「天界」No.140(故中村要氏追悼号)その3
山本 進氏(山本一清氏のご長男)
山本進氏は、山本一清氏のご長男です。本文から推測すると、1914年(大正3)のお生まれになります。当時の山本進氏は、18歳の青年でした。
後年、山本進氏は、東亜天文学会の理事を勤められました。
「中村先生の思い出」 山本 進
私が中村先生に初めて会ったのは、1925年(大正14)、小学5年生の時だったと思う。夏のある一日、堂々たる一人の「兵隊さん」が岡崎の宅を訪れた。愉快な雑談の後、昼食となって、大きな丼を二杯も平らげられたので喫驚したのを覚えている。今から思えば、それが中村先生だったのである。先生が軍隊から帰られてからは、時々先生の温顔にも文にも接するようになった。そして、今年の5月から、私は花山で先生と起居を共にしたこともあった。
先生は人も知る通り稀代の鋭眼の持ち主だった。私にはぼんやりと星雲のようにしか見えぬプレアデスを、十何個とかに見分け得たと言う。その眼をもって、花山では小遊星の測微観測や、微光流星の観測等を受け持っておられた。
天文台における先生の生活は、真に暇のない生活だった。他の者がテニスをやったり、ラジオを聞いたりしている時も、一人で鏡を磨いておられた。私たちがトランプに飽きて雑談に花を咲かす時も、タイム(観測のための)を読む先生の声がドームに響いていた。先生の生活には、私たちのいわゆる「趣味」がなかった。「楽しみ」というべき物がなかった。が、先生にとっては、研磨機の前に座ること、それ自体が趣味だったに違いない。ドームを回すことが、即ち先生の楽しみだったに違いない。極限すれば、先生の生活がそのまま先生の趣味であり、楽しみだったのだと私は思う。
有名な先生の眼に変調を来たし始めたのは、多分今年(1932年)になってからだったろう。そして、その変調の度合いは、春になり、夏になるに従って次第に進んだ。それは乱視だった。そして、いずれが原因であったかは知らないが、その頃から先生は又、不眠に悩まされておられた。多大の不便を忍んで、初めて眼鏡をかけられたが、どうも思わしくなかった。ついに夏も半ば過ぎて、病気療養のため帰郷せられたのである。
8月26日、花山でホイップル彗星を再発見した時、今更のように、「先生さえいてくれれば。」と思わせられた。
9月24日の昼過ぎだった。私たちが先生の訃報に接したのは。その時の私たちの驚愕!取り敢えず弔電を打ったものの、翌日の新聞を見るまでは、私たちは悲嘆に暮れながらも、誤報の二字に一縷の光明をかけて夜を明かしたほどだった。それから一週間ばかりというものは、宿舎の一同は魂の抜けた人間のように、ぼんやりとして日を送っていた。特に、日常起居を共にしていた私たちだけに、その動揺はとくに激しかった。
ああ、今こそ、先生のなされた十数年間の成績の、いかに大かつ価値あるものだったかが、はっきりと判る時が来たのだ。私たちが先生の跡を偲びつつ、天文学界の発達に貢献する時、そこに先生の永久的安息所が見出されなければならぬと信ずるのである。
(写真は山本一清氏から伊達英太郎氏へのクリスマス・新年の挨拶ハガキ、1枚目は西暦が1933年となっていますが、1932年の誤りだと思われます。伊達英太郎氏天文蒐集帖より)
参考文献:参考文献:天界140号,東亜天文協会・天文同好会,1932.12月