鳥羽院の時代 5.保元の乱
災害で記録が失われることは歴史上に何度も登場する。アレクサンドリアの大図書館しかり、この時代から三七年後の平泉しかり。また、応仁の乱で失われた歴史資料はあまりにも多く、現在は一部しか残っていない、あるいは書名しか残っていない資料は応仁の乱での消失が理由であるというのも珍しくない。
そこまでの規模ではなくとも、記録が失われる事態となったケースとして仁平三(一一五三)年四月一五日の事例が挙げられる。未刻というから現在の時制にすると昼の二時前後、五条坊門南から鳥丸東にかけてのエリアから出火し、大規模な火災へと発展した。このときの火災により、大江家で代々保存していた図書およそ数万が灰に消えたという。
数万の図書というのは誇張表現であろうが、現在では書名しか残っていない書物を挙げるだけでも、菅原文時の著した『文芥集』、為憲所撰の『本朝詞林』、菅原是善の著した『東宮切韻』、菅三品自筆被書である『統理平集』と『荘子成英疏』。その他にも『為憲集』、『扶桑集』、『有国集』、『本朝佳旬』、『以言集』全八巻、『許渾集』、『旌異記』、『内傳博要』、『本朝秀句』といった書物が失われたことが判明している。
当時としては群を抜いた所蔵数の図書館、当時の呼び名で言うと文庫がこの火災で失われたことは、単に書物が失われたことだけを意味するのではない。現在の図書館でも同じことであるが、当時の文庫も学習の場所であった。何より大江家そのものが学者を輩出する家系として有名で、多くの図書を自宅に所蔵していたのも学習のためである。この頃の大江氏は貴族の一員であると同時に、この時代にも残っていた役人登用試験の最高峰である方略試に合格する者も大江家から輩出しているのはその一例である。もっとも、学問の世界で捉えると菅原氏がトップに君臨して大江家は二番手か三番手といったところであり、大江匡房が亡くなってからの大江氏はいまいちパッとしないのが実情であった。
このときの文庫焼亡で大江氏は大きな打撃を受けることとなる。しかし、この悲劇を眺めていた五歳の男児がいた。後に中原広元と呼ばれ、晩年に大江広元と名乗ることとなる少年である。後に源頼朝の頭脳となるこの少年は、成人してから後、涙を流したことがないという逸話を残している。もしかしたら、このときに感情を失ってしまったのかも知れない。感情を失った代わりに他を圧倒する知性を手に入れて。
大江氏の文庫の火災を目の当たりにした藤原頼長は、これを自派構築のチャンスと捉えた。もともとが読書家である藤原頼長は自身の図書コレクションとしてなかなかのものを持っている。藤原頼長は自宅の図書を公開することを考えたのだが、それだけでは不充分と考えた。学びたい者に学びの環境を提供することはあくまでも自派構築の入口でありゴールではないのである。
藤原頼長の考える自らの派閥の人員、それは知識人である。単に学ぶ意欲を持つ者というだけでなく、既に学んで充分な知識を手に入れている人材を藤原頼長は求めたのだ。
それは何も藤原頼長が知識人を尊重したからではない。現在でも同じことが言えるが、自分のことを知識人と考える人は、知識人ならば無条件で自らの仲間と考えると同時に、自らの仲間であるかどうかが知識人たる指標と考える傾向がある。知識人であることと自らの仲間であることとは完全一致する必要充分条件であるという考えですらある。
ゆえに、客観的に知識人であることを評価する方法があれば、それが自派の拡大をそのまま意味すると考えるようになる。ただでさえ大江氏の文庫が火災に遭って書物が失われた上に学習の場の一つが喪失するという、知識人にとっての不幸があったばかりだ。ここで知識人たる客観的評価があって中央政界への道を切り開くことは、知識人たちを自派に招き入れる絶好のチャンスだと、藤原頼長は考えたのである。
仁平三(一一五三)年五月二一日、鳥羽法皇の命令により、東三条院で、すなわち藤原摂関家の本拠地で役人登用の採用試験という名目での知識人判定の試験が開催された。受験者は六名。
その結果は藤原頼長に過酷な現実を突きつけるものであった。
知識人は藤原頼長を支持しない。
藤原頼長は知識人ではない。
客観的に自らより優れた結果を残したと判断せざるをえない面々が揃って、明らかに自らのこれまでの思考や行動を全否定する、それも、全く反論の余地を残さず否定するという、藤原頼長のアイデンティティを崩壊させる結果が示されたのである。
藤原頼長は怒りを隠せなかったが、爆発させることはなかった。その代わりに、客観的評価の仕組みのほうが間違っているとしたのである。今の仕組みでは知識人を正しく判定できない。その証拠に知識人たる自分を正しく判定できていないではないか、と。
知識人の自派組み入れに失敗した藤原頼長であるが、自派構築そのものを諦めたわけではない。現在の議院内閣制の国で当たり前に見られることであるが、少数派閥が他の派閥と手を組むことで議会内の多数派を構築し、議会の主導権を握るというのは珍しくない光景である。
議政官という議会をこれまでのように藤原摂関家であるか否かだけで捉えれば、議政官は藤原摂関家が圧倒的多数派であり、その当主たる藤原頼長は議政官を自由に操作できる立場であるが、院という存在で見ると藤原頼長の立場は弱いものがある。たしかに藤原頼長自身は鳥羽法皇のもとに寄っている。しかし、明白な鳥羽法皇の家臣というわけではなく、言うなれば議院内閣制における連立与党の位置づけであった。この時代には藤原摂関家であるか否か、鳥羽法皇の院司であるか否かという二つの軸があり、全ての貴族がこの二つの軸での正否に基づいて多数派になったり少数派になったりしたのである。最大多数は藤原摂関家であり、かつ、鳥羽法皇の院司でもある貴族。次に藤原摂関家ではないが鳥羽法皇の院司である貴族。藤原頼長のように藤原摂関家であるが鳥羽法皇の院司ではない貴族というのは、少数派閥である。
自身で最大派閥を構築するのは困難と悟っても、自身が最大派閥の一員となるのは不可能ではない。
仁平三(一一五三)年五月二八日、藤原頼長が正式に鳥羽院別当となったことで、藤原頼長は自身を最大派閥の一員にカウントさせることが可能となった。左大臣でありながら院司になるのは異例な話であるが、時代の情勢は異例な話を当然とする空気を生み出していた。
鳥羽法皇の院司が最大勢力であり、院司としてどれだけの権力を発揮するかがその人の政治家としての資質を意味するまでになったのである。言うなれば、共産主義国やナチスのように選挙によらずに一党独裁が確立されている国において国政における立ち位置よりも党における立ち位置のほうが強固であるのに似て、左大臣という国政の最重要役職の一つでありながら、鳥羽院政という視点では権力を持たぬために政策が詰まってしまっているのである。
もっとも、自らの権力の現状までは理解した藤原頼長ではあるが、頑迷なまでの律令制への回帰そのものが支持を得ておらず、取り締まりもなされないでいることの根幹も政策への不支持によることだとは気づいていない。
鳥羽院の勢力の一員になったことを活かそうとした藤原頼長は、すぐに水を差されることとなった。
藤原頼長に水を差したのは奥州藤原氏である。康治元(一一四二)年は国司の検田に逆らおうとして武力衝突となったが、それから一一年を経た仁平三(一一五三)年、今度は奥州藤原氏の勝利に終わったのである。
藤原摂関家は東北地方に一二ヶ所の荘園を所有しており、そのうちの出羽遊佐荘、屋代荘、大曾根荘、陸奥本吉荘、高鞍荘の計五ヶ所の荘園は藤原頼長が個人的に相続していた。
この五ヶ所の荘園全てに対して藤原頼長は律令通りの徴税を課したのであるが、奥州藤原氏はこれに抵抗し続けていたのである。一一年前は宣旨が効果を発揮させたが、一一年という時間は奥州藤原氏にも抵抗する方法を考えさせる時間を用意させたのである。
それが鳥羽法皇への接近である。陸奥国司藤原基成の娘と藤原基衡の息子である藤原秀衡との結婚によって、藤原基衡は藤原基成と親戚になった。藤原基成は鳥羽法皇の院近臣であり、藤原基成を通じることで公的に鳥羽法皇と接近を図ることができたのである。
さらに奥州藤原氏には財力があった。仏像を製造した仏師である雲慶に対して、現在の貨幣価値に直して一五億円の生活費と六億円の成功報酬を払ったことは既に記した通りであるが、藤原基衡の財力が示されたのは雲慶への支払だけではない。奥州藤原氏から京都へと送られてくる東北地方の物品や、北海道や樺太、あるいは沿海州といった地域からの産品は、平安京の人たちに広く受け入れられただけでなく、鳥羽法皇にも受け入れられていた。
その見返りに藤原基衡は一つの官職を手に入れていた。父が務めてきた押領使である。押領使は令制国内の軍事指揮権を持つ役職であり、国司の命令があれば軍勢を操ることが許される。父の藤原清衡が受け持っていたのは陸奥押領使であるが、藤原基衡が獲得した官職は出羽陸奥押領使、すなわち、陸奥国だけでなく出羽国においても軍事指揮権を獲得したこととなる。陸奥国での軍事力行使は陸奥国司の、出羽国での軍事力行使には出羽国司の認可が必要となるが、康治元(一一四二)年と違い、陸奥国司も出羽国司も奥州藤原氏に真っ向から対決する姿勢を見せていないだけでなく、奥州藤原氏を令制国統治のために利用している。
藤原頼長は今回も宣旨を用いれば荘園に対する正当な徴税を課せると考えていたようであるが、今回はどういうわけか宣旨が出なかった。それでも律令は律令であり、藤原頼長は律令通りの徴税を課そうとしたが、陸奥国司も出羽国司も宣旨なき命令は無効であるとしただけでなく、住民の安全を守るための押領使としての職務遂行を優先させなければならないとし、藤原頼長の命令を無視したのである。
藤原頼長はその後もしつこいほどに東北地方に対して律令通りの徴税を求めるが、出羽国府も陸奥国府も宣旨無き命令は無効であるとして拒否。さらに奥州藤原氏を相手にするとなると武力を用いての強制的な徴税は無謀とするしかなく、実行力無き命令は遂行されない。
藤原頼長と奥州藤原氏との対決は、仁平三(一一五三)年、藤原頼長の敗北で終わった。律令に定められた税率にはるかに及ばぬ税率が荘園に課せられる年貢であることが確認されたのである。左大臣の所有する荘園が、左大臣が私的に求める律令制への回帰ではなく荘園の守護者である奥州藤原氏を選んだ上に、出羽国司と陸奥国司がともに法に基く国司としての職務に基づいて行動し、奥州藤原氏も法に基づいて行動するという無言の圧力を掛けたのである。律令制への回帰を訴えている藤原頼長に対するこれ以上無い意趣返しであろう。
法に基づく争いで奥州藤原氏に敗れ去ったことは藤原頼長にとって大打撃であり、藤原頼長にとっての打撃は美福門院藤原得子と関白藤原忠通にとってプラス材料となるはずであったが、仁平三(一一五三)年八月二八日、今度は美福門院と藤原忠通に対する大打撃が沸き起こった。
妊娠したはずの中宮藤原呈子から出産の情報が出てこないのである。出産予定日になっても産まれないこと自体は珍しい話ではない。しかし、それが一五ヶ月を経るとなるとさすがに疑いを持たれるようになる。
そして、このように考える人が出てくる。
中宮藤原呈子は本当に妊娠したのか、と。
それでも安産を祈る祈祷は続いていたのだが、八月二八日に祈祷の中止が宣告されたのだ。内裏を出た後の中宮藤原呈子についての情報は乏しい。そもそもが想像妊娠であったとする説と、実際に妊娠していたが流産したという説とがある。八月二八日に判明したのはこの時点での中宮藤原呈子の出産はないということだけである。
中宮藤原呈子に対する悪評は残っていない。
周囲からのプレッシャーはただならぬものがあったであろうし、近衛天皇のもとに入内したときに直面することになったのも、元服間もない近衛天皇と、ほぼ同じ年齢の皇后藤原多子の二人である。入内した自分に求められているのは妊娠と出産であることは理解しているし、皇后藤原多子と比べて自分のほうが出産に適した年齢であることも理解している。
周囲から求められている自分の姿と、自分が考える自分のあるべき姿とは一致している。ただ現実だけが一致していない。
その上、自分の立ち位置は左大臣藤原頼長と敵対する勢力の側であり、勢力が盛り返すかどうかはひとえに自分の妊娠に掛かっている。
想像妊娠であったとしても、あるいは、流産であったとしても、プレッシャーに押し潰されそうになった結果とするのが正解であろう。いかに近衛天皇よりは歳上であると言っても、彼女はまだ二二歳の女性なのだ。
中宮藤原呈子の出産がならなかったことは藤原忠通にとって痛事であったが、追い打ちをかけるようなことはしていない。藤原忠通は父として反省をし、自分の養女にただ休養を命じただけであった。
中宮藤原呈子の出産がならなかったことを近衛天皇がどのような思いで迎えていたのか。それが直接の原因ではないであろうが、近衛天皇はこの頃になると体調不良を訴えるようになっている。
仁平三(一一五三)年九月二三日、近衛天皇が失明の危機を関白藤原忠通に訴えた。それまでにも体調不良は訴えていたのであるが、失明の危機ははじめてであった。突然の訴えに藤原忠通は動揺を隠せなかった。視力を失いつつあるというのは天皇としての政務のそのものに関わる話であり、藤原忠通は慌てて各地の医師に招集を掛けようとし、僧侶を呼んで祈祷をさせようとし、藤原忠通の私財を投じて薬を集めようとしたが、藤原忠通の言葉をほとんどの人は信じなかった。それどころか、中宮藤原呈子の出産騒動の次は畏れ多くも近衛天皇の病状悪化を訴えるとは不敬も甚だしいという非難まで起こった。
近衛天皇に面会できる人は限られていた。特に、近衛天皇自身が藤原頼長に対して嫌悪感を抱いていたこともあり、藤原頼長に近しい人は例外なく、いかに位階や役職が高くても面会できずにいた。その結果、近衛天皇の容態を直接目撃できるのは藤原頼長と反発する人たちだけとなり、その人たちが異口同音に近衛天皇の容態悪化を訴えるのがかえって何かしらの陰謀論であるかのように捉えられた。
そこに輪を掛けたのが、近衛天皇自身が口にした皇位継承権者である。近衛天皇は孫王への譲位を主張したのである。藤原頼長の手によって寺院に向かわされた孫王への譲位というのはこれ以上無い藤原頼長に対する反発となる。
孫王はその名からわかるとおり親王ではない。ゆえに厳密に言えば皇位継承権を持ってはいない。しかし、親王宣下と同時に立太子させ、ただちに皇位を譲るという前例は既に存在する。寺院に入っていると言っても出家しているわけではない以上、住まいを内裏に戻せば済む話だ。
藤原頼長は当然ながら反対意見を示す。それだけであれば単なる権力争いとして特に何も言われなかったであろうが、近衛天皇が病床にあることを否定するのはさらなる失望を招くに充分であった。現在のように一般庶民の前に天皇が姿を見せるような時代ではないが、病床を見た人たちが慌てて病状治癒を祈る光景を見れば、近衛天皇の実際の症状がどうであるのかは理解できる。それを虚偽とし、陰謀論にまで持って行く藤原頼長の無神経さは我慢ならぬ話であった。
それでも年が変わった仁平四(一一五四)年はまだ藤原頼長の時代であることを多くの人が認識していた。
前年末、以前からの予告の通り、藤原頼長の息子である藤原師長と藤原兼長の二人の参議のうち、より出勤日数の多かった藤原兼長が一足先に位階が上がり、権中納言に昇格していた。息子を利用することで、律令制遵守は人生を構築する手段になる値売ると示すことができたのである。
仁平四(一一五四)年二月、春日祭が開催された。春日祭上卿をつとめたのは正二位権中納言藤原兼長一七歳。誰もが知る藤原頼長の子であり、一足先に中納言に昇格したこともあって藤原摂関家の次期当主の有力候補に躍り出た少年である。庶民の耳目を集めたのがその華麗さであった。源為義と源義賢の二人の率いる清和源氏の軍勢が権中納言藤原兼長の周囲を固めていたのであるが、その格好は武士としての格好では無く律令制による武官としての装束であり、律令の本来定めている姿を具現化したものとして捉えられたのである。権中納言藤原兼長自身も右近衛中将を兼ねており、この行列は武官としてのあるべき姿を示す効果を狙っていたのである。
ただし、ここで藤原頼長の狙った効果は得られなかった。藤原頼長が息子を使って示した律令制実現による理想の姿を目の当たりにした庶民が、やはり律令制に戻るべきだ、律令の示した世界のほうが正しいのだと考えることは無かったのである。それに、いかに華麗な装束であるとは言え源為義と源義賢の二人を先導させたのは思ったとおりの効果を呼ぶものでは無かった。源為義はともかく、源義賢は解官されたあとで藤原頼長のもとに身を寄せることで自分の人生を再構築していたのであるが、そのとき、藤原頼長から託された荘園の管理で年貢不能をやらかして京都に呼び戻されているという失態を再発させている。何度も失敗しても源義賢が藤原頼長のもとにいてそれなりの役目を背負えているのは、源義賢が藤原頼長の男色の相手であり藤原頼長の性の相手をしているからだという風聞も広まっていた。
藤原頼長の時代はまだ続くことになると実感させられることとなったのが、仁平四(一一五四)年五月八日の中納言藤原家成の出家と、同年五月二八日の右大臣源雅定の出家である。藤原家成このとき四八歳、源雅定このとき六一歳。体調悪化による自らの命の危機を感じ、もう自分の人生は長くないと悟ったなら、官職を捨てて出家することはこの時代はよく見られることである。
藤原頼長に逆らった中納言の出家であり、藤原頼長不在時は藤原頼長に代わって議政官を仕切ることの許されている右大臣の出家である。藤原頼長に多少なりとも抵抗しうる人物が議政官からいなくなったことは、否応なく左大臣藤原頼長の権力がさらに増すことことを意味する。
藤原頼長ほど頑迷な律令絶対主義の人間でなくとも、政務は法に基づいて行われ、法は議政官の審議で定まるという大前提は遵守している。
かつては村上源氏が議政官の過半数を占めたこともあったが、右大臣源雅定の出家により、それ以降は一人を除く全員が藤原氏の人間であるという、あまりにも過剰な藤原独裁が実現するようになってしまった。そして、議政官のトップは藤原氏のトップでもある藤原頼長。これまでの常識に従えば藤原独裁はもはやこれ以上無く堅牢な物となっていた、はずであった。
まさに一人を除く全員が藤原氏であるという議政官のスタートである仁平四(一一五四)年五月二九日、出家した藤原家成が亡くなったという知らせが届いた。同じく出家した源雅定が誰よりも先に追悼の意を示し、その意に多くの貴族が従った。源雅定自身も決して万全な体調ではないのに自分よりも一三歳歳下の貴族の死に嘆き悲しみ、その姿に多くの貴族が考えさせられることとなった。
元から藤原頼長は藤原家成のことを快く思っていなかった。藤原摂関家の本流である藤原頼長にとって、藤原家成は「諸大夫の男」、すなわち低い家柄の者にもかかわらず鳥羽法皇の近臣であるというだけで出世したと非難している。その死に際しても藤原頼長は冷淡であった。それだけならまだ妥協できなくはなかったが、藤原頼長は藤原家成の息子である藤原隆季に執拗に言い寄り、陰陽師に祈祷させてまで相手にさせようとし、ついには妻を亡くして落ち込んでいる藤原隆季の元に押し掛けて強引に男色相手までさせた過去まである。それでいて、泣き寝入りしない代わりに地位を要求したらさっさと捨てたのだからさすがにそれは人としてどうかという思いを抱かせるに充分だ。
たしかに藤原頼長は左大臣だ。行政のトップとして法に基づく政務を遂行する義務がある。しかし、法を作るのは議政官であって、左大臣は議長としての権限を持ってはいても議政官の中では全体のうちの一票でしかない。さすがに左大臣の意思となれば無視するわけにはいかないが、それと自分の信念に背くこととは別の話だ。
仁平四(一一五四)年七月二九日、鳥羽御堂御所造営が完了し、鳥羽法皇が住まいを移した。鳥羽法皇一人が移動したのではなく鳥羽法皇に従う主立った貴族たちも移動を供にした。
その中で一つの策謀が巡らされた。藤原頼長の時代の終わりを目ざす策謀である。
藤原頼長の時代であることを告げる仁平という元号は四年目にして終わりを迎えた。仁平四(一一五四)年一〇月二八日、久寿へ改元することが発表されたのである。名目としては変異ならびに厄運による改元ということになっているが、誰もが一つの時代を強制的に終わらせる意味での改元であると把握していた。
平安時代は頻繁に改元しているが、現在の感覚で捉えるから不可解なのであり、当時としては改元というものが頻繁なのが当たり前で、数年、十数年、あるいは数十年と改元しないままでいることのほうが不可解となる。当時の改元は現在の首相交代レベルでの捉え方だったのではないかと考えるべきで、改元は一つの区切り以上の意味を持っていなかったと考えるほうが納得できるのではないだろうか。現在でも衆議院議員総選挙で与党が勝利し首相が継続することもあるように、当時も改元があっても議政官の主な面々が継続することも珍しくなかった一方、総選挙での政権交代のように、改元のタイミングで体制を大きく入れ替えることもあるといった捉え方をすると現代人の感覚と合うだろう。
その意味で、元号はより細かな時代を記す指標である。この時代の元号の変化は、現在の「昭和は……」「平成になってから……」という感覚で捉えるよりも、「民主党政権の頃は……」「第二次安倍内閣になってから……」という感覚で捉えると合致するはずである。
前触れもなく訪れた改元に藤原頼長は一瞬何が起こったかわからずにいた。
改元によって示された藤原頼長の時代の終わりの宣言も、明瞭な政治体制の変化となって現れたわけではなく、それまでの政治体制は継続している。ただし、仁平年間とは違って、笛吹けど踊らずという図式である。藤原頼長はあくまでも律令制への回帰を主張し違反者を処罰することを目論むが、もはや藤原頼長の命令に従う者はいない。藤原頼長の恩恵で位階や役職を獲得するときは率先して協力するが、それと藤原頼長の命令に従うこととは無関係である。
アメとムチというフレーズがあるが、ムチが通用するのはムチに耐えることのメリットがあるときのみで、メリット無しにムチに耐える人はいない。自派構築としてのアメとムチで、ムチを振りかざして何かしらの利益を得られるのは敵対する勢力が存在しないときのみであり、美福門院藤原得子や関白藤原忠通という明白な敵対勢力が存在するなら藤原頼長のムチは意味を有さなくなる。ムチを喰らおうものならただちに敵に寝返ると宣言するのは、あるいは宣言しなくともそのような行動を多少なりとも見せれば、ムチは二度と来ない。
かといって、アメを手放すことはしない。藤原頼長にとりいって官職や位階を手に入れたとしても、藤原頼長に嫌われたら、あるいは藤原頼長の許さぬことをしたら取り上げられるというものではない。藤原頼長が人事権を発動させて新たな官職を用意し、位階の上昇を図るのは左大臣としての職掌であるから従うが、藤原頼長が人事権を発動させて罷免させようとさせようものなら、私的な権力乱用としてただちに関白藤原忠通のもとに駆けつけて訴え出ればそれで終わり。官職はそのままだ。
人望が無いというのはこういうところで出現する。人望があれば多少の手厳しさがあってもその人について行こうと考えるが、人望が無い人間が権力を掴むと、その人自身の魅力でなく権力の魅力で近づく人しか登場しなくなる。
それでも信義でついてきてくれる人もいる。藤原頼長個人には心服していなくとも、藤原摂関家に臣従するのが一族の定めであると考える人たちである。特に清和源氏の源為義は息子の源義朝との対立もあって、これまで通りの藤原摂関家への臣従を選ぶことは源為義の人生を掛けた選択になっていた。源義賢をはじめとする源為義の子たちのほとんどは父と行動を共にすることを選んでいた。彼らにとって源義朝は一族の裏切り者であり、その裏切り者が関東地方を拠点にして巨大武士団勢力を築いていること、そして、父よりも先に国司に就任したことは嫉妬も混ざった複雑な感情を伴っている。彼らに藤原頼長のもとを離れるという選択はなかった。いかに藤原頼長個人に対する尊敬の念を抱けなくとも、藤原摂関家に臣従することが清和源氏のつとめであるという信念、そして、藤原頼長のもとを離れたときの行き先は一つしか無く、そこにいるのは憎き兄であるという感情が、彼らを藤原頼長のもとに留まらせる原動力となっていた。
また、藤原頼長に人生を掛けることで一発逆転のチャンスを狙っている者もいた。伊勢平氏の内部において兄の平忠盛と大きく差を付けられてきた平忠正がその例である。彼らは社会の敗者であることから生じるルサンチマンが原動力であり、律令遵守は名目だけでしか注ぎ込んでいない。しかし、ルサンチマンを原動力としているだけにやり方はえげつなかった。自分のことを被害者だとか投げて疑わない者が、復讐と称して、彼らの言うところの処罰されぬ加害者に対する正当な復讐をどのような形でするか。歴史に記されている残虐を突き詰めると、この一点に行き着く。
久寿元(一一五四)年時点では少なくとも、藤原頼長の手元に武力は存在したのである。ただし、その武力を藤原頼長の推し進める律令制への回帰に用いることは少なくなっていた。その代わりに藤原頼長の推し進めたのが自身への批判の処罰だ。
藤原頼長の尊敬する祖先である藤原道長は、言論の自由を認めた人であった。自分に対する批判も認めてきたし、現在の感覚では一八歳未満お断りとなるような作品であろうとそれを表現の自由として認めてきた。そうでなければ源氏物語という傑作は生まれない。源氏物語は優れた作家の創りだした小説であると同時に、優れた作品を創り出すことのできる言論の自由があった時代が創りだした小説である。藤原頼長は藤原道長を尊敬し、藤原道長から一文字を拝借しているにもかかわらず、藤原道長のこの思いについては全く引き継いでいない。藤原頼長は述べるだろう。「言論の自由は守っている。ただ節度を持たせているだけだ」と。その節度の中身が自身への批判の禁止と自身が不潔と考える表現に対する容赦ない規制となると、これのどこが言論の自由なのだと言いたくなる。
自らへの批判を許さぬ権力者が手にしている武力が自らの批判に対する処罰に適用されるとなると、その武力に対して庶民がどのような感情を抱くかは容易に推測できる。おまけに、藤原頼長は権力者ではあるが、藤原頼長以外の権力が存在している状態での権力者である。このようなとき、本人だけでなく藤原頼長の周囲に不祥事が起これば、それがどんなに些細な内容であろうと絶好の攻撃材料となる。
その攻撃材料が見つかったのが久寿元(一一五四)年一一月二六日のことである。これは藤原頼長だけでなく源為義にとっても極めて大きなダメージであった。
この日、源為義に対する解官予告が下ったのである。
源為義が何をしたのか?
源為義自身は何もしていない。しかし、源為義の八男はやらかしていた。
あまりにも粗暴で乱暴を重ねることに手を焼いていた八男の源為朝が九州で大暴れしていたのである。このまま京都に留めていては取り返しのつかない事態になるとして九州に追放され監視下に置かれたのであるが、追放された八男の源為朝はわずか三年で九州で一大勢力を築くまでになってしまったのだ。
史料を疑いたくなるのが久寿元(一一五四)年時点の源為朝の年齢である。なんと一五歳だ。九州に追放されてから三年ということは、追放された年を一年目とすると、一三歳で追放されたこととなる。現在ならば少年院に入るところであるが、当時に少年院という施設は無い。その代わり、未成年者であろうと、幼少であろうと処罰される。また、死刑の無いこの時代の時代の最高刑は遠方への流刑であるので、九州に追放されたということは、源為朝は一三歳にして最高刑に処されたことを意味する。
ただし、追放されたと言っても追放先で牢に入れられていたわけではなく、監視下にあるとはいえ自由の身ではある。首都で暴れまわっていた人間を首都から遠ざけたら、確かに首都の安全は向上する。だが、暴れまわっていた人間が静かになることはない。九州の人にとっては迷惑極まりない話である。
逸話によると、九州に追放された源為朝は、鎮西八郎とも鎮西の惣追捕使とも名乗り、追放から三年目を迎えた一五歳にして九州を制覇したという。無論、実際に九州を制圧したわけではない。珍走団へと落ちぶれたクズが集団となり暴れまわっていただけである。もっとも、“だけ”とは言うが、武装して暴れまわっているクズ集団を制圧できる勢力はそうはない。現在では機動隊を出動させるか、あるいは軍隊を出動させるかという話になるし、この時代では地元の武士団の出動となるが、このときの九州にはクズ集団の鎮圧に乗り出せる武力の余力がなかったのだ。
源為朝を擁護する意見として、藤原頼長の展開する律令制回帰への叛逆、特に増税に対する反発が生み出した庶民の抵抗というのがあるが、これはあたらない。そもそも源為朝は追捕使と、すなわち、朝廷の命令を遂行する存在であると自称している。追捕使という意味を理解していなかった可能性もあるが、暴れまわるときの理由付けとして自分たちの行動は朝廷に逆らう存在に対する警察権の行使だとし、藤原頼長に臣従する源為義の子として清和源氏の役目を果たしているのだと自らの行為を正当化させようとしている。暴れまわるときの相手となるのも荘園を守る地元の武士団であり、地元の武士団と戦って荘園の蓄えを奪い去っているのが源為朝だ。これで荘園から略奪した物資を朝廷に届けたら、本当に藤原頼長の命令を遂行したことになるが、実際には自分の手元に残しての飲めや歌えの大騒ぎの繰り返しで終わり。これに庶民の味方という要素はどこにもない。
九州から届いたこの情報に接した藤原頼長は、九州に追放した息子の不祥事の責任をとらせるために源為義を解官させると予告すると同時に、太宰府を通じて源為朝に対し京都に出向いて朝廷に出廷するように命令を出した。父の主君からの命令である。拒否するならばこれからの九州での行動の名目を失うが父の解官は白紙撤回される。従ったならこれまでの行動が全否定されることとなるが父の解官は遂行される。
源為朝が選んだのは第三の選択肢、すなわち、そのような命令など自分のところに届いていないという態度であった。
源氏というのは不思議な氏族である。
藤原氏はその全員が藤原鎌足まで遡ることができるし、橘氏は全員が葛城王まで遡ることができる。菅原氏は野見宿禰が祖先となるし、清原氏は舎人親王が祖先で、高階氏は高市皇子が祖先だ。氏族の者だけが通うことの出来る学校は当然のように存在するし、氏族の者だけが利用できる医療施設や、氏族の者だけが入ることの出来る老人ホームを経営していることもごく普通だ。個人の利益よりも氏族の利益を優先させることは珍しくなく、藤原氏における藤氏長者のように氏族全体を統括するトップがいて、氏族全体を統率するトップの権威には氏族の全員が従うことになっている。
しかし、源氏に共通の祖先はいない。
醍醐天皇を始祖とする醍醐源氏や、村上天皇を祖先とする村上源氏、清和天皇(一説によれば陽成天皇)を祖先とする清和源氏というように、臣籍降下で皇族から分かれ出たときに姓を賜ったら過去の臣籍降下の結果の氏族と同じ姓を賜っただけのことで、祖先が異なれば生活も異なり、そもそも氏族として一括できる性格を有していないのが源氏という氏族である。同じ姓を持っていても祖先が違えば全く別の氏族と扱われてきたし、当時の源氏の面々もそのように考えていた。歴代の清和源氏が各時代の藤原摂関家に仕える武士であるだけでなく、源氏全体の利益よりも藤原氏の利益を優先させてきたのも、それが清和源氏にとっての最良の結果を考えたからで、清和源氏以外の源氏の利益のことなど毛頭考えていない。他の氏族ではありえないことを源氏では当たり前のこととしてきたのである。
一つの氏族として一括できる性格を有していない源氏でありながら、源氏全体を統括するトップは一応存在している。しかし、他の氏族では充分な敬意が払われるトップですら源氏においてはそこまでの敬意を抱かれない。
源氏全体を統括するトップのことを源氏長者と言い、当初は嵯峨源氏が、次いで村上源氏が源氏長者の地位を継承していた。源氏長者は他の氏族におけるトップと同様の権威を有し、源氏のための学校である奨学院や、源氏の持つ尼僧院である淳和院の経営責任者をつとめるのも源氏長者の役職だ。ただ、奨学院は源氏のための学校ではあっても実際には親王や王、平氏をはじめとする有力氏族の子弟も通う学校であり、淳和院は全ての人に公開されている寺院である。源氏長者はその経営責任者を兼ねるが、他の氏族のトップのように源氏だけの施設の管理運営をしているわけではなく、権威がゼロとまでは言わないものの名誉職と化した地位になっている。ちなみに、清和源氏が源氏長者となるのは室町時代の足利義満まで待たねばならない。
江戸時代には源氏二十一流と称されることとなるが、この時代の源氏はそこまで多くない。とは言え、久寿二(一一五五)年時点で、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏と、一三の源氏を数えることができる。源有仁が亡くなるまでは後三条源氏が圧倒していたが、源有仁亡きあと、貴族界における源氏のトップは村上源氏の手に戻っており、源氏長者の地位も村上源氏の手にある。とは言え、村上源氏も圧倒的トップというわけではなく、宇多源氏や嵯峨源氏は有力な存在であり、花山源氏も決して無視できる勢力ではなかった。一方、清和源氏は武門で名を馳せているという特別な要素があるものの、貴族界における地位となると高いとは言えない。
こうした複数の源氏が錯綜する中で、源氏の内部で一つのルールが確立された。源氏の内部における優劣関係は、役職、次いで位階によって定まるというルールである。上記の後三条源氏も源有仁が従一位左大臣にまで上り詰めたからであり、源有仁が亡くなったあとで村上源氏がトップに返り咲いたのも村上源氏である源雅定が正二位右大臣という高い地位を獲得したからであるし、源雅定が出家して官界から去ったあとも源雅定の甥で養子でもある正四位下参議源雅通が議政官ただ一人の非藤原氏として君臨しているため村上源氏がトップであり続けている。
序列はトップ争いだけでなく源氏内部の些事にも影響する。一三を数える源氏の相互の上下関係だけでなく、一つの流れの中でも位階と役職が上下関係を示す。
以上を踏まえ、源為義に対する解官予告がなされたという点を思い返していただきたい。
これが清和源氏に何を発生させたのか?
源為義に対する解官予告は、清和源氏の中で源義朝が最上位に立つことを意味するようになったのだ。父を追い抜いただけでもパワーバランスを壊すに充分であったが、それでも父が長男を抜き返す可能性が存在していた。追い抜かれたら清和源氏のトップは源義朝に譲らなければならなくなるが、追い抜き返したら清和源氏のトップは再び源為義の手に戻る。さらには、近い将来の追い抜き返しを前提に、慣例に背いて清和源氏のトップの座を譲らぬままとすることも可能となる。
ところが、源為義が息子を追い抜き返す可能性は消滅した。八男の源為朝は相変わらず九州で暴れているというニュースが平安京に届いたのだ。これは失態という言葉だけで片付けることのできない人生の破滅である。久寿二(一一五五)年四月三日、予告通り源為義の解官が通告される。この瞬間、清和源氏のトップの地位は源義朝へと移ることとなり、源為義は失意のうちに隠居生活を始めることとなった。
同日、豊後国に居する源為朝を取り締まるため、大宰府に一つの指令が送られた。源為朝とともに行動することを太宰府を通じて禁止させるという宣旨である。この指令において、源為義が隠居生活に入ったこと、源義朝が清和源氏のトップに立ったことも情報連携された。
太宰府から九州各地に宣旨の内容が伝えられ、源為朝は正式に朝廷への出頭が命じられた。源為朝は手勢を率いて上洛することを決めた。このとき、源為朝一六歳。
伝説に尾鰭(おひれ)がついているせいで、源為朝の正確な姿がかえってわかりづらくなってしまっている。
源為朝に対する伝説をまとめてみると以下の通りとなる。
曰く、身長は二メートル一〇センチにも達していた。
曰く、一五歳にして九州全土を制圧した。
曰く、源為朝の駆使する弓は五人がかりで作る弓であった。四人で弓を曲げて残る一人で弦を張る。この弓を一人で使えるのは源為朝だけである。この弓で三〇〇人の乗った船を一撃で沈めた。
曰く、源為朝は通常の太刀より四割ほど長い太刀を使用していた。
曰く、保元の乱で源為朝と対峙した平清盛は源為朝の迫力に圧倒されて逃亡した。
源為朝伝説は、源為朝が超人であることを強調しようとすればするほど真実性が失われていく。とは言え、全くの逆を伝説として残す必要は無い。背が低いのに背が高いとか、虚弱なのに剛強だとかを伝説で残しても意味が無いし、そもそもそのような伝説が生まれる要素は無い。
伝説を排除すると、源為朝の実際の様子はこのようなものであったろう。
まず、当時の人の中では身長が高かった。そして力も強かった。集団を指揮する能力もそれなりにあり九州各地でその悪名をとどろかせる暴徒のトップになった。常人の腕力では操ることなど不可能であろう弓矢や太刀を操ることもできた。一人の武人としても先頭集団としても驚異的な存在ではあったろうし、戦場でも威圧感はあったろう。ただ、その能力の表現方法が尾鰭(おひれ)のついたものになってしまった。四人で弓を曲げて残る一人で弦を張るなどという弓となると、現在のアーチェリー競技で使用する弓の四倍の張力となる。そんな弓を当時の日本で手に入る素材で作ることはできない。また、その弓を用いて放った矢で三〇〇人の乗った船を一撃で沈めたと言われても、威力以前にそのような船はこの時代存在しない。
既に記した通り、右大臣源雅定は出家して既に政界から身を引いている。内大臣には議政官の議長職を務めることが許されないため内大臣藤原実能が内大臣のままであり続ける限り、左大臣藤原頼長に何かあったときに議政官の指揮を執るのは大納言筆頭藤原宗輔ということとなる。
藤原宗輔が権中納言の頃、藤原宗輔と藤原頼長は同じ権中納言の同僚であった。藤原頼長はそのとき一三歳であり、この時点で五六歳になっていた藤原宗輔とは四三歳もの年齢差がある。その頃の藤原頼長は藤原宗輔を年長者として敬意を持って接していたが、この人の政治的素養の現実には気づいていた。新しく何かをする、あるいは誰かの上に立って指揮をするのは苦手であるが、与えられた職務を愚直にこなす能力は高いのが藤原宗輔という人である。
久寿二(一一五五)年時点で三六歳になっている藤原頼長が一三歳の頃の話であることから推測できるように、久寿二(一一五五)年の藤原宗輔はもう七九歳という高齢になっている。この年齢になっている人を担ぎ出さなければ議政官は運営できず、法を策定することもできないというのは異常事態であり、また、藤原頼長の発言権を高めるチャンスでもあった。
久寿二(一一五五)年四月二七日、何の前触れもなく藤原頼長が左大臣の辞表を提出したのだ。辞表が受理されると左大臣も右大臣もいない議政官となり、政務は間違いなく停滞する。ゆえに、政務停滞をさせないための辞表不受理という結果になるはずである。
藤原頼長は自分には左大臣辞任という奥の手があるのだと示すことで圧力を掛け、自らの発言権の強化を図ったのだ。そしてこれが陰湿なのだが、藤原頼長の辞表提出は一度ではなかった。五月三日に二度目の、五月一〇日に三度目の辞表を提出し、その全てで却下させることに成功したのである。
もっとも、一つだけ同情できるところがあった。この頃、藤原頼長の正妻である藤原幸子が体調不良を訴えるようになっていたのである。病床にある妻の元に寄り添いたいという思いは誰もが理解できることであり、自身の病が夫にうつることのないようと久寿二(一一五五)年五月一三日に病床にある妻が自宅を出て弟の住まいに身を寄せたのも同情を集める話ではあった。話ではあったが、世論としては藤原頼長が妻の病床を利用して自身の発言権を強めようとしたという非難のほうが強かった。
狭い世界の政略としては成功であったと言えるし、妻を愛する夫としての行動も理解できる話ではあった。しかし、執政者としては大ダメージを生じさせる話であった。
久寿二(一一五五)年六月一日、藤原頼長の正妻である藤原幸子が亡くなったことで、藤原頼長が喪に服すこととなった。
右大臣が空席であるため、藤原頼長不在時の議政官は大納言藤原宗輔が指揮する。七九歳の高齢な大納言は藤原頼長の予想に反する大胆な主張をしたのだ。
藤原頼長の展開した律令制回帰の白紙撤回である。理由は、全国的な飢饉である。
飢饉の知らせそのものは藤原頼長が頂点にたどり着いて間もなくの仁平元(一一五一)年四月にはもう報告されていた。ただ、その事実を藤原頼長は頑として認めてこなかった。自分の推し進める政策が飢饉を生むというのは、信念を持った執政者にとって絶対に認められないことである。レーニンもスターリンも共産主義のせいでソビエト全土で絶望的な大飢饉が起こったことを、毛沢東も大躍進政策や文化大革命で大量の餓死者が出たことを、ポル・ポトも共産主義の結果として人口八〇〇万人のカンボジアで三五〇万人の死者を生じさせたことを、断じて認めなかった。藤原頼長も同じことをしたのであるが、藤原頼長の場合は前述のようなキチガイよりは多少マシであった。藤原頼長が喪に服したために、藤原頼長に逆らう勢力による政権が一時的にでは有るが存在できることとなり、その政権が飢饉を認めて公表したのである。
妻の死に伴い喪に服している藤原頼長に議政官の議決を左右することはできなかった。議政官では藤原頼長の政策の生みだした飢饉であるとして急進的な律令制への回帰の中止が堂々と議論されるようになった。議政官の中で左大臣藤原頼長は圧倒的権威を持つが、議政官の多数決においては一票でしかない。さらに、今はその一票を行使することも、議政官の誰かに自分の意見を託すこともできない。このままでいけば左大臣不在の隙に左大臣の政策に対する中止が法令となって近衛天皇のもとに上奏されるという事態も起こるはずであった。
議政官の手による左大臣への反抗の動きは、久寿二(一一五五)年六月七日、突然停止を迎えた。この日、近衛天皇が重病となったことが報告されたのである。
既に近衛天皇の体調不良は隠せぬものであったが、藤原頼長らに近衛天皇が面会しようとせずにいたために、議政官からの正式な通知とはならなかったのである。
しかしこの日、鳥羽法皇が父として、美福門院藤原得子が母として、正式に近衛天皇が病床にあることを公表したのである。二人とも連日のように多くの僧侶を伴って病気平癒の祈祷をするも効果が無いままであった。
近衛天皇が重病となり、左大臣藤原頼長が妻の死に伴って喪に服しているため、通例の政務は完全に停滞している。喫緊の事態については大納言藤原宗輔が指揮する議政官で議論し関白藤原忠通と鳥羽法皇に上奏して院宣として公布することでどうにかなったが、それも正式な法としてではない臨時措置である。
この臨時措置も久寿二(一一五五)年七月二三日に終わりを迎えた。
この日、近衛天皇が一七歳という若さで崩御したのである。
鳥羽法皇と美福門院は我が子の臨終に駆けつけようとするが、出立する前に崩御したとの報告を受け鳥羽殿に留まった。
と同時に、以前から懸念されていた問題が表面化した。
誰を次の帝位に就けるかという問題である。
申刻というから現在に時制に直すと午後四時頃となる。まず、鳥羽法皇は関白藤原忠通に対して関白の地位を保証すると同時に、高松殿を新しい内裏とすること、近衛天皇の葬儀責任者を美福門院藤原得子のイトコである藤原伊通を充てると伝えた。同時に、鳥羽法皇を中心とする次期天皇選定会議に関白として出席するよう伝えられた。
同タイミングで議政官の面々にも招集が掛かった。ただし、亡き妻の喪中である藤原頼長と、嫁が喪中である藤原忠実は招集対象外とされた。本来であれば義妹の喪中であるために関白藤原忠通も招集対象外でなければならないが、関白としての職務を優先させるとして鳥羽法皇の命令で招集対象となった。
同日深夜、後継天皇を決める議定が開催される議論百出となった。
まず、亡き近衛帝の意思は孫王にあることが確認された。ただし、名でわかるとおり親王宣下を受けていない。つまり、今のままでは帝位に就くことができない。皇族のうち天皇になる資格を有するのは親王宣下を受けた皇族のみ。そして、親王宣下の権限は天皇のみに存在する。この瞬間、近衛天皇の次の天皇候補から孫王が外された。
ここで崇徳上皇の子である重仁親王が最有力候補に躍り出た。特に崇徳上皇自身が自分の子を帝位に就けることを強く推した。崇徳上皇にはこれまで鳥羽法皇の右腕として院政を支えてきたことに対する自負があった。ところがこれに対し鳥羽法皇が反対を唱えた。名目上の理由は亡き近衛天皇の意思に反することにあるが、院政の継続を考えると、重仁親王が即位することによって全てが瓦解することの懸念があった。重仁親王から見て祖父である鳥羽法皇より、実父である崇徳上皇のほうが院における発言権が強くなるのだ。崇徳上皇は自分を父である鳥羽法皇の右腕として考えていたし、鳥羽法皇も崇徳上皇を自分の院政の後継者と見ていたが、あくまでも後継者であって今すぐ鳥羽法皇に代わって院政を取り仕切る存在になることは全く考えていなかったのである。
その上で鳥羽法皇は、崇徳上皇の重祚を提唱した。一度は帝位を降りて上皇となったあとで再び帝位に就いた例は日本史上二回存在する。一度退位して同母弟であるた孝徳天皇に帝位を譲った皇極天皇が、孝徳天皇の崩御にともない斉明天皇として再即位したのが日本史上初例であり、退位して淳仁天皇に皇位を譲った孝謙天皇が藤原仲麻呂の乱によって廃帝となったことに伴い称徳天皇として再即位したのが二例目となる。このときの崇徳上皇は三例目となる可能性があった。
この意見に猛反発したのが信西であった。過去の二例はいずれも異例の事態に伴う臨時措置であり前例とすべきでは無いと主張。亡き近衛帝の意思を尊重するため孫王の即位を大前提とした上で、まずは孫王の父である雅仁親王を即位させ、即位後の雅仁親王に孫王を親王宣下させた後、孫王に譲位するのが亡き近衛帝の意思に叶うとしたのである。崇徳上皇は信西のこの意見に猛反発を示したが、信西は崇徳上皇の意見を無視した。
一方、近衛天皇崩御の一報を耳にした藤原頼長はただちに息子を連れて参内したが、左大臣藤原頼長も藤原頼長の息子もともに喪中のために参加が許されない旨を伝えられると退散せざるを得なくなった。そのため、藤原頼長には会議で何が話し合われているかを把握することも、ましてや自分の意見を会議の場に伝える手段も残されなくなった。
久寿二(一一五五)年七月二四日早朝に発表された決定は、藤原頼長を愕然とさせる内容であった。
近衛天皇の異母兄である雅仁親王が立太子することなく践祚した。後白河天皇治世の始まりである。
同日、後白河天皇は藤原頼通を関白に任命した。
ここまではいい。
しかし、内覧の宣旨がなかなか降りないのである。
通例では、新帝即位時、摂政と関白は先帝の摂政や関白がそのまま継承される。新帝が元服を迎えているために摂政から関白になるケースや、逆に新帝が元服を迎えていないために関白が摂政となるケースもあるが、今回のケースは元服を済ませていた近衛天皇から元服を済ませている後白河天皇に帝位が移ったため、関白藤原忠通は後白河天皇即位後も引き続き関白であり続ける。ここまではいい。
問題は内覧の宣旨だ。
内覧の権利は本来であれば関白が有するが、近衛天皇のもとでは関白藤原忠通から内覧の権利が剥奪され左大臣藤原頼長に移された。ただし、内覧の権利は天皇が定めるため、後白河天皇の即位によって内覧の権利がいったん白紙撤回された。つまり、これまで通り左大臣藤原頼長が保持し続けるか、あるいは本来の所有者である関白藤原忠通のものとなるか、この段階では未定である。
久寿二(一一五五)年八月一日、亡き近衛帝が船岡山の西野で火葬され、遺骨は知足院本堂に安置される。この場に亡き近衛帝の望んだ皇位継承者である孫王の姿はない。孫王が仁和寺から戻ってくるのはそれから三日後の久寿二(一一五五)年八月四日のことである。この段階で孫王の親王宣下の予定は組まれていない。
平家物語を知る人は想像できないであろうが、後白河天皇は統治者としての期待を全くされないでいた。現在のJ-POPに相当する今様や、現在のヒップホップダンスに相当する田楽に熱中するのみで政務に全く関心を示さず、政務を完全に諦めて趣味に生きるというならそれでも構わないが、趣味を通じて出会う人たちが、当時の身分社会において皇族が、それも天皇の実の兄が日常生活で接するのに相応しいとはされていなかった一般庶民であるとなるとさすがに問題となる。出家前の鳥羽上皇は当時の雅仁親王を「即位の器量ではない」と評しており、近衛天皇の崩御による後白河天皇の即位もあくまで孫王が即位するまでの中継ぎとしか考えていなかったのである。
ところが、後白河天皇は鳥羽法皇の考えるような器ではなかった。一言で言うと姑息なのである。諦めていた帝位に思いがけず就いたことで、いかなる手を用いてでも手放すわけにはいかないと思うに至ったのだ。その第一弾が、仁和寺にいた実子を呼び寄せるのをわざと遅らせることであった。先帝の葬儀に間に合わなかったというのは、後白河天皇にしてみれば孫王をただちに即位させるのに相応しくないとさせるに充分な要素であり、その理由を孫王の幼さに帰すことで、年月を経て成長させるまで自分が帝位に就き続ける必要があると訴えたのである。
内覧の権利を関白藤原忠通に与えるか、それとも左大臣藤原頼長に与えるかについて、なかなか回答を示さなかったのも姑息さの一例である。表向きはまだ践祚したのみであって正式な即位をしたわけではないということになっていたが、後白河天皇の中では答えはもう決まっていた。関白藤原忠通と左大臣藤原頼長との権力争いで勝った側に対し、自分は帝位に就いたと同時に内覧の権利を与えていたと公表するのである。勝った側に与えるのでなく、勝った側に勝負の前から与えていたのだということを、そもそも勝負が始まる前から決めていたのだ。
後白河天皇の践祚からおよそ一ヶ月後、京都に衝撃のニュースが届いた。
関東地方に赴いていた源義賢が、源義朝の長男である源義平に討たれたというのである。
事件の前にこの時点での武蔵国とその周辺の状況を整理しておく必要がある。
久寿二(一一五五)年八月時点での武蔵国北部は秩父重隆と畠山重能の二人の間で勢力争いが繰り広げられていた。ちなみに二人の関係は秩父重隆が叔父で畠山重能が甥である。苗字を用いているので全く別の一族に見えるが、二人の本来の名は平重隆と平重能、すなわち平氏である。この二人のうち、秩父重隆のほうが武蔵国留守所検校職という公職に就いており、地位に基づいて武蔵国内で一定の地位を築いていた。
ただし、秩父重隆には敵も多かった。もともと武蔵国留守所検校職の地位は畠山重能の父である平重弘のものであり、この地位を奪った秩父重隆に対する反発は強かったのである。秩父重隆への反発は武蔵国内だけでなく、上野国の新田義重と、下野国の藤姓足利氏との間にも荘園所有を巡る対立を招いていた。そして、下野国の藤姓足利氏は下野国司となった源義朝のもとに臣従し、上野国の新田義重は娘を源義朝の長男である源義平に嫁がせていた。
関東地方で圧倒的勢力を持つ源義朝が国司という公的権力を手にしただけでなく、対立する新田義重と藤姓足利氏の双方を従える立場になったことで秩父重隆の立場は一瞬にして悪化した。というタイミングで京都からやってきたのが源義賢である。源為義が源義賢を関東地方に派遣したのは下野国司となった源義朝と対抗させるためであり、スタートからして源義朝の敵であったがために立場の悪くなった地域の有力勢力に丸め込まれることとなった。秩父重隆は源義賢に娘を差し出したことで、源義賢は秩父重隆の婿となったのである。
ただでさえ緊迫していたのが関東地方の情勢であり、この状況下で久寿二(一一五五)年を迎える。
近衛天皇が崩御して後白河天皇が践祚したというニュースが関東地方に届き、まさにそのタイミングで源義朝は京都に戻っているために不在。結果、関東地方の権力バランスが一瞬ではあるが崩れたのである。
久寿二(一一五五)年八月一六日、武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県嵐山町)にあった源義賢の邸宅を源義平非着る軍勢が襲撃し、源義賢と秩父重隆の両名を殺害。この軍勢の規模は不明であるが新田義重が加勢していたことは確認できている。
我が子が孫に殺害されたという第一報を耳にした源為義は、その直後、さらに信じられない報告を耳にした。なんと、源義平は無罪となったのである。それどころか、殺害された源義賢のほうが犯罪者であるとされたのだ。源義平は武蔵国司藤原信説の命令で犯罪者を取り締まろうとしたに過ぎず、殺害されたのは逮捕に至る課程で起こった不幸な事件であると片付けられたのである。
なお、当時二歳であった源義賢の子の駒王丸は命を許され信濃国の中原兼遠のもとに逃された。この二歳の少年こそ後の木曽義仲こと源義仲となる子であり、中原兼遠の娘が後の巴御前であるという。
源義賢が殺害されたことの怒りを源義朝にぶつけても無反応であった。結果として弟が殺害されたことは哀しい出来事であるが、犯罪に手を染めてしまった以上罪を償わなければならなかったのであり、叔父を殺害しなければならなかった息子も武蔵国司の命令に従った末の苦渋の決断であったのだとしたのである。
これで源義朝は、父と弟たちと完全に決別することとなった。父の源為義も、源義朝の弟たちも、源義朝と違って無位無冠である。ゆえに、源氏の上下関係の規則に基づけば源義朝が頂点に立つ、はずである。しかし、もはやそのような原理原則は通用しなくなっていた。特に怒りの激しかった四男の源頼賢は、兄が殺害されたことの復讐として、甥を打倒すべく軍勢を率いて京都を発ち信濃へと向かったのである。この軍勢には、左大臣藤原頼長の密かな支援も存在していた。
先にも記したが、後白河天皇という人はとにかく姑息である。関東地方で起こった事件に対する京都市民の反応は、横暴な源義平に殺害された哀れな源義賢というものであり、源義賢の復讐のための軍勢を組織した源頼賢に対する支持は高いものがあった。そして、藤原頼長が密かに支援していることで、それまで一度として庶民の支持を得たことなどなかった藤原頼長がはじめて支持を得つつあった。
ところが、後白河天皇はここで姑息な噂を流すことに成功する。噂の初例は久寿二(一一五五)年八月二七日に登場する。噂の内容では、近衛天皇が若くして逝去なされたのは何者かが愛宕山にある像の目に釘を打ちつけて呪いをかけたためであり、この呪いをかけたのは藤原頼長とその父の藤原忠実であるというものであった。
さらに、実際に愛宕山に登ってみると、確かに天狗像の目に釘が打ち付けられているのが発見された。呪いを解くためにただちに天狗像の釘は外され、天狗像も取り外された。愛宕山にはそのときの釘の痕跡が残っており、恐い物見たさの庶民が愛宕山に詰めかけ、木に残された釘の痕跡を見物するにいたった。
自分に対するそのような噂が出ているのことを知り、藤原頼長はただちに噂を否定する書状を出すがそれがかえって噂を広めるのに役立ってしまった。
さて、この噂をもう一度振り返ってみていただきたい。
愛宕山に詰めかけた庶民が目にできたのは木に残された釘の痕跡だけである。釘も、釘を打ち付けられたという天狗像も、見た人はいない。発見されたという情報は届いていたが、発見された天狗像を見た人はいない。それ以前に、現在でこそ天狗像という伝承になっているが、噂の当初は天狗像とすらなっておらず、藤原頼長の日記にも「愛宕護山」もしくは「天公像」と記されているのみである。
噂は真実であるかどうかで広まるのではなく、そうあって欲しいという思いがあって広まる。藤原頼長の呪いというのも藤原頼長であれば何らかの悪事をしたはずという思いがあって広まる。藤原頼長にしてみれば噴飯物であろうが、律令制への回帰という名目で庶民生活を破壊したことに対する不平不満は、たった一度の庶民感情への歩み寄りで消えるものではない。
久寿二(一一五五)年九月二三日、孫王に親王宣下がくだり、守仁親王となる。即日立太子。これにより亡き近衛帝の意思が成立したこととなる。本来であれば後白河天皇が正式即位してからの親王宣下であるべきであったが、近衛帝の意思を優先させるために親王宣下と守仁親王の立太子の法を優先させたこととなる。何であれ律令に従うことを是とする藤原頼長はこのときの親王宣下と立太子に不満を抱いたが、近衛天皇を呪詛して殺そうとしたという噂がまだ消えていない状況で何かしらの意見を述べることは許されなかった。
皇太子の周囲を支える役職のうち、皇太子の教育係である東宮傳は大臣の兼職であることが多く、自分の学識に絶対の自信を持つ藤原頼長は左大臣として東宮傳への就任を希望したが、近衛天皇呪詛の噂の消えない状況でその希望が通ることはなかった。東宮傳に就任したのは内大臣藤原実能である。
皇太子の周囲を固める実務官僚組織のことを春宮坊(みこのみやのつかさ)と言い、立太子と同時に東宮傳と別組織として結成される。春宮坊のトップである東宮大夫に権大納言藤原宗能が、東宮権大夫に参議藤原経宗が、東宮亮に藤原親隆が、東宮権亮に源定房がそれぞれ就任。この四つの職務のうちの最高官職である東宮大夫は従四位下相当官であり、位階で七つも上である正二位権大納言藤原宗能の就任は異例である。ただし、権大納言藤原宗能は大納言藤原宗輔よりは歳下であるとは言えこのとき七二歳と高齢であり、事実上名誉職であった。実務は東宮権大夫である参議藤原経宗が取り仕切ることとなる。
守仁親王の立太子時に近衛天皇呪詛の噂がまだ消えていないことを確認した鳥羽法皇は源義朝に対して源頼賢の討伐の院宣を下した。名目は信濃国内にある鳥羽法皇所有の荘園を源頼賢が侵犯したことに対する処罰である。
藤原頼長の日記には久寿二(一一五五)年一〇月一三日に源義朝に対する院宣が下ったことを耳にし、源義朝が信濃国に向かったらしいとしか書いていない。実際に院宣が下ったのが何月何日なのかも、源義朝が信濃国へ向かったのが何月何日なのかも書いていない。
別の記録によると、源義朝はそもそも動かなかったともある。鳥羽法皇は自分の命令に従わない源義朝に猜疑心を抱いたが、なかなか出発せずにいる源義朝を救ったのは他ならぬ源頼賢の動きである。何があったかはわからないが源頼賢は源義平討伐を諦めて引き返し、京都へと戻ってきたのである。源頼賢の帰京により、源義朝に対する院宣も無効になった。そのあたりのことを藤原頼長は日記の残してはいない。
久寿二(一一五五)年一〇月の出来事として藤原頼長の日記にまともに残っていないのはもう一つある。久寿二(一一五五)年一〇月二五日にあったはずの後白河天皇の即位の儀である。現存する藤原頼長の日記は一〇月二〇日の次が二六日で、二六日の日記に、前回の記録からこの日の記録までの間にあった出来事を列挙しているのだが、その列挙の中に後白河天皇の即位の儀があったことを記すのみで、太政大臣藤原実行が主催したこと以外に即位の儀の詳細は全く記されていない。
亡き妻の喪がまだ明けていないから参加が認められなかったというのは考えられない。関白と左大臣とを同じに扱うわけにはいかないが、久寿二(一一五五)年九月一五日に妻を亡くした藤原忠通は即位の儀に参加しているのである。もっとも、関白藤原忠通の妻が亡くなったことを聞いた鳥羽法皇が、藤原忠通の服喪期間を可能な限り短くさせ政務を継続させるよう命じた結果ではあるが。
久寿二(一一五五)年一二月九日、皇太子守仁親王元服。これにより、近衛天皇の意思を実現させるための譲位がいつでも可能になったこととなる。
もっとも、後白河天皇が帝位から降りるつもりは毛頭無かった。
それどころか、後白河天皇は身内の不幸ですら自らの帝位継続のための材料にしたのである。
久寿二(一一五五)年一二月一六日、鳥羽法皇の皇后である高陽院泰子が六一歳で亡くなったのだ。後白河天皇にとっては義母の死であり、服喪期間中に譲位に関するいっさいの行動を停止するよう宣言したのである。もっとも、義母の死に伴う服喪期間中の行動としては正当なものであるため誰も何も言えなかった。
後白河天皇は、高陽院泰子の遺言を遂行するためとして、高陽院泰子が個人的に所有していた荘園を藤原忠通の長子である藤原基実に相続させたのである。本来であれば藤原忠実所有の荘園であったのが高陽院泰子のもとに一時的に貸し出されていたのであり、死後は藤原忠実、もしくは藤原頼長のもとに返還されるのが道理であった。それが天皇命令で、個人の意思を尊重するためとして藤原基実のもとに渡ったのである。これにより藤原忠実と藤原頼長の親子の立場はますます弱い物となっていった。
それでも藤原頼長は一つだけ望みをつないでいた。まだ明白となっていない内覧の権利である。
通常、年が明けた一月中には新しい人事が発表となる。ところが、久寿三(一一五六)年一月は何も無かった。ただの新年ではない。新帝即位からはじめて迎える新年であり、大幅な人事異動があるほうが通例で、無いとすればそれは異常事態である。さらに言えば右大臣職が空席である。新帝即位に関係なく新年一月の人事において、右大臣職を埋めるための大幅な人事異動があるべきであった。
それなのに、いつまで経っても人事が発表とならない。
そして迎えた二月二日、藤原頼長のもとに待望の通知が届く。これでようやく内覧の権利を確保できると思っていた藤原頼長が目にしたのは、左大臣に留任するという後白河天皇からの宣旨であった。
さらに待ち続けた二月二六日、内大臣藤原実能に対する人事が下る。藤原頼長はここで内大臣藤原実能が右大臣に昇格し、大納言筆頭の藤原宗輔が内大臣に昇格すること、そして、今まで未確定であった内覧が決まると考えたようであるが、その期待は全て裏切られる。この日発令された人事は、内大臣藤原実能が兼職している左近衛大将を権大納言藤原公教に移すことのみであった。
久寿三(一一五六)年になると鳥羽法皇院政に陰りが見えてくるようになった。何と言っても最大の協力者であった崇徳上皇が明らかに離反するようになってきていたのである。無理もない。自分の子を皇位に就けること、すなわち、鳥羽法皇の次の院政を狙っていたのに、帝位は後白河天皇に、皇太子は後白河天皇の子の守仁親王になったのだ。ここに崇徳上皇の子の重仁親王の名は出てこない。たしかに守仁親王に継ぐ皇位継承権第二位は重仁親王であるが、皇位継承の道のりは遠くなっていた。
この崇徳上皇に藤原頼長が接近した。近衞天皇の崩御から立場を失いつつあった崇徳上皇と、その少し前から立場を失いつつあった藤原頼長との接近は実にわかりやすい構図として成立した。
出家前、当時の雅仁親王を即位の器ではないと評した鳥羽法皇であるが、雅仁親王、いや、即位後の呼び名である後白河天皇は、鳥羽法皇が考えているような簡単な人ではないと思い知らされるようになった。もっとも、即位の器ではないという評価は、それはそれで正しい。後白河天皇の生涯を追いかけてみると統治者たる資質に合格点をつけることはできない。しかし、利権を手放さないことへの狡猾さについては想像をはるかに超えていたのである。
久寿三(一一五六)年三月五日、皇太子守仁親王が美福門院藤原得子の第三皇女である妹子内親王を女御に迎えた。妹子内親王は異母姉である統子内親王の猶子となっていたため、統子内親王の邸宅である三条高倉邸で着裳の儀を開催し、統子内親王が腰結(こしゆい)を務めた。これにより、事実上分裂状態にあった美福門院派と待賢門院派の融和が図られ、後白河天皇と皇太子守仁親王との体制の安定がさらに増した。そこに崇徳上皇の居場所も藤原頼長の居場所も無かった。
久寿三(一一五六)年四月、鳥羽法皇が体調不良を訴えるようになる。記録には「不食病」とあり、鳥羽法皇以外に同様の症状を訴える人がその時代何人か散見されていることから、神経性無食欲症ではなく何かしらの感染症であった可能性も考えられる。
当時の人にとって、鳥羽法皇の身に起こったこの知らせはまさに青天の霹靂であった。
鳥羽法皇院政の後継者は崇徳上皇である。これは当時の人の共通認識である。仮に前年の近衞天皇崩御後、後白河天皇ではなく重仁親王が即位していたら崇徳上皇への後継問題はまだ小さく済んだのだ。重仁親王は元服していたから法皇や上皇が院政を敷くのは難しいが、それでも鳥羽法皇は実の祖父で崇徳上皇は実の父であるから相応の権威で即位後の重仁親王と対することができる。
鳥羽法皇にとって最善で崇徳上皇にとっての次善は守仁親王の即位である。確かに元服はしているが未だ幼い守仁親王のことを考えると、鳥羽法皇はやはり祖父であるし、崇徳上皇は伯父であるから、守仁親王即位後の院政もやはり継続可能だ。この院政の継続に対する考えの中で後白河天皇は存在しない。後白河天皇が政務に口出しすることは考えられないし、そもそも即位の器でないというのが即位前の後白河天皇の評価だ。
ところが、皇位に就いたのは後白河天皇である。しかも、政務にかなり口出しをするだけでなく、地位を維持するためなら平気で姑息な手段に打って出るような人だと白日のもとに晒されるようになっていた。こうなると予定通りに退位して子の守仁親王に譲位したとしても、かなりの可能性で院政を敷く。何しろ実父だ。天皇の実父である上皇となれば院政の後継者として充分な資格を有することとなる。
それでも鳥羽法皇が君臨していれば後白河天皇が退位して守仁親王に帝位を譲ったあとも院政は安泰だ。天皇の実の祖父というのは天皇の実父であることよりはるかに強い威光を持つ。後白河天皇が次世代の院政に意欲を見せたとしても鳥羽法皇の前には敵わない。
ところが、鳥羽法皇がいなくなったらどうなる?
間違いなく崇徳上皇と後白河天皇とで主導権争いが起こる。そのようなことを考えていなかったとすれば迂闊とするしかないが、即位前の後白河天皇を見て、即位後にこのような行動に出る多少なりとも想定した人がいるとすればそのほうがおかしいのも事実ではある。
久寿三(一一五六)年四月二七日、保元に改元。後白河天皇即位による改元である。
既に鳥羽院政は機能しなくなっていた。
本来の流れでは鳥羽法皇の次は崇徳上皇が院政の舵取りとなる予定であったのだが、今の後白河天皇の統治は兄の院政そのものを許さない勢いになっていた。
院の抱える役人や貴族が朝廷に深く食い込むようになったことは鳥羽法皇の院政を強固とする効果を持っていたが、同時に、朝廷を強固にする効果も持っていたのである。白河法皇から鳥羽上皇へと院のトップが移ったときは、白河法皇と鳥羽上皇とが各々異なる院司を抱えており、鳥羽上皇は自分の側に仕える院司に白河法皇の院司であった者の名から選抜して組み入れることも可能なほどであったのだが、現時点の崇徳上皇のもとには崇徳上皇独自の院司がほとんどおらず、人材は鳥羽法皇の院司をそのまま継承しなければならなかったのである。しかも、そのほとんどは朝廷の役職を持っている。すなわち、後白河天皇が天皇としての政務を展開するにあたって、律令に基づく職務を展開する時に必要な人材となるため、切り離して崇徳上皇のもとに使わせるわけには行かなくなっている。
結局、崇徳上皇のもとに集うことになったのは、後白河天皇のもとにいられなくなった貴族や役人、そして武士たちだけである。そうでない人材は、後白河天皇が個人的な魅力を発揮して朝廷に引き留めた人材ではなく、一人一人が皇室に仕えてそれぞれの役割を果たすべく留まった結果であり、そのときの天皇がたまたま後白河天皇であったというだけである。
保元元(一一五六)年五月に入るといよいよ鳥羽法皇の症状が悪化してくる。この頃になると鳥羽法皇自身も自分の命が残り少ないことを悟っていたようで、信頼置ける武士として五名を挙げ、院宣を交付してその五名に邸宅である鳥羽殿の警護をさせるように命じている。その五名とは、源義朝、源義康(足利義康)、源頼政、平信兼、平実俊の五名。この中に平清盛は含まれていない。信頼置けぬとして意図的に外したかどうかは不明である。
ではなぜ、鳥羽法皇は院宣を出してまで五名の武士に邸宅の警護をさせたのか?
理由は明白で、鳥羽殿内で鳥羽法皇逝去後の国政計画が練られていたからである。なお、この時点ではまだ医療と祈祷による健康回復の可能性も考えられており、逝去御の国政はあくまでもアイデアの一つという位置づけである。
なお、鳥羽法皇が病床についている鳥羽殿には崇徳上皇も左大臣藤原頼長もいない。
保元元(一一五六)年五月二二日、あまりにも軽率な事件が起こった。
東宮博でもある内大臣藤原実能の屋敷が放火され、灰に帰したのである。藤原頼長はこれまでに何度か、自身の意に沿わぬ者へのテロを容赦なく繰り出している。家を破壊された藤原家成がその例であり、このときの内大臣藤原実能もこの例に加わったこととなる。ただし、藤原頼長が権力を握っていた頃であればテロリズムも威力を発揮したかも知れないが、今や藤原頼長のテロは怒りを呼び起こすだけの愚行となる時代となったのである。かつてであれば藤原頼長の無慈悲さに恐怖すら抱かれていたのに、今は藤原頼長の愚行を嘲笑し、同時に怒りを抱かせるようになったのだ。そこに恐怖はない。あるのは徹底した侮蔑である。
さらに、病床の見舞いとして強引に鳥羽法皇のもとに近づこうとするものの、源義朝ら身辺警護を命じられた五人の武士の率いる軍勢が藤原頼長を妨害した。左大臣に対する無礼であると咎めようとするも、武士が鳥羽殿を警護するのは鳥羽法皇の院宣によるものであり、そして、後白河天皇が許可を示していない以上、左大臣であろうと勝手に鳥羽法皇の下に近寄ることは許されなかった。
保元元(一一五六)年六月一日、ついに一向御万歳沙汰が開催された。一向御万歳沙汰とは医療や祈祷での病状改善はもはや不可能であると判断した上で、全ての医療行為と祈祷を中止し、死への備えをはじめることを意味する。情勢はもはや、鳥羽法皇の復帰ではなく、鳥羽法皇の死後を見つめたものへと変化していた。
一向御万歳沙汰の開催を聞きつけた崇徳上皇は、六月三日の夜に鳥羽殿に見舞いに訪れたが鳥羽法皇は面会を拒否。それだけでなく、自身の死後、遺体を崇徳上皇に見せぬよう命令した。
保元元(一一五六)年七月二日、鳥羽法皇崩御。享年五四。一向御万歳沙汰での決定に基づいて、信西が鳥羽法皇の死を確認し、信西をはじめとする八名が亡き鳥羽法皇の遺体を入棺させ、葬儀のいっさいを左近衛大将藤原公教が取り仕切るというものである。藤原公教は議政官内の役職で言えば権大納言であって大臣ではないが、左近衛大将という武官の最上位の役職であるため、武士に対する命令権も所有する。そのため、源義朝をはじめとする武士たちも左近衛大将藤原公教に従う義務を持つ。
その義務の中には、亡き鳥羽法皇の意思に基づき、崇徳上皇に鳥羽法皇の遺体を見せぬことも含まれていた。父の死を聞きつけた崇徳上皇は慌てて駆けつけるたが武士たちによって近づくことが許されず、近づけた頃には鳥羽法皇の遺体が既に埋葬されていた。
鳥羽法皇の時代はこの日を以て終了したが、同日、一つの争いがこの日に始まった。
崇徳上皇と後白河天皇との争い、いわゆる保元の乱である。
争いは鳥羽法皇の亡くなった翌日である保元元(一一五六)年七月三日に最初の記録を残す。確認しうる限りではこの日の「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流れたという記録が最初である。この噂を聞いた後白河天皇は源義朝らに命じ、東三条殿にいた藤原頼長の家臣の者や邸宅内にいた僧侶らを逮捕させ、東三条殿の邸宅内にあった朱器台盤をはじめとする宝物を回収した。東三条殿は藤原北家の本拠地であり、藤氏長者が所有権を有する。また、朱器台盤などの品々は藤氏長者であることを示すレガリアであり、保元元(一一五六)年七月初頭時点の藤氏長者の地位は左府こと左大臣藤原頼長のもとにあった。ただし、藤原忠通から藤氏長者が取り上げられたときに没収された、藤原忠通に言わせれば略奪された品々であるため、このときの回収は盗まれたレガリアを取り返したということになる。
一日置いた七月五日、蔵人治部大輔源雅頼が後白河天皇の勅を奉じ、検非違使に招集を掛けた。同時に平安京内外の武士に動員をかけ平安京の警護を命じた。亡き鳥羽法皇が身辺警護を命じていた五人の武士がまず参上し、次いで左衛門尉平基盛、右衛門尉平惟繁らが軍勢を率いて後白河天皇のもとに詰めかけた。また、実際の到着はまだであるが、出雲守源光保、和泉守平盛兼といった源氏や平氏の武士たちも揃って後白河天皇の命令に従い武士団を率いて京都に向かっているとの情報が関白藤原忠通のもとに届いた。
京都に向かっている武士たちの中で最初の軍功を挙げたのは左衛門尉平基盛である。七月六日、京都の鴨川の東にある法住寺付近で源親治を逮捕した。容疑は藤原頼長が大和国から源親治を招き京中に潜伏させているとの疑いによるものである。
この動きの中、崇徳上皇と藤原頼長はどこで何をしていたのか?
崇徳上皇はこのとき鳥羽離宮の田中殿に身を置いており、藤原頼長はさらに南の宇治に身を寄せていた。京都は危険だと感じたからであるが、京都を離れたことは迂闊だった。
保元元(一一五六)年七月八日、亡き鳥羽法皇初七日の法要が開催されるが、その場に崇徳上皇も藤原頼長も姿を見せなかった、いや、見せることができなかった。
崇徳上皇と藤原頼長の不在を確認した後白河天皇は、同日、一つの綸旨を出す。任国内の荘園に対する兵の召集を禁止する綸旨である。藤原頼長とその父の藤原忠実を念頭に置いてはいるものの、ここで後白河天皇が命じているのは各国の国司に対する軍勢派遣の禁止であって、藤原忠実と藤原頼長の親子に対しては何の命令も出していない。あくまでもこの時点では。
ところが、この後で開催された公卿詮議で、藤原頼長謀反の証拠が示されたのである。まず示されたのが手紙である。手紙の文面は現存していないが、この手紙には謀反の証明となる文面であったという。本当に藤原頼長が書いた手紙かどうかすら怪しいものであったが、藤原頼長謀反という結論がまず先にあり、その結論に向かっていかに証拠を作り上げていくかというのがこの会議の趣旨である。推定無罪の原則など通用せず、藤原頼長を有罪とするには証拠不充分であろうと証拠として通用した。
次に東三条殿で逮捕された僧侶が鳥羽法皇を呪詛していたことが示された。僧侶は呪詛ではなく健康回復を願う祈祷であったと主張するが祈祷そのものがあったことは全く否定できなかった。そもそも藤原頼長という人は、自分の好みの男性と男色関係になれるよう祈祷させることも珍しくなかったというほど祈祷を繰り返してきていた人であり、藤原頼長が自分自身で祈祷し、あるいは僧侶や陰陽師に対して頻繁に邸宅内で祈祷させてきたことそのものは周知の事実であった。そのため祈祷の内容を巡る主張となるのだが、これは僧侶のほうが分が悪かった。一般には公開されない経典を用いての祈祷であったため、祈祷の内容を説明することそのものが事実上不可能だったのである。
それでも会議で藤原頼長を有罪とさせることに成功したのは七月一一日になってからである。判決は藤原頼長を肥前国への流罪とするものであり、この時代の事実上の最高刑が下されていた。
平安京に遷都してから三六二年、平安京に住む人にとって戦争とは知識としては知っていても実際に体験することではなかった。
「平安時代」という名、あるいは「平安京」という名、どちらも漢字だけを見れば、いかにも平和でいかにも安心安全なイメージを伴うが、後世に住む我々は知っている。治安は悪く、犯罪で命を奪われる者も多く、街には失業者があふれ、餓死した人の遺体が道端で放置されていたことを知っている。
しかしそれでも、首都での戦争は無かった。
寺社の繰り出すデモ集団が暴れることはあっても、それは犯罪であって戦争ではなかった。
平将門や藤原純友が暴れることはあっても首都での戦争は無かった。
東北地方で戦乱があっても首都での戦争は無かった。
朝鮮半島から侵略を受けることはあっても首都での戦争は無かった。
平安京から遠い場所で武人たちが武器を手に戦っていることは知識として知っていたが、平安京そのものでの戦争は存在しなかったのがこれまでの歴史である。
その歴史が終わりを迎えるときが来た。
このときの平安京の人たちの多くは、戦場での殺し合いの様子を知らないでいた。戦場での殺し合いがどのようなものかを想像することはあっても、それはどこか空想の世界での話であり現実味を帯びた話ではなかった。ましてや京都市中で武士同士が武器を手に殺しあいをする光景など全く想像がつかなかった。
だからこそ、戦場がどういう場所かを知っている武士たちに対して居丈高(いたけだか)になれたのかもしれない。知っていたら、いや、知らなくても少しでも想像したならばと絶対にできない話であるのだから。
その間に崇徳上皇は、平安京の南の鳥羽を出て平安京の東の白河前斎院御所に御幸していた。保元元(一一五六)年七月九日の夜のことであるという。日が昇った後、白河前斎院御所では手狭であるとしてすぐ南にある白河北殿に移り、武士を集め始めた。
この日の夜、宇治から左大臣藤原頼長が白河北殿に到着。藤原頼長もまた武士を集め始めた。
これから始めようとしているのは、戦争である。陰謀や権謀術数を用いた権力争いではなく、武器を使用した殺し合いである。それを誰もが覚悟していた。しかも、桓武天皇の遷都から三六〇年を以上を経てはじめてとなる、平安京を舞台とした戦争であることを覚悟していた。覚悟していたが、藤原頼長の知る戦争とは孫子の兵法のことであり、血の流れる戦場を知るわけではない。
このとき崇徳上皇方に集まった武士は以下の通りである。
まず、源為朝とその子ども達がいる。その中には九州で暴れていた源為朝も含まれていた。
次に平忠正と、平忠正の長男で新院蔵人である平長盛らがいた。
また、崇徳上皇の側近である左京大夫藤原教長のほか、散位平家弘、大炊助平康弘、右衛門尉平盛弘、兵衛尉平時弘の四兄弟がいた。
意外なところでは信西の娘婿である源為国が崇徳院判官代であることから舅である信西と袂を分かち崇徳上皇のもとに姿を見せていた。
ただし、後白河天皇側に回ることが判明した武士たちがどれだけいるかを考えると、兵力は圧倒的に足りない。そこで、比叡山延暦寺と興福寺に使者を派遣し援軍を要請することとなった。
ここで有名なエピソードが起こる。藤原頼長が夜討ちを退けたというエピソードである。
崇徳上皇の軍勢で軍事の主導権を握ることとなったのは源為義と平忠正の二人である。二人とも軍勢の少なさを危惧し、比叡山の援軍が期待できる近江国、もしくは興福寺の援軍を期待できる大和国へ退き、そのどちらも不可能であれば関東地方にいったん退いて関東地方の武士をまとめ、それもダメならば先手を打つために後白河天皇の軍勢のいる内裏高松殿に夜襲を掛けるべきであることを主張した。
これに反対したのが藤原頼長である。そこまで急ぐ必要はなく、また、援軍の中で最も移動時間の短い比叡山延暦寺からの援軍を受けるためには、このまま白河の地に留まるほうが賢明であるとしたのである。卑怯だから夜襲をすべきでないといったという記録は少し後になって記された物語にはじめて登場し、同時代史料には存在しないが、藤原頼長という人が軍事をわかっておらず、それでいて口出しは欠かさなかったことを示すエピソードではある。
崇徳上皇が軍勢を整えていた保元元(一一五六)年七月一〇日、後白河天皇のもとにも軍勢が集まっていた。
まず源義康が先頭となって姿を見せ、次いで安芸守平清盛が、常陸守平頼盛、淡路守平教盛、中務少輔平重盛ら一門を率いて姿を見せた。兵庫頭源頼政、散位源重成、左衛門尉源季実、平信兼、右衛門尉平惟繁といった面々も次々に姿を見せた。父と別行動になることを懸念するのではないかと思われていた下野守源義朝も、東国武士団を率いて内裏高松殿に集結した。確認できるだけでも四人の国司を集めることに成功したということは、国司というある程度の裁量を持った上で合法的に軍勢を指揮できる人材を手元に抱えることができたことを意味する。
後白河天皇側の軍勢の指揮は平清盛と源義朝の二人があたることとなり、ここで二人は夜襲について奏上した。ただし、後世の物語に記されていたのとは少し違い、内裏高松殿は政務を執るには適切でも防御力は弱く、また、崇徳上皇側にもここが本拠地であることは知られている以上、夜襲を受けるとなると兵力の多さが災いして混乱を招くという危険性を訴えたのである。その上で、極秘裏に後白河天皇を遷御することを提案し、軍勢を四つに分けて作戦にあたることを主張したのである。ここでは後白河天皇側からの夜襲を提唱してはいない。
軍勢を四つに分ける意味であるが、まず、警護力で内裏高松殿よりも優れている東三条殿に後白河天皇に遷御してもらい、その警護を源頼盛が担当する。現在の四分の一の兵力でも東三条殿の防衛力であれば後白河天皇を保護できる。残る四分の三は、源義朝、源義康、平清盛がそれぞれ率い、三方向から白河の地にいる藤原頼長に対して攻撃を掛けるというものであった。
このアイデアを信西が支持。作戦の同意を渋っていた関白藤原忠通も七月一一日未明には賛成に回った。
夜半、後自河天皇と、藤原忠通をはじめとする貴族たちが接収した東三条殿に移り、源頼盛の警護のもとで立て籠もりを開始。同時に、源義朝、源義康、平清盛の三名がそれぞれ軍勢を招集。夜明け近くに招集を完了させると、平清盛率いる三百余騎は二条大路を、源義朝率いる二百余騎は大炊御門大路を、源義康率いる百余騎は近衛大路を東に向かった。彼らから少し遅れて、後白河天皇の遷御が無事に完了したことを確認した源頼政、源重成らの率いる軍勢も東に向かった。
明け方、後白河天皇軍、崇徳上皇側の自河北殿を急襲。物語では不意打ちであったかのような記されかたをしているが、実際には源為義率いる軍勢は既に陣営を構えて待機しており、待ち構えていた軍勢と対決したこととなる。
中でも白河北殿の最前線に立って奮闘する源為朝の奮戦の前に、後白河天皇側の軍勢は苦労をしている。
平清盛の率いる軍勢が源為朝の守る白河北殿西門を攻撃する。平清盛の郎党である伊藤景綱とその子の伊藤忠清、伊藤忠直の兄弟が名乗りをあげると源為朝は相手にせず、先に自分に向けて矢が射られたのを確認したのち、矢先が七寸五分、およそ二二センチメートルもある矢を射かけ、矢は伊藤忠直の体を貫き、後ろの兄の鎧の袖に突き刺さった。兄は矢を平清盛のもとに持ち帰って報告し、平清盛たちは驚愕して怖気づいたという。そのためなのか、あるいは当初の計画通りなのかは意見が分かれるところであるが、平清盛の率いる軍勢は西門からの攻略を諦めて北門へ向かう。なお、攻略ポイントの変更はスムーズにいかなかったようで、平清盛の嫡男である平重盛が一太刀だけでも抵抗すべきとするが平清盛が慌てて止めさせたという光景が見られた。また、山田伊行はたった一度しか矢を放っていないというのでは退けないとし、進み出て名乗りをあげて弓矢に手をかけ、一度は矢を放つが、二度目の矢を構えたところを為朝に射落とされた。
平清盛の軍勢と入れ替わるように源義朝の軍勢が攻め寄せ、先陣を務めた鎌田政清が進み出で名乗りをあげた。清和源氏の一門である鎌田政清は源為義の子である源為朝から見れば父の臣下であり、源為朝は無礼であるとして立ち去れと言い返すものの、鎌田政清は目の前にいるのは後白河天皇の命令に背く叛逆者であると叫びつつ矢を放ち、放った矢は源為朝の兜に当たった。これが源為朝の怒りに火をつけ、弓矢を用いるなど矢の無駄であるとし、九州で自分とともに暴れまわっていた仲間を率い、馬に乗って鎌田政清へと突入する。鎌田政清は源為朝の勢いに圧倒されて逃走し、状況を源義朝に報告。源義朝は馬上の争いであれば関東の武士のほうが優位にあるとして、源義朝はおよそ七倍の軍勢で突入をかけた。この突入時の混乱で、後に源頼朝に仕えることとなる大庭景義が源為朝の放った矢で左膝を負傷し、弟の大庭景親に助けられて戦場を脱出した。大庭景義はこのときの負傷について、源為朝は弓矢の名手ではあるが馬上での騎射には慣れていないので狙いを誤ったのだろうと述べている。
源義朝は門に立ちはだかる弟に対して自分たちの攻撃は後白河天皇の勅命であると訴えるものの、源為朝は兄に対して崇徳上皇の院宣があると応酬。兄に対して弓を引くのは無礼であると源義朝が叫べば、父に弓を引いている兄のほうが無礼と応酬。しかし、いかに兄に応酬しようと多勢に無勢であることに違いはなく、源為朝はいったん門の内側に退避することを選ぶ。ただし、退避する前に兄に矢を放ち、源義朝の兜の頭飾りを破壊している。これが源為朝の不覚となった。大庭景義の言うとおり、馬上であることが源為朝の弓矢の狙いを不正確なものとさせているが見て取れたのである。源義朝はそこに勝機を見出した。とは言え、勝機を見出すまでの激闘で源為朝側に二八名、源義朝側に五三名の死者を生じさせている。
白河北殿に詰め掛けている武士たちの多くは馬に乗っており、そのことが戦闘を苛烈なものとさせている。と同時に、馬であるために抱えることとなるデメリットもある。
馬はある程度のスペースが存在していないと機動力が発揮できない。裏を返せば、狭い場所に閉じ込めてしまえば機動力が発揮できなくなるだけでなく、狭い場所の中で潰し合いが起こる。
源義朝は、白河北殿に火を放つことの許可を東三条殿の後白河天皇より得るために使者を派遣した。四方を炎で包むことで崇徳上皇側の武士たちの機動力を封じれば勝利を掴めるとしたのである。ただし、白河北殿が灰燼に帰してしまうことを危惧してもいる。後白河天皇からの返信は、ただちに決行せよというものであった。一説には、信西が躊躇せずに許可を出したとも言う。
炎は折からの風に煽られ、徐々に白河北殿を包み込んでいった。予期せぬ火災で崇徳上皇側は大混乱となり、崇徳上皇と藤原頼長は脱出することに成功したものの、多くの武士や貴族が後白河天皇側に捕らえられることとなった。
白河北殿が燃えだしたのは辰刻と言うから、現在で言う午前八時頃。法勝寺の九重塔をはじめ、白河法皇の命令によって白河の地に建立された建物は京都を見下ろすように建立された建物である。裏を返せば、京都市内からそれらの建物が容易に見ることができることを意味する。現在も京都市は景観を守るために建物の高さ制限を設けているが、当時は高さ制限以前に二階建ての建物すら滅多にお目にかかることのできない時代である。京都市内を見下ろす建物が燃える様子は東三条殿からも、そして、京都市内のいたるところで確認できたのである。白河の地が燃えていることで戦いは後白河天皇の勝利に終わりが判明し、あとは勝者の凱旋と敗者の拿捕を待つのみとなった。
逃げ出した貴族や武士たちの拿捕は思うように進まなかったが、それでも当日の正午頃には源義朝や平清盛らが凱旋した。凱旋した先は内裏高松殿であるから、その間に後白河天皇は戻ったのであろう。
夜襲を計画し、実行し、白河北殿が燃え、凱旋するのに、半日である。
たった半日である。
このたった半日で、長い間続いていた対立が解消したのだ。それも、一方にとってこれ以上ない最良の結果となって問題を解決することに成功したのだ。
人類はなぜ、戦争を止めることができないのかという問いへの答えもここにある。話し合いで解決しない問題が、時間では解決しない対立が、戦争に訴えるならば、相手にいっさい妥協することなく自分にとって最高の結果で解決できる可能性があるのだ。それも、自分に抵抗する相手を完全に沈黙させることも不可能とは言い切れない状況で。
だからこそ戦争は恐ろしい。
だからこそ戦争は消えない。
相手の命よりも、相手の人生よりも、自分の思いを優先させせて行動するというのは愚行以外の何物でもないが、問題を短期間で根本解決するという魅力を捨て去ることができるほど、人類は賢くない。
いくら賢くなくてもわかっている。一つの問題を解決することが、別の新たな問題を生み出し、より深刻な問題へと悪化させることは珍しくもないことうぃ。それこそ、戦争などせずに済ませたほうがはるかにマシだったと思わせるほどに悪化してしまうことなど、人類は幾度となく経験している。
しかし、鮮やかな勝利であればあるほど、人類はこうも考えてしまう。
「今回だけは別だ」と、あるいは「これで全ての問題が解決した」と、あるいは「これで永遠の平和になる」と。
保元の乱の戦闘を振り返ると、実際の戦闘時間は半日も要していない。それでいてこれまでの対立を全部解消することに成功した。
極めて短時間で後白河天皇側の完全勝利に終わった戦い、それが保元の乱である。
この成功体験が後の悲劇を生み出すことを、彼らはまだ知らない。
戦闘開始から劣勢を自覚しながらも敗北を考えてはいなかった崇徳上皇側の貴族や武士たちであるが、白河北殿が炎に包まれたことで自分たちが想定以上の危機にあることを実感し、その危機は戦闘に敗れることを意味するのだと悟った。
崇徳上皇側の貴族や武士たちに残されていたのは、このまま炎に包まれて人生を終わらせるか、炎から脱出し京都からも脱出して逃げ延びるか、炎を脱出するも京都に留まって降伏するかのいずれかの選択肢のみ。炎の中に留まってあくまでも抵抗を続けるという選択肢は残されていなかった。
崇徳上皇も藤原頼長も自軍の敗北を目の当たりにして京都からの脱出を選んだ。ともに京都より逃れることを考えて逃亡したが、歩調を合わせた逃避行にはしていない。藤原頼長は崇徳上皇と行動をともにするよう考えたようであるが、崇徳上皇は自身の従者、および重仁親王とその従者とのみの逃避行を宣言し、藤原頼長との行動を拒絶。なお、逃避行中の藤原頼長は怪我を押しての移動であったことは記録に残っており、それが源重貞から受けた矢による重傷であることは判明しているが、戦闘中の負傷か、逃避行中の負傷かはわからない。わかっているのは、崇徳上皇から見放されたことでそれまで藤原頼長の周囲を固めていた人の多くが藤原頼長を見捨てた上に、藤原頼長自身も怪我を押しての移動となったためスムーズとはいかなかったことだけである。
白河北殿にいたわけではないが、藤原忠実も逃れることを選んだ一人であった。藤原忠実は京都に赴かず宇治に滞在し続けていた。一見するとどちらにも加勢することなく離れたところで中立を保っているかのように見えるが、これまで藤原忠実が藤原頼長側に荷担していたことを踏まえると宇治に留まることは得策ではなく、藤原忠実は奈良へ逃れることを選んだ。
源為義は比叡山延暦寺を経由して東国に逃れることを計画した。もっと早い段階で比叡山延暦寺の僧兵が援軍としてやってきたならば戦況は変わっていたはずであるから、ここで延暦寺に責任をとってもらおうという思いと、ここで改めて延暦寺の僧兵が援軍として計算できるなら、最短では延暦寺到着とほぼ同時に軍勢を反転させて京都への攻撃が可能となるという思いが重なり、そのような行動をさせた。なんともムシのいい話ではあるが、追い詰められているときの考えはどうしても冷静さを欠いたものとなる。また、冷静さだけでなく土地勘も欠いたのか、また、人数が多いせいもあって、一刻を争う逃避行である割にはゆっくりとした動きになっている。
平忠正らが逃れようとした先は本拠地でもある伊勢である。こちらは源為義と違って土地勘があるのか、それとも同行人数が少ないせいか、かなりスムーズな移動となっている。
白河北殿から逃れた人たちを尻目に、保元元(一一五六)年七月一一日の午後にはもう、信西の主導のもと保元の乱の勲功賞等がはじまった。
真っ先に宣言されたのは藤原忠通に対する藤氏長者補任宣下である。しかし、藤原忠通はこの宣下を辞退している。名目としては吉日を選んでの藤氏長者就任であるが、信西主導の藤氏長者就任に対する反発がそこにはあった。藤氏長者の選定は藤原氏内部の専権事項であり、いかに後白河天皇の宣下であろうと信西主導の宣下は認めるわけにはいかないとする藤原忠通の思いがあり、信西がこのときにできたのは藤原頼長からの藤氏長者剥奪だけであった。
その次になされたのが武士に対する報償である。
まず源義康が従五位下大夫尉に任官されたことで昇殿が許される身となった。
保元の乱時点における役職は平清盛が安芸国司、源義朝は下野国司。安芸国も下野国も令制国としての格付けは上国、すなわち上から二番目の格を持った国であり、官位相当で行くと従五位下が国司の相当官であるため、二人ともとっくに昇殿が許されている身である。そのため、昇殿は報償とはならない。
武士であると同時に、昇殿が許されているが議政官入りはまだ遠いという地位の貴族でもあるため、最大の功労者たる平清盛と源義朝の二人への報償は微妙な物とならざるを得ない。確かに比類無き功績者ではあるが、一気に議政官入りとするわけにはいかないのである。そのため、平清盛は安芸国司を辞任させた上で播磨国司に就任させ、源義朝は下野国司のまま右馬権頭を兼任させることとなった。
播磨国は令制国としての格付けが最上位である大国の一つであり、平清盛に与えることのできるかなり高いレベルでの報償である。また、国司としての収入も全国でトップクラスである。もっとも安芸国司との兼任が許されるものではない。
右馬権頭は地位としては播磨国司よりも下であるが、平清盛と違って現時点の国司の地位は継続した上での兼任である上に、右馬権頭には検非違使を補助した上での京都市中の警察業務も含まれている要職である。下野国司も右馬権頭も双方ともに播磨国司より下の役職であるが、二つの役職の兼任とすることで収入は平清盛を越えることとなる。
しかし、いくら収入で超えると言っても、この二つの報償を比べると平清盛のほうが高いままであったため、源義朝は不満を隠さず同等の報奨を主張した。功績者に対する報奨の価値を同等とするために、源義朝に与える役職は右馬権頭から右馬頭へ、さらにその一段上の左馬頭へと変更されることとなった。これにより両者の報奨は同等となった。
報償と同時に告げられたのが、崇徳上皇側に対する処置である。この日に決定したのは、藤原頼長に与して兵を挙げることとなっていた興福寺に対する僧所領没官の宣告と、逃亡した平忠正、ならびに、比叡山の向かったとの情報が届いていた源為義に対する逮捕命令である。この時点で崇徳上皇、重仁親王、藤原頼長の消息は不明、ただし、藤原頼長は矢を受けて重傷であるとの情報は届いている。
戦乱の翌日である保元元(一一五六)年七月一二日、崇徳上皇、重仁親王、左大臣藤原頼長の存否が不明となっていることが正式に通告され、全国に対して捜索命令が下りた。命令に従い、まずは平安京とその周辺の捜索が行われるものの崇徳上皇も重仁親王も藤原頼長も消息がつかめないでいる。
翌七月一三日、崇徳上皇が仁和寺に出頭して後白河天皇方に投降し、ただちに身柄が拘束された。奇妙にも崇徳上皇一人での出頭であり、周囲の者がいなかった。この理由はのちに判明するが、この時点での崇徳上皇は、ただ一人で出頭した理由について黙り続け、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するのみであった。
同日、重傷の藤原頼長が船で大堰川より木津へ向かったとの情報が届くが詳細は不明。後に判明した記録によると、藤原頼長はこの日の申刻、現在の時制に直すと夕方四時頃、木津に到着するとともに奈良にいる藤原忠実の元に自らの保護を求める連絡を届けたという。しかし、藤原頼長の敗北を聞いた藤原忠実は息子からの面会要請を拒否。「誇り高き摂関家の長ならば矢に射られるような不運な目に遭うはずがない。目の届かぬところに去れ」というのがその名目である。これで藤原頼長は自分の運命を悟った。
保元元(一一五六)年七月一四日、最後まで崇徳上皇に付き沿っていた藤原教長と藤原成隆の二人が出家して出頭した。崇徳上皇と行動をともにしていた二人が崇徳上皇のもとを離れたのは崇徳上皇の命令により別行動とさせたからであった。戦乱の首謀者として責任をとるのは崇徳上皇自身であり、重仁親王は親の巻き添えでしかなく、藤原教長と藤原成隆の二人をはじめとする面々は単に院の職務として崇徳上皇を共にしたにすぎず、戦乱の責任にはあたらないとしたのである。ここで重仁親王は崇徳上皇と別行動を取り始める。しかし、崇徳上皇に仕える二人はそのまま逃げるわけには行かぬとして、責任を果たすためにいったん出家した後に出頭したのであった。予想外であったのは、二人が出頭したときには既に崇徳上皇が出頭していたことである。自分たちが先に出頭することで崇徳上皇を助けることを想定していただけに、この想定外は二人のこれからの運命を大きく変えることとなる。
同日、藤原頼長が奈良坂において客死。享年三七。後の記録によると、藤原頼長の遺体はこの日の夜に興に乗せられ、密かに般若山辺りに葬られたという。ただし、その知らせはまだ京都には届いていない。
保元元(一一五六)年七月一五日、崇徳上皇の尋問が始まる。崇徳上皇はここで、逃したはずの藤原教長と藤原成隆が出家した上で出頭したことを知った。また、この日、自分の息子である重仁親王が出家した上で出頭してきたことを知った。
同時に藤原頼長の近臣に対する尋間もはじまったが、彼らは一様に藤原頼長の消息を知らぬと答える。
同日、奈良に逃れていた藤原忠実から息子の藤原忠通のもとに書状が届いた。藤原頼長との決別を告げた書状である。
源為義らは東国に逃れることを意図していたが、捜査の手は逃避行の先回りをしていた。崇徳上皇側の援軍として期待していた比叡山延暦寺に向かうことで、延暦寺の庇護のもと、延暦寺の僧兵との共同戦線を模索していたのであるが、その途中の横川で自身への逮捕令状が出ていることを知り、逃避行を断念。
もはやこれ以上逃げられないと悟った源為義は、息子達に対し、自分と一緒に源義朝のもとに降伏するよう促した。いかに敵対関係になっていようと肉親を見殺しにはしないだろうという希望的観測である。後の歴史を知るならばこのときの源為義の希望的観測は願望でしかなかったことを知るが、当時の考えではあながち間違った考えではなかった。死刑の無い、厳密に言えば律令に定義されてはいるが、律令で死刑判決と定められている犯罪であろうと刑一等を減じて追放刑にすることが慣例化していたのがこの時代である。追放先で自由を奪われることはあるだろうが、それでも捲土重来のチャンスはあると源為義は考えていた。その上で、責任を取って源為義が出家すれば、源為義の子らは源為義の出家と引き換えに軽い処罰で済むであろうと考えた。
これに反発したのが、最前線で戦い続けた源為朝である。捲土重来を考えるなら兄に降伏するのではなく、予定通りに東国へ逃れ再軍備を図るべきであるというのが源為朝の考えであった。そして実際に、源為朝は手勢を率い、捜査の手を逃れて東国に向かうことに成功したのである。
一方、源義朝への降伏を選んだ源為義とその子らは、保元元(一一五六)年七月一六日に源義朝に降伏した。降伏したとき、源為義は既に出家していたという。源義朝は父や弟達を拿捕し、犯罪者として連行した。この時点ではまだ源為義の願望が実現する可能性が残されているかのように見えた。
逃れることに成功しつつあった平忠正のもとに知らせが届いた。源為義がその子らとともに無抵抗で投降したという知らせである。同時に源為義は出家した上で投降したことも情報として届いた。
この知らせ受けた平忠正は自らの命運を悟り、自身も出家して平清盛のもとに出頭した。これからの行動は平忠正一人の話でなく、自分とともに戦った子や部下たちにも関係する話である以上、投降しないことは潔さではなく無責任さになる。上に立つ者の滅びの美学は責任回避の理由にすらならない。
投降は上に立つ者としてあるべき姿であるが、投降してきた者を受け入れる立場となった平清盛にとっては厄介な話であった。叔父が自分のもとに身を寄せただけならまだどうにかなるが、今回は戦闘で対峙し、逮捕命令が出ている人の投降である。しかも出家した上での投降であるから二重に厄介なこととなるのだ。
なお、平忠正がどのタイミングで平清盛に投降したのかはわからない。伊勢まで逃げ延びていたという記録と、源為義の投降を耳にしての自身の投降という二点を重ねると、伊勢から京都までかなり急いで戻ってきたこととなる。考えられるのは二通りの仮説。一つは、平忠正はそもそも伊勢に戻っておらず、その途中で源為義の投降を耳にして京都に戻ってきたという説、もう一つは伊勢まで行ったものの投降することを決めて京都に戻っていた途中で源為義の投降を耳にしたという仮説である。
判明しているのは、源為義と同時に平忠正に対する処罰も下ったという点だけである。
保元元(一一五六)年七月一七日、信西主導のもと藤原忠実と藤原頼長の父子の所領没官の奉勅が出された。ただし、初日はその宣言だけで具体化はしていない。所領没官の第一弾が決まったのは翌七月一八日のこと。この日、藤原忠実の所領、ならびに、平等院をはじめとする藤原忠実の管理する寺院や邸宅といった固定資産の所有権が藤原忠通に移されたのである。
七月一九日に藤原忠通が正式に藤氏長者の補任を受けたことで、藤原忠実と藤原頼長は藤原氏内部における公的地位を失った。朱器台盤をはじめとする藤氏長者たるレガリアを取り戻した藤原忠通は、藤原氏の教育施設である勧学院の別当を新たに任命するなど、藤氏長者としての手続きをさっそく開始する。翌七月二〇日には藤氏長者の荘園を相続したことで、これまで藤原忠通が所有していた資産と合わせて藤原摂関家の当主たる全資産を所有することとなり、名実ともに藤原忠通が藤原氏のトップに返り咲くこととなった。この瞬間、これまで藤原摂関家の重要人物としてならばまだ権威を有していた藤原忠実が、その社会的権威をも喪失した。
一日置いた保元元(一一五六)年七月二一日、藤原頼長死亡の情報が京都に届いた。ただし、この報告が藤原頼長の計略であるとする意見も出たことで、藤原頼長の埋葬に関する検分が蔵人治部大輔源雅頼に命じられた。
保元元(一一五六)年七月二二日、蔵人治部大輔源雅頼をはじめとする面々が藤原頼長の死と埋葬を確認し、ただちに帰参した蔵人治部大輔源雅頼がその詳細を報告した。
保元元(一一五六)年七月二三日、藤原忠実が知足院に幽閉される。崇徳上皇自身をはじめとする崇徳上皇側の面々に対する処罰はまだ未定であったが、戦乱に直接関係したわけではなかった藤原忠実に対する処罰はこの日に先行して行われた。関白藤原忠通の取り計らいもあり、流罪を免れ京都北郊の知足院での籠居に減刑される。この処置が崇徳上皇側の面々に希望をもたらした。
しかし、その希望はただちに打ち消される。
崇徳上皇に判決が下ったのだ。それも讃岐国への配流である。天皇や上皇の配流は藤原仲麻呂の乱で淳仁天皇が淡路に配流となったのを最後に、およそ四〇〇年間存在しなかったのである。ただし法としては消滅していなかった。死文化していた刑罰の復活は、多くの人を恐怖を抱かせるのに充分であった。
なお、重仁親王は首謀者ではないことと出家済であることが加味され、信西のように出家後も俗世間に身を置くことは許されないという条件はつくが、完全に仏門に入ることで無罪とすると決まった。
配流の執行は判決の下ったその日に夜に行われた、崇徳上皇は式部大夫源重成をはじめとする数十人の武士が警護する牛車に乗せられ、その日のうちに鳥羽まで護送されたのである。この後、鳥羽からは船に乗せられ水路での護送となり讃岐国へと向かうこととなる。崇徳上皇に同行したのは寵妃の兵衛佐局をはじめとする数名の女房だけであった。
保元元(一一五六)年七月二七日、崇徳上皇側に立った者のうち、まずは武士たちへの判決が下った。
死罪である。
大同五(八一〇)年九月一一日に藤原仲成に死罪が適用されてから三四六年もの長きに渡って、法としては存在していても適用されることのなかった死罪が復活したのである。
しかも、ただの死罪ではない。一族の間で殺害させるのである。
保元元(一一五六)年七月二八日、六波羅近辺において、平忠正、平忠正の子の平長盛、平忠綱、平正綱、平通正らが平清盛の手のよって斬首となった。平忠正はその名が権中納言藤原忠雅と同音であることから、直前に平忠貞へと改名させられている。そのため、この日の記録は平忠貞への死罪適用となっている。
その二日後の七月三〇日、大江山近辺において、平家弘、平家弘の子の平光弘、平頼弘、平安弘の三兄弟、ならびに、平家弘の弟の平康弘、平盛弘、平時弘らが源義康の手で斬首となった。
同日、船岡近辺において、源為義と、源為義の四男の源頼賢、五男の源頼仲、六男の源為宗、七男の源為成、九男の源為仲が、左馬頭源義朝の手によって斬首となった。源義朝は自らの戦功をかけて父や弟達の助命嘆願をするが、信西はそれを認めず、左馬頭として職務を遂行するよう命じるのみであった。
保元元(一一五六)年八月三日、崇徳上皇側に立った貴族たちへの判決が下った。こちらは流罪である。
藤原頼長の子の、前権中納言藤原師長は土佐国へ、前右近衛大将藤原兼長は出雲国へ、前左近衛中将藤原隆長は出雲国へ、僧範長は安房国へ配流となった。
崇徳上皇の廷臣である藤原教長は常陸国へ、藤原頼長とは義兄弟にあたる源成雅は越後国へ配流となった。
これにより、崇徳上皇側の主だった者のうち、一人を除く全員が何らかの処罰を受けるか、あるいは命を落とすこととなった。
最後の一人である源為朝が逮捕されたのは保元元(一一五六)年八月二六日のことである。近江国坂田で湯治をしていたところを源重貞に発見され、武器を持たず入浴していたために抵抗も思うようにいかず、逮捕されて平安京へと連行された源為朝の姿は、京都市民の見物対象となった。この見物には後白河天皇も混ざっていたとの逸話もある。
他の弟達と同様に死罪となると思われた源為朝であるが、公卿詮議の結果、伊豆大島への流刑と決まった。源為朝はその後、沖縄に渡って、初代琉球王舜天となったという伝説がある。
一方、ほぼ同じ頃にもう一つの伝説も始まっていた。ただし、後の伝説のスタートとなることを当時の人は知るよしもない。
その伝説の主とは、讃岐に追放された崇徳上皇である。
崇徳上皇が讃岐国の松山の津(現在の香川県坂出市)に到着したのは保元元(一一五六)年八月一〇日のことである。崇徳上皇は松山の津に程近い林田の雲井御所で軟禁生活を過ごし、後の崇徳上皇伝説からは思いもつかない穏やかな暮らしをはじめていた。もっぱら仏典の読書と写経をして日々を過ごす一方、和歌を詠んで京都をはじめとする各地に和歌を送り届けていた。特に、出家前は北面の武士として崇徳上皇に仕えていたこともある僧の西行との和歌のやりとりは頻繁であった。
保元元(一一五六)年九月一三日、大規模な人事異動が行われた。左大臣藤原頼長が死去し、もとから右大臣職が空席であるため議政官の構成を大幅に見直す必要があったからである。
保元へと改元した久寿三(一一五六)年四月二七日時点の議政官の構成と、保元の乱から二ヶ月を経た保元元(一一五六)年九月一三日時点の議政官の構成の比較は以下の通りである。
こうして見ると議政官の構成に大幅な変更が加えられているものの、圧倒的多数が藤原氏で、ごく一部に源氏がいて、その他の氏族は議政官に姿を見せていないという、これまでの藤原摂関政治と同じ構成である。
しかし、この体制は間違いなく後白河天皇の構築した自分の政権のための体制である。藤原頼長ら崇徳上皇側に立った貴族はことごとく議政官から消え、さらに院政を担うべき上皇も平安京に存在しない。すなわち、院政前の藤原摂関政治の復帰がなされたこととなる。
とは言え、それを信じる者はいない。
出家しているため官職を有さないが、後白河天皇の第一の側近と誰もが認めている信西が控えており、伊勢平氏と清和源氏の軍勢も控えている。そして、信西の助言と武士の武力を基盤とする後白河天皇の手による政務が始まったのである。
保元元(一一五六)年七月二日に鳥羽法皇が亡くなってから、保元元(一一五六)年九月一三日まで、わずか二ヶ月と一一日での話である。三ヶ月前であれば誰もが想像すらしなかった後白河天皇の時代が完成したのだ。
そしてもう一つ、完成した後白河天皇の時代がただちに平家物語の時代に変わろうというのも、誰一人として予想していなかった。議政官の面々のどこを見渡しても清和源氏もいなければ伊勢平氏もいない。彼らは国司までは上り詰めているがそこから上に這い上がるとは考えられていなかった。上がったとしてもかなりの高齢を迎えたときに参議になるかどうかであり、議政官の中で一大勢力を築くことになるとも、ましてや朝廷を事実上支配する巨大勢力になるとも、このときは誰も想像していない。
そこには当の平清盛も含まれる。
しかし、本人の意図することのないまま、時代は確実に動き始めていたのである。
―― 鳥羽院の時代 完 ――