病気と私 2
本文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。
お気づきの点などありましたら、どうかコメント欄で教えてください。
よろしくお願いします。
----- 治療薬ができてから -----
治療薬が提供され始めたため、母は輸血から解放されたが、その代わりに、大学病院から薬をもらってこなくてはいけないという新しい仕事が増えた。
医療費の助成が受けられるようになったとはいえ、福島の田舎町から、仙台までを往復する旅費を出すことは、とても困難だった。もしかすると、父は私が入院した時に支払った医療費を何年もかけて返済し続けていたのかもしれない。
生活が困窮する中で、私は本当の意味でお荷物だったのだ。
私の面倒を一人で見ている母をみかねて、近所でメリヤス工場を営んでいた人が、母にこういったそうだ。
「よその家の田畑の手伝いをして、お金は一銭も自分ではもらえず、その子を生かしてやれるのか?」
「うちで働けば、働いただけの給与をきちんと払ってやる。その金で、自分の子どもを生かしてやれ」と。
母は、祖父母(姑)に激怒されながらも、メリヤス工場で働くことを決め、そのお金で病院を往復し続けた。
その時の薬をどうやって持ってきていたのかも、書いておかなくてはいけないだろう。
冷却が必要な薬だったため、大きな金属バケツ二つに氷を山ほど詰めて(仙台から福島の病院に到着するまで溶けない量の氷である)その下に製剤を入れて運んだのだ。
当たり前のことだが、タクシーなど使えるわけもなく、その上、必ず私も連れて行かなくてはいけないのだ。
私はといえば、相変わらず内出血を繰り返し、まともに歩けることなどほとんどなかったため、私を背負い、両手にバケツをかかえて病院から駅までも歩いて運んでいたことになる。
今から考えると想像もできないようなことを、そしていつ終わるとも知れないことをやり続けていたのだ。
私が生きていることをどれほど願っていたのだろうか、私など死んでしまった方がずっと楽に生きられただろうにとこれまで何度も私は思った。(口にしたことは一度もないが)
この生活は、私が養護学校に入学するまで続いた。
1971年から1975年までの約4年間である。
1975年の3月に宮城県立西多賀養護学校に転校した。
小学2年生の3学期だった。
養護学校への転入は、同時に国立療養所西多賀病院への入院も意味した。
----- 入院までの経緯 -----
大学病院へ薬をもらいに行ったとき、母は森先生から勧められていたのだ。
大学病院の医師を、国立療養所に派遣し、そこで血友病の治療を行うことにしたと。
そこには、何人もの血友病患者がすでに入院治療を始めており、他にも学校に通えない多くの子どもたちが、ベッドの上で授業を受け、病気の治療もできるようになっているのだと。
しかし、すぐに入院させる決意はつかずに、しばらくの間はこれまでの生活を続けていた。
両親が私を入院させると決意したのは
私の兄の言葉がきっかけとなった。
私は、右肘の内出血を繰り返していて、右手がほとんど使えない状態になっていた。それを見ていた兄が、「このまま家においておけば、こいつは生涯手が使えない奴になってしまう。歩けなくなってしまうのは仕方がないにしても、手が使えなくなっては本当に何もできない奴になってしまう。こいつが大きくなったときに、そうなってしまったらどう責任を取るんだ」と
兄は私より10歳年上だったので、当時17歳、高校2年生の終わり頃だ。
兄のエピソードは数えきれないほどあるが、一つだけここではなします。
兄は私が生まれたとき、朝の学級会で「私についに弟ができました!」と大喜びでクラスのみんなに話したそうだ。
私が生まれてから8年もの間、生まれてきたことをそれほど喜んでくれた兄が、痛みで泣き続ける弟をどう思ってみていたのか。このことは、この歳になってもまだ兄に聞いたことがない。
これまでに何度も何度も兄には助けられながら生きてきた、どう感謝の言葉を綴っても伝えきれないほどに。