にあたった経験を持つと同時に、沿岸警備の経験も持っているのが平忠盛である。その平忠盛が侵略される危険性を全く考えなかったとは考えられない。侵略される危険性がないと判断したか、侵略される危険性はあるが、それでも南宋との貿易と金帝国からの侵略とを天秤にかけて南宋との貿易を選んだかのどちらかとしか考えられないのである。ここで重要なのは、単なる軍事経験ではなく、海戦の経験を持っているということである。海賊は貧困から生まれるが、海賊と向かい合う海軍は貧困では維持もできない。船を作り、装備を整え、人員を集め、航海するだけでも相当な予算が必要だ。ましてや海軍を動員して攻め込んでくる相手となると、こちらもある程度の予算を用意しておかなければ太刀打ちできない。その予算を南宋との交易で豊かになることで生み出すことができれば太刀打ちできる。侵略者は理由なしに侵略することはないが、勝ち目なしに侵略することは多くはない。勝ち目なしに侵略することはゼロではないが、侵略とは死の美学ではなく生の富貴を求めて起こす行動であることが普通である以上、侵略が失敗に終わるだけでなく死ぬとあっては、侵略など検討する価値もなくなる。
平忠盛が狙ったのは、南宋との貿易によって一次的に豊かになることではなく、豊かさの再生産を生み出す経済システムを作り上げることであった。豊かになれば日々の生活にゆとりが生まれるだけでなく、戦争を仕掛けられたとしても勝ちきることのできる可能性が高まる。豊かになれば人口を増やせるし、豊かになれば船も増やせるし、豊かになれば装備のレベルも上がっていく。海軍力を上げれば南宋との交易をしたとしても金帝国からの侵略を食い止めることができる。戦争を恐れて消極的になり貧しい暮らしを選ぶか、戦争のリスクを考慮しても積極的になり豊かな暮らしを選ぶか。これはどちらが正しいか間違っているかではなく、思考の違いである。