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うさねこまったり

病気と私 3

2020.03.27 09:07

文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。

お気づきの点などありましたら、どうかコメント欄で教えてください。

よろしくお願いします。

前回の記述で、母から聞いた話がありましたので、追記・訂正します。

(ほぼ、書き直しになるかもしれません)


----- 私が入院することになった経緯 -----

1975年3月

私が痛みで泣き続けていて、近くの病院ではなく大学病院まで行かなくてはいけないような状態になってしまっていた。

母が病院に連れて行かなくてはいけないと言うと、父が「そんなにしょっちゅう病院に行かかせられるか」と大喧嘩になった。

父は、私だけではなく祖父の病院代も払っていてとにかくうちは貧乏でお金がなかったのだ。

最後には父が給料袋を母に投げつけ、そこに、兄が二階から降りてきたのだ。(二人のやりとりをずっと聞いていたのだろう)

そして、母は「字もかけなくなってしまったら、本当に何もできない人間になってしまう。明日病院に連れていけ」と言われた。

母は、投げつけられた給料袋をそのまま懐にいれてしまい、そしてそのお金を持ったまま翌日病院に向かった。

東北大学病院に到着し私が点滴治療を受けるている間に、母は森先生から話をされた。

「このまま家に帰ったら、この子どもは、もう大人にはなれないよ、タクシーを頼んだから、このまま西多賀病院へ行きなさい」

母は、そんなことは全く考えていなかったので下着一枚とタオルしか持参してきていなかったが、言われるままにする以外にどうしようもなかった。

西多賀病院へ到着すると、すでにベッドが用意されており、スタッフから「これからは、ここで責任をもって預かります」と言われた。

別室に連れていかれ、沢山の書類を書かされた。

文字を書くことはできたが、書類に書かれている内容などほとんど分からなかった。

担当者に言われるままに、「ここに名前を書いてください」「ここに住所を書いてください」と、一つ一つ、すべて言われるままに文字を書き続けて書類を出した。

そしてそれは、この瞬間から何年もの間、自分の息子を病院で生活させることを意味した。

その日は時間が遅くなってしまい、母は家に帰ることができなくなっていた。

長期療養を目的としていた病院で、遠方から入院している患者も沢山いたため、病院の敷地内に「母の家」という宿泊施設があり、そこで母は一晩を過ごし翌日、私の付き添いをして、家に帰って行った。

「同じような年齢の子どもが6人いる病室で、知っている人が誰もいない。方言も違い、言葉もちゃんと聞いてもらえない。おかしな奴だと思われていることはよくわかった。これからどうなるのか考えることもできなかったが、母は私を置いて、家に帰ってしまった。なんだかわからないがとても怖かった」そういう記憶が残っている。

私は、今夜は近くで泊まって明日また来ると出て行った母のことも、翌日、自分だけ帰ると言った母も私は追わなかったし、泣くこともなかった。

家に戻った母は、地元の小学校に行って事情を説明すると、「病院に入院しながら勉強ができる学校がある」ということ自体、小学校の校長ですら知らなかったという。

しかし、話が伝わったことで、学校側で用意した書類を預かり、教科書を受け取り、私の入院生活に必要な物をそろえて翌週の日曜日には再び西多賀病院まで持っていった。

その後、母は福島の田舎から、仙台の病院まで毎週通うことになる。

土曜日になると、明日は病院に行かないといけない。

面会に行くときには、小さな弁当箱に、大したもの物はいれられなかったが、何かしらは作ってもっていくので、何を作って持っていくか考えた。

日曜日になると、電車とバスで病院に向かう。

郡山で乗り継ぎ、仙台で乗り継ぎ、長町で降りてバスに乗り換える。

言うまでもないが、特急や急行電車になどのれるわけがないから、鈍行列車でゆっくりと向かう。

病院には昼近くに到着し、15時ぐらいには帰らないといけないので、3時間ぐらいしか病院にはいられなかった。

西多賀病院のすぐ裏手に、「太白山」という山があり、その頂上には3本の長い木があった。その山を目印にすれば西多賀病院へ行けるというシンボルみたいな山だ。

その山が近づいてくると、あそこに息子がいると眺めながら向かい、帰りになると、あの山のところに息子を置いてきてしまったと泣きながら帰ったそうだ。


母はこの時代のことを何度も繰り返して言っていたが、父は本当にお金で苦労し続けて居たのだ。

自分の息子が痛くて痛くて毎晩泣き続け、おそらくは可哀そうで可哀そうで、いたたまれなかったのだろう。

それでも眠らなければ翌日仕事にはいけない。「泣かせるな!」と怒鳴っては見ても、どうにもならないことは父が一番よく分かっていただろう。

働いても働いても、郵便局の給料は安いままで、部落の飲み会や、旅行なども一切断り続けて村八分にするとまで言われても、そこに参加することは一度もなかった。そうやって、お金を使わないでいたのだ。