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鳥羽院の時代 2.諍う若者たち

2020.04.01 04:00

 さて、長承二(一一三三)年の三月頃から一つの記録が見えてくる。旱魃の記録である。とにかく雨が降らないのだ。もっともこの時点ではまだ慌てた様子はない。単に雨が降らずに作物に影響が出るかもしれないとはあるが、それだけである。この時代、雨が降らないとなれば雨乞いもするが、それすらない。
 後の記録を知る者は、このときの旱魃が危機のスタートであることを知っている。だが、それを知らなければこのときの呑気な様子はむしろ正解とするしかない。言い伝えとしても「日照りに不作無し」というのはある。全く雨が降らないのではさすがに作付けに影響が出るが、日本国の河川はそう簡単に水量がゼロになるということは無い。河川の始まりである山はその多くが森林に覆われ、森林はその多くが地面に水をたたえている。足を踏み入れたことのある人は多いと思われるが、その中に、森に覆われた山の地面が乾いているなどというのを見たことがある人がどれだけいるであろうか? 山を覆う森はダムほどの貯水量は無いにしても天然のダムとして河川への水の供給源となり、日照りであっても山を覆う森からもたらされる水分が多少なりとも河川に水を供給する。田植えが始まろうかという時期の日照りは不穏なものではあるが、それで今年の作付け不良を考える人は少ない。地獄の始まりは後世の者が歴史の視点に立つことによってのみ知ることができるものであり、実際に地獄の始まりに立たされた者はその時期を迎えていることに気づかない。
 地獄の始まりであることを知らぬ人たちがワイドショー的に着目していたのは、一人の女性の入内であった。長承二(一一三三)年六月二九日、一人の女性が入内した。藤原忠実の娘である藤原勲子である。政界復帰を果たした藤原摂関家の有力者が娘が入内したのだから、これだけを見れば特におかしな話ではない。
 ところが、藤原勲子の年齢と、藤原勲子が誰に入内したのかに視点を向けると異例な話になる。年齢はこのとき三九歳。そして、崇徳天皇ではなく鳥羽上皇への入内である。年齢も異例だか上皇への入内など前代未聞だ。
 ただし、当時の人はこの入内を異例とは思っても、純粋に祝福すべき入内と考えていた。藤原勲子は三九歳という年齢まで声が掛からなかったわけではなく、運命に翻弄され続け、この年齢になるまで入内が許されずにきてしまった悲劇がこれで終わると誰もが考えたのだ。受け入れる鳥羽上皇も、これだけの年月を経て、それも天皇を辞して上皇となってようやく受け売れることが許されたのかという万感の思いであった。
 藤原勲子はもともと、天仁元(一一〇八)年に当時の鳥羽天皇のもとに入内する予定であったのだが、この入内に対して白河法皇の出した交換条件に、父である藤原忠実が難色を示したことで白紙になったという経緯があったのだ。白河法皇の寵愛する祇園女御の養女である藤原璋子を藤原忠実の息子である藤原忠通に嫁がせることが藤原勲子を鳥羽天皇のもとに入内させることの交換条件であったのだが、藤原璋子が亡き藤原公実の子であることに藤原忠実が難色を示したのだ。白河法皇の寵愛する女性の養女なだけであれば藤原摂関家にとって何の問題も無かったであろうが、藤原公実の子となると藤原摂関家の中心が藤原道長の子孫の系統から藤原公実の系統へと移ってしまう可能性が出てくるのである。これは藤原摂関家の主導権争いにおいて許されざる話であった。
 とは言え、藤原忠実は娘の入内そのものを諦めたわけではなかった。交換条件なしの入内は模索し続けていて、保安元(一一二〇)年一一月には、白河法皇が熊野詣で京都を離れている隙を狙って鳥羽天皇に入内させようとするところまではできた。実際、鳥羽天皇はこのとき、藤原勲子の正式な入内を公表している。ところが、これに白河法皇が激怒した。藤原勲子の入内を認めないどころか、関白藤原忠実の内覧停止命令まで出したのである。関白から内覧の権利を取り上げるというのは事実上の左遷命令だ。藤原忠実は運が尽きたと言って内覧停止命令に従い、藤原勲子の入内は白紙に戻った。
 それから一三年を経て、藤原勲子はようやく鳥羽天皇の、いや、すでに退位して院政を敷いていた鳥羽上皇のもとに入内できたのである。鳥羽上皇にとってはようやく祖父白河法皇の呪縛から逃れることができたということか。
 このときの藤原勲子への祝福なのか、この頃になると、旱魃の記録が消え、その代わりに祝福すべき雨の記録が増えてくる。何しろ、ただの雨ではなく霖雨(りんう)、すなわち恵みの雨とまで記しているのだ。霖雨(りんう)がなかなか終わらぬこと、それが水害を招き農地にダメージを与えることを、このときの人たちはまだ知らない。
 鳥羽上皇は、それまでの藤原勲子に強要された不遇を一気に解消するかのように藤原勲子に特例を次々と与えていった。そもそも上皇に入内するという時点だけでも異例であり特例であるのだが、それですら問題にならぬほど、特例を積み重ねていったのである。
 年が明けて長承三(一一三四)年三月二日、まずは女御宣下が与えられた。藤原勲子は天皇の妃ではなく上皇の妃である。上皇のもとに入内した女性が女御になるというのは前代未聞であったが、この後のことを考えれば、このときの前代未聞も儀礼みたいなものであった。
 同年三月一九日には藤原勲子が皇后宮に冊立されたのである。これは、女御宣下をはるかに超える前代未聞の出来事であった。同日、藤原勲子は泰子と改名。
 白河法皇の逆鱗に触れたために隠居することとなった藤原忠実が政界に復帰し、入内が許されなかった藤原勲子、いや、藤原泰子が皇后にまで上り詰めた。これで、当時の人は白河法皇の呪縛が終わりを迎えたことを悟った。
 と同時に、新しい時代の萌芽も現れた。
 藤原泰子の皇后冊立と同時に正二位権大納言で実弟でもある藤原頼長が皇后大夫兼任となり、姉のサポートをすることとなったのである。と書けば弟が姉のサポートをすることになったのかとだけ感じるが、実際にはそう単純では無い。いつかは藤原氏のトップの地位に立つことが決まっている藤原頼長を、兄のもとから姉のもとに移すことが主眼だったのである。
 藤原泰子の入内から皇后立宮までの過程で穏やかならぬ心境に至ったのが関白藤原忠通である。と言っても、心境を穏やかならぬものとさせたのは藤原泰子ではなく藤原頼長の存在であった。より正確に言えば、父である藤原忠実が、自分ではなく弟を藤原氏のトップにするために藤原頼長に対して露骨な行動を見せたことであった。藤原忠通自身、自分の後を継ぐのが弟の藤原頼長であることは受け入れていたが、それはあくまでも自分の後継者としてであって、父の藤原忠実の威光も、姉の藤原勲子の威光も認められないと考えていた。しかし、今の構造は、自分がいてもいなくても構わない構造になってしまっている。ただでさえ関白でありながら内覧の権利を奪われているのがこのときの藤原忠通であったが、それでも関白にして藤氏長者であるとの自負は抱いていた。しかし、このままでは自分が全否定され、鳥羽上皇から藤原勲子を経由して藤原頼長のもとに藤氏長者の地位が流れていってしまうことは目に見えた。ただでさえ父の復帰で心中穏やかならぬ状態であるところでのこのニュースは、不穏な未来を実感させるに充分であった。


 政治家として為すべきは庶民生活の向上である。
 この視点で、白河法皇の呪縛から脱却した鳥羽上皇はどうであったか?
 天は鳥羽上皇の味方ではなかった。
 藤原泰子の皇后立宮とほぼ同時期に京都を洪水が襲ったのである。このときはまだ修理可能な規模の洪水であったが、長承三(一一三四)年五月一七日に発生したこの年二度目の洪水は絶望的なものであった。前年春の日照りのせいでその後の雨を霖雨(りんう)とまで記したほどであったが、霖雨はなかなか止まなかったのである。それどころか、雨が止まぬことを嘆く記録が増えてきて、止まぬ雨は河川の増水を招いた。いかに森林が天然のダムであると言っても、その貯水能力はダムにははるかに及ばない。すなわち、現在のようにダムがあればどうにかなるであろう雨でも、貯水能力を超えた水量は河川を増水させる。
 平安京は、三方向を山に囲まれた地形である上に、東に鴨川、西に桂川が流れる都市であるが、これに加え、都市内の水需要を満たすために南北に多くの水路を張り巡らせている。基本的に、平安京内とその周辺の水は北から南へ流れると考えてもらえればいい。
 川の水が溢れるのは上流よりも下流である。より上流から流れ込んだ水が通り過ぎるだけであっても、上流から流れ込んできた水をより下流に流さねばならない。しかし、流し込むべき場所がないとなると限界を迎え、水が溢れる。平安京の地価が北に行くほど高く南に行くほど安くなっていたのも、北の方が貴族たちの高級住宅街であるという認識に加え、実際に水害に遭う可能性を考えれば当然の結果であった。
 洪水が起こると、まず打撃を受けるのが平安京の南部である。水が豊富であるからこそ都市として発展できているのであるし、庶民街を形成できてもいたのであるが、水が豊富であるということは水害が起こりやすいということでもある。そして、水害が起こると庶民街が真っ先に被害を受ける。住まいが流され、人が流され、多くの命が失われる。
 天災を、天から突きつけられた執政者失格のサインとするこの時代の考えに従えば、この年の二度の洪水は白河法皇の呪縛から脱却した鳥羽上皇に対して突きつけられた天からのサインということになるのだが、当時の人はそう考えなかった。少なくとも、鳥羽上皇を悪しざまに評する人はいなかった。
 なぜか?
 鳥羽上皇がこの災害に真正面から向かい合ったからである。
 本来であればそれは朝廷の仕事であった。平安京の区域内なら京識、平安京の敷地を一歩でも出れば山城国府が最初に向かい合うのが律令に定められた自然災害時の規定であるが、首都であり、かつ、この時代最大の都市で発生した大規模自然災害で、それは地方の仕事であって国の仕事でないと突き放すようなことがあればそのほうがおかしい。しかし、このときの朝廷は何もしなかった、いや、何もできなかったのだ。何もできなかったからこそ鳥羽上皇が真正面から向かい合ったのだ。 


 鳥羽上皇が何をしたかの前に、朝廷がなぜできなかったのかの記す必要がある。
 そもそも、朝廷はなぜ何もできなかったのか?
 答えは簡単で、予算が無かったのだ。
 まったく、この時代の朝廷の資産の少なさは異常だ。徴税という仕組みが無くなったわけではないが、どこもかしこも荘園になってしまい、荘園領主への年貢は納めても国への税は払われず仕舞い。乏しくなった朝廷資産をどうにかしようと朝廷が徴税できる荘園外の土地に税を課すも、税率が重くなって払えずに逃亡。逃げ込む先が荘園ならまだマシで、強盗集団や海賊に流れ込んでしまう例も続出とあれば、これ以上の増税は無理だ。かと言って、荘園に税を課そうとしてもそれはもっと無駄。そもそも荘園の存在意義の第一は税に頼らない生活である。税を納めないが税に頼らないというのが荘園であり、その権利を自らの権勢で認めさせているのが荘園領主だ。有力寺社が荘園領主である場合はともかく有力貴族が荘園領主だと、彼らはこのような行動に出る。
 自分は税を払わないが他者には税を払わせる仕組みでの増税だ。
 それでも白河法皇の前まではどうにかなったが、白河法皇以後は、それまで税を払わされて続けていた土地がことごとく院の荘園になった。こうなるともっと税が徴収できなくなる。結果は財源の絶望的な不足だ。
 この年、二度の洪水が京都を襲ったと記した。そして、一度目は修理可能な規模であったが、二度目はそう記さなかった。二度目のほうが規模の大きな洪水であったこともあるが、それより重要な問題があった。朝廷が捻出できる予算が一度目の水害で枯渇したのだ。現在のように赤字国債という概念があれば税収以上の支出も可能となるが、この時代は税収だけが支出可能額である。
 国家の歳入不足の問題は以前からあったが、そのときは有力貴族、特に藤原摂関家の私財による緊急出動という方法で回避できていた。藤原道長のように平安京を襲った火災に対処すべく全資産を供出することだってあった。しかし、この時代になるとそれも期待できなくなった。藤原摂関家始めとする有力貴族が吝嗇になったのではない。私財そのものが減っていたのだ。藤氏長者は一人しか就任できないが、藤氏長者が藤原氏の全資産を手にするのではなく、継承するのは父の資産の一部である。藤原氏に次ぐ有力貴族の源氏に至っては、藤氏長者に相当する概念そのものは存在するものの、それが資産を伴うものではなく、資産は各々が築き子供に継承させている。子供が複数いれば分割される。分割された資産を元手に荘園開拓をして資産を増やすことはあるが、それで父代を超える資産を築き上げることは極めて少ない。この時代から見て一〇〇年前の藤原道長のように全資産供出をしても、一〇〇年前の藤原道長のような成果は得られなくなってしまったのである。
 これで、なぜ鳥羽上皇が災害と真正面に向かい合ったかの答えが出る。この時代の資産状況で、国家予算に代わって救済にあたれるだけの資産を持つのは、ただ一人、鳥羽上皇しかいなかったのだ。
 鳥羽上皇は白河法皇の作り上げた院というシステムの継承者であり、その資産の大部分を増やしただけでなく、院というシステムの拡張という形で自らの資産を増やした人でもある。ただし、出て行く額も大きかった。白河北殿や三条烏丸殿といった建物を建てさせているのも、建物を建てることそのものよりも、建設という仕事を用意しての失業対策であり、同時に、災害からの復旧までの仮の住まいの提供という意味も持っていた。建設するとき、真っ先に建てるのは建設作業員用の宿舎であるし、建設期間中は食事も出る。建設に関われば衣食住のうちの食と住が保証されるとあれば、当面の生活はどうにかなる。また、建設技術を学べば、朝廷や院、有力貴族や寺社といったところでの建設需要に応えることのできる技術者にもなれるし、この時代の一般庶民の家の構造を見れば、自分で自分の家を建てることも可能だ。建設現場で働いて稼いだ額で建築用資材を買って、水害で流された自宅を自力で建てなおすことは非合理的とは言い切れなかった。
 こうした鳥羽上皇の救済策についてこのように考える人はいないであろうか?
 建設現場で働けない子供や女性や高齢者はどうなるのか、と。
 鳥羽上皇はこれについても対策を出している。もっとも、建設が水害からの復興対策だと考えた鳥羽上皇が、それでは救いきれない人がいると気づいて打ち出したであろうことは推測可能だ。というのも、対策を出したのが遅すぎるのだ。
 その対策とは、コメの支給である。年が明けた長承四(一一三五)年、鳥羽上皇はコメの無料配布を始めた。コメは食料であると同時に、貨幣経済が復活しつつあるものの依然として貨幣としての価値も持っている。そのコメを無料で配布するというのは、食糧支援と同時に災害被災者への義援金でもある。鳥羽上皇が配布したコメの量は、長承四(一一三五)年三月一七日に一〇〇〇石、四月八日に三〇〇〇石という数値を数えた。このときの無料配布に集まった民衆の様子を、当時の記録は「千万人集会」と書き記している。 


 スタートは水害に対する復旧支援であったが、鳥羽上皇のもとには、そして、朝廷のもとにはこの頃、水害より深刻な、しかし、人間のやることであるがために人間の手でどうにかなる問題の報告が届いていた。
 長承四(一一三五)年四月に届いた瀬戸内海の海賊問題だ。
 朝廷では誰がどのように対処すべきなのか議論が集中した。具体的には、源為義と平忠盛のどちらを派遣すべきかという点で議論が二分していた。海賊を犯罪集団と捉えると、鳥羽上皇から拒絶されるようになったとは言え源為義はなお検非違使であり、警察権力の発動ということではおかしなことではなかった。一方、平忠盛の公的地位は備前守であり、瀬戸内海に面する令制国の国司が軍を指揮して治安維持にあたることもまたおかしなことではなかった。そう、公的には。
 ただし、検非違使を送るか国司に軍事行動をとらせるかというのは名目であって、実質はどちらの武士を派遣するかという問題であった。源為義を推す貴族は、軍事力そのものは清和源氏の方が優れていると述べ、平忠盛を推す貴族は平忠盛の海戦経験を述べたのであるが、そこには裏事情も存在したのである。海賊討伐は危険な職務であるために見返りも大きなものとなる。この時代の見返りと言えば、位階か官職のどちらか、あるいはその両方ということとなる。この時点で源為義はまだ貴族の一員とカウントされていないが、平忠盛は貴族の一員としてカウントされているだけでなく、その息子の平清盛まで貴族の一員とカウントされるようになっている。ここで海賊討伐という危険な任務に対する褒賞を用意するとなると、源為義相手であれば位階も官職もさほど大きなものとならないが、平忠盛のものとなると相当に大きなものと、それこそ、今まさに議論をしている貴族たちを追い抜く権勢を手に入れるほどのものとなる。
 貴族たちの議論が並行している最中、議論の趨勢を決めたのは鳥羽上皇の意見であった。鳥羽上皇は源為義派遣に対し「為義を遣わさば路次の国々自ずから滅亡か」と述べたと当時の日記に記されている。これで源為義を派遣するという意見は完全に潰えた。
 それにしてもなぜ、鳥羽上皇は源為義をここまで否定したのか。
 大治四(一一二九)年に暴行事件の犯人逮捕のために奈良に派遣された源為義が、逮捕ではなく容疑者を保護したために鳥羽上皇の怒りを買ってから五年以上経過している。その間、鳥羽上皇が怒りを抱き続けていたのはその通りであるが、源為義は源為義で、怒りを鎮めさせるどころか火に油を注ぐことをしていたのである。延暦寺の僧侶を逮捕させようとしたら、誤って無関係である藤原季輔に源為義の郎党が暴行を加えたという事件があった。藤原季輔は、鳥羽上皇から見て母方の従兄弟にあたる人物である。また、丹波国に郎党を派遣したと思ったら、犯罪者の逮捕どころか郎党のほうが殺人事件を起こしたという事件もあった。どちらも源為義自身ではなくその郎党の所業であるが、武士団を率いる人間であるにもかかわらず、部下がこのようなことをしても何もできないでいる人物を、果たして信頼できるであろうか?
 長承四(一一三五)年四月八日、平忠盛に対し海賊追討の命が下った。その日は奇しくも、鳥羽上皇が二度目のコメの無料配布を実施した日でもあった。 


 長承四(一一三五)年四月二七日、保延へ改元。
 ほぼ同時期に、平忠盛の軍事行動が始まった。
 瀬戸内海からは平忠盛の軍事行動の様子が京都に届いていた。
 見事なまでに海賊を討伐していく平忠盛からの戦況報告に京都は沸き返ったが、同時に一つの噂も流れ始めた。平忠盛から届く戦況報告がウソなのではないかという噂である。
 この時代は現在のように戦場報道記者や戦場カメラマンなど存在しない。見えないところで戦闘があることは知っていても、戦況報告は公的な記録か非公式な伝聞のどちらかしか存在しないのである。この時代の瀬戸内海はこの時代の最重要交通路でもある。人も、モノも、情報も、瀬戸内海を通ってくるのが最も早い。にもかかわらず、瀬戸内海で行われているはずの戦闘についての情報が流れてこない。これは異常だと誰もが感じた。商人が船に乗って西から東にやってくるし、漁師が瀬戸内海に出て漁をしているのだから、瀬戸内海で繰り広げられているはずの戦闘についての伝聞が届かないのはおかしい。ただし、海賊がいるのは事実で、被害にあったという報告ならば届いている。
 この奇妙な事態は保延元(一一三五)年六月の情報でピークを迎えた。平忠盛から海賊集団の首領を逮捕したという情報が寄せられたのだ。
 四月に出発して六月に逮捕。時系列的におかしくはないが、早い。出発してから何もかもがうまくいきすぎていて、公式情報は平忠盛からの報告しかなく、瀬戸内海を通る商人からも、瀬戸内海で漁をする漁師からの伝聞もないというタイミングで首領逮捕の情報が届いたのである。
 平忠盛が凱旋したのは同年八月一九日。凱旋する軍勢の中には捕らえられた海賊七〇名の姿もあった。壮大な軍事パレードは平安京の人たちを熱狂させたが、同時に、冷めた目で迎え入れられもした。この日の様子を権中納言源師時はその日記に「忠盛朝臣虜海賊七十人渡検非違使」と平忠盛から七〇名の海賊を検非違使に渡したことを記しているが、同時に、「此中多是非賊只以非忠盛家人者號賊虜進云々」と海賊の多くは忠盛の家臣ではない者を海賊ということにして捕らえて連れてきたのではないかとも書き記している。
 さらに不可解であったのが、平忠盛が凱旋した二日後の保延元(一一三五)年八月二一日に平忠盛本人ではなく、その息子の平清盛が海賊討伐の功労として従四位下に叙せられたことである。本人ではなく息子がこのような処遇を受けるのは異例中の異例であり、この一件は、平清盛は平忠盛の子ではなく白河法皇の隠し子であるという噂に拍車をかけることにつながった。
 ただ、こうした噂は無責任なものであるとも感じる。
 実は、平忠盛が海賊討伐に出向いたとき、平清盛も実際に従軍しているのである。いや、従軍していたどころの話ではない。平忠盛が全体の指揮をとるが、軍勢は大きく二分され、半分をこのときわずか一八歳の平清盛が率いていたのである。平忠盛の率いる水軍となると、瀬戸内海だけでなく日本近海の海賊が姿をくらます。平忠盛がいる間は海賊が静かになるが、平忠盛がいなくなると再び暴れ出すというのはもはや通例になっていた。だとすれば、平忠盛が軍勢を指揮するわけにはいかない。姿を見せない海賊を拿捕することはできないのである。そこで、息子に軍勢の半分を指揮させ、平忠盛がいない代わりに息子が指揮しており、その上で、平清盛は海の経験が乏しいのだと思わせる行動を取らせたのである。海戦指揮に慣れた者がトップに立つ軍勢は航行する船の並びからして違う。いつでも攻撃できるように、それでいて攻撃を受けても防ぐことのできるように整然と並んでいる。一方、平清盛が指揮する船団はバラバラ、のように見えた。親が海戦のスペシャリストでも息子はそうではないという情報が伝われば海賊も出てくる。海賊にしてみればここで平清盛を拿捕すれば、さらには殺害に成功すれば、平忠盛に対する大打撃を与えることも可能だ。うまくいけば海賊稼業を今以上に堂々とできるようになる。
 船の並びがバラバラである平清盛の軍勢を見た海賊は海戦に打って出た。と同時に、海賊たちは思い知った。平清盛の率いる軍勢は囮で、平忠盛の率いる本隊は後ろに控えていることを。平忠盛は息子に囮をつとめさせて海賊を引き出し、回り込んで挟み撃ちにすることで海賊拿捕を狙ったのである。作戦としては申し分ないものであった。
 ただ、平忠盛の立てた作戦は、予想を良い方に裏切った。平清盛が父の軍勢を必要とせずに海賊に完勝してしまったのである。囮が持ちこたえている間に駆けつけて海の上でとどめを刺そうとしていた平忠盛が目の当たりにしたのは、海戦の光景ではなく、息子が捕らえた海賊たちの姿であり、伊勢平氏の武士たちを完全に掌握した息子の姿であった。
 こうなると、いかに平忠盛が総指揮をとっていると言っても、評価すべきは平清盛となる。平忠盛は何もしていないではないかという不満すら伊勢平氏の武士たちの中に生まれきつつあったのである。この現状を踏まえると、平清盛に何の褒賞も与えないというのは得策ではなくなる。平忠盛が総指揮をとった軍勢のうち、別格で優れた功績を残した平清盛を従四位下に昇格させることは、異例どころか、あるべき姿と評するしかなかった。 


 さて、海賊跋扈の話が瀬戸内海から届き、その対処を平忠盛に命じ、討伐の主軸を為した一八歳の平清盛に褒賞として位階を与えたところまでは鳥羽上皇は正しい判断をしたといえる。
 しかし、海賊跋扈の真因について対処をしなかったことについては称賛できなくなる。
 海賊跋扈の真因、それは、不作である。収穫が乏しくなってしまったのだ。収穫が乏しくなり、市場(しじょう)に出回る食料品が減り、都市生活者が食料を手に入れることができなくなった。水害は直接の原因であり、水害復興を目的とした公共事業投資は失業者を減らす効果を生んだが、食料品が出回らない以上、働いて給与を得たとしても食料を手に入れることはできない。タイミングの悪いことに、貨幣経済が復活しつつあった。そして、建設労働者に支払われる給与は、従来であればコメや布地であるべきところが、コメ、布地、そして宋銭という三重構成になってしまったのだ。これまでであれば、給与として受け取ったコメをそのまま調理して食べることもできたし、コメを持って市場(いちば)に行って欲しいモノを手に入れることもできた。コメが足らなければ布地を持って市場に行けばコメが買えた。
 ここに宋銭が絡んだ。宋銭を持って市場(いちば)に行っても、そもそもの収穫量が足らないのだから市場(いちば)にコメをはじめとする食料品は並ばない。それでいて食料品を欲しがる人は多い。こうなると、ただでさえ乏しい食料品の値段は上がる。消費財の生産が悪化しているときに給与を増やすとハイパーインフレが始まるのは古今東西どこでもある話だ。
 それでも職を得て給与を得ている人はまだマシと言える。問題は職に就けない人だ。年齢や性別、疾病や怪我といった、本人の意思ではどうにもならない人に、働かざる者食うべからずなどと言い放つ人はいない。だが、食えないという現実は容赦なく押し寄せる。鳥羽上皇は平安京内外の貧しい人のためにコメの無料配布をしたが、それは一次的な対処でしかなかった。より深い問題、すなわち、そもそも今後どうやって生きていくかという術を失った人に、明日の生活を保証する必要はどうしてもあった。具体的には食料ではなく、多様な職業を用意し、健康上の問題や年齢とか性別とかいった事情で職業が絞られる人にも職業で食料を得る術を用意しなければならなかったのに、鳥羽上皇は、そして、このときの朝廷は、全くと言っていいほど用意しなかった。公共事業は失業者を減らすが、ゼロにするわけではない。
 職もなく、食にありつけぬ人が増えた結果が海賊であり、海賊討伐に待っていたのは飢餓だった。保延元(一一三五)年には不作と食糧不足の傾向が見られるというニュースであったのが、翌保延二(一一三六)年になるとはっきりと飢餓というニュースになる。京都市中で餓死者が続出するようになったのだ。
 西暦一一〇〇年頃は現在よりも海水面が高かったが、毎年海水面が下がってきていたことを、地形に残された痕跡は伝える。現在は地球温暖化が環境問題となっているが、この時代は現在と逆に寒冷化が環境問題として存在していたのだ。
 それでなくともコメというのは熱帯性の食物である。気温が下がればそれだけで収穫が減る。ただ、それだけでコメの作付けが悪くなったわけでは無い。寒さも要因の一つであるが吹き荒れる台風もコメの作付けに大打撃を与える。風そのものもそうだが、台風が生み出す水害はもっとそうである。
 それでも、一年間だけであれば翌年の収穫に希望は持てる。ところが、保延二(一一三六)年の飢饉は一年だけの特例として発生した飢饉では無かった。複数年に渡っての寒冷化と自然災害、そして人災が招いた飢饉だったのだ。
 最初の記録は長承二(一一三三)年の三月に見える。ただし、そのときは単に水不足を伝える記録であり、水不足であるが一時的なものとしか感じられず、この時点ではまだこの年の収穫に不安を感じさせる記録では無い。しかし、長承二(一一三三)年の八月になって記録に登場するようになるのは、水不足の逆を行く霖雨(りんう)である。霖雨(りんう)は本来であれば恵みの雨である。水不足なのだから降りしきる雨は恵みの雨であろう。霖雨(りんう)の記録の始まりは雨を喜び歓迎する記録である。ところが、雨が止まない。いつまで経っても青空が姿を見せないのだ。結果は凶作。実るコメの粒が減ってしまった。
 コメは複数年の貯蔵が利く食物である。貯蔵していれば一年の不作ならどうにか耐えることもできる。しかし、二年、三年と続くと耐えることは困難になる。長承三(一一三四)年は前年と同様に雨が降ったことを伝えるが、そこに霖雨(りんう)の記録は無い。あるのは水害の記録である。
 水害だけでも充分に大問題となる自然災害であるが、長承三(一一三四)年の記録は水害だけで収束してはくれない。台風と大火がここに加わり、年末になると咳病が大流行した。今ではインフルエンザの大流行と記録に残るであろう。
 食料不足イコール飢饉ではない。食料不足の状態にとどめておいて食料生産をどうにかすれば、あるいは食料輸入を国策として展開すれば、飢饉を防ぐことはできる。ましてや、南宋はコメの生産が需要と供給のバランスを崩しコメの価格が下がっていたのである。つまり、南宋からコメを輸入するという手もあったのだ。理論上は。しかし、朝廷は食料輸入を選ばなかった。あるのは民間が利益を求めて行う私的交易のみであり、国家戦略としての海外公益ではなかったのだ。
 食料不足イコール飢饉ではないが、飢饉の恐れとはイコールである。目の前に食料が無く、明日の食事はどうやって手に入れればいいのか、明日はどうやって生きていけばいいのかという恐れは飢饉への恐れを生み出す。その恐れを時代の執政者への不平不満として訴えているうちはまだいい。不平不満を述べるということは公権力でまだどうにかできると考えていられるのだから。もっとも、自分が公権力を握れば問題が全て解決すると考える図々しさも持ち合わせているのだから、脳天気といえば脳天気な話でもあるとは言える。しかし、公権力でどうにかなる話ではないと考えるようになると、すなわち、自分の明日は自分の手で作り出さなければならないと考えるようになると、絶望的な社会が到来する。アナーキズムだ。アナーキズムとカタカナで記すと穏やかな感覚になってしまうのは日本語の悪しき点であるが、アナーキズム、日本で言う無政府主義というのは、公権力の存在しない無秩序状態を意味する。生きるために働くのではなく、生きるために盗みあい、奪いあい、殺しあうという状態だ。働いて得た収穫は奪われる対象でしかなくなるというのに、これで誰が真面目に働くというのか。自分が公権力を握れば問題は解決するという脳天気さを持ち合わせていないだけマシと言えるが、アナーキズムの民度もたかが知れている話である。海賊にしろ、山賊にしろ、公権力に楯突くという点ではアナーキズムである。世の中には様々なアナーキズムが存在するが、その全ては強盗集団の言い換えでしかない。
 アナーキスト集団が、より正確に言えば強盗集団が暴れまわる中で、真面目に田畑を耕し、真面目に海洋に出て漁労に励むことができる人は少ない。その少ない人というのは、強盗集団に立ち向かう勇気のある人たちではなく、強盗集団を力でねじ伏せることのできる武力を持った人たちである。一見すると自分たちで自分たちを守る、あるいは自分たちを守ってくれる人たちがいるという安心感を抱くかもしれないが、これはかなり危険だ。自分たちの生産を守るのではなく、自分たちの生活を守るようになった場合、生きていくために他者の生産を奪うという選択があるのだ。
 スタートは天候不順による作付不良という天災でも、時間とともに人災による収穫不足へと変わる。それは飢饉への恐れから、飢饉そのものへの変化に等しい。そして、飢饉に直前した人が流れ込むのは都市であるというのは古今東西変わることのない現象である。都市に行きたいから都市に行くのではない。都市しか生きていられる可能性のある場所がないから都市へ行くのだ。そして、この時代の都市と言えば、平泉、奈良、難波、太宰府、博多、そして、それらの都市の全てを上回る規模である京都。これらの都市に人は集まり、今の安全と未来の可能性を求めた。ただ、その可能性は簡単に失望へと変わった。
 保延二(一一三六)年一月七日付として信じられない記録がある。『百錬抄』のこの日の記事には「節会、公卿饗無飯」、すなわち毎年一月七日に開催する皇室の行事のために集った貴族たちに対し、朝廷が饗宴用の料理を用意することができなかったというのである。いかに食料不足とは言えこれは異常だ。食料不足に対するアピールとして「朝廷も料理を提供しなかった」と公表して「お偉いさんがたは旨いもの食いやがって」という怒りを沈静化する意味もあったであろうが、「朝廷ですら料理が出ない」というのは飢饉への恐怖を増幅させる効果もあったのだ。


 保延二(一一三六)年の飢饉について、朝廷でどのような検討がなされたかの記録が残っている。崇徳天皇の名で勘申、すなわち、現状の分析とその対策を広く求めたのである。これは朝廷の限界を示すというよりも、不満をそらせる効果のほうが大きい。と言うのも、誰もが現在の状況も問題を認識し、その上で解決することを願っているのだ。分析と対策を挙げさせるのは、その願いの難しさと、案を出したときの稚拙さを悟らせる効果を持つ。もっとも、ごく稀ではあるが具体的で実行可能、それでいて稚拙でないという意見も存在する。そうなったら意見を挙げさせた者を抜擢して担当者にすればいい。報酬は出世、それでいて問題は解決するのだから不都合ではない。
 もっとも、天皇への上奏は制度化されている。理論上は誰でも上奏可能だ。ただし、途中に何度もフィルタが挟まる。通常であればいかに有力貴族の意見であろうと議政官の検討を経なければ天皇まで上奏されないのであるが、勘申となると途中を経ずに直接天皇のもとに意見が届く。これは自らの優秀さを疑わず、出世を狙いながらも出世を果たせずにいる貴族にとっては人生一発逆転のチャンスであり、これまでにも何人かの貴族が勘申によって出世を遂げていた。保延二(一一三六)年の勘申においてもこのチャンスを狙った貴族はいて、その貴族の提出した勘申が現在でも残っている。
 現在まで残る勘申を提出したのは藤原敦光。藤原敦光はどのような理由で飢饉となり現在の事態へとなっているかを述べたのち、その対策を書き記している。
 現在の状態に至った理由として藤原敦光が挙げているのは、伝染病の流行、自然災害、治安悪化の三点であり、その上で、三点を包括する解決策を挙げている。
 まず、仏門への信仰心の低下が原因の一端であるとして、寺院の建立と再建、そして大般若経の写経を国費で行うべきと主張し、伝染病の流行以来見られるようになっていた患者の路上放置の禁止の再確認を述べた。伝染病が流行しだすと、家族の誰か、あるいは使用人の誰かが罹患した、あるいは罹患したという疑いがもたれただけで、家の外へと放り出されることが当たり前に見られたのがこの時代である。伝染病のメカニズムは知らなくとも、伝染病患者の近くにいることで自分も罹患する可能性が高まることは知られていた。ゆえに、伝染病に罹らないようにするには、患者を遠ざけるか、自分が患者から遠ざかるというのがこの時代の在り方だった。
 法はこのような非人道的な行いを禁止していたが、守られていなかったのである。藤原敦光は改めて、患者の遺棄は禁止されていることを周知徹底させ、患者は家族が面倒見ること、面倒見る家族がいない場合は寺院が面倒を見ることを主張したのである。寺院興隆の国庫負担は、患者救済を寺院に負担させるという流れでの社会福祉政策でもあった。
 なお、患者の面倒を家族が看るとなると家族の負担が増える。国民皆保険制度どころか近代的な病院という概念もなく、さらに薬はもっぱら輸入に頼っているとなると、患者を個人で面倒見ることに対する費用と時間の負担はかなりのものとなる。そこで藤原敦光は、減税、無償強制労働の廃止、そして、就職先として役人への登用を提唱している。役人は給与が定期的に支給されるだけでなく、家族の介護のための休暇も認められている、この時代にあって数少ない職場である。
 就職先としての役人への登用といっても、能力もないのに役人とすることはできない。少なくとも読み書きはできなければ役人として働くなど到底できることではない。そこで、藤原敦光は学校制度の再興を訴えた。大学を、この時代の正式な名で言えば大学寮をトップとする律令制時代の学校制度はこの時代も形の上では残っていたが、荒廃が甚だしく、大学寮の建物が崩れ、敷地内は草木が生い茂る有様であることを訴えている。本来であれば各地の令制国ごとに国学があり、そこで優秀な成績を収めた者が平安京に上京して大学に入り、大学を卒業して役人になるというシステムであったのだが、大学を卒業しても任官が難しく、任官できたとしても成績より家柄が求められるとなると、大学に通うことのメリットが無くなる。
 能力ではなく家柄で役人を求めるとなると役人の質の低下が懸念されるところであるが、その問題は無かった。藤原氏をはじめとする有力貴族は自前の教育機関を設けて人員育成をし、こうした独自の教育機関を卒業した者を役人として採用すれば役人の質は維持できていたのである。ただし、こうした自前の教育機関に通うことができるのは、藤原氏の経営する勧学院なら藤原氏だけというように、学校の段階で家柄での選抜が行われている。それではあまりにも不公平ではないかとなるが、事実上はともかく理論上は、誰であろうと入ることの許されている大学寮が存在しており、藤原氏の勧学院であろうと、国の経営している大学寮であろうと、そこに差はないということになっている。この状態で貴族独自の教育機関だけで人員を充足できるとなると、公教育に対する重要性への認識が薄れてしまう。このような教育環境ではダメだと思う者は多いとしても、必要とする人材は充足できているではないかとなると、公教育に予算を割くという考えを浮かべることすら難しくなる。
 公教育への予算の必要性を考える者でも、予算には限度があること、公教育への予算を増やすとどこかの予算を削らなければならないことはわかっている。そうでなくとも藤原敦光は減税を主張しているのだから、減税が展開されるとなるともっと国庫収入は減る。さらに言えば、現在ではボランティアという名で呼ばれ、この時代は「庸(よう)」や「徭役(ようえき)」と呼ばれていた無償強制労働も禁止と主張しているのだから、今までのように働いてもらうためには相応の報酬を出さなければならなくなる。つまり、出費が増える。収入が減って出費が増えるところでさらに出費を増やすことを求めるのだから、藤原敦光の主張は無理があるが、これも藤原敦光は考えている。無駄な支出を減らせば必要出費は捻出できるとして緊縮財政を求めるだけでなく、新たな財源を提唱している。現在の感覚で行くと所得税の累進課税、あるいは、個人所有資産に課す税を主張したのである。それも、新しい税を導入するのではなく、現行法で対応可能だとしている。本来ならば払わなければならない税を金持ちが払っていないのが問題なのだから、法を厳密に適用して金持ちに税を課せばいいというのが藤原敦光の主張であった。
 この延長上で治安の回復も可能であると藤原敦光は主張した。寺院再興と学校制度の復活は平安京だけの話ではない。いや、平安京はあくまでも一地域であり、藤原敦光の主眼はむしろ地方にこそ向いていた。海賊や山賊となって暴れ回るのは、海賊や山賊にならなければ生きていけないからであり、寺院再興を図ることで寺院に地方の福祉を担わせ、学校制度の復活により全国各地の者に幅広く職を与えることができると考えたのである。職があれば犯罪に走らなくとも生活できるし、職に就けなくとも寺院が救済に当たれば、やはり犯罪に走る必要がなくなる。
 さらに、教育の推進は寺院再興だけでなく寺院対策にもなっていた。すでに述べた通り、この時代の公教育は完全に破綻していた。しかし、どの時代であろうと学習する意欲のある者はいる。学びたいのに生まれのせいで学ぶ余裕を持てずにいる者に対し、学習機会を用意していたのが寺院であった。寺院には学習の機会が存在していた。文字を学ぶことに始まり、本を読むこと、それも、仏典だけでなく社会科学や自然科学の本を読むことも可能であった。そして、著述を残すことも認められていた。僧侶になり、寺院のために働くことという制約はつくが、この時代、寺院というのは数少ない研究学習施設でもあったのだ。
 それに、寺院の中というのは実力がまだ通用する世界でもある。皇室に生まれた、あるいは藤原氏に生まれた者が出家して寺院に入るのはさすがに特別扱いされることが多いが、それでも理論上は、貧しい一般庶民の生まれの僧侶と区別されることはなく、寺院の中では一人の僧侶であるという扱いになる。裏を返せば、どんなに貧しい生まれであろうと僧侶としての実績で寺院の中で出世できる可能性がある。僧侶としての地位が上がれば貴族に匹敵する社会的地位と生活を手に入れることができるし、地元に残した家族を養うことも可能だ。
 野心ある者を集める理由が寺院には存在していた。その野心は学問だけとは限らない。
 僧兵を苦々しく思う者は多かったが、それでも僧兵の人材不足に陥ることはなかった。学ぶことに興味を示さなくとも僧兵として寺院の警護にあたる者を寺院は常に求めていて、常に人手不足状態であったのだ。深く考えること無く武器を持って暴れていれば生きていけるとなったら、武器を持って暴れる訓練を積むことが求められるものの、これまでの暮らしよりは楽で、今までよりも社会的地位の高い暮らしが待っていることとなる。寺院は人生一発逆転のチャンスを用意する機関でもあったのだから、今までの人生のままで良いのかと考える者を誘えば人材不足に困ることはない。
 藤原敦光が公教育の復活と役人登用を提唱したのは、学習の機会と、人生一発逆転のチャンスの両方を、寺院の外に設けることにもつながることでもあった。僧侶になりたくて出家するのではない。学びたいから、あるいは、生活を好転させたいから出家するのである。出家せずとも学ぶことができれば、そして、人生を変えるチャンスを手に入れることができるならば、寺院の人材過剰を抑え、さらには人手不足に追い込み、僧兵のデモを今よりも小さなものとすることも不可能ではなくなる。
 これらが藤原敦光の勘申の内容である。
 一見すると納得できる提言に見える。おまけに、新しい法は不要で、全て現行法で対処可能だ。いかに感情的に許せないことであろうと法が罰則を定めていなければ罰することもできないし、許せないからと法を作ったところで、その時点では適法であったことを新しい法律を遡らせて罰することもできない。今の日本でそれができるのは日本サッカー協会だけである。しかし、現行法で処罰可能なら罰則の適用も問題ない。これまで裁かれなかったことのほうが間違っているのであり、今後は正しい姿に戻すのだと宣言すればそれで終わる。
 藤原敦光は藤原氏であるが藤原北家の人間ではなく藤原式家の人間である。藤原北家ではないにしても藤原氏であるのは貴族社会で多少は有利に働いたかもしれないが、基本的には自身の学識を以って出世してきた貴族である。勘申を提出した時点の藤原敦光の役職は式部大輔(しきぶのすけ)、すなわち、朝廷の役人の人事を司る式部省のトップであり、大学を卒業した者に試験を課して役人として採用するのも式部省の管轄であるところから、大学の実情、そして、教育環境にも目が向いて、この勘申を提出したのであろう。
 ただ、現実離れした勘申であるとも言える。
 根本原因は寒冷化による収穫悪化である。田畑を耕してもこれまで通りの収穫を残せないという大問題があり、それでもなお、これまで通りの納税を求めてきたのが全ての根幹なのだ。税の苦しみから逃れるために田畑を捨てて逃げることもあったし、武士に頼んで、あるいは自分自身が武装して力づくで税から逃れようとすることもあった。そして何より、荘園があった。荘園の住民になれれば、年貢はあるが税は消える。荘園領主への年貢は国の求める税より安い上に、荘園の住民になれば国が行うよりも優れた福祉を享受できるのだ。藤原敦光の勘申は、荘園については何も記していない。荘園などこの世に存在しないかのように無視されている。自分は寺社に仕える神人や僧であると主張して税を逃れる者がいるという現状認識は述べられているが、荘園については何も記されていないのだ。
 荘園について記さない理由は容易に想像できる。このような提言をする者によく見られる傾向であるが、誰かの負担を増やすことは提唱しても、自分の負担を増やすことを提唱しはしない。自分は今まで通りの暮らしをし、あるいは、自分は今まで以上の暮らしを過ごせるようになることを目論み、その上で、他者に負担をさせることで全体の底上げを図ることが普通だ。これは藤原敦光も例外ではなかった。
 藤原敦光は、その学識と洞察力ならば評価された。しかし、藤原敦光が真に狙っていたこと、すなわち、出世は果たせなかった。そして、崇徳天皇の名で集められた勘申は飢饉対策にならなかった。時間を経ての沈静化を待つしかなかった。
 藤原敦光は自分の意見を自画自賛した。ただ、その自賛に崇徳天皇が応えることはなかった。朝廷が圧力をかけたわけではない。崇徳天皇が勘申の内容を理解しなかったわけでもない。問題の根本解決につながらないと判断したのである。それはこの年の人事からも明らかであった。 


 保延二(一一三六)年の飢饉は平安京内外の多くの人の命を奪った。
 その中には、飢饉とは無縁であるはずの貴族たちも含まれていた。飢饉のさなかでも食料を手に入れることは可能であろう地位の人であっても、天候不順と伝染病の流行は身分の差など関係無しに襲いかかる。
 まず倒れたのが権中納言源師俊である。一月一三日に病状が悪化し、政界引退を表明すると同時に出家した。ただし、源師俊は他の人より恵まれていたと言える。というのも、出家したもののただちに命を落とすことにはつながらなかったからである。
 四月になると、源師俊の兄で、弟と同じく権中納言である源師時が倒れた。四月六日に出家したという情報が伝わってきて間もなく、同日中に命を落としたという情報も届いた。
 四月一四日、今度は左大臣藤原家忠が倒れた。体調が悪化し、本来なら禁止されている牛車での宮中入りが許可されるようになったことで左大臣藤原家忠の容態は世間の知ることとなった。それでも体調回復を図ったようであるが、五月一二日、藤原家忠は自らの体調悪化を悟り、政界引退を表明すると同時に出家。しかし、この出家も体調回復につながることはなく、五月一四日に帰らぬ人となった。享年七五。
 現在でも四ヶ月という短期間で内閣の大臣が三人も辞職したら、それも健康上の理由で辞職したら大騒動となる。さらに言えば、組閣間もなくの混乱ではなく、安定政権となっていた上での体調悪化による辞任の連発であるのだからさらなる大騒動だ。保延二(一一三六)年という、ただでさえ飢饉で世相が不安になっているところで起こるとなると、騒動にさらに拍車が掛かることとなる。特に左大臣藤原家忠が不在となったのが痛かった。藤原家忠の統治能力が高いからではない。藤原師通の異母弟であり、藤原忠実からみて叔父にあたるという血統の高さが周囲に幅を効かせる要素となっていたのである。
 四ヶ月間で三人亡くなったことに加え、七月一日に参議藤原家保が、一〇月四日に権大納言源顕雅も出家し、それぞれ八月一四日、一〇月一三日に亡くなると、混迷にさらに拍車が掛かる。

 この混迷をどうにかするのにおよそ一年を要した。一二月九日、二四名中一七名を入れ替えるという議政官の大幅入れ替えが行われたのである。これは一七歳の内大臣という異例の若き大臣の誕生でもあった。それまで権大納言という高い地位にあった藤原頼長が、大納言を経験することなく内大臣になったのである。混迷の中にあっての若き内大臣の登場は、多少ではあるが、混迷を軽減させる効果を伴った。
 そして注目されるべきは新しい四人の参議。いずれも正四位下の位階でありながら議政官の一員となっている。三位の位階を得ていながら参議に、すなわち、議政官の一員になることもできずにいる者が続出している状況で正四位下の貴族が参議に抜擢されることは一つの答えを導き出す。彼らの勘申は採用されたのだ。勘申の話を聞きつけ勘申を出した貴族は藤原敦光ただ一人ではない。多くの貴族が、それも下級貴族が勘申を提出し、そのうち四人が採用された。その四人の中に藤原敦光は含まれていない。勘申での出世は狭き門であり、簡単に通ることのできない門だったのだ。
 とは言うものの、勘申の差だけで藤原敦光ら多くの貴族の出世が見送られたのかというと、それも怪しい。参議になった四人とも正四位下の位階であるのは事実だが、うち三人は藤原北家の人間である。藤原季成は亡き権大納言藤原公実の子、藤原宗成は内大臣から右大臣に出世した藤原宗忠の子、藤原忠基は権大納言から大納言に出世した藤原忠教の子、すなわち、藤原北家で議政官の一員である者の子のうち、上が詰まっているために出世できなかった者を出世させるのに勘申を利用したとも言えるのである。
 狡猾なのは、四人の中に平実親がいたことである。姓から判断できるように平氏であるが、伊勢平氏ではない。血筋を遡れば桓武天皇まで行き着くという点では桓武平氏ではあるのだが、平実親の九代前の先祖まで遡らなければ伊勢平氏とのつながりとならないという薄い血縁関係である。この平実親が参議に抜擢されたのは異例と言えば異例だが、キャリアを考えればおかしなことではなかった。一五歳で文章生として大学を卒業し一六歳で蔵人所として朝廷に仕える役人となり、その後も着実にキャリアを重ねていき、位階を重ねて正四位下にたどり着き、弁務官として中央で、国司として地方でキャリアを重ね、事務方のトップである左大弁を務めたのち、現在の会計監査院院長に相当する職務である勘解由長官を務め、五二歳という年齢にはなったがようやく議政官の一員となることができたのである。藤原氏でも源氏でもなく、大学を出て役人となった後に自らの能力と実績で出世をし、中央と地方の職務を務めたあとで議政官入りをするという、律令制が機能した頃であれば望ましい議政官の姿とされたキャリアを重ねた人材を抜擢するのは、誰にも文句の言えることではなかった。
 藤原敦光をはじめとする多くの貴族は悔しさを隠せなかったであろうが、純然たる実力だけで官界を上り詰め、官僚としての能力も実績も上回っている平実親の抜擢となると、誰もが負けを認めざるを得なかった。
 ただし、負けを認めることと諦めることとは別の話である。特に、平実親の実績に負けたことは納得できたとしても、自分より実績の乏しい者が藤原北家の血筋を持つだけで議政官の一員になっているというのは簡単に納得行くものではない。
 これは保延二(一一三六)年に始まった話でなく、昔からこうした不満を持つ者は多かったし、こうした不満者を集めて反藤原の組織を作り上げることもまた多かった。とは言うものの、藤原北家の勢力は反藤原の組織を、簡単にとは言えないものの、抑えることには成功していた。これまでは。
 今はもう違っていた。反藤原の集団を集め、無視できぬ勢力へと成長させることに成功した組織が存在していたのだ。院という組織が。 


 院は人材不足に陥ることがなかった。生まれの低さゆえに望みの地位を入れることのできずにいる者に、挽回のチャンスを与えることに成功していたのである。院でキャリアを重ねたあとで朝廷に戻り、朝廷でキャリアを重ねて院へと行くことがキャリアプランとして確立されてくると、院の権威も権力も無視できぬものとなる。
 公的地位を得ぬ者、また、公的地位を得てはいるが納得できていない者が、公的地位を妥協した上でより上の生活を築くために藤原摂関家をはじめとする有力貴族に仕え、藤原摂関家をはじめとする有力貴族のもとでキャリアを重ねてくる者は多かった。そうしてキャリアを重ねることで、満足とまではいかないしシステム化されていたわけでもないが、仕えている貴族の力で公的地位を築くこともあった。しかし、院は違う。資産も公的地位もともに築くことができる、それもシステマティックに築くことができる。どれだけの職務をこなせば資産と公的地位の両方についてどれだけの結果を得られるかがはっきりしているだけでなく、得られる成果も有力貴族に使えるよりはるかに上だ。これで院に人手不足が起こるわけも、有力貴族に人手不足が起こらないわけもない。
 ただし、院にも弱点があった。組織としての永続性だ。
 藤原摂関家は良かれ悪しかれ組織として永続していた。一方、院は白河法皇の存在が巨大であり、その人脈も白河法皇個人の資質によるものであった。すなわち、藤原摂関家は誰が藤原氏のトップであろうと組織として継続しているのに対し、組織としての院は白河法皇と、白河法皇の後継者となった鳥羽上皇という個人の人脈が頼りである。藤原摂関家の後継者はいるが、院の明瞭な後継者はいないのだ。
 さらに言えば、白河法皇が人材を集めることに成功したのは公的地位と資産の双方を築く機会を与えることに成功できたからであるが、その根拠となっていたのが議政官の過半数を獲得したという政権与党としての強みであった。しかし、鳥羽上皇に政権与党としての強みは無かった。気がつけばまた、藤原摂関家が議政官の過半数を占め政権与党へと舞い戻っていたのである。ついこの間、議政官の最大勢力となることに成功した村上源氏も、今や議政官の小規模政党へと勢力を縮小させていた。
 普通に考えれば、色々あろうと最終的には藤原摂関家が権力を取り戻すと考えたとしてもおかしくはない。いかに院という最新勢力がこれまでにない規模であろうと、個人の資質に由来した、それも、鳥羽上皇ではなく先代の白河法皇の遺産に由来した組織というのは弱くなるはず。システムとしては藤原摂関家の方がはるかに強固であり、これまでに存在した全ての反藤原勢力も一瞬の政権奪取はできても永続的な政権構築とはならなかったではないか。
 たしかに、この時代の藤原摂関家最大の問題として、藤原氏の実質上のトップが不明瞭であるという点がある。公式には前関白として扱われるのみで位階はあるものの役職はない藤原忠実と、現役の関白である藤原忠通がいる。この二人のうちどちらをトップとすべきなのかという問題は存在していた。単にどちらがトップに立つかを噂しあったわけではない。
 この二人のどちらに仕えることが将来の人生を左右するかという大問題がこれまではあったのだが、この問題についても、保延二(一一三六)年についに明瞭な答えが出たのだ。
 今はともかく、そう遠くない未来の藤原氏のトップは一七歳の若き内大臣藤原頼長のものとなる。この若き俊英が作り出す未来に希望をかける者は多かった。それは、藤原頼長に取り入っての自身の栄達という希望も含まれる。 


 藤原頼長は後に「悪左府」と、すなわち、悪の左大臣と呼ばれ、嫌われ続けた生涯を迎えることとなることとなる若者である。ただし、ここで言う悪の文字は、殴る蹴るといった文字通りの悪ではなく、世の中を悪くしたという意味の悪である。どのように悪くしたのかは藤原頼長が実際に権力を握るようになってから記すが、この段階で記さねばならないことがある。それは、藤原頼長がどのようにして自派を形成していったのかという点である。藤原頼長の性格は内大臣であったこの時代にはすでに現れていた。その性格こそが世の中を悪くした真因であり、藤原頼長の性格が招いた藤原頼長派の形成過程についてはここで記すのが適当であろう。
 藤原頼長という人を一言で評価すると、生真面目、である。真面目は通常ならば良い評価の意味になるのだが、これが生真面目となると、融通が効かず、自分を正しいと信じる独善者となる。そこには他者への思いやりもないし、現実を直視する能力もない。そして何より、自分のしたこと、あるいは現在進行形でしていることを失敗と認めることは、断じて、無い。自分は正しく、自分より格上と格下とは歴然として存在するし、格下と考えている人間が自分の上に立つことのみならず、自分より優れた客観的評価が下ることすら我慢ならなく感じる。甚だしい場合は、自分以外の人間を一人の人間として認識することもなくなる。
 このような人間に取り入るにはどうすればいいか? 自分が正しいと信じ込んでいるだけでなく、周囲を格上と格下とに分けて考えているのだ。取り入ろうと考えている人間は例外なく格下認定されているのだ。おまけに真面目で融通がきかないとなると不正の入り込む余地はなくなる。それどころか、どんな些細な不正も許されざることになる。生真面目な人が許していること以外は全てが許されざることであり、何一つ許されざることをしない人だけが存在を許される。このような人を相手にどうやれば取り入ることができるのか?
 これが欲にまみれた人ならば賄賂でどうにかなるが、藤原頼長相手にそれは無駄だった。藤原頼長は、贈り物のやり取りを礼節で考えて行うことはあるが、それと便宜とはつながらなかった。その人が手にできれば喜ぶであろう物事を提供する代わりに便宜を図ってもらうのを贈収賄と定義するなら、賄賂にはモノだけでなくコトも含まれる。たとえば国司の地位を斡旋するなどというのはコトの賄賂の典型だが、この手の賄賂も藤原頼長に通用しなかった。考えてみれば当然で、藤原摂関家の後継者になることが決まっており、すでに内大臣にまで上り詰めている人に、地位の斡旋をはじめとするコトを提供できる人などまずいない。
 ついでに言えば、この人には昔からの迷信やマナーも通用しない。律令に定められていればそれに従うが、律令に定められていないなら、いかにそれが当時の人にとっては不文律として当然のことであったとしても、守ろうという意欲を全く見せないでいる。また、当時の人は和歌を読むのが当たり前、教養ある人は漢詩も嗜むのが当たり前とされていたが、藤原頼長はそのどちらも全く興味を示していない。詩歌など何の役にも立たない無駄な労力であると一刀両断して終わりである。そのおかげで、当時の貴族が想い人に送り届けるラブレターは想いを和歌に託して届けるのが当たり前であったのに、藤原頼長の記したラブレターは、良くよく言えば無骨、悪く言えば無神経なラブレターになっている。
 真面目で融通がきかない人にも欲望はある。学ぶのが好きな人なら同じジャンルの学問で接するという方法もあるし、現在と違って書物が簡単に買えるわけではない時代であることを踏まえると、南宋で刊行されたばかりの本を贈るという手もある。これは一応の効果を持つが劇薬でもある。法律なら法律、歴史なら歴史といった同じ学問のフィールドに立つだけの知力が必要だ。
 古今東西どこにおいても共通して言えることとして、どう考えても取り入ることの難しいというのが生真面目な人であるというのがあり、藤原頼長もその例外ではない。しかし、藤原頼長相手であれば他の生真面目な人と違い、取り入ることのできるたった一つの方法があった。
 藤原頼長の男色趣味だ。
 平安貴族が同性愛を嗜むことは珍しくなく、この頃の一般常識として同性愛を嗜まない貴族はむしろ異常扱いされていた。と言っても、女性を愛さないわけではなく、男性とも女性とも性的関係を持つことが当たり前になっていたのである。詩歌など何の役にも立たないと言って一刀両断してきた藤原頼長であるが、男色趣味だけは当時の流行に乗っているどころか、当時の流行の最先端を走っている。
 藤原頼長は確認できるだけで三人の女性の名が妻として残されていると同時に四人の男児をもうけていることも判明しており、男性しか愛せなかったわけではないことは確認できる。ただ、藤原頼長は同性愛も嗜む貴族の一人であるというより、同性愛が主軸で異性愛のほうが副次的という恋愛指向であった。そして、それが事実上唯一の付け入る隙になったのである。
 権力者は男性であることが常識とされていた時代に限らず、性別を問わないということになっている現在でも、権力を持つ男性に取り入るために女性を利用することがよくある。自分の部下である女性、あるいは親戚の女性、あるいは娘、あるいは妻を差し出して性欲の相手とさせることで権力者に近づくことがあるし、さらにはそうして成立した肉体関係を利用して相手の弱みを握ることもある。許されざることであるがハニートラップは今もなお存在している。
 これが、権力は男性のものという固定観念ができている環境での男色となると、話が単純になる。ややこしくなるのではなく単純になる。
 命じる者が上司であろうと、親戚であろうと、父であろうと、夫であろうと、自身の栄達のために自分以外の人に対して身体を売れと命令する者に、その人がどこまで黙って従うだろうか。しかし、男色となると、権力者の性欲の相手に差し出す身体は自分自身となる。自分の欲望のために相手の性欲の相手をするとなると、躊躇が一段階減る。すなわち、話が単純になる。「いくら仕事のためとは言え……」とか「いくら家族のためとは言え……」とかという躊躇が無くなるだけでなく、その後で待っているのは権力者との恋愛関係を利用した権力の奪取だから話はもっと単純になる。
 藤原頼長が自分の性の相手となる男性を求めた結果、それに応じた者は藤原頼長の近臣となることに成功したのだ。純粋な恋愛関係ならば異性間であろうと同性間であろうとそこに差異はないが、栄達を目的とした肉体関係となると、権力者が男性であるという固定観念が強い時代であったからこそ、男色の相手となることが容易な取り入りの手段になる。
 藤原頼長の性欲の相手をすることで藤原頼長に取り入ることに成功し、藤原頼長の権力を利用して自らの権勢を築き上げようとする者が、必ずしも無能者の分不相応な出世欲であるとは断言できない。能力はあるが機会に恵まれてこなかった有能な人物が、藤原頼長との肉体関係をきっかけとして能力を発揮する機会を手にすることもゼロとは言い切れなかったであろう。ただ、理論上はそうでも、記録に残された藤原頼長の相手たちの権力者としての実績には疑問符が付く。ただ単に、藤原頼長の好みのタイプであったという以外に特色のない者が並ぶだけなのだ。
 ただ、こうも感じる。藤原頼長が本当に肉体関係を理由に人材として活用したのか、と。物欲にも名誉欲にも関心を示さない藤原頼長が性欲には公私混同を見せるだろうか、と。藤原頼長は自分で自分のことを清廉潔白な人間であると考えていたし、周囲の人もそう判断していた。その人物が、単に自分との恋愛関係だけで人材の抜擢を図ることがあるだろうか?
 これについての答えは藤原頼長自身が書き残している。藤原頼長は誰と恋人関係にあるのかを日記に書き記しているし、同時代の記録から、藤原頼長の恋人とされる人物が出世したことも追い求めることができる。しかし、それらを合わせても藤原頼長が抜擢したとは言えないのだ。それどころか、肉体関係を理由に見返りを求めてきたことに失望したことを書き記しているのである。そして、日記を追いかける限りでは、失望した相手とその後の関係を絶っていると言える。すなわち、肉体関係を結ぶことで藤原頼長の近臣になることまでは成功するし、近臣になったがために地位を掴むことまでは藤原頼長のもとでは許されても、そこから一歩進んで、取り入ることの見返りを求めることまでは許されなかったのだ。
 後に悪左府と呼ばれる藤原頼長は嫌われた人生を過ごしてきたし、藤原頼長に対する悪口を挙げてくださいと同時代の人に訊ねたら、冷酷、残酷、人情味がない、融通がきかないなどの言葉が途切れることなく挙がってくるであろう。しかし、挙がった悪口の中に藤原頼長の頭の悪さを揶揄する単語は出てこないはずだ。現在の感覚からすれば藤原頼長の知性に疑念を感じざるをえないが、現在に残る記録から判断すると、当時の人が藤原頼長を優秀な人と扱っていたことは間違いない。間違いないのだが、この人に人望があっただろうかという問いには否とするしかない。
 デビュー直後こそ若き秀才として着目を集めたが、年齢を重ねるにつれ怪しさが増してきて、着目は失望へと変化し、人望を生み出さなかったのだ。
 優秀で生真面目な人によくあることだが、自らの優秀さを疑わないために超然とし、自分以外の人への興味を極端に減らしていたのだ。人に興味を持たなければ人から好かれることもないし、ましてや人望を集めるなど想像するだけ無駄だ。藤原摂関家の後継者なのだから藤原頼長の周囲を取り巻く人の少なさに悩むことはなかっただろうが、藤原道長の時代ならともかく、藤原頼長の時代となると、藤原摂関家は日本国における唯一絶対の組織ではなくなっている。出世を考えれば藤原摂関家ではなく院になるし、資産形成だけを考えれば寺院になる。藤原摂関家に取り入ることは出世を考えたときに悪くない選択肢となるが、唯一絶対の選択肢ではないのだ。こうなると、周囲を取り巻く人の絶対数が減る。それでも藤原摂関家となれば無視できぬ勢力となるが、藤原摂関家を構成する勢力の中に、藤原頼長自身の魅力で周囲に寄ってきた人は、ただ一種類の例外を除いてゼロであると断言できる。その例外の一種類が同性愛であった。
 寄ってくる人がいないということは、権力を手にしたあとで周囲を固め、手足となって働く人がいないということを意味する。いざそのときを迎えて振り返ってみると、残っていたのは自分との肉体関係の相手だけであった。すなわち、藤原頼長は同性愛で人材登用をしたのではない。登用できる人材が同性愛の相手しかいなかったということなのだ。
 これがのちの日本国に悲劇を、そして藤原頼長の破滅を生み出す原因となる。 


 飢饉は個人生活を動揺させるだけでなく、世情そのものを動揺させる。若き内大臣の誕生は新しい時代を予期させる出来事ではあったが、飢饉に対して画期的な対策を打ち出すわけでも、ましてや、一瞬にして飢饉を無かったことにするわけでもない。食料生産の改善は見られてもマシになったというレベルであって満足とまではいかなかったのが保延二(一一三六)年末時点の状況である。
 年が明けて保延三(一一三七)年を迎えても満足いく状況でないことに違いはなかった。ただ、回復はしてきていた。
 回復は喜ぶべきことであるが、治安問題だけを考えると手放しで喜べるものではない。人は、危機そのものよりも危機を迎えることへの恐れの方が爆発を引き起こす。今日はどうやって生きて行けばいいかという現実の危機より、明日はどうやって生きて行けばいいかわからないという恐怖のほうが爆発を呼び起こしやすいのだ。
 そして、これは古今東西どこにでも見られる現象であるが、危機からの回復は都市部のほうが、それも首都のほうが始まりやすい。首都にはその国の首脳陣の多くが住んでいるから首脳陣の生活のために物資が優先的に運び込まれる。それがたとえ自分の生活のためであっても、結果的には首都の住人にも物資が出回るようになる。裏を返せば、首都は回復してきているのに自分の住んでいるところはまだ危機から回復してきていないという現象が起こる。さらに言えば、基金で苦しいさなかに何とかして納めた税が首都に持っていかれているという不満が沸き起こる。仮に実数が提示されて、首都と、あなたたちが今住んでいるところとでさほど違いはなく、同じ程度の回復具合であると示されても、首都の住民のほうがいい暮らしをしていると考える人にそのような論理は通用しない。不満が解消されるのは、実際に首都に出向いてみたら、首都の住民は自分たちよりむしろ苦しい暮らしをしていると実感し、さらに、税で食べている貴族や役人といった人たちが自分たちより苦しい暮らしをしていると目の当たりにしたときだけである。前者はともかく、後者はあり得ない話であるが。
 保延三(一一三七)年の情報インフラ事情であれば、平安京の暮らしぶりを地方の人が知ることは難しい。ネットはおろかテレビもラジオも新聞も雑誌もない時代であり、地方と首都との情報のやり取りは、実体験と、手紙のやり取りのどちらかしかない。そして、そのどちらも往復一ヶ月はかかる。
 しかし、難波や奈良といった近畿地方の都市、あるいは、比叡山延暦寺や園城寺といった京都に近い寺院の門前町は別だ。京都に近いということは、京都の情報が、リアルタイムではないにせよ比較的早い段階で届くことを意味する。さらに言えば、京都ほどの規模ではないし、現在と比べれば小規模都市とするしかないが、前掲の諸都市はこの時代では充分に大都市だ。
 こうした都市の中でもっとも危険だったのが、奈良。奈良には興福寺という絶対に無視できない存在があっただけでなく、京都までの道のりが整備されている。徒歩で一日で往復することも不可能ではない距離だ。比叡山延暦寺と園城寺は相互の争いが相互に動きを牽制させる効果を持っていたが、興福寺にそれはない。位置的にはともに京都の南であるといっても高野山や熊野は奈良から遠い。
 保延三(一一三七)年二月九日、興福寺から京都へとデモ集団が向かったという情報が朝廷に届いた。実に一五年ぶりのデモであり、白河法皇逝去後初のデモとなる。厳密に言えば前年三月にも金剛峯寺の主催するデモが計画されてはいたのだが、デモが発生する前に沈静化している。
 普通のデモであれば鎮圧はできたであろうが、デモ隊出発の情報の後に届いた第二報は、今回のデモが普通のデモ集団でないことを示した。その数、およそ七〇〇〇名。嘉承三(一一〇八)年にも数千人のデモ集団が京都目指してやってきて源平連合軍一万人と向かい合ったという記録があるが、このときの興福寺の七〇〇〇名というデモ隊の人数はそれを超える規模である。しかも、嘉承三(一一〇八)年のデモは比叡山延暦寺と園城寺の連合という驚異的な集団であっても時間的猶予ならば図れた集団である。ところが今回は規模も去ることながら、奈良という京都まで徒歩で往復できる近さの都市から出発した、すなわち時間的猶予を考えられない都市から出発したデモ隊なのだ。おまけに、嘉承三(一一〇八)年は平正盛と源為義の二人が率いる源平連合軍およそ一万人の軍勢が京都で用意できたが、保延三(一一三七)年にはそれもない。平正盛の息子で伊勢平氏を率いる平忠盛はこのとき美作国司となっていた。源為義にいたっては、前年に左衛門少尉を辞任という名の外官の処分を受けておりこの時点では無官の身であった。朝廷がどうにかできる武力となるとこの時点で弱冠二〇歳である従四位下平清盛がおり、中務少輔兼肥後守という朝廷から一定規模の独立性が保証された軍事指揮権をとることが許されていた地位ではあったが、現実に動員できる武力となるとデモに対峙できる規模ではなかった。
 本来であれば朝廷の持つ警察権力、律令に従えば、近衛、衛門、兵衛。令外官を含めれば検非違使がこうしたデモ隊に向かい合うところであったのだが、そうした公的権力はすでに有名無実と化していた。それでも、たとえば左右の大臣が左近衛大将といった役職を兼ねることで武士に武官としての地位を与え、人事権を駆使して武力の発動を図ることは可能であったのだが、それもなかった。
 保延三(一一三七)年時点の朝廷は七〇〇〇名というデモ隊の人数の前に為す術なく、ただ、デモ隊の名目上の要求を受け入れるしかできなかったのである。
 興福寺のデモ隊の名目上の要求は東寺長者で権僧正である定海が、興福寺別当で権僧正である玄覚よりも先に僧正に任じられたことに対する抗議である。仏教界の人事を不服とする寺院の組織したデモであり、デモに対する法的な規制をかけることはできないことを見越しての無茶な要求である。自分たちのトップが追い抜かれたことに対する怒りという外部の同意を得づらい動機ではあるが、興福寺の内部では意見の一致を簡単に見いだすことのできる動機であるため、人数は膨れ上がり、集団は強固なものとなる。もっとも、デモの本質は首都と首都以外の地域との格差への怒り、そして、生活苦への怒りであり、デモ隊自身も名目上の欲求より本質的な欲求を朝廷にぶつけることを主目的としていた。
 ここで朝廷から定海の僧正就任を白紙撤回するという回答が出たことはデモ隊の名目を喪失させ、デモ隊を解散させる効果を持ってはいた。持ってはいたが、一時凌ぎでしかなかった。デモの欲求を受け入れたら次に何が待っているかは簡単に想像できる話である。一五年間の沈黙を打ち破るかのようにデモ隊はありとあらゆる要求を朝廷にぶつけるようになったのだ。
 朝廷の立場からすれば無力を否応なく実感させられることであったろう。特に、若き俊英と目され、次世代の指導者との着目を受けていた藤原頼長にとって、この現実は悔しさをにじませるに充分であった。保延三(一一三七)年時点の武官の構成は、武官のトップである左近衛大将を左大臣源有仁が兼任し、武官の二番手である右近衛大将を内大臣藤原頼長が兼任している。そのため、藤原頼長にも武力を発動させる権限はあったのだが、藤原頼長に従う武官がいなかった。これはある意味当然と言える。武官は軽んじられ、事実上唯一の公的武力機関となっていた検非違使の一員になったとしても、それは出世への途中過程であって命を賭する職務ではない。大禍なく過ごしてより上の職務に昇るための職務としか考えていない者に、いかに内大臣兼右近衛大将の命令が降ったとしても、死ぬかもしれないことに従うわけはない。仮に職務を忠実にこなし命令を完遂したとしたら、待っているのはやりたくもない職務の継続だ。「他に適任者はいないから危険な武官の地位を継続してもらう」となったら本末転倒と言うしかない。
 おまけに、検非違使の社会的地位は低い。職務遂行で位階が上がることがあるかもしれないが、検非違使であるというのは出世の一階梯であると割り切っている人ですら差別される職務であった。ましてや、検非違使をなかなか終えることができないというのは、差別され続けるだけでなく、検非違使から上へと昇れない無能者という烙印を押されることを意味する。このような社会情勢で誰が検非違使としての職務に専念するというのか。
 この現実を前にした藤原頼長は、現実が大問題であることは認識した。認識したが、現実に対する妥協は全く見せなかった。職務を遂行しようとしない者を罰するとしたのである。これが独善的な思いつきであるなら対処することもできたが、藤原頼長は何一つ法令違反をすることなく、罰則の適用を宣言したのである。
 法に対する考え方は二種類ある。法と現実とが食い違いを見せたとき、法を変えようとするか、現実を変えようとするかである。現代社会は、法を変えようとする側を改革派、現実を変えようとする側を保守派と称すが、日本国ではどういうわけか法を変えようとする側が保守派で、現実を変えようとする側が改革派ということになっている。こうした概念はどうも藤原頼長にはあったようで、藤原頼長は自分のことを改革派と考えていたらしく、法を変えることなく法を厳密に適用して現実を変えることこそ改革と考えていた。そして、現実に合わせて法に妥協させていたことの全てを白紙撤回し、現実を法に合わせようと改革した。
 悪左府という名で呼ばれることになる藤原頼長であるが、自分が悪事を為しているという認識はなかった。超強硬的な保守でありながら自分で自分のことを改革派と考えるのみならず、自分は正しいことをしていると思い込んでいたのである。罰則を厳密に適用すればするほど世の中は良くなるというのが藤原頼長の考えであった。
 それでもまだ議政官のナンバー3である間は議政官の内部で藤原頼長の暴走を食い止めることも可能であったのだが、年が明けた保延四(一一三八)年になると、暴走を食い止めることのできる人が一人いなくなってしまった。正二位右大臣藤原宗忠である。すでに七五歳と高齢であった藤原宗忠は、年が明けてすぐに従一位へと昇格した。大臣が従一位になるのは珍しい話ではなかったが、このタイミングでの従一位昇格は一つしか意味を持たなかった。体調不良による政界引退である。政界引退の間際に位階を昇らせることは珍しくなく、藤原宗忠も来るべきときが来たのかというのが、保延四(一一三八)年時点の世情の反応だったのだ。位階のトップは正一位であるが、正一位は亡くなった後に送られる追号であると認識されていたため、事実上、従一位は最高の位階である。その最高の位階に昇りつめた藤原宗忠は、同年二月二六日に政界引退を発表し、同日に出家した。これで、議政官の二番目の地位は一九歳の内大臣藤原頼長のものとなった。
 藤原頼長の上には左大臣源有仁がいる。また、議政官の一員ではないが、関白は実の兄で養父でもある藤原忠通のものだ。さらに言えば前関白にして前太政大臣でもある藤原忠実も健在だ。つまり、理論上は藤原頼長の上に三人の人臣がいることになるのだが、現実としては、三人とも権力の発揮を期待できなかった。
 左大臣源有仁は後三条天皇の第三皇子である輔仁親王の子として生まれ、当初は白河院の養子となったことで次期天皇候補と目されていた人物である。しかし、鳥羽天皇の子として、後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれたことで皇嗣候補から外され、臣籍降下により源氏となったという経歴を持つ。素性が素性であることと、今なお残る後三条天皇派の動きを封じるためとして、急激な出世を果たし、全ての源氏のトップに立つ源氏長者の地位を村上源氏から奪取するほどの権勢を見せはしたが、いきなり人臣となり、いきなり貴族界に組み込まれた源有仁に、派閥を構成できるほどの人材を集める余裕はなかった。何しろ、源有仁に匹敵する急激な出世となると、二五〇年前に嵯峨天皇の子から臣籍降下した源定(みなもとのさだむ)まで遡らなければならないという急激な出世なのだ。それでも左大臣なのだから議政官の議事進行権はあるし、決議を奏上するのも源有仁の職務なのだが、思い出していただきたいのは、かつてと同様にこの時代も藤原摂関家が議政官の圧倒的多数を占めているという現実である。議政官二五名中、源氏は二名、平氏が一名、残りは全て藤原氏だ。現在の国会を思い浮かべていただければわかると思うが議席の八割以上を一つの政党が占めていたらどうなるか? いかに議長をその政党ではない人物が務めていたとしても、よほどのことがない限り、決議は八割を占める政党のものとなる。その政党のトップとして議政官で君臨することとなったのが、一九歳の藤原頼長だ。
 藤原氏内部の派閥争いが勢力としての藤原氏の自浄能力を発揮することは期待できなかった。一度でも勢力を失った存在が再び勢力を取り戻したときは、自浄作用よりも勢力維持を優先させる。おまけに、先頭に立つのは一九歳の若者だ。政治的な何かをしようというときは、高齢者よりも若者が先頭に立っているほうが支持を得やすい。その若者が危険な考えの人物であろうと、若さというのは新しい時代をイメージさせ高い支持を得るきっかけにもなる。こうなると、個人の政治信条を優先させて集団に逆らうより、所属する集団の政治信条のほうに自分を寄せるほうが政界で生き残るのに有効だ。議政官を構成する藤原氏たちは、個人の意見よりも藤原頼長の意見に与することを選んだのである。
 律令制によれば、議政官の議決を覆すことのできる存在は、天皇、摂政、太政大臣のいずれかしかない。うち、天皇は議政官の決議を覆す権限を持っていると言ってもその権限を発動させることは無い。そして、摂政はおらず、太政大臣もいない。関白がいるではないかと思うかも知れないが、関白はあくまでも天皇の相談役であり、事実上はともかく、理論上はその発言が議事に影響を与えることは無いとなっている。おまけに、関白藤原忠通は内覧の権限を剥奪されている。内覧となればかなり早い段階で情報を手にできるし、情報を手に入れることもできれば対処も可能だが、情報が手に入らなければそれも不可能となる話だ。
 剥奪された内覧の権利を手にしたのは前関白にして前太政大臣である藤原忠実であるが、この人の行使できる政治的権限はあまりにも低い。無視できる存在ではないが、この人が何を言おうと、理論上はすでに引退した政治家なのである。政界から離れた人間の言葉が現役の政界に響くことはあっても指図するまでには至らない。おまけに、藤原忠実は藤原忠通への牽制役として藤原頼長を利用していた。暴走しつつあることを理解していたのかどうかも怪しいが、理解していたとしても、藤原頼長の暴走より藤原忠通への牽制を優先させる人だ。藤原忠実に藤原頼長の暴走を制御することを期待する方が間違っていると言える。
 藤原頼長は命令する。法を守れと。法を守れば全ての問題は解決し、法を守らぬ者を処罰すれば全ては順調にいくと考えて命令する。
 ただし、その命令を遂行するのは誰なのか、という一点が抜け落ちている。前述したとおり、藤原頼長には人望がない。おまけに、法でいくら定められていると言っても法と現実とが乖離して長い年月が経過している。藤原良房からカウントすれば三〇〇年は経過している。それだけの長い年月に渡って法と現実との乖離とを法の妥協で対処してきたところでいきなりほうではなく現実に妥協を命じたところで、その命令に従うことはできない。法でいくら定められていても現実的にできる話では無い。
 それでも人望のある人物からの命令であれば従おうとする者もいるであろうが、人望の無い人間が命令をするのだから、その命令に従う者は、ゼロとは言えないが、いない。
 奈良からやってきた七〇〇〇名のデモ隊の前に何もできず、要求を受け入れてどうにかデモの鎮静化に成功したという前例は藤原頼長を激怒させたが、その激怒に対する満足いく回答が得られない。それどころか、これが先例となって影を潜めていたデモが息を吹き返したのだ。たとえば、保延三(一一三七)年一二月一二日には伊勢神宮からのデモを鎮静化させるために、デモの要求を全て受け入れ、主殿助として伊勢神宮の備品管理の最高責任者であった平季盛(たいらのすえもり)が佐渡へと流罪になっている。
 藤原頼長に言わせれば命令が遂行されないから状況が良くならないとなるのだが、実務担当者にしてみれば、ただでさえデモに向かい合わなければならないところで内大臣から難癖がやってくるので迷惑極まりない話である。
 さらに迷惑になるのが、藤原頼長の命令の遂行はできなくても、命令を遂行しないことの罰則適用ならどうにかできてしまうのだ。デモを鎮静化しろと藤原頼長が法に基づいて命令するが、藤原頼長の命令を遂行する余裕はどこにも無く、デモの鎮静化は果たせない。果たせないために命令遂行を怠ったと判断され、処罰される。遂行できない仕事を命令され、無茶に無茶を重ねて命令を完遂したとしてもノルマを達成したと判断されるだけで評価が上がるわけでは無い。まして、完遂できなければ処罰の対象だ。現代日本でもこのような働かせかたをする者は珍しくないが、それで尊敬を集める者も、さらに言えばそれで結果を出す者は珍しい。珍しいと言うより、仮に存在するならば、その分析をしただけでノーベル経済学賞を受賞できるというレベルの話である。 


 藤原頼長がヒステリックに法の適用を求めていた頃、鳥羽上皇は何をしていたのか?
 情報は掴めていたが、策を講じることはできなかった。藤原頼長がありとあらゆる法を利用して鳥羽上皇の動きを牽制したからである。
 徹底的に法を守る姿勢を見せる藤原頼長にとって、上皇という存在は厄介な存在であるものの、法的は対処が可能な存在でもあった。天皇を辞した皇族は、権威はあっても権力は持たないというのが藤原頼長の思考であったのだ。
 こうなると、上皇として何か述べたところで藤原頼長の行動を動かすことはできない。権威はあるから鳥羽上皇の意見は拝聴はするが、その意見を受け入れるかどうかは別である。受け入れることがあるとすれば藤原頼長と意見の一致を見たときのみで、そうでなければ鳥羽上皇の意見は完全に無視されたのだ。そのせいか、右大臣藤原宗忠の政界引退とほぼ同時に鳥羽上皇の政治的な記録は形を潜め、代わりに行幸の記録が増えていく。もっとも、その行動範囲は白河法皇よりかなり狭く、平安京から離れてもせいぜい宇治が限界、現在の東京で言うと東京駅と羽田空港ぐらいの距離の移動しかない。そうでないときはもっぱら、二条東洞院殿において日々を過ごしていた。二条東洞院殿は崇徳天皇の内裏である土御門内裏と少し距離を置いている。
 それにしても、鳥羽上皇に対するこのような態度は果たして許されたのであろうかと思うかもしれないが、この時代、君臨すれども統治せずという言葉は無くとも、そのような概念は存在していた。絶対君主制ではなく立憲君主制、すなわち、天皇が法を超越する存在ではなく天皇であろうと法の束縛が課せられるのが日本国の皇室であり、白河法皇のように自分には法が適用されず、自分の行動こそが法になると考えるのはきわめて限られている。法に規定のある天皇ですら法によって許された範囲内でしか権力を行使できず、天皇を辞した上皇は法的な権力の根拠が無いのが法の厳密な適用であったのだ。かつての天皇であり、また、崇徳天皇の実父であることに付随する権威は藤原頼長も認めていたが、権力を行使することを藤原頼長は認めなかった。
 藤原頼長は院が荘園を持つことにも不快感を抱いていたが、出家して僧侶となった白河法皇が一人の僧侶として荘園を持つこと自体は法で禁止されておらず、白河法皇の遺産を相続した鳥羽上皇が荘園を持つことも、法の抜け穴であるとは言え違法とは言い切れないことと考えていた。そして、荘園領主であるために自領に対して権力を行使することもまた、違法とは言い切れないことだった。だから、その点については見逃している。しかし、鳥羽上皇が法的根拠を持たない範囲にまで権力を行使することは絶対に認めなかったのである。
 鳥羽上皇と藤原頼長の関係は、表面上は上皇と藤原氏の有力貴族という関係であったが、実際には激しい権力争いがあった。
 争いは同じレベルの者の間でしか起こらないという。この争いは権力争いも例外ではない。藤原頼長は実行を伴わない命令だけをして問題の解決を図ろうとするが、問題解決能力の低さという点では鳥羽上皇も負けてはいない。その現実が如実に示されたのが保延四(一一三八)年二月二四日のことである。この日、鳥羽上皇が住まいとする二条東洞院殿が火災にあったのだ。旧暦の二月末だから現在の暦に直すと一月。空気の乾燥している季節であることに加え、平安時代は平成時代と負けず劣らずの高温の時代。住まいはいかに暑さをしのぐかを最優先に建設されているから、冬となると寒くなる。それで厚着をしてやり過ごそうというのが当時の考えであるが、いかに厚着をしようと寒さを克服できるはずはない。おまけに時代は寒冷化だ。夏は涼しくなったかも知れないが、冬の寒さは以前よりはるかに厳しくなった。それなのに防寒対策のとられていない住まいのもと、まともな暖房器具もない日々を過ごすのだから、暖房目的での火の利用が増えてくる。さらに言えば、建築資材も燃えやすい木材だ。火災は地震と違って、取り扱いに気をつければどうにかなるといっても、火があり、火への需要があり、燃えやすい建物があり、乾燥した気候があれば、起こる災害は一つ。
 鳥羽上皇の住まいが焼け落ちたことを鳥羽上皇自身は何もできなかったが、何もできずにいる鳥羽上皇のことを笑えない自体もすぐに起こった。同年三月五日、平安京で大火が発生し、多くの貴族の邸宅が焼け落ちたのである。
 多くの人が火災に遭ったという人災に接したとき、まともな宗教団体であれば考えるのは被災者の救済である。しかし、この時代の宗教団体にそのような概念はなかった。救援しなければならない被災者とは自身の寺社の関係者のみであり、それ以外の人は救済の対象ではなかったのだ。
 それでも火災直後に行動するのでは自らの評判を落とすと考えたのか日数を後ろ倒しにはしたが、それでも保延四(一一三八)年四月二九日に比叡山延暦寺は神輿とともに京都に押し寄せデモを繰り広げることを取りやめたりはしなかった。要求内容は賀茂社支配下の荘園の下司に対する日吉祭に参加禁止を求めるものであった。下司とは本来ならば下級役人のことであるが、この時代になると荘園に仕える下級役人を意味するようになる。賀茂社の者が日吉社の祭に参加することを禁止するというのは寺社の争いの延長と捉えれば同意はできなくても理解できなくはない。ただし、冷静に考えれば無茶苦茶な要求内容である。差別問題や人権問題という単語はなくても、そういう概念ならばこの時代にも存在する。そして、比叡山延暦寺が求めているのはまさにその差別を認めろという内容である。これを無茶苦茶以外の言葉で形容はできないが、比叡山延暦寺もそれはわかっている。わかっていて突きつけたのである。重要なのはその要求を呑ませることではなく、どんな無茶な要求であろうと朝廷が要求を呑んだという実績を作ることなのだから。
 しばらく途絶えていたデモの本家本元というべき集団の大規模なデモに平安京内外の庶民は恐怖を募らせ、その要求内容に不満を抱いた。朝廷もデモに対する取り締まりを考えたようであるが、取り締まりに対する具体的な行動は存在しなかった。内大臣藤原頼長は怒りを隠せなかったが、その怒りを爆発させたところでデモが沈静化することもなく、デモの取り締まりがなされないことの不満を述べても、さらには、取り締まりを担当すべき検非違使の職務怠慢を取り締まろうとしても、空を切るだけで実は伴わなかった。
 結果は比叡山延暦寺の要求を全て呑むというものであった。それ以外にデモを沈静化する方法はなかった。これでデモが暴徒となる前に平安京は解放されたが、デモが暴徒となることを防いだわけではなかった。平安京から出たデモ隊は暴徒と化し、賀茂社へと襲いかかり賀茂社の周辺の民家へと襲撃を掛けた。賀茂社周辺の民家にとっては自宅にいきなり暴徒が襲いかかってきて、奪えるものは全て奪われ、壊せるものは全て壊され、家そのものも破壊されたという惨事である。いかに平安京内で暴れさせないためとはいえ、これで朝廷への敬意が増したとしたらそのほうがおかしい。 


 朝廷の権威失墜は思わぬところで現れた。鳥羽上皇の住まいである二条東洞院殿が火災に遭ったのが保延四(一一三八)年二月二四日のこと。それから日も浅い三月五日には平安京の複数の邸宅を焼く火災が起こったのであるが、それとは比べものにならない火災が一一月二四日に発生した。里内裏となっていた土御門内裏が焼けたのだ。
 土御門内裏はただの里内裏ではない。立地条件こそこれまでの数多くの里内裏とほぼ同じ位置ではあるが、内部構造が大違いである。どういうことかというと、一つ一つのサイズは小さいものの建物の配置は大内裏と同じなのである。恒久的な里内裏となることを想定して建造された里内裏であり、この里内裏が焼亡するということは朝廷機能の停止を意味してもいた。崇徳天皇自身は小六条殿に一時的に避難したが、崇徳天皇自身の身の安全は確保できても、小六条殿は政務機能という点で土御門内裏に大きく劣る。六条という土地名からもわかるとおり、左京四条以北であることが前提となっている貴族の邸宅街から南に離れている。貴族たちの出勤にも不便だ。
 もっとも、鳥羽上皇はそのあたりのことを全く気にしていなかったようである。
 鳥羽天皇は一六年間の在位期間中、正規の里内裏先だけで一二箇所を数えるという記録を持った天皇である。平安京内の遷御であるとはいえこの数値は尋常ではない。おまけに、里内裏から里内裏への遷御の間に方違えとして本来であれば里内裏とすべき場所でない場所を一時的に里内裏としたから、それらを踏まえると、里内裏一箇所あたりの平均滞在期間は一年間を下回るほどだ。それで不都合はなかったのかとは誰もが思うであろうが、鳥羽天皇は不都合を感じなかった。当時は白河法皇院政の絶頂期であったこともあるが、この点を除いても、鳥羽天皇という人は、どこで政務を執るかではなく、どこであろうと自分のいるところが政務を執る場所であると考えていたようなのである。
 それで政務が執れるのかと疑問に思うかもしれないが、成功例はある。藤原道長がそれだ。藤原道長という人は頻繁に体調を崩して寝込んでいたが、それで政務を止めることはなかった。自分のもとに情報を集めさせると同時に、手紙を送ることで政務をリモートコントロールしていたのである。鳥羽上皇はこの先例を活用しようとしたのである。藤原道長だからうまくいったことであり、鳥羽上皇も上手くいくとは限らないと気づいてはいなかったようであるが。


 年が明けた保延五(一一三九)年は奈良からの不穏な情報によって始まった。興福寺内部が緊張度を増してきており、いつ爆発するかわからないという情報が届いたのだ。興福寺と言えば大和国の事実上の支配者とまでなっている巨大寺院であり、どれだけ巨大であるかと言えば、鎌倉時代のこととなるが、あまりにも興福寺の勢力が大きすぎるために守護を設置できなかったほどである。守護を設置しない代わりに興福寺に守護としての役職を果たさせたほどなのだが、鎌倉幕府に守護を断念させるほどの勢力はこの時代にはもう成立していた。
 ただ、興福寺は内部の派閥争いが激しくなる宿命を持った寺院でもあった。興福寺は藤原氏の氏寺であると同時に、皇族や有力貴族が出家したときに身を寄せる寺院でもあった。寺院では、優秀な僧侶が亡くなったときに、その僧侶を偲ぶための塔を建て、その僧侶に親しかった者が塔の近くに住まいを構えることがあるが、興福寺のように皇族や有力貴族がやってくるとなると、僧侶としての優秀さではなく血筋によって塔を建てるかどうかが決まるようになる。さらに、塔の周辺の住まいが寺院内の一つの勢力となって他の勢力と争うようにもなる。この寺院内勢力のことを塔頭(たっちゅう)と言うが、興福寺は塔頭が乱立し、塔頭同士の対立が目に見えて激しくなっていたのである。その中でも一乗院と大乗院の二つの塔頭が双璧をなしており、どちらのトップが興福寺全体のトップである別当に就くかで興福寺を二分することは珍しくなかったのだ。
 この問題に一石を投じたのが鳥羽上皇である。白河法皇の逝去後、鳥羽上皇が興福寺の別当をトップダウンで任命するようになったのだ。大乗院と一乗院の対立を無視し、あるいはわざと踏みにじるように、別当を任命するようになった。しかも任命するのは興福寺とは無縁の者だ。鳥羽上皇の目的が興福寺の勢力縮小を狙ってのものであるから当然と言えば当然だが、鳥羽上皇のこの命令が興福寺に大きな不満を呼び起こしたことは容易に想像できる。しかも、鳥羽“上皇”であり、鳥羽“法皇”ではない。すなわち、僧籍にある身ではない。元々は僧侶でもある白河法皇が、あくまでも一人の僧侶として興福寺の別当を任命する権利を手にしていたのであるが、ここまでなら興福寺も完全に賛成とまでは言えないにせよ納得はしていた。白河法皇は僧侶なのだから、仏教界のことを仏教の僧侶が決めるのは納得できる話だ。ところが、白河法皇を継承した鳥羽上皇は、僧籍のないまま興福寺のトップを任命する権利も継承したのである。皇族ではあるからこれ以上の権威はありえないが、それでも僧籍のない者が寺院のトップを任命するというのは法的に微妙な状態である。しかも、白河法皇は一乗院と大乗院の双方の意見を受け入れた後に、双方のトップに別当を輪番制とする妥協案を見せていたのであるが、鳥羽上皇はそれも無視したのだ。
 保延五(一一三九)年、鳥羽上皇は薬師寺と法華寺の別当も兼ねていた隆覚を興福寺のトップに任命した。名目上は薬師寺と法華寺の別当としての実績を買ったということになっているが、誰がどう見ても興福寺の勢力縮小を狙ったトップダウンである。表面張力で保っていた興福寺にとって、この人事発表はコップの水をあふれさせる最後の一滴となった。
 隆覚はかつて右大臣にまで上り詰めた源顕房の子であり、境遇次第では政界に身を置いてもおかしくない人であった。しかし、いかに右大臣まで上り詰めた人の子であると言っても、隆覚の母親は明らかになっていない。正室の他に側室を構えるのが通例である時代であるだけでなく、正室の子とそうでない子とで扱いに違いがあることを差別として社会問題にすることすらなかった時代に、母親の素性が不明の子が政界で大手を振って歩くことは困難であった。その女性との間にしか子が産まれなかったというのであればまだ父親の威光を期待できる可能性もあったが、源顕房という人は確認できるだけで男児一七名、女児七名、合計二四名の父である。源顕房の子と噂される人まで含めればいったい何人を数えるであろうかというのがこの時代の評であった。このような時代に、母親の素性が不明である有力貴族の子が行くのは仏教界と相場が決まっていた。隆覚が僧籍に身を置いたことは、この時代の考えで言うと至極当然なのである。そして、右大臣の子が興福寺に身を寄せること自体も珍しい話ではない。
 ただ、それが外から落下傘でやってきた別当となると話は別だ。爆発寸前であった不満は、爆発という形をとった。
 この情報を受けても朝廷は何もしなかった。興福寺は藤原氏の氏寺なのだから藤原摂関家の圧力でどうにかなるかと思うかもしれないが、この時代の藤原摂関家は藤原忠実と藤原忠通の親子間の対立に、若き内大臣藤原頼長の暴走が加わり、藤原摂関家としての思い切った行動をとることもできなかった。
 平安京から指示どころか情報すら届かない日々が過ぎた末の保延五(一一三九)年三月八日、興福寺の僧徒が別当隆覚の住居に押し寄せ火を放った。さらに興福寺の僧徒は京都へのデモ行進を企画するようになった。目的は一つ、鳥羽上皇の別当任命権を弱めることである。最良なのは鳥羽上皇が興福寺の別当任命権を返上することであるが、政治的に重要なカードを相手の都合だけを受け入れる形で手放す者はいない。実際、興福寺のデモ隊の京都侵攻の情報を聞いた鳥羽上皇は興福寺への全面対決姿勢を見せる。保延五(一一三九)年三月二六日、興福寺僧徒の入京を防ぐため、平忠盛らを宇治と淀に派遣したのである。これでどうにか興福寺のデモ集団を防ぐことができたのであるが、軍勢派遣は断じて不満の沈下ではなかった。


 保延五(一一三九)年七月二八日、皇后藤原泰子に対し高陽院の院号が与えられることが発表された。藤原泰子は皇后であるが、崇徳天皇の妃ではなく鳥羽上皇の妃である。それも鳥羽上皇が退位する前、すなわち鳥羽天皇であった頃に入内した女性ではなく、退位後に鳥羽上皇のもとに嫁いできた女性である。上皇のもとに嫁いだ女性が皇后に就いただけでも異例であったのだが、その女性が院号を授けられるとなると更に異例が積み重なる。何しろ正暦二(九九一)年に皇太后藤原詮子が女性としてはじめて院号を受けて以降の一四八年間で、院号を受けた女性は藤原泰子を含めても七例を数えるだけ、およそ二〇年に一人いるかいないかという稀有な事例なのだ。
 院号は尊称である。それも、この時代における最高の尊称である。藤原泰子が高陽院という院号を受けた一事を以て、当時の人は藤原泰子の立場が推し量ることができたのである。
 皇位に就いたことのない者が院号の尊称を受けることが認められるのは簡単なことではない。
 天皇が退位したときは例外なく院号が与えられる。この場合、通常は住まいの名称を院号とする。嵯峨の御所に住まいを構えたことから嵯峨上皇のことを嵯峨院と呼ぶようになったことからはじまり、冷泉院、円融院、白河院、鳥羽院などが院号として記録に残っている。後一条院や後冷泉院などのように最初に「後」がつくのは、既に同じ住まいの名称による院号が存在したときの名である。なお、先に一人のみいるという場合は二人目が「後」となるという規定は存在するものの、三人目はどうするのかという規定は定まっていない。日本史上一度も存在しなかったケースであり歴史上誰一人として考慮しなかったということか。
 現代の日本国で手に入る歴史書のほとんどは「○○上皇」もしくは「○○法皇」と上皇や法皇の名を記しており本作も現在の歴史書の記載に則っている。また、当時の法で定められた呼び名も上皇や法皇であって院号を用いてはいないが、史書となると上皇や法皇ではなく「院」の文字が用いられていることが多い。名を直接記すのを憚り院号を以て記すのが礼儀であったことの影響である。
 院号として次に挙げるべきは、在位中に崩御した天皇への追号である。上皇や法皇が受ける尊称としての院号は、理論上、天皇がその地位を降りたときに与えられる尊称であるため、皇位に就いたまま逝去した場合は該当しないはずであったが、いつしか、皇位にあったまま逝去した天皇への尊称として院号を用いる慣例ができた。
 さらに院号の尊称は広まり、皇位に就くことのなかった皇太子にも院号が贈られるようになった。後世になると子が天皇になった親王への尊称として用いられるようになったが、この時代にその例はなく、皇位に就いたことがない男性が院号を受けた例は皇位に就かなかった皇太子への尊称のみである。もっともこれは、三条天皇の第一皇子である敦明親王に対し、藤原道長が皇位断念の見返りに用意した妥協案という側面もある。
 そして、最後に挙げるのが女性である。具体的には、皇后、皇太后、太皇太后のいわゆる三后であるが、三后であれば無条件に院号を受けることができるというわけではない。女性で院号を受けた初例は一条天皇の生母で関白藤原兼家の娘である藤原詮子。それからおよそ一五〇年を経過しているが、その間に院号を受けた女性はわずかに六名であり、藤原泰子は前述の通り七例目となる。ちなみに、初例の東三条院という院号は藤原北家が代々住まいとしてきた東三条殿を由来とするので東三条院藤原詮子は通常の院号と同じであるが、二例目である上東門院藤原彰子から女性への院号の特例が始まり、建物名ではなく、内裏の門の名が院号として付されるようになった。たとえば崇徳天皇の実母として院号を与えられた藤原璋子は待賢門院であり、当時の史料に残されているのも、藤原璋子という名ではなく待賢門院という院号である。
 これまでは院号を有するという一点で藤原璋子がこの時代において圧倒的存在を持った女性であったのだが、院号を与えられたという点で藤原泰子が藤原璋子に並んだことで圧倒的存在に陰りが見えてきたのである。それまで代父でもある白河法皇の権勢のもとで圧倒的な立場を築いていた藤原璋子と、白河法皇の怒りから三九歳まで入内を許されなかった藤原泰子。
 この二人の女性の対比を当時の人は院号によって推し量ることができたのだ。


 藤原泰子に院号が与えられたことは藤原璋子を動揺させるに充分であったが、その動揺を加速させたのが、保延五(一一三九)年八月一八日の一つの発表である。この日、鳥羽上皇の皇子である躰仁(なりひと)親王を皇太子とすると発表されたのだ。後に近衛天皇となる躰仁親王はこのときまだ生後三ヶ月である。
 躰仁親王は鳥羽上皇の息子であるが、生母は未だ皇后である鳥羽上皇妃の藤原璋子ではなく、また、院号を得た藤原泰子でもなく、この頃鳥羽上皇の寵愛を受けるようになっていた藤原得子である。躰仁親王は崇徳天皇と中宮藤原聖子の養子であり猶子であるとされたが、このときの宣命に記されていたのは「皇太弟」、すなわち、崇徳天皇の次は弟の躰仁親王が皇位に就くという宣言であった。
 後述するが藤原璋子の生んだ子は崇徳天皇一人だけではない。皇位継承権だけを見ても、元服はまだしていないが生後三ヶ月の乳児である躰仁親王より年齢が上の雅仁親王がいる。その雅仁親王を差し置いて、生後三ヶ月の躰仁親王を皇太子とするのは藤原璋子の動揺を増すに充分であった。
 鳥羽上皇は自身の皇后である藤原璋子の動揺を無視して藤原得子に地位を与えつつあった。保延五(一一三九)年八月二七日、皇太子躰仁親王の生母である藤原得子が女御の宣旨を賜る。皇太子躰仁親王のウィークポイントの一つである生母の地位の低さという問題がこの瞬間に消滅した。


 その間も興福寺では混迷が続いていたが、興福寺の混迷を京都の人たちが着目することはなかった。奈良から興福寺の中で混迷が続いているという情報が届いても、京都の中での最大関心事は鳥羽上皇の周辺の三人の女性たちと、その結果としての皇嗣争いである。奈良がいかに京都から近いと言っても、京都からは見えない奈良と、まさに京都の中で繰り広げられている女性たちの権力争いとでは、女性たちの権力争いのほうがより強い着目を集めたのだ。
 保延五(一一三九)年一一月九日に興福寺別当隆覚が、興福寺の僧徒と争うために軍兵を派遣するが敗れたという情報が届いた。従来であればそれで充分にニュースだが、この頃になると、奈良からのニュースを受けても京都の人たちはどこか遠い世界での出来事という感覚しか抱かなうくなるようになっていた。何かしらの関心を持ったとしても、どこか遠い世界で起こっている内紛がそろそろ片付くのではないかという感覚しか生じさせなかったのである。
 とは言え、朝廷が全くの無策なわけではない。何しろ暴動が起こるかどうかという話である。このまま放置しておくようでは執政者失格である。保延五(一一三九)年一二月二日、検非違使が奈良に派遣され、興福寺別当隆覚の軍兵が逮捕された。鳥羽上皇の送り込んだ別当であっても、興福寺に対する牽制どころか暴動の火種になるようでは鳥羽上皇も対処を考える。興福寺別当隆覚自身が逮捕されたわけではないが、隆覚はこの逮捕劇をきっかけとして別当職を停止されることとなる。
 鳥羽上皇という人を政治家として評するのは、一見すると難しい。しかし、現在の政治学には鳥羽上皇のような政治家を評する単純明快な単語がある。ポピュリストがそれだ。ポピュリストというと、右派、反知性主義、反エリート感情というイメージを思い浮かべる人が多いであろうが、実際のポピュリストは右にも左にも中道にもいるし、反知性どころか知性あふれる人も多いし、反エリートどころかこれ以上無いエリートである人も珍しくない。
 そもそも、ポピュリストとは何か?
 簡単に言うと、「敵を作って攻撃することで政権を掴もうとする政治家」である。敵とするのは何でもいい。反知性主義とか反エリートとか、あるいは右とか左とかの立ち位置はポピュリストであるか否かの判定になど何の関係もない。重要なのは、自分ならどういう政治をするかではなく、敵を攻撃することに徹底することである。敵を攻撃し、敵を殲滅させた後でどうするのかは全く考えない。そもそもそのような考えなどないし、考える必要性すら感じていない。敵を攻撃することに快感を感じさせ、敵を攻撃することで支持を集めることに執着するのがポピュリストである。
 この、敵を見つけるという点で鳥羽上皇はかなりのポピュリストであった。藤原璋子を敵と扱うために藤原泰子に院号を与え、興福寺を敵とするために落下傘候補とも言うべき形で別当を赴任させている。敵に対する攻撃の渦中にあるときは気分が高揚し多くの庶民の支持を集めるが、敵への攻撃が鎮静化すると攻撃があったことなど忘れてしまい、まともな後始末もしなくなる。その代わりに次の攻撃対象となる敵を探し出す。ついでに言うと、敵への攻撃が失敗であったことを認めることはない。


 鳥羽上皇にとって興福寺別当問題は大きなダメージとなるはずであるし、普通の政治家であればダメージを受け止めて今後の対処を図るところであるが、ポピュリストにそのような行動パターンは存在しない。ダメージの原因となったことは無視し、新しい敵を見つけて攻撃するというのがポピュリズの常道であり、鳥羽上皇もまた例外ではなかった。鳥羽上皇の作り出した敵は藤原璋子である。正確に言えば以前から攻撃すべき敵として認識させていたところで改めて脚光を浴びせたのである。
 考えてみれば藤原璋子以上に攻撃するのに都合の良い存在はいない。自分の力でなく有力者の権勢を利用して自らの権勢を築いた人の周囲を見渡すと、その人の力を利用しようとする人ならば現れても、その人自身の魅力で近寄ってきた人はいない。多くの場合、遠ざかり、そして嫌われるというのが通常だ。ポピュリストは、既に嫌われている人や集団がいればその人や集団を攻撃し、適切な攻撃対象がなければ敵を作り出して攻撃する。既に存在する藤原璋子という人物は、ポピュリスト鳥羽上皇にとって手っ取り早い攻撃対象となる。
 さらに言えば、藤原璋子の後ろには、今は亡き白河法皇がいる。白河法皇を直接名指しはしないものの、この時代の人たちにとっての白河法皇の時代というのは郷愁ではなく思い出したくない過去だ。鳥羽上皇の権力基盤は白河法皇の遺産と資産の継承であるが、それと白河法皇の意思の継承とは同じ話ではない。
 その例証の一つが保延五(一一三九)年一二月二七日に見られる。この日、後に後白河天皇となる雅仁親王が元服したのだが、通例に反し左大臣源有仁が加冠役を務めたのである。通常、皇族の元服の加冠役は天皇が務める。例外は天皇自身の元服であり、このときだけは太政大臣が加冠役を務める。普通に考えれば崇徳天皇が弟である雅仁親王の加冠役を務めるのはおかしな話ではないのだが、崇徳天皇の立場に立つと、あるいはその後ろの鳥羽上皇の立場に立つと、崇徳天皇が雅仁親王の加冠役を務めるのに問題点があった。
 皇嗣争いだ。白河法皇の意思では、崇徳天皇の後の皇位を継承するのは崇徳天皇の男児であり、崇徳天皇に男児がいなければ藤原璋子の生んだ崇徳天皇の弟が皇位継承権第一位となる。しかし、この意思を鳥羽上皇は無視した。雅仁親王よりも幼い、さらに言えば生後間もない乳児である躰仁親王を皇位継承者として指名したのだ。
 鳥羽上皇は自らの長子である崇徳天皇に譲位した。これは白河法皇の意思によるものだ。鳥羽上皇にしてみれば自分の後継者選定を自分の意思で決めることができなかったのは事実であるが、そこから先まで自分の意思を発揮できなくなる謂われはない。いや、鳥羽上皇は間違いなく白河法皇に逆らうことを最優先に考えていた。雅仁親王に何かしらの問題があるかではなく、白河法皇の寵愛する藤原璋子の子には皇位を継承させないことのほうが重要だったのだ。
 鳥羽天皇の中宮藤原璋子は七人の子を産んだ。男児五人、女児二人である。崇徳天皇は長男であり、雅仁親王は四男である。次男の通仁親王と三男の君仁親王は生来病弱で、通仁親王は大治四(一一二九)年に六歳という若さで夭折、君仁親王は保延五(一一三九)年時点で一五歳になっていたが病床で横になったまま動けない日常を過ごしていた。五男の本仁親王は長承四(一一三五)年に対仏教勢力対策として七歳という若さで鳥羽上皇の命令によって出家させられていたため、崇徳天皇の弟のうち雅仁親王を除く三人の親王は皇嗣争いの対象と見なされておらず、ただ一人、雅仁親王のみが崇徳天皇の後継者として考えられていた。藤原璋子自身も、崇徳天皇の次は雅仁親王だと考えていた。考えていたのにその思いが裏切られた。しかも、皇太子に任命されたのは生後三ヶ月の乳児だ。
 これに納得いかなかったのが藤原璋子である。藤原璋子は白河法皇の寵愛を受けて育ち、入内したときも白河法皇を代父として入内した経緯を持っている。何しろ崇徳天皇の実父は鳥羽上皇ではなく白河法皇であるとか、鳥羽上皇は崇徳天皇のことを叔父子と呼んだとかの噂まであるほどなのだから藤原璋子と白河法皇との関係性の深さは計り知ることができる。噂は噂でしかないが、記録から確実に言えることもあって、藤原璋子の産んだ七人の子のうち五男の本仁親王以外の六人は白河法皇が亡くなる前に出産し、本仁親王が懐妊したのも白河法皇の亡くなる前であることは確認できる。
 白河法皇が亡くなったと同時に鳥羽上皇は白河法皇の資産と権威を継承したが、白河法皇の意志までは継承しなかった。鳥羽上皇にとって都合の良いことは継承したがそうでないことは継承どころか反旗を翻したのである。そのわかりやすい例が躰仁親王だ。白河法皇を代父とする藤原璋子は彼女自身の能力ではなく白河法皇の威光によって権勢を手にし、威光と権勢は鳥羽上皇ですら黙って従わざるをえないほどであり、その結果が五人の親王と二人の内親王の誕生であった。しかし、白河法皇の逝去によって威光は消滅し、権勢は激減した。それまで抑えつけられていた思いである鳥羽上皇がわかりやすい形で反旗を翻すのは容易に想像できる。その結果が藤原得子だ。藤原得子を寵愛し、藤原得子の生んだ子を自身の後継者とするのは、白河法皇に対するこれ以上ない意趣返しとなる。
 意趣返しとなるが、その意趣返しを藤原璋子が黙って見ているわけはない。自分の産んだ雅仁親王よりも年下の幼児が皇位継承権筆頭となることは納得行かなかったのだ。藤原璋子は何度も雅仁親王を皇位継承権筆頭とするよう要請したし、雅仁親王を事実上の皇太子とさせるよう画策もした。とは言え、白河法皇の権勢だけを頼りにしてきた女性に何ができるであろう。崇徳天皇の実母であるから無視されることはないが、その一言で国政を動かすわけではない。本来ならば。
 ところが近年、院政のメカニズムを解き明かす新説が登場した。藤原璋子は白河法皇と鳥羽天皇とのパイプ役を果たしていたのではないかとする説である。そもそも、いかに実の祖父とは言え、退位したあとも宮中に姿を見せることは許されないというのが白河法皇の時代の不文律である。これは平城上皇と嵯峨天皇との間の権力バランスの崩れが薬子の変まで生み出してしまったことから生まれた不文律であり、たしかに振り返ってみると、平城上皇より後の上皇や法皇は自身を宮中から一線を画させている。白河法皇は絶大な権力を手にしたが、白河の地に自らの権勢を示す寺院群を建立し、その地で権力を振るいはしたものの、宮中の中心に陣取って権力を振るったわけではない。
 現在のように離れた場所であってもリアルタイムで情報を手にできる情報通信技術も無いし、藤原摂関政治のように情報網が張り巡らされた既存システムを利用したわけでもないのにどうやって白河法皇が情報を逐次入手できていたのかを考えると、その役目を藤原璋子が担っていたと考えれば合点がいくのだ。娘が父の元に足を運ぶのは特に珍しいことではないし、父娘間であれば頻繁な手紙のやりとりもごく当たり前のことだ。
 時代を経ると院政がメカニズムとして確立するし、朝廷と院庁との間での人の異動の頻繁さも見られるようになるが、白河法皇はゼロから院政を作り上げなければならなかったのである。アイデアは後三条天皇が出していたものであり、また、白河法皇は自身を関白に比する存在として捉えることで既存の藤原摂関政治を応用できたとは言え、統治システムの構築に目を向けるとゼロからの構築である。このようなとき、最初から綿密なシステムを作り上げようとすると、現実離れしていてたいてい失敗する。しかし、既存の環境でできることを考えて少しずつ現実に合わせて作り上げていくというのであれば、システムが現実と大きな乖離を見せることなく出来上がる。その、システム構築の過程において重要な役割を果たしたのが藤原璋子ではないかというのがその説である。
 忘れてはならないのは、藤原璋子は白河法皇を代父として入内してきた女性であるという点である。鳥羽天皇の実の祖父であるということをいったん忘れて、鳥羽天皇と白河法皇、そして藤原璋子の三人の関係を捉えると、白河法皇はまさに藤原摂関政治における摂政や関白に比肩する存在となる。そして、摂政や関白のみの専任となって、あるいは太政大臣となって議政官から身を引いた藤原摂関家の歴代の面々がどのような立ち位置で権勢を手にして権力を行使してきたかを考えると、白河法皇は文字通り、藤原摂関政治における関白に比肩する存在となる。そのときの白河法皇と鳥羽天皇とのつながりを考えると、藤原璋子異常に相応しい存在がいない。
 これが現実の関白にどのような感情をもたらすかと考えると、後年の保元の乱の構造は既にこの時点でできあがっていたことが推測できる。崇徳上皇対後白河天皇ではなく、鳥羽上皇対白河法皇という図式が。


 国境の外に目を向けると、この年、中国大陸で一つの動きが見られた。
 現在の我々は南宋と称しているが、当時の人の呼び名は、宋。中国大陸全土を制圧していた宋は金帝国に国土の北半分を制圧されたが、宋の公的な立場は金帝国に制圧された地域も全て宋の領土であり、今は金帝国と戦争中で、金帝国に占領されている領土は戦争に勝利して取り戻すというのが公的なスタンスであった。
 しかし、西暦で言うと一一三九年、宋は公的なスタンスを変更した。長江の南の港町である臨安(現在の杭州市)を首都と定め、本格的な首都とすべく臨安の都市工事を始めたのである。それまでは開封が首都であり、首都開封も含めた一帯が金帝国に制圧されているため一時的に避難しているというのが公式見解であったのが、このときから、首都は臨安であり、開封はかつての首都という位置づけに変わったのだ。
 これは南宋内部の政権争いにも関わる話であった。現実主義と理想主義との対立としても良いであろう。これまでは、岳飛、韓世忠、張俊といった武人らが宋の中枢を担っており、彼らは揃って金帝国に対する徹底抗戦を主張し、首都は臨安ではなく開封、制圧された領土は一時的に侵略されているが本来は宋の土地、さらに言えば金帝国の存在そのものが許されないというスタンスであったのだが、これは理想主義に過ぎた。宋の軍事力は金帝国に打ち勝てるものではなく、国家としての総力を挙げてもこれ以上の侵略を食い止めるのが精一杯であり、武力で金帝国に奪われた領土を取り戻すというのは夢物語の世界であったのだ。
 というところで宋の宰相に就任したのが秦檜である。秦檜はこれ以上の戦争は国力を衰退させるのみでメリットはないとし、金帝国との和平論を主張し始めたのである。和平論に対する反発は強いものがあったが、秦檜は自分の主張を断じて曲げなかった。とは言え、秦檜は平和主義者ではない。さらに言うならば、現代日本における自称平和主義者の典型と言える人間である。すなわち、戦争をしないためなら誰かを殺しても構わないという、第三者から見たら全く成り立たない、しかし当人には何一つ矛盾しない感覚を持った人間だったのである。このような人物が宰相となったらどうなるか? 戦争をしない代わりに多くの人が殺される。平和に反対する者は容赦なく投獄され、平和の敵とされた者は容赦なく処刑される。それが臨安遷都後の南宋であった。戦争と平和、自由と不自由とを組み合わせるとき、普通の社会であれば、平和は自由と、戦争は不自由と一緒になるのであるが、この時代の南宋は、戦争が自由と、平和が不自由と一緒になるという、人類史を振り返っても稀有な社会となっていたのである。
 虐殺が繰り広げられ、不自由が社会を覆い尽くしているとは言え、平和が作られつつあるのは事実である。そして、純粋にビジネスだけを考えるならば、自由が伴っていようと戦争状態である土地より、不自由であろうと平和であるほうがまだマシである。無論、最良は自由で平和な社会であるが、自由で平和な社会を望めないときは、不自由でも平和な社会の方が、自由だが戦争状態にある社会の方がマシだというだけで、平和の代わりの不自由まで肯定するわけではない。
 これを貿易相手国の立場で考えると、自由で平和な社会ではなく、不自由で平和な社会であるがゆえに可能になることが一つある。
 密貿易だ。
 不自由というのは自由も取り締まる厳しさのことである。取り締まりが厳しくなるのだから一見すると密貿易などというあからさまな不法行為も取り締まられる対象となる、はずである。しかし、実際にはそうならない。自由を取り締まって不自由を作り出すというのは、不法であると訴える自由も封鎖されてしまうということなのだ。そして、取り締まりを厳しくすることと、取り締まりをする人自身が不法に手を染めない清廉潔白さを持つということとはつながらない。それどころか腐敗は強固なものとなる。取り締まりを厳しくすればするほど取り締まりに関わる人間は闇に手を染め、取り締まりの目を逃れる手段を生み出す。不自由が極まるほうが密貿易はかえってやりやすくなる。
 その国に入ってきて欲しくない、あるいはその国から出て行って欲しくない物品を運び込むのを防ぐために港湾でガードしているのに、不自由を増して取り締まりを厳しくすればするほどそのガードが緩くなる。さらに、宋の法に従えば、宋が日本との間での貿易で使用できる船は宋人の操縦する宋の船に限定されているのであるが、いつの間にか日本人が操縦する日本人の船でも問題なくなってきている。宋の船が日本と宋との間を行き来してくれるというのは航海リスクを日本が背負わないで済むというメリットもあるが、航海リスクを宋が全て引き受けるために航海に要する費用が高くなる。これを日本で運ぶように変更するとなると、航海のリスクを背負う代わりに、航海に要する費用を日本で決定できるというメリットがある。要は航海費用を安く済ませることができる。こうなると、不自由な平和であるがゆえに日宋貿易はより活発になる。日本社会に与える影響も、南宋の社会に与える影響もある。それも、プラスとマイナスの両方があり、マイナスが生み出す悲劇についても看過できないものとなる。ただし、貿易業に従事する個人だけに視点を向ければマイナスは無視できる。航海のリスクさえどうにかできれば莫大な利益を築くことができる。


 中国大陸で不自由を伴う平和が確立されつつあった頃、日本では平和がだんだんと壊れてきていた。年が明けた保延六(一一四〇)年という年は、日本国内の宗教勢力が暴れまわる一年であったのだ。裏を返せば政権に楯突いて暴れまわる自由があったということでもあるから、平和で自由な暮らしから、自由はあるが、平和から戦争へと堕落していった一年でも言うべきか。
 きっかけは内大臣藤原頼長であった。と言っても、藤原頼長が何も無しに騒動を起こしたわけではない。事件が起こり、その対処を藤原頼長が買って出たら、事件の対処どころかより深い混迷へと陥ってしまったのである。
 その事件とは何か? スタートは保延六(一一四〇)年二月二三日に発生した石清水八幡宮の焼亡である。
 石清水八幡宮焼亡の連絡を受けた藤原頼長はただちに、自身が主導して、朝廷の命令として石清水八幡宮の再建を採決させたのだが、その再建方法が現在では考えられない方法だったのだ。保延六(一一四〇)年二月二七日に崇徳天皇の名で出された指令は、美作国に宝殿六宇と南楼一宇を、播磨国に廻廊三五間半東と南楼一宇と馬場屋一宇を、越前国に廻廊三五間半西と舞殿を幣殿と馬場廊屏と築垣と鳥居と門を修復せよというものであった。要はその国の国司に対して、任国内からの租税を朝廷に納める必要はないから、その代わりに石清水八幡宮再建のために用いよという指令である。これは何もこの時代の法から逸脱した指令ではない。法の通りに税を徴収し、その税を朝廷に直接納めるのではなく災害復興に充てること自体は以前から頻繁に存在していた方法であり、近年は見られていなかっただけである。藤原頼長はかつて行われていたその方法を復活させたのだ。三ヶ国に命じられた負担は再建そのものだけでなく、再建に要する人件費や資材費も含んでいる負担であるが、それらを全て足しても法の上では住民の税負担そのものに違いはない。税負担を法の通りに払っていたならば、の話であるが。
 保延六(一一四〇)年四月二日に石清水八幡宮再建のうち宝殿がまず完成したことで、この日に正式に遷宮となった。焼亡に遭ったことで再建するまで一次的に避難していたのが解除されたということである。避難解除だけを捉えるなら祝事ではあるのだが、再建を命ぜられた国司たちのことを考えると、単純に祝事であるとは言えなくなる。彼らは間違いなく想定外の出費を命じられていたのだ。
 本来であれば誰であれ税を払わなければならないのであるが、荘園制度はその概念を崩壊させた。有力者に年貢を払う代わりに国への税の支払いを拒んだのである。税を払わないなら国の庇護も受けられないという脅しも荘園には通用しない。国の庇護は受けられなくても荘園領主の庇護は受けられる。国が治安を守らないという脅しがあっても、荘園と契約している武士団や、荘園に住んでいる武士団が彼らを守るのだから問題ない。税を払わなかったら災害で田畑が損壊しても国が助けないぞという脅しはもっと無意味だ。税を払っているのに国は田畑が損壊した人を助けないが、荘園領主は年貢を納めている住民の生活を助けている。
 荘園の絶対数が少なければ税の徴収額は本来の税収から見て微減というレベルで済んでいたが、荘園の絶対数が増えると予定通りの税収など絵に描いた餅になる。かつては全体の二パーセントしかなかった荘園も、保延六(一一四〇)年頃になると全体のおよそ七五パーセントにまで及んでいる。単純な人口比とするわけにはいかないから正確な値とは言い切れないが、それでも、一〇〇人中九八人が課税対象であった頃と、一〇〇人中二五人しか課税対象ではない時代とで同じ税収を求めて、果たして払いきれるものであろうか?
 これに対する藤原頼長の姿勢は単純明快である。荘園の免税を認めないというものだ。荘園であろうと国に対する税は払うべきという、よく言えば建前通り、悪く言えば現実離れしたことを言って終わりである。一方、荘園は、特に荘園領主と荘園の住民は、獲得している免税の特権を捨てるつもりなどない。そこで国司は頭を抱えることとなる。荘園に出向いて税を払えと命じるか、自分で身銭を切ってどうにかするか。藤原頼長の命令を無視したらそこで人生は終わる。出世を断念しなければならなくなるとかのレベルではなく、任務放棄として逮捕されるのだ。
 さすがに藤原頼長の姿勢に不平を持つ者は多かった。そして、せめて父としての尊厳で息子の暴走を止めてくれと願う者も続出した。隠遁したままでいる藤原忠実の元に足を運んで陳情する者が続出したのである。
 ただ、父であるからこそ藤原忠実は息子の性格を理解している。議政官における貴族同士の議論ならまだしも、親として内大臣に私的な陳状をするというのは藤原頼長の怒りに火を点けこそすれ、自らの政策の過ちを顧みる要素にはならない。さらに言えば、藤原頼長は無茶苦茶なことをしてはいるが法の上では正しいことをしているのである。
 これ以上ない面倒ごとに巻き込まれるのは面倒だと考えたのか、それとも以前から考えていたのか、あるいはこれしかないと考えたのか、藤原忠実は一つの行動を見せる。
 出家だ。
 藤原忠実は既に六三歳を迎え、従一位の位階を有するものの、公的には太政大臣と関白を辞した無官の貴族という扱いになっている。年齢的にも、境遇においても、このときの藤原忠実のような貴族が出家するのはこの時代においては特に珍しいことでも何でもない。それどころか、ここまで出家せずに官界に身を置き続けたことのほうが異例である。藤原頼長も、父が政治について私的に何かを言ってくるのは我慢ならなくとも、父として息子に出家の意思を伝えることについては当然のこととして受け入れている。自らの政策によって沸き上がった不満の声に対する怒りを鎮静化する効果は持たなくとも、一人の人間として父の行動に付き沿って冷静にさせる効果はある。
 三位以上の位階を持つか、参議以上の役職に就けば、貴族としての公的記録である公卿補任に名が残る。それも毎年の記録に名が残る。しかし、出家すると貴族としての位階を全て失うことになるため名前が消えることとなる。そのため、貴族としての藤原忠実の公的記録は保延六(一一四〇)年で終わりを迎える。公的記録に書き加えられることがあるとすれば、亡くなったとき。そのときだけは、貴族としての最後の記録の後の余白に、何年に何歳で亡くなったかが記されることとなる。
 藤原頼長をどうにかしてくれそうな可能性のあった藤原忠実が出家したことで、最後の希望を失った国司たちは、任国内の荘園のうち、自分の勢力でどうにかできそうな荘園について税負担を求めるようになった。その多くは寺院や神社だ。特に今回の徴税は石清水八幡宮の再建であり、石清水八幡宮は比叡山延暦寺と深いつながりを持つ。比叡山延暦寺に関わる人や神社の荘園であれば徴税は可能と言えば可能であった。そして実際、税を納めはした。ただ、足らなかった。いかに延暦寺の勢力が強く抱え持つ荘園が広大であっても、延暦寺の系列の荘園からの税だけでは不足分を埋めるに不充分だったのだ。おかげで国司は自分の財布を傷めることとなったのである。
 石清水八幡宮が比叡山延暦寺に関わるということは、比叡山延暦寺と敵対する園城寺の荘園からの納税は期待できないことを意味する。また、延暦寺のデモに迷惑を被っている人たちからの納税もやはり期待できないことを意味する。これを比叡山延暦寺の立場から捉えると、国を守護する石清水八幡宮の再建に協力しないなど罰当たりも甚だしい悪行となる。また、石清水八幡宮再建の指令は崇徳上皇の名で日本全国に向けて発令されたものであるから、荘園の持つ免税の権利を行使して税を納めないことは天皇の命令に逆らう国家反逆罪に値する大罪を意味する。宗教の罰当たりを信じない者であっても、法令違反はどうにもならない。自らの力で逮捕しにくる者と戦うか、あるいは、どこかへ逃亡するかという話になるのだが、問題は、税を払わない者を処罰しにやって来るのが比叡山延暦寺の僧兵たちであるという点にある。朝廷が検非違使を派遣して逮捕しにくるというならまだいい。無罪を獲得できる可能性が低くとも、裁判に持ち込むという最後の希望ならば残されている。だが、比叡山延暦寺の僧兵となると話は別だ。彼らは捕まえにくるのではない。奪い、犯し、殺しにくるのである。しかも、比叡山延暦寺は崇徳天皇の指令の遂行という、無視することの許されない名目を掲げているのである。
 対立している集団のうちの一方に絶好の口実を与えたらどうなるかを藤原頼長は考えなかったのかと疑問に思うかもしれないが、おそらく、そこまで考えなかったのだろう。たしかにこの人は古今東西の書に目を通し、法にも明るい人であったが、人間性については全く理解していなかったのではないかと考えられるのだ。そうでなければこんな無責任な指令を出すわけなどない。
 藤原頼長の生み出した災厄は、延暦寺が園城寺に襲撃をかける絶好の機会を生み、園城寺の僧侶や園城寺の所有する荘園に住む人々を、延暦寺の僧兵たちの殺戮のターゲットとさせることとなったのである。
 崇徳天皇の皇太子は母親違いの弟である躰仁親王であるというのはもう決まっている。そして、躰仁親王を皇太子とした時点ではまだ崇徳天皇に実子がいなかった。男児がいない天皇が弟を皇位継承権筆頭にするのは通例通りである。異例を挙げるとすれば躰仁親王より歳上の、しかも崇徳天皇と母親を同じくする弟がいるという点であるが、それを問題とする意見が出てもポピュリスト鳥羽上皇が敵と認定した藤原璋子の意見であると断定されて終わりだ。
 ところが、保延六(一一四〇)年九月二日に女房兵衛佐局(ひょうえすけのつぼね)が重仁親王を産むと話がややこしくなる。中宮藤原聖子が男児を産んだなら問題なかったのだが、入内している女性のうちの一人が男児を産んだとなると問題が深くなるのだ。しかもこの兵衛佐局という女性は白河法皇に深いつながりがあった。生前の白河法皇と何かあったとかではなく、実父が白河法皇の建立した法勝寺の僧侶だったのである。
 兵衛佐局の曽祖父は藤原経季であり、入内時の養父は源行宗であるから、藤原氏と源氏の双方のつながりも手伝って、兵衛佐局について血筋の悪さをどうこう言う者はいない。しかし、中宮でないのに崇徳天皇の男児を産んだとなると、それについてどうこう言う者は現れる。特に口出しするのが中宮藤原聖子と、藤原聖子の父である関白藤原忠通の二人。一方、意外と平然としていたのが鳥羽上皇である。鳥羽上皇にしてみれば躰仁親王の次の後継者が誕生したと言って憚らず、それどころか美福門院藤原得子の養子に迎え入れたのである。もっともこれは、生後間もない乳児の安全を考えてのことである。
 重仁親王の安全を考えたのは、乳児死亡率の高い時代であったことももちろんあるが、皇嗣争いをめぐる争いを考えてのこともある。怒りのままに乳児を殺害する恐れもあった以上、これ以上ない身辺警護が求められたのだ。その答えが乳母の選択である。重仁親王の乳母に選ばれたのは藤原宗子、一見すると藤原氏の女性を選んだのかと思うかもしれないが、彼女が平忠盛の妻であると書くと評価は一変するだろう。あくまでも乳母としての役割と乳幼児教育の役割を考えての選択ということになっているが、平忠盛とその子の平清盛が後ろに控えている女性だ。鳥羽上皇は重仁親王に対してこの時代で考えられる最高のボディーガードをつけたのである。
 さらに鳥羽上皇は安全策を強化する。保延六(一一四〇)年一一月四日、崇徳天皇を再建工事完了となった土御門内裏に遷御させることで、誰にでも文句の言えない形で重仁親王と中宮藤原聖子および関白藤原忠通との間を引き離すことに成功したのである。この時代、子供は母親の家庭で育てることとなっており、重仁親王は鳥羽上皇と藤原得子の養子となっている。上皇は内裏と距離を置いた住まいであることが求められるため、これで必然的に重仁親王は内裏の崇徳天皇と藤原聖子と距離を置くこととなる。


 京都の東で比叡山延暦寺が園城寺に対して攻撃を仕掛け続けていた頃、京都の南西でも一つの騒動が起こっていた。保延六(一一四〇)年一二月八日、高野山の僧徒が密権院覚鑁(かくばん)を襲撃したのである。この襲撃を受けた覚鑁(かくばん)は高野山の西の根来に身を移した。
 これだけを見ると高野山の中で発生した物騒な出来事と映るだけだが、覚鑁(かくばん)のこれまでの人生、そして、この出来事は一つのスタートなのである。
 何のスタートか?
 鎌倉仏教のスタートである。
 年々混迷が深まり、記憶に残る過去よりも現在のほうが厳しい暮らしであり、その上、未来に希望が持てないというとき、人は二つのことに希望を求める。現在の理由を解明する科学と、現在の理由を説明してくれる宗教である。この時代はまさに科学と宗教の双方に対する需要が高かった。それなのに、科学も宗教も需要に応えていなかった。
 その流れを断ち切ったのが後に鎌倉仏教と称される新しい仏教であるが、鎌倉時代にピークを迎えたために鎌倉仏教と称される一連の新しい仏教の先陣を切った僧侶が覚鑁(かくばん)であった。宗教が人々の救済に全く役割を果たしていないと考えた覚鑁(かくばん)は高野山金剛峯寺の改革を推し進めていたのであるが、このとき、改革に対する僧侶たちの反発が爆発したのである。
 出家したなら身分差はないという建前は存在していたが、現実には、どのような身分から出家したかが寺院内の地位を決めるようになっていた。官僚ピラミッドに比べれば一発逆転のチャンスはまだ残っているとは言え、寺院内のトップは何と言っても皇族から出家した僧侶、次に藤原氏をはじめとする有力氏族出身の僧侶が来て、そうでない僧侶は寺院内でも低い地位に留め置かれるのが通例であった。
 覚鑁(かくばん)の父は名前は伝わっているもののその地位は荘園を管理する役人であり、通例に従えば覚鑁(かくばん)は僧侶として出世することはない。ところが、寺院内は官僚ピラミッドに比べればまだチャンスが残されている世界であり、覚鑁(かくばん)はそのチャンスを握り掴むことに成功したのである。もっとも、空海以来の才能と称される知性と教養の持ち主であったことだけでなく、鳥羽上皇の病気を祈祷で治癒させたことから上皇から直々に荘園が寄進されたという経歴が有効に働いたという側面もある。この時代、鳥羽上皇の後ろ盾というのは強力だ。
 覚鑁(かくばん)は高野山に新たな寺院を建立したのを皮切りに高野山において勢力を築くことに成功し、長承三(一一三四)年には金剛峯寺の座主に就任して高野山の事実上のトップに君臨することに成功したのである。このときの覚鑁(かくばん)、わずかに四〇歳。五〇歳で高齢者扱いされる時代の四〇歳は充分な年齢であるが、それでも、皇族に生まれた身でもなければ貴族出身でもない僧侶でありながら、四〇歳という若さで一つの宗教勢力のトップに立ったというのは特筆すべきことである。
 覚鑁(かくばん)が高野山のトップとして高野山で展開したのは真言宗の建て直しである。真言宗の総本山である高野山は、本来であれば空海の意思を受け継いで真言宗を学び、布教し、真言宗に基づいて多くの人たちを救済するための集団でなければならなかったはずなのだが、覚鑁(かくばん)がトップに立った頃の高野山は、上を見れば権力争いを繰り広げ、下を見れば僧侶になれば食いっぱぐれないという理由で出家し、ただ漠然としら日々を過ごすだけの僧侶ばかりという状況であった。覚鑁(かくばん)はこの建て直しを図ったのであるが、規律を求め腐敗を撲滅させるというのは反発を生みやすい。
 既に何度か記しているが、鳥羽上皇という政治家はポピュリストである。ポピュリストはわかりやすい敵を作り出して攻撃することで支持を集めるものだが、その視点でも覚鑁(かくばん)は鳥羽上皇の期待に応える僧侶であった。覚鑁(かくばん)が改革を展開すればするほど高野山で反発が強まり、高野山を見つめる庶民の視線は改革を展開する覚鑁(かくばん)と、改革に抵抗する既存勢力という図式へとますます成長していくのである。覚鑁(かくばん)は真面目に、仏教の、そして真言宗の再生を願っていたのであるが、覚鑁(かくばん)を応援している鳥羽上皇にとって重要なのは、高野山という武装勢力を持った寺院が外に向かって暴れ出さないことであり、中で対立を深めているというのは歓迎すべきことだったのである。
 高野山の中での改革に頓挫した覚鑁(かくばん)は、覚鑁(かくばん)を支持する弟子たちとともに根来に出て豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、権力争いではなく民心救済を最優先に行動する根来寺を成立させていくこととなる。鎌倉仏教の鏑矢となる動きがここに誕生したのである。もっとも、覚鑁(かくばん)の後ろ盾となった鳥羽上皇が考えていたのは高野山の武装勢力の勢力縮小であったのだが。


 鳥羽上皇の仏教寺院対策には一つに欠点があった。
 いかに上皇としての権威を以て接しようと、鳥羽上皇の手元には、公的には白河法皇から相続した権利と資産しか手元にないのである。現実問題として天皇の実父である上皇の意見や意思は無視できるものではないが、上皇や法皇の意見は理論上、退位した天皇の個人的な意見であって法的な効力を持つものではない。院政期の上皇や法皇は治天の君として絶大な権力を持っていたというのが教科書的な回答であるし、当時の人もそのように考えてきていたのであるが、法を綿密に適用しようとすると、それこそ藤原頼長のように律令を絶対の存在と考える人が政務をとるとなると、上皇の意見はあくまでも個人的な意見でありって天皇の意見のように法的な効力を持つものではなくなるのだ。
 さすがに一般人が上皇の意思に接したならその意思を無視するなんてことはほとんどないが、命の危機や組織の存亡の危機となったならば上皇の意思と法との関係性を突くことも可能だった。比叡山延暦寺が園城寺に対してあれだけの行動を見せることに成功したのも崇徳天皇の名で出された石清水八幡宮の復旧指令であったからで、これが鳥羽上皇の院宣だとしたら園城寺にもどうにかする余地があったのだ。
 しかし、保延七(一一四一)年三月一〇日にこの状況は終わりを告げる。この日、鳥羽上皇が出家したのである。ゆえに、歴史を扱う場合は、本作のタイトルのように上皇と法皇の区別をせずに院と記すゲースを除いて、本作品の本文のようにこの日以前と以降とで鳥羽上皇と鳥羽法皇とを書き分けることとなる。
 法皇と上皇の違いは出家したか出家していないかの違いだけではない。法的地位だけを考えれば上皇と法皇に違いは無いが、法皇は出家しているために、個人として仏教界に影響を与えることができるのである。僧侶であるため自分で寺院を構えることができるし、寺院を構えることができれば寺院を利用した荘園構築もできる。上皇のままでも院としての荘園形成が可能であるが、院に仕える役人は朝廷の役人のキャリアアップのための一段階であり、院に人生を捧げるつもりはないのが通常である。たしかに白河法皇以後は院司と朝廷との間を行き来するのがキャリアアップの一手段になっていたし、院司にして議政官の一員でもあることは珍しくなくなっていたが、それが通用するのは俗世間に限った話であり、僧職においては適用されなかった。院にいる僧侶はいても、院との接点は無視できぬとは言え、僧としての地位は高くなかったのである。
 それが、法皇になると激変する。
 いかに一僧侶であると言ってもかつて皇位にあった僧侶がただの僧侶であるはずはない。その側近ともなれば、身の回りの世話をするだけでも蔵人、さらには五位以上の位階に相当する。位階を捨てたはずの僧侶であっても、皇位にあった僧侶の周囲に仕えるとなれば相応の地位と権力が手に入る。
 しかも、天皇の周囲、あるいは上皇の周囲となったら、自身も相応の地位の生まれでなければ話にならないが、法皇の周囲となると相応の地位でなくとも僧侶としての実力でどうにかなる。すなわち、仏教を通じた地位の一発逆転が可能となる。
 官界に身を置いていたとしても、高い地位は藤原氏をはじめとする上流貴族で独占しているため限界が見えているが、仏教界に身を投じれば、覚鑁(かくばん)の例にもあるように生まれを問わない実力勝負に打って出るチャンスも以前から存在していたのであるが、法皇が誕生すれば野心あふれる僧侶に対するチャンスがますます開かれることとなる。
 ただし、鳥羽法皇が提供したチャンスは絶対的なものではあるが相対的なものではなかった。後述することになるが、いかに鳥羽法皇の権勢を頼れると言っても、比叡山延暦寺や興福寺といった勢力の強さは無視できる話ではなかったのである。出家して仏教界に身を投じなければわからなかった話であり、わかったときにはもう遅かった。たしかに野心あふれる僧侶と接する機会は増えたが、延暦寺や興福寺と同じ土俵に立つことの難しさも痛感させられることとなったのである。
 一方で、出家したからこそ可能になったことが一つある。資産形成だ。
 上皇は退位した天皇であり、朝廷の仕組みの中に組み込まれている存在である。鳥羽上皇の保有する資産も、現実には鳥羽上皇そのもので自由にできるが、理論上は朝廷の傘下に位置づけられる。ところが、出家すると鳥羽院そのものが寺院と同等の扱いになり、朝廷から一定の距離を置いた位置づけとなる。これが保有資産の増加を生み出すこととなる。鳥羽上皇の保有する資産の多くは白河法皇からの相続によっており、維持と運用は可能であったが新たな確保はさほどではなかった。しかし、出家したことで鳥羽法皇は朝廷と一定の距離を置くことに成功し、独自の資産を確保することが可能となったのだ。鳥羽上皇のままであれば律令の制約もかなり多く受けるが、出家して寺院扱いとなったことで、課せられる律令の制約が寺院に対するそれとなり、自由度が増したのである。


 ここで、一人の男としての鳥羽上皇が出家したことで、正妻である藤原泰子はどうなったのかに目を向けてみる必要がある。
 結論から言うと藤原泰子も出家している。夫の出家とほぼ同時に出家するというのは、平安時代に夫が出家した女性に残された二つの選択肢のうちの一つで、特に珍しいものではない。ちなみにもう一つの選択肢は離婚で、夫の出家後も婚姻生活を続けることは許されていないのがこの時代である。
 では、出家して尼僧院に入ったのかというと、それも違う。かつては剃髪した尼僧も仏教というシステムにおいて当然の存在と見なされていた。国分寺だけで無く国分尼寺も日本全国に建立され、全ての国分寺に男性僧侶二〇名、全ての国分尼寺に女性僧侶一〇名を置くように定められていたことからもわかる。ところが、奈良時代からだんだんと仏教界における女性の地位が落とされていき、尼僧院として建立された寺院が女人禁制の寺院の支配下に置かれることも、さらに廃寺になることも珍しくなくなった。廃寺となるのは国分尼寺も例外ではなく、もともと国分寺と国分尼寺がきわめて近い場所に建立されていたことが多かったことも手伝って、国分尼寺は国分寺に取り込まれるようにして歴史に消えていったのである。
 尼僧院が減っていったが、女性の出家そのものが喪失したわけでは無い。悩める日々からの救済を仏門に求める女性も多かったし、前述の通り、夫の出家に伴って出家する女性も多かった。数少なくなった尼僧院に入る女性、女人禁制の寺院の周囲に住まいを構え仏門に励む女性、そして、出家したものの寺院に入らず自宅に留まったまま女性が現れた。その延長上で、夫の出家に合わせて出家し、出家後も夫婦で暮らしケースが見られた。ちなみに、女性の出家の場合は剃髪では無く肩の辺りで髪を切り落とす尼削ぎである。現代の人がこのときの鳥羽法皇を見たら間違いなく僧侶と感じるであろうが、出家後の藤原泰子を見ても肩のあたりで髪を切りそろえた女性としか感じないであろう。
 同様に、当時の人が、その二人が鳥羽法皇と藤原泰子であると知らずに一組の男女を目の当たりにしたら、その時代における典型的な出家した夫婦であるとしか捉えなかったであろう。日本霊異記に妻や子のいる僧侶のことが描かれているのを初見とし、今昔物語をはじめとする当時の文学作品や、当時の仏教史料などからも、結婚してはならないということになっていた僧侶の婚姻生活は幅広く認められていたことが確認されており、そのあたりは厳しく取り締まられなかった。鳥羽法皇と藤原泰子の関係は、法皇と院号宣下を受けた女性という特別な要素はあるものの、構造自体はこの時代の出家した夫婦と同じであった。
 ただし、藤原泰子には高陽院という院号がある上、藤原泰子の父は元関白の藤原忠実、現役の関白である藤原忠通と現役の内大臣である藤原頼長は弟である。ここまでの条件が揃うと藤原摂関家の荘園を高陽院の荘園に移すことによって藤原泰子自身の資産形成も可能になる。荘園の所有権を移すというのは大事に感じるかもしれないが、荘園を現在の株式会社とすれば何らおかしな話ではない。株式売買の結果で筆頭株主が変わることも、筆頭株主とまではいかなくとも大株主が誕生することはある。
 ここで、鳥羽法皇自身の院の荘園と、高陽院藤原泰子の荘園とが合わさるとどうなるか?
 空前絶後の規模の荘園勢力ができあがる。上皇には不明瞭な法的権力しかなくとも、法皇となり妻の保有する荘園と足し合わせた巨大荘園の所有者となると、法的権力は上皇と同じ不明瞭なものであっても、荘園領主として発揮できる権力が壮大な規模となり、荘園領主として保持できる武力もまた壮大な規模となる。天皇としてこの国の全てに命令を発することはできなくとも、他の追随を許さない巨大な荘園領主となることができれば、鳥羽法皇の権威と権力は誰もが無視できないものとなる。無視できなくなるのは頻繁にデモを繰り返す寺院勢力も例外ではない。


 保延七(一一四一)年七月一〇日、永治へ改元することが発表された。
 保延七(一一四一)年という年は十干十二支で記すと辛酉であり、これまでを振り返ると、辛酉である承暦五(一〇八一)年は永保元年へ、寛仁五(一〇二一)年は治安元年へ、天徳五(九六一)年は応和元年へ、昌泰四(九〇一)年は延喜元年へとそれぞれ改元している。ただし、昌泰四(九〇一)年以前にそのような慣例はない。
 十干十二支での辛酉の年は天命が改まる年であり中国では王朝交替の起こりやすい年とされていた。この王朝交替を辛酉革命というのだが、日本では三善清行が昌泰四(九〇一)年に、辛酉革命による国家転覆レベルの社会変革を起こさせないために、辛酉革命による社会変革という名目で改元をすることを提唱してから、六〇年に一度、必ず改元する年として認識されるようになった。そのため、保延七(一一四一)年のどこかで改元することは事前から予期されており、七月一〇日に改元の詔が発令されたことは驚きではなかった。
 ところが、まさにこの頃、鳥羽法皇は辛酉革命と言いたくなる社会変革を目論んでいたのである。
 永治元(一一四一)年一二月七日、崇徳天皇が退位し、躰仁親王に受禅したのである。この日が近衛天皇の治世の始まりであるが、鳥羽法皇によって周到な準備が整えられた末の青天の霹靂であった。
 保安四(一一二三)年に崇徳天皇が即位したとき、崇徳天皇はわずかに四歳。それから物心ついたときには既に皇位に就いており、元服して、政治を学び、一八年一〇ヶ月の天皇としての経験を踏まえて、さあ、これから執政者として政治を執り行おうかといった矢先に帝位を父の手で奪われたのである。自分の次の天皇は弟の近衛天皇だが、このとき近衛天皇わずか二歳。この幼さで天皇としての職務が果たせるわけはない。
 普通ならば、これから執政者としてやっていこうかという二二歳から、まだ物心もついていない二歳へと譲位するなど、天皇としての政務を停滞させるだけでメリットなどないと考えるところなのだが、鳥羽法皇にしてみれば、まさにそのことが帝位を譲らせる理由になるのである。天皇としての職務を果たせないために法皇である自分が政務を補佐するというのは、鳥羽法皇が権力を握り続けるのに絶好の名目となるのだ。それも、崇徳天皇、いや、崇徳上皇の同意も得た上で。
 人口に膾炙すれば崇徳天皇はこの譲位を不満ながらも受け入れたということになっているが、はたしてそうなのだろうかとも考える。先に私は辛酉革命と言いたくなる社会変革と述べたが、これは単に近衛天皇への譲位だけを意味しているのではない。鳥羽法皇が為そうとしたこと、それは、統治システムとしての院政の強化である。しかも、崇徳上皇の同意を取り付けた上での。
 幼帝では天皇としての統治などできないが、律令は天皇の臨席が求められる国事行為についての対処法を規定している。摂政がそれだ。摂政は、天皇の代理として国事行為に携わることができるどころか、職務として携わらなければならない義務を持っている。
 そして、摂政は一人しか存在できない。摂政と関白がそれぞれ一人ずつの計二人ということはありえない。誰かが摂政である間、関白は絶対に空席となる。
 一方、上皇はどうか、あるいは法皇はどうか。
 そもそも臨席が求められる国事行為自体がない。臨席されると格が上がるというのはあるが、臨席必須という国事行為はない。その上、摂政に課されているような天皇の代理を務めねばならない義務もない。それどころか内裏から離れた場所に身を置かなければならない。さらに言えば、天皇から退位することだけが条件なのであるから何人いても構わない。鳥羽法皇にしてみれば、自分の一部を肩代わりできる崇徳上皇という存在が誕生したことは、寵愛する女性の子を皇位に就けるだけではない意味を持つ。崇徳天皇にしても、自身が天皇でなくなり幼き弟が帝位に就くというのは逡巡するところもあるが、白河法皇が構築して鳥羽法皇が継承した院政という政治システムの三代目に指名されたというのは、皇位から降りることも同意できる話である。
 たしかに上皇や法皇に法的権力は無く、その意見や意志も参考意見であって最終決定ではない。ただ、最終決定をする存在が最終決定できなければ話は変わる。
 律令に従えば議政官から上奏された法案に天皇の御名御璽があれば正式な法となって日本全国で有効となる。天皇が幼少である場合や病床にある場合などは摂政が代替してそこで正式な法となる。では、仮にその摂政が多忙となり義務として課されている業務をこなすだけで手一杯となったらどうなるか? 天皇を儀礼的な存在とまでさせた摂関政治が、まさにその摂政も儀礼的な存在となるという皮肉を招くのだ。上奏された法案に対するワンクッションが入ることなく自動的に法として全国に適応されることとなってしまうのである。
 平安時代に話を戻すと、上皇や法皇はそうした儀礼的要素をいっさい有さない。政務に関する感想を述べるという体裁ではあっても、その意見や意思は充分な熟慮の結果である。上皇や法皇に対して退位したからという理由で無視することはあり得ない。ましてや近衛天皇から見れば鳥羽法皇は実の父で崇徳上皇は実の兄である。断じて無視できる存在では無い。天皇との血縁を無視する考えの人であろうと、日本国で最大規模の荘園領主だ。抱えている経済力と操ることのできる軍事力を考えるとやはり無視できなくなる。
 ここで重要なのは、関白ではなく摂政であるという点。どういうことかというと、摂関政治と言うが、摂政と関白とでは、与えられた権力も、こなさねばならぬ義務も大きく違うのである。単純に言えば、摂政のほうがより強い権力を持つ代わりに摂政のほうが多忙である。日常を振り返るだけでも朝から晩まで国事行為に追われてプライベートどころか政務に専念する時間すら無くなる。藤原道長は頻繁に病欠したが、結果として、その病欠が多忙の中の休息とプライベートの時間の確保、そして日常に煩わされることなく政務に専念できる環境を生んだ。だからこそ、藤原道長は議政官を支配し続けることに成功したのである。
 摂政が国事行為に追われるというのは、摂政が政務にあたることもできずに議政官の議決をそのまま法令とすることを意味する。あくまでも理論上の話であるが、摂政は議政官の意見を無視して自らの意思を天皇の名で法として公布できるという特権を持っている。持っているだけで使わないのが通例であると言っても、存在するが使用しない特権を黙って見ている者などいない。しかし、持っている特権を使用できる状況でないと言うなら話は別だ。摂政と関白とでは摂政のほうがより多くの権力を持つがより多くの義務を持つ。これを、摂政や関白と向かい合う立場から言うと、関白より摂政のほうが恐ろしい存在となるが、摂政のほうが義務が多いために政務に専念させづらくすることも可能であることを意味する。
 崇徳天皇はとっくに元服を終えていた。そのため、摂政はおらず藤原忠通は関白であった。元服を終えている天皇と関白という組み合わせは、もっとも安定している組み合わせである。議政官に対する睨みも効かせられるし、国事行為も二人で分担することとなるから一人あたりの労力も減らせることができる。労力が減れば政務に専念できる時間も環境も用意できる。この状況を院という新興勢力視点で考えると、時間が経てば経つほど不利になっていく。レギュラーな権力である朝廷が正しく機能するようになり、院政はイレギュラーな存在であることがクローズアップされてくる。
 この状況からの一発逆転だけでなく、院政の強化を考えた結果が、崇徳天皇の退位と近衛天皇の即位だった。レギュラーな権力は弱いままである一方、鳥羽法皇が院政の後継者として崇徳上皇を指名することによりイレギュラーな院政という権力が強化されるのだから。
 鳥羽法皇、崇徳上皇という二名体制で院を強化することはできるが、院はあくまでもイレギュラーな存在である。これをレギュラーな存在とするためには、弱いままである朝廷権力を利用する必要がある。鳥羽法皇や崇徳上皇の意思を、議政官から上奏された正式な法案とさせ、近衛天皇の御名御璽で全国的な法とすることである。そのためには議政官に院がコントロールできる人材を送り込む必要があった。
 院に貴族や役人がいること事態はおかしくない。院号を持つ皇族は法に基づいて身の回りの世話をする者が用意される。ただし、彼らの位階は高いものではなく、貴族界の出世階段におけるステップの一段に過ぎない。院で過ごすか朝廷で過ごすかの選択肢が突きつけられたら、ほとんどの貴族は朝廷を選ぶ。そのほうが地位も名誉も、ついでに言えば給与も高い。鳥羽上皇が出家して鳥羽法皇となったのも、僧籍にある者を自身に忠義を尽くす部下とする目的があったからである。ただ、実際に出家してみると、その目的は甘い見通しによるものであった。実際にその目的もある程度は果たせていたのだが、満足いく結果ではなかったのだ。院政とは院号を持つ皇族の身の世話をするための既存の法の仕組みを利用しものであるから、いかに法皇や上皇が権力を持とうとその側近に与えることのできる位階や地位は法の束縛を受ける。出家して法皇となった場合、周囲で身の世話をする者に官僚ピラミッドとは無縁の僧侶が加わるが、僧侶に自身への永遠の忠誠を求めても叶う可能性は低い。真面目に仏門に励みたい者は出世欲や物欲を見せないし、宗教界での出世を求めるなら、法皇のもとに仕えるのは悪くない選択であるが、比叡山延暦寺や園城寺、あるいは興福寺といった一流どころの寺院に身を置くほうが効率がいいのが現実だったのだ。
 ただし、院の息の掛かった者を議政官とするとなると話は変わる。院からの強い推薦で位階を手にし、役職を手にできるとなると、院に人員を集めることができる。白河法皇は個人的に位階と役職の付与をやったが、鳥羽法皇は院政というシステムで位階と役職を用意することを考えたのである。それも、相対的に院が最強の存在となるよう、他の存在の力を弱めることで。
 藤原摂関政治は摂政や関白だから権力を振るえたのでなく、摂政や関白の意見を通す議政官の構成に成功したから権力を振るえた政治体制である。藤原摂関政治打倒のために議政官から藤原摂関家の者を減らして過半数割れをさせたこともあったが、失敗した。そこで鳥羽法皇が考えたのが、院の人材を議政官に送り込むことである。それも、藤原摂関政治を制御しつつ、藤原摂関政治と同じ方法で、イレギュラーな存在であるはずの院をレギュラーの仕組みに組み込むことが可能となるのである。
 藤原摂関家が一枚岩でないのも有効に作用した。前関白となっている藤原忠実とその次男の内大臣藤原頼長が一つの勢力になりつつあり、その一方で現役の関白である藤原忠通が一つの勢力となっている。厳密に言えば近衛天皇はまだ正式に即位をしているわけではないのでこの時点の藤原忠通はまだ関白である。
 藤原忠通が正式に摂政になったのは永治元(一一四一)年一二月二七日のこと。この日、中宮藤原聖子を皇太后、近衛天皇生母女御藤原得子を皇后とすることが決まり、その後で近衛天皇が正式に即位した。近衛天皇の最初の指令は藤原忠通を摂政に任命することであるが、何度も述べているように近衛天皇はまだ二歳。幼児が言われるままに摂政任命を指示し、以後は藤原忠通が天皇の代理を務めることとなった。
 この永治元(一一四一)年一二月二七日時点の議政官の構成を見ると以下の通りとなる。

 一見するだけでわかるが、かつて問題となっていた位階のインフレが鎮静化している。以前であれば三位になっても参議になれずに議政官に加わることもできないでいた貴族は多かったのであるが、この頃になると三位以上でありながら議政官に加わることのない人物は三人に留まっている。
 前述の通り、院に仕える貴族の位階は法で定められている。トップである院別当でも四位だが、かつてであれば参議など夢でしかなかった位階であっても今や参議でも珍しくない位階だ。院に仕える貴族の立場で見ると、院で実績を積むことが朝廷での出世に直結することを意味するようになる。これまでであっても例外的に四位のまま参議になることはあったが、それでも白河法皇の強い推薦があったときに限られていた。しかし、鳥羽法皇や崇徳上皇の元に仕えれば、その功績で参議になることができる。参議になったらあとは貴族としての出世街道は順風満帆だ。
 一方で、議政官の人数に大きな変動があるわけではない。誰かが亡くなったり引退したり出家したりすれば欠員は出るからその穴を埋めるのは通例であるが、四位の参議が珍しくないとなると、その欠員は四位である院に仕える貴族のものと考えるのが普通だ。おまけに、藤原摂関家の人数そのものが増えているから、かつてのように藤原摂関家に生まれたというだけでは貴族界の出世争いでポールポジションを手にするなどできず。プラスする何かしらの要素がポールポジションで必要となる。その何かしらの要素という視点で院に仕える院司である、あるいは、かつて院司であったというのはかなり有効に働く。
 こうなれば、院は忠実な手足となる貴族を手にしたも同然だ。院に仕え、鳥羽法皇や崇徳上皇の意思を朝廷に反映させることに尽力すればするほど貴族としての出世がより強い形で実を結ぶとなれば、院で働くことはキャリアアップの手順の一つどころか、キャリアアップの最高最善の手段となる。こうなれば、何もしなくとも人手が院にやってくる。振り返ってみると、人員確保という視点では出家して鳥羽法皇になったことは、飛び抜けたメリットのあることではなかったと言うことか。無論、院が寺院になることでの資産管理となると飛び抜けたメリットとなるが。
 人手が集まれば、院が藤原摂関家を凌駕する勢力を築くことが可能だ。それも、かつてのように白河法皇の個人的な能力による勢力ではなく、その時代の上皇や法皇がトップに君臨し、配下の貴族たちが朝廷の最有力勢力となるというシステム化された勢力だ。
 院政は後三条天皇のアイデアより始まり、白河法皇が実現させた。鳥羽法皇は言わば院政の三代目であるが、その三代目は、個人の能力ではなく、誰であろうと機能する、院政というシステムを作り上げることに成功したのである。
 このシステムを維持するために必要なのはただ一つ。天皇が天皇としての政務をとることのできる状況にならないこと。すなわち、幼いことである。
 これから五〇年後のことになるが、建久元(一一九〇)年一一月九日に、ときの太政大臣九条兼実は源頼朝との会談の様子を日記にこのように記している。

「謁頼朝卿所示之事等依八幡御託宣一向奉帰君事可守百王云々是指帝王也仍当今御事無双可奉仰之然者当時執法皇天下政給仍先奉帰法皇也天子如春宮也法皇御万歳之後又可奉帰主上当時全非疎略云々」(源頼朝が言うには、八幡の託宣での『君に帰し奉り百王を守るべし』について、ここで言っているのは帝王を指し示す言葉であって、今は後白河法皇が国政を執っていて後鳥羽天皇は皇太子のような立場になっているから、まずは後白河法皇に帰し奉り、後白河法皇が亡くなられた後で後鳥羽天皇に帰し奉るべきです)

 これは源頼朝が述べた言葉として九条兼実が書き残しているものであるが、天子如春宮(天皇は東宮(=皇太子)の如し)というのは源頼朝が最初に言い出した言葉ではなく、源頼朝の時代には既に一般に広まっていた概念であり、少なくとも近衛天皇即位時点では成立していた概念であった。ちなみに、後鳥羽天皇というと後の承久の乱を思い浮かべるかもしれないが、このときの後鳥羽天皇はまだ一〇歳の少年であり、院政というシステムを維持するのに必要な要素、すなわち、天皇が幼いことという条件に合致している。
 天皇の幼さゆえの統治能力の無さを拠り所とすることで、院政というシステムははじめて成立したのである。


 日本で院政が個人的なシステムから個人に寄らない政治システムへと展開されていた頃、中国大陸でも一つの政治システムが展開されつつあった。前述した平和主義である。戦争をしないという一点のために、南宋は大きな代償を支払うこととなった。
 金帝国は南宋からの平和交渉を受け入れた。それも、金帝国にとってはこれ以上無い最高の形での平和条約となった。この平和条約を紹興の和議という。
 まず、南宋は金帝国が占領した土地に対する領有権を全て放棄する。次に、南宋はこれ以上金帝国が南宋の領土に攻め込まないよう、銀二五万両と絹二五万疋、現在の日本円で言うと総額一〇億円ほどを毎年支払う。そして、南宋はこの平和条約に反対する者を罷免する。
 どう考えてもムチャクチャであるし、案の定というか、南宋では条約締結の責任者となった宰相秦檜に対する反発が強まった。それに対する宰相秦檜の態度は強固なものであり、戦争継続を主張する者は容赦なく逮捕され死を命じられた。
 このような人間が国の英雄になるわけはない。実際、後世の記録に残る宰相秦檜に対する評価は最低最悪なものがある。宰相になる前に知事であった地域では、知事としては有能であった秦檜を評価する祠が建てられていたのだが、後の朱子学の祖となる朱熹の命令で破壊されている。その一方で、明代には秦檜の像も建てられているのだが、その像の姿は宰相としてではなく罪人としての像と考えられるようになり、像を見に来る人に対して、像に唾を吐きかけ叩き壊そうとしたりしないようにという掲示が為されていた。
 ところが、宰相秦檜を評価する向きもある。評価する人には二種類あって、まず、金帝国と同じ民族が築いた国家である清の学者の評価がある。先祖が有利な条件で結んだ条約を肯定的に評価することはおかしな話ではないが、その点を差し引いても、その内容は同意できるものがある。次に、第三国の歴史家や経済学者の評価がある。色眼鏡無しで紹興の和議を分析すると、清の学者と同じ結論で評価している。
 話が後回しになったが、紹興の和議に対してどういう内容の評価をしているのか?
 少なくとも平和になったのは事実であり、軍事負担から解放されたことで南宋の庶民の暮らしぶりは良くなっていたのは評価すべきことというのがその主張である。ただし、自由は減り、自由がなければ生まれない産業のイノベーションも起こらないから、緩やかな衰退を迎える宿命を持っているが。
 話を当時の南宋に戻すと、そのような評価など起こるわけはない。国の英雄を殺害し、反対する者を逮捕し、屈辱的な内容の条約を結び、独裁者として君臨する者を称賛する者はいない。今の日本国のように選挙があるならば、宰相秦檜とその支持者の政党は平成二四(二〇一二)年の衆院選のように大敗を喫し、掴んだはずの国政を手放さざるを得なくなっていたであろう。たとえそれが自身に豊かさをもたらすものであろうと。
 その後の時代を知る者ならばこう考える。
 このときの平和を活かして国力を蓄え、軍事力を蓄えることで、金帝国も、南宋も、第三勢力に向けて対抗すべきであったと。
 理論上はそうだろうが、この時代の人に第三勢力のことを説明しても信じる人はいない。この時代に、知識として第三勢力のことを知っている人はいても、その第三勢力を脅威に感じる人はいない。実際、第三勢力と直接接した金帝国の記録に残されているのも、金帝国の国境警備隊が国境の外と戦闘となり、敵のトップであるアンバガイ・カンを捕らえて処刑したという記録だけである。しかし、この処刑された者は第三勢力の二代目のトップであり、その二代目の親族には一人の少年がいた。チンギス・ハンの父、イェスゲイである。イェスゲイが生まれたのは一説によると一一三四年だという説を正しいとすれば、この年はまだ八歳の少年。
 さすがにこの年齢の少年が民族を率いて強大な勢力になると想像する人はいないであろうし、その少年の息子が、それも、この時代にはまだ生まれていない子が、チンギス・ハンとしてトップに立ち、世界史上最大版図の大帝国を築き上げると考える人などまずいない。まずいないが、歴史はそのような時代の移り変わりを記録している。その歴史を知る者ならば少なくとも平和になったこの段階でモンゴルを制御できたではないかと考えてもおかしくはないが、後代を知らぬこの時代の人にモンゴルの脅威を説明したとしても、信じる人は、いない。 


 鳥羽法皇と崇徳上皇の二頭体制から完全に取り残されたのが待賢門院藤原璋子である。元々から人気と人望の無い人であったのだが、白河法皇という後ろ盾を失った瞬間に人望と人気をさらに落とした。
 人気と人望の無い有力者というのは良くない噂が勝手に発生するというのが世の常である。待賢門院藤原璋子も例外でなく、永治二(一一四二)年一月一九日に起こった出来事も噂が引き金となった事件である。どういう噂か? 皇后藤原得子を誰かが呪ったという噂である。あくまでも「誰か」であって具体的に呪っている人の名は誰も言わない。しかし、その人の名は全ての人がわかる。
 噂の信憑性を審査することもないまま、呪詛の実行犯として、法金剛院の法橋信朝、源盛行、源盛行の妻の津守島子、御子の朱雀の四名が逮捕された。法橋信朝は検非違使に拘束され、残る三名は土佐国に配流となったのであるが、この四人が誰なのかを当時の人は知っていた。法橋信朝は藤原璋子の乳母子、源盛行は待賢門院判官代、津守島子は待賢門院女房となると、待賢門院藤原璋子の周囲の者がことごとく追放されたこととなる。
 これに対する藤原璋子の怒りは激しいものがあったが、怒りに震えるかつての有力者というのは、庶民にとってこれ以上無い娯楽の対象となる。怒りを見せれば見せるほど最高の娯楽となり、後ろ盾を失った憎まれる有力者が破滅する道程というのは気分爽快な物語となる。
 藤原璋子の破滅の道程は永治二(一一四二)年二月二六日に一つの結末を迎える。この日、待賢門院藤原璋子が出家したのである。前述したが、夫の出家に伴い妻も出家するというのはこの時代において頻繁にみられることであり、高陽院藤原泰子が鳥羽法皇の出家に合わせて自身も出家したというのはおかしなことではない。
 ただ、忘れてはならないのは藤原璋子も鳥羽天皇の中宮であった女性であったということ。このあたりの皇室の女性関係はややこしくなるところがあるので整理すると以下のようになる。

 鳥羽天皇の退位後も崇徳天皇即位からしばらくの間は天皇の実母として中宮であり続けていた藤原璋子であるが、それでも一年一〇ヶ月が限度。中宮の地位を失ってからおよそ一八年に渡っては公的地位を持たない女性であった。さすがに天皇の実母ともなれば権威を伴うが、崇徳天皇が退位したことでその権威も喪失した。
 ただ、藤原璋子には最後の希望があった。このとき一五歳になっていた雅仁親王である。皇太子ではないが、元服している皇族の中ではもっとも近衛天皇に近い親族であり、普通に考えれば雅仁親王が皇位につくと考えるのは当然である。
 もっとも、その当然だという考えは鳥羽法皇に通用しない。近衛天皇にいざということがあった場合、鳥羽法皇は藤原得子の産んだ重仁親王に皇位を継承させることを想定していたのである。幼少の天皇でなければ院政のシステムは成立しない。それを考えると元服してしまっている雅仁親王はむしろマイナス要素にすらなってしまう。
 さらに言えば雅仁親王の資質にも難があった。自身が早々に皇位継承権から除外されたことを悟っていたこともあって、かなり自由奔放に生きていた。自由奔放過ぎて周囲から白い目で見られていた。
 趣味に生きる皇族や貴族は珍しくないが、雅仁親王が好んだのは庶民の娯楽である。田楽や猿楽といった当時の庶民の娯楽を好む貴族も珍しくないと言えば珍しくないが、雅仁親王の田楽と猿楽好きは度を超えていた。何しろ一般庶民を邸宅に招いて田楽や猿楽を披露させるだけでなく、自分もそのダンスの輪の中に加わるのである。ヒップホップダンスにはまるのと同様と考えると、だいたい一致する。
 それよりはまった趣味が、今様。現在で言うJ-POPである。それまでの音楽と全く違う新しい流行歌はいつの時代もどの社会にも登場するものであるし、若者がその流行に染まるというのもよくある話であるが、皇位継承権を持つ皇族が流行の最先端を走るというのは異例であった。田楽で踊らない間はずっと歌い続けていて、今の時代に生きてたらカラオケボックスに入り浸りで一人カラオケに専念していたであろう。朝から晩まで歌い続けていたせいで声が出なくなること三回、うち二回はのどが腫れて水を飲むのもできなかったというのだからその程が知れる。
 鳥羽法皇は息子のこの姿を見て、藤原璋子の息子であることを抜きにしても皇位に就ける器量ではないと判断した。元服している雅仁親王ではなく生後間もない重仁親王を皇位継承権筆頭とするのは納得いく話でないとする人は多かったが、雅仁親王の様子を知っている人には、雅仁親王を選択肢から外すという決断を最優先させた末の選択として納得する人は多かった。
 待賢門院藤原璋子が出家したのも、自分に残されたただ一つの選択肢の現実を目の当たりにしたからであったとも言える。
 もっとも、雅仁親王の立場に立つと、同意できるかどうかは別として理解できなくはない。父は母を捨てて他の女性のところに行き、兄が相続した父の資産は、他の女性が生んだ弟のもとに、それも自分よりはるかに幼い弟のもとに渡った。それでも同情されるならばまだ救いはあるが、捨てられた母は日本中から嫌われていて、捨てられた母のことを笑う人はいても慰める人はいない。おまけに、同じ母を持つ兄は母を捨てて父のもとに行き、父とともに幼い腹違いの弟の上に立っている。帝位ではなく矮小な喩話に置き換えたら雅仁親王の立場はこうなってしまうのだ。これでは雅仁親王が自暴自棄になるのもおかしな話ではない。 


 石清水八幡宮の復旧工事費用負担を拒否したことで園城寺が比叡山延暦寺の襲撃を受けたことは既に記した通りである。ただし、園城寺がこのまま黙っているわけはなく、永治二(一一四二)年三月一六日、園城寺僧徒が延暦寺を襲って東塔などを焼いたことから、二つの僧兵勢力が真正面からぶつかり、合戦へと発展した。
 迷惑極まりない武装集団同士が潰し合いをすれば双方ともに自滅するのではないかと考えるのは早計にすぎる。無関係の一般庶民が受ける被害は計り知れないし、仮に無関係の人に被害がまったく及ばないと証明されていても、この国に住む人が武器を手に向かい合って命にかかわる状況にあることを放置するようでは、それはもはや国家ではない。
 それに、いかに冷酷な人であろうと延暦寺と園城寺の持つ武力が平安京の東部を守る存在であることは理解している。仮に日本海の向こうにある国が日本海を渡って日本に攻め込もうとした場合、首都平安京を陥落させる最短距離は琵琶湖北岸に近い越前国や若狭国に上陸し、琵琶湖を渡って平安京に襲いかかるというルートだ。上陸を許して琵琶湖を奪われたとき、琵琶湖と京都との間の最終防衛線を担当するのが延暦寺と園城寺を二大巨頭とする寺社勢力の武力である。ここで延暦寺と園城寺の双方が潰し合い、双方が自滅することになったら平安京の東の守備は白紙になる。
 現在進行形で複数の勢力が武器を手に争っているとき、武装解除を命じて全ての争いを中止するよう命じることは当然と言えるが、理想を超えて空想ですらある。自分の行動は被害者が加害者に対して見せている正義の抵抗であると考えている者に対してその理屈は通用しない。さらに言えば、攻撃することそのものが目的になっていて、仮に相手をこの世から完全に消滅させたとしても新しい攻撃相手を見つけ出すし、攻撃相手が見つからなくなったら身内から攻撃相手を探し出す。こういう人に話し合いは通用しない。
 しかし、話し合いなら通用しなくても殴り合いなら通用する。
 殴り合いになったら負ける、あるいは、勝つにしても莫大な損害を被るとなったら、攻撃は中止せざるを得なくなる。後先考えずに突っ走る者がいたとき、まともな集団であるならば集団の中の自浄作用で沈静化できる。自浄作用できなかったら、それは集団そのものの衰退と滅亡を明示するに過ぎない。集団が衰退する気配を見せないときというのは、物騒極まりない集団であっても上層部は意外と冷静なものである。
 どうあがいても武力衝突を白紙撤回できないならば、白紙撤回は無理でも武力衝突を抑えつけることを考えるのも執政者としての一つの手段である。しかも、執政者としての鳥羽法皇は法的根拠を持たない執政者であり、かつ出家した一人の僧侶となっているがゆえにかえって自由が利く。国がやったら許されないことであっても、一人の僧侶の独断であると主張すれば許されるようになるのだ。
 それが延暦寺の側に立つことであった。武力のメリットがあるわけではないが、鳥羽法皇が延暦寺の側に立つことで延暦寺に正当性が生まれる。それに、今回の件について言えば延暦寺に非はないと言い切ることも可能なのだ。納税拒否をする園城寺に対し正しく納税するように求めただけななだというのが延暦寺の言い分である。その目的が自らの配下にある石清水八幡宮復旧であるし、納税を求める方法が暴力であるというのは支持を得るに苦しい話であるが、それでも正当性を主張しようと思えばできない話では無い。さすがに国として正当性を保証するのは苦しいが、一人の僧侶ということになった鳥羽法皇が個人的にどこかの寺院に協力するというのは、支持を集めるか否かは別として、可能ではある。
 永治二(一一四二)年四月二八日に近衛天皇即位に伴い、康治へと改元。
 新元号になってすぐ、鳥羽法皇は寺社の争いにおける自らの立場を表明する。
 康治元(一一四二)年五月五日、鳥羽法皇、東大寺で受戒。
 康治元(一一四二)年五月一二日、鳥羽法皇、延暦寺で受戒。
 京都の南の奈良では、奈良の地で圧倒的勢力を持つ興福寺ではなく東大寺を選んだ一方、平安京の東では園城寺を捨てて延暦寺を選んだことで、南都北嶺の勢力争いは比叡山延暦寺が圧倒的優位に立つこととなった。比叡山延暦寺のデモを過激化させる副作用を伴ったが、少なくとも武装蜂起を抑える効果ならばあったのである。
 鳥羽法皇が延暦寺の側に立ったことで園城寺は一気に苦しくなった。武装蜂起を考えても、正当性を失ってしまっているという現状はどうにもならない。延暦寺に正当性はないと主張することは可能であったかも知れないが、園城寺に正当性があると主張するのは無理があった。何と言っても納税を拒否したのは園城寺の側であるし、延暦寺に対する武装蜂起も、延暦寺に何をされたかを訴えたところで、突き詰めると納税拒否に対する処罰に対する反発となってしまう。
 苦しくなったのは興福寺も同じである。いや、興福寺のほうがより厳しい状況に置かれたとも言える。奈良の地で圧倒的優位を持つと自負していたのに、鳥羽法皇は東大寺を選んだのだ。
 仏式で葬儀をあげると故人に戒名がつけられるが、戒名というのは本来、故人への称号ではなく仏門に帰依した際に与えられる名である。授戒というのも戒授かる、すなわち、俗世間との関係を断絶して仏門に入り、残りの人生を僧侶として過ごすことを宣言する儀式である。
 出家した者は基本的には授戒の際の寺院に身を寄せる僧侶となるため、鳥羽法皇が授戒が延暦寺であるというのは鳥羽法皇が延暦寺の僧侶になることを意味するのであるが、これが東大寺になると話が変わる。東大寺は単なる寺院ではなく、日本全国に建立された国分寺を統括するのが東大寺だ。いかにこの時代になると国分尼寺が国分寺に吸収されただけでなく国分寺そのものも衰退してきたとは言え、国が統括する仏教寺院の頂点に立つ東大寺での授戒となると、勢力で興福寺の後塵を拝するようになっても、東大寺の権威は裏付けされるものとなる。それも、皇室の権威と歴史の権威の双方で裏付けされることとなる。こうなると興福寺は身動きできなくなる。
 康治元(一一四二)年八月三日に、興福寺の悪僧一五人を陸奥国へ追放するという処分が下ったとき、今までであれば興福寺も抵抗を見せていたであろう。だが、ここで抵抗を見せるのは得策ではない時代を迎えた。
 そして、一人の人物の復活を招いた瞬間でもあった。