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松浦信孝の読書帳

陰陽和合した先にあるものを知りたい

2020.04.13 23:03

分かっていながらも、ついつい損か得か、良いか悪いかで物事を判断してしまうことが、よくある。


晴れると良くて、雨は悪い


お金があると幸せで、貧乏は不幸


病気になるのが悪いことで、健康は良いこと


人間は、知らず知らずインプットされた価値観を定規に日々の瞬間を一つ一つジャッジしながら生きている。


知らず踊らされ、強いられたその価値観が、資本主義を支える要であった。


皆同じように良い暮らしがしたいと欲する。そこにつけ込むのが商業である。


共用された「価値観」は個人の不足を追求し、傷つける。もっと欲しいと望むように。


考えた末にそれを「然り」と飲み込むのは良い。でも無批判に嚥下し続けると、気付かぬうちに中毒になる。


知らぬ間に心に掛けた色眼鏡を、外せないまでも自覚した方が、楽になることがある。


価値観をフラットに戻した上で、自分がどう色を付けているのか、意識できるようになる。


自分は浪人生活程、日々の課題を乗り越える活力と幸せに満ちた時期は無かった。


大学に入学してからの数年の方が、自分にとっての闇の時期だったかも知れない。


受験生には、無限の可能性が開かれているのだから。大学生は、ある程度決まった道を歩んでいくのだから。


以前のブログでも書いたが、自分は高校入学までは我ながら結構ドラマティックで、やる気と希望に満ちあふれながら入学したのだが、いざ高校生活が始まってみると、自分の能力に愕然としたのである。


授業の進みの早さ、自分の勉強能力の低さに絶望した。初めて、自分は頭が悪いかもしれないと思った。


そもそも勉強するって、どうやったら良いのか、てんで知らないことに気付いた。


教材で育ったり、教えられてきたことをベースに、自分で知識を獲得する、思考回路を身につけることをしてこなかった人生のツケが高校で来た。


焦りながら自分は放課後になると本屋に向かい、勉強法の本、参考書を買い漁った。


自分を成長させるために本を読む、ということを覚えたのは、もしかしたらこの時期かも知れない。


しかし面白いもので、方法を探せば探すほど、なんのかのと理由を付けて実行には至らないものなのである。


恐怖もあったかも知れない。

実行して出来なかったら自分が本当に頭が悪いことが証明されてしまうのではないか。

才能なんて無いことを明らかにしてしまうのではないか、と。


出来ない状態の人間ほど自信が低く、行動するためのエネルギーに乏しい。


勉強するとは結局、「出来ない自分を発掘し続ける」プロセスだからだ。


出来ない自分を発掘する→克服して出来るようになる


の間には若干の時間差が開く。自信が無いとそのギャップに耐えられない。


では自信とは何か。「何かが出来る」を柱に据えた自信は不可能の前に簡単に吹き飛ぶ。


持つべくは「何かがあっても乗り越えられる」自分への信頼ではないか。


這い這いから立って歩けるようになった。三輪車から補助輪を外して自転車に乗れるようになった。


そんな「何かを乗り越えるプロセス」の延長上に勉強や、仕事上の技術、資格取得などがあるのだけど、そんなことを忘れるのに学校生活の時間は十分に長い。


評価というシステムは、枠組みの中での「強者」を優遇し、「弱者」に劣等感と苦手意識を植え付ける。


全員が合格できなければ自動車免許の教官は教え方を考えさせられるが、全員が100点を取れるテストを作ると学校の先生は批判されるという。


最初から全員が理解することなんて不可能だと思っているのか。


評価のために差を作る、という不思議な操作が行われている。


自分の得意も、不得意も、両面備わり自分がある。不得意を受け入れていく過程が、得意に至る道というのは美しい真理であるが、それを知らぬ者にとっては皮肉である。


浪人生活の終盤、自分のために頑張ることに疲れ、燃え尽きた自分がなんとなく気付いていた、「教えることが何よりの学びになる」、という事が大学生になってから確信に変わった。


表と裏、両方知ることが大事なのだということを。



犯罪者とその被害者のことを考えてみる。


神様は乗り越えられない試練は与えない。というのは好きな言葉であるが、それを突きつけてはいけない対象もある。


絶望の淵にあったり、許しがたい怒りの最中にある人は、それを乗り越えるのも、引きずって生きるのも自分自身であり、そこに他者の声は届かない。


考え方を選ぶのは自分自身であり、悟るよう導くなんてエゴは人に突きつけるものでは無いのだ。


それをやってしまっていた一年前の自分自身にも腹が立つ。自分が好む執行草舟の思想は自分が、身に降りかかる苦難を、歯を食いしばりつつ莞爾と笑うための、己に突きつけられた刃である。


そこに他人は関係ない。だから厳しくもあっさり受け入れてしまう。


しかしそれを他人から突きつけられると、許しがたい怒りが湧く。当然であろう。


人間である以上、人間の域を超えた者を、許してはいけない瞬間がある。法治国家なんてものが、煩わしくてならない気持になることがある。


当事者の気持ちなんて、完全には分かりっこないのだが、想像だけでも腸が煮える。


掛ける言葉なんて浮かばない。人はそれぞれ、自分だけの地獄を生きていくことでしか、悟りには至らない。


せめて相手と同じくらいの重みを持つ自分だけの地獄に、早くたどり着きたいと願う。


闇の中で自分が、本当に光を見失わずにいられるか、その時が来ないと分からない。





人気シンガーの動画に乗っかり、国民ウケを狙って呑気に家で寛ぐ動画を流す某国の首相とか、時代が時代なら処刑ものである。


歌わんのかい!と思わずツッコんでしまった。


パンが無いなら、ケーキを食べれば良いじゃない。に近い民衆との感覚の乖離を感じる。自覚すら無いのだろう。甚だ滑稽だ。


ただ、これもツケなのだろう。3.11の反省から、保守一択を続け過ぎてしまったことが、彼らを増長させた。


政治家にふさわしい人材、が選挙の場に現れる様な努力をしてこなかった。


コマーシャルに負けて、本質を見失った。


真のエリート教育を平等の名の下に殺してしまった。


封建制度は300年保ったが、民主主義はそこまで続かないかも知れない。