消えた青空 2 (文
2月14日はとても寒い冬の日だった。
いつものように朝から家事を済ませ、最後に獠の朝食兼昼食にラップをかけると、よし。と小さく呟きながら、腰で結んだエプロンの紐を後ろ手でシュルッと紐解いた。
ひと声かけようかどうか一瞬思案してみたが、特別用事もないことだろうと顔を合わせずに出掛けることにした。
特別必要ではないから。
家族なんてそんなものなんだろうと思う。
そういえば前に獠が言っていた気がする。
プライベートまで干渉するなと。
「ほんと、そうだよね・・」
どうして気付かなかったんだろう。
こんな簡単なことに。
「これだから恋愛初心者は。って言われちゃうんだろうなあ・・」
おまえはおまえ。おれはおれ。
何故あの時わからなかったんだろう。
それはある意味、家族の健全な形なんだと思う。
部屋に戻り簡単に身支度を整えながら、薄くファンデーションをのせた頬を軽く手の甲で馴染ませながら、左手でポーチの中を探り先端が丸いフォルムのルージュを取り出した。
散々悩んで、自分には似合わないかもと躊躇いながらも少しは違う目でみてもらえるかもと淡い期待で買った品だった。
そんな理由は今は何故か色褪せているように、その頃の気持ちが薄い記憶の一欠片に過ぎなくなっている。
控えめなピンク色を薄く唇に引いた。
淡い桜色。
ほんの少しだけ新しい自分になれた気がした。
「バレンタインかあ・・どうして今日なんだろう?」
ふと浮かんだ疑問に首を傾げながら、役目を終えたパジャマを洗濯機にかけようと、部屋のドアを片手でカチャリと締めながら、パタパタと廊下を進んでいく。
残っていた衣類と一緒にタイマーをかけてボタンをピピと押してくるりと廊下の方へ体を反転させると、思わぬ障害物に
「うわっ!?」
と驚きの声を上げた。
「色気ねえ声。」
「獠!?」
ふあああと欠伸をしながら、寝起きの不機嫌そうな顔の獠が入り口を塞ぐように立っている。
「べっつにあんた相手に色気なんて必要ないし。気配消して近づかないでって何度も言ってるのに。もう!そこどいてよ、急いでるんだから。」
「へーへー、でもさ、なんでそんなに急いでんの?香チャン?・・・なあ、この色おまえには少し可愛すぎねーか?」
真冬だというのに無駄に体温が高い男の親指が、そっと香の下唇をなぞる。
不意打ちの出来事に、香の丸い瞳がまるくまるく広がっていく。
「・・どこ行くんだよ?」
もう一度親指で優しく撫ぜられる。まるで壊れ物を扱うように指先から伝わる温度は淡い温もりがした。
「獠?・・伝言板だけど?どうしたの?」
「・・まだ早いんじゃねえの?それともおれに言えない何かなのかなあ?なあ、香?」
茶化すように言葉を投げかけてくる目の前の男をじっと見つめる。
例えば。
以前ならば、こんな距離感に心臓が煩く跳ね上がり、平常心では居られなかっただろう。
茶化す瞳の奥にある深い青の色に影がさしている気がした。
どうしてだかはわからないけれど、気がつけば獠の頰を両手で包み込んでいた。
知らず言葉が口から紡がれていく。
「あのね、獠。家族だってそうじゃなくたって言えないことだってあるし、言わなくていいこともあるんだよ。それにね、妹の唇に触るなんていくら家族だからってしないんだからね。びっくしたじゃない。」
「は??」
「だから。ん?」
なにが?とばかりに獠の顔を斜め下から香がのぞき込む。
呆気に取られたように立ち尽くす獠に更に首を傾げて、りょー?と問いかけてみた。
時々獠は、思いもかけない表情を見せるから、香は少なからず心が揺れ動いていた。
右に左に。甘かったり切なかったり。
どうしてなくなってしまったんだろう。
思考が深くなりそうになるとまた頭がぼんやりとしてきた。霧のようにもやがかかりはっきりと獠の顔が見えなくなる。
「おまえ・・・何言ってんだ?」
「え?・・なにが?」
獠の表情がよくわからない。けれども声色からなにか獠の琴線に触れてしまったんだと理解した。
「妹?おまえが?おれはアニキ?」
怒ってる。
そう感じた。気持ちがどんどん焦ってくる。
心拍数が自然上がり、嫌な汗が背中を伝う。
頭の中は訳がわからない目の前の出来事でいっぱいだった。
こんなんじゃいざという時に役に立てない。
どうしよう。と焦りだけが募っていく。
「おれはーー槇村のーーごめんだ。」
断片的にしか聞こえてこない言葉に、どう返せばいいのだろう。
それでも悟られたくないから、
「そうでしょ?私に妹みたいになって欲しいって言ったのは獠じゃない。獠はアニキとは違うけど、あたしが妹なら獠は兄でしょ?アニキはアニキ。獠は獠だよ。」
そう精一杯の平静を装う。
言いながら検討外れの答えになっていないかと、握り締めた左手にじんわり汗が滲んでいく。
これ以上ここにいるともう隠せない。と話を遮るように、
「あたし行かなくちゃ。伝言板見にいくのも本当だけど、それだけじゃないのもそうだけど、ただ人と会うだけだから危ないことはないし大丈夫だよ。」
そう伝えて玄関の方へと歩き出そうとした。
不意に右半身が後ろへ引っ張られる感覚に思わず眉を潜める。
右手首を強く握られていることに気づいた。
「な・・!!?」
何も映さない。
何も感じない。
ただ痛みだけは強く走る。
「ーーーおれのーーー好きにしたらーーー
ーー」
必死に聞き取ろうとするけれど、やっぱり途切れ途切れにしか聞こえない。
食い込んでくる握られた手の感触にキリキリと追い詰められていく。
獠が何に苛立っているのかわからない。
せめて家族でいたいと願うことも、獠にとっては重荷なのだろうか。
消えていた感情に悲しみの灯が灯る。
そう思った瞬間、また何かが弾けて視界がどんどんぼやけてきた。
ありったけの力で、握られた右手を振り解く。
獠の瞳が細く歪み、斜め下に視線を移した表情は上手く瞳に映らない。
好きにしたらーーの続きが怖くて聞けなくて、強がりを込めてスルリと思わぬ言葉が口から飛び出た。
「好きにするよ。そうすれば獠は楽になれるの?家族にさえなれないなら・・・」
この先は言えなくて、言いたくなくて背を向け玄関に置いてあったショルダーバッグを掴み、転がるように飛び出した。
失くしたものは確かにあるのに
もうそれが何かわからない。
どうして悲しくなったんだろう。
どうして怖くなったんだろう。
「渡しそびれちゃったな・・・」
ハンドバッグの中には出掛ける前に、リビングにそっと置いて行こうと思っていた小さな箱が行き先をなくしたままでいる。
あげないという選択肢がやっぱりどうしても躊躇われて、パートナーとして渡すつもりだった。
軽い気持ちで渡せばよかったのに
「はああ・・・いったいあたしどうしちゃったんだろう・・・」
視力に問題があるとすればそれはこんな仕事では命取りになる。聴覚さえも。なら余計にだ。
悟られただろうか。
いつだって獠は気付かないようなことまで、気付いてしまう。
足が震えた。
唯一の立ち位置であるパートナーの場所さえも失ったならあたしは・・
せめて必要なことはきちんとこなさなければと、伝言板の確認を終えると頭がゆっくりと冷やされていく。
待ち合わせは11時。
あと10分ほどは時間の余裕があった。
呼吸を整え、両手を軽く握りしめ口元に当てる。
あの日、花園神社を通り過ぎ、受けた電話の先の弾んだ声は懐かしい旧友の声だった。
「槇村?」
「うん。」
「あー、よかった!番号聞いたものの、おれちょっとテンパってたからさ、間違えて覚えてたのかと思った。」
「肝心なとこ、抜けてたもんね、いつも。」
「あー、おまえが言うか〜?それ?」
思わずくすくす笑いが漏れる。
あったかい。こんな気持ち久しぶりだった。
さっきの女の人の顔ももう思い出せないけど、獠の隣に並んでも遜色ないとても綺麗な人だったな。と頭がぼんやりしてくる。
「・・・槇村?おーい、どうした?」
「え?あ・・ごめん。ぼんやりしてた。」
見えない相手に携帯越しに頭を下げながら勢い余り、フォルムの先にごちん。と額を打ちつけ携帯の向こうから、何やってんだよ?と少し慌てた声が聞こえてきた。
「携帯で額を少し打っただけだから大丈夫。」
「・・相変わらず色々素直なやつだな〜。」
「それ・・褒めてんの?」
「変わらないなって思っただけだよ。安心したよ。おまえさ、ほんと綺麗になってたから声かけていいか迷ったし。実際。」
「何言ってんのよ、あたしはあたしだもん。
綺麗なんてそんなことないよ。でも嬉しい。
お世辞でもありがとう。」
「・・・おまえ信じてないな?」
「だって、そうだし。」
「おれ・・ちょっと運命感じたんだけど。あの再会に。」
運命。の言葉のフレーズがあの日の獠の言葉に重なる。
運命ってなにか知りたいと思った。
だからそんな気持ちが香の背中を押した気がする。
「運命・・ってなにかな・・」
「槇村?」
「あ・・ううん、なんでもない。柿崎、ちょうどよかった。傘返さなきゃ。また、会える?」
「アレはほんとにいいのに。でも槇村にはまた会いたいからさ。嬉しいよ。」
「・・なんかキャラ変わってない?ほんっとに何にも出ないんだからね!」
言われ慣れない言葉がくすぐったくて、ついいつもの口調になる。
あははと電話越しに笑う男の声が、香の気持ちをすっかりと上書きしていき会話自体を楽しむ気持ちに自然笑みが漏れていく。
見上げた先の夕焼けはキラキラ輝いている。
フィルターがかかったような視界の悪さもすっかり消えている。
さっきの色と今見えている色はどうしてこんなにも違うんだろう
「じゃあさ、槇村、14日空いてないか?」
「14日?バレンタインの日?」
「そう。やっぱ・・無理かな?ちょうど昼から半休で休みでさ。昼メシでもどう・・かな?」
「大丈夫・・だけど?いいの?だってバレンタインじゃない。予定あるんじゃない?」
少しの間の後、はああ・・というため息が聞こえてきた。
「・・槇村、おまえってそういえばそういう奴だったよな。忘れてた。予定ありなら誘ったりしないんだけど。ほーんとおまえってば昔っから、そーいうとこ。」
「どーいうとこよ!」
ぷうと見えない相手に剥れてみせる。
たまらず笑い声を上げる男の声に、なんなのよ!と小さく呟いた。
「わりぃ。つい・・な。やっぱ楽しいな。槇村と話してるの。じゃあ14日。いいか?」
「いいわよ!!」
鼻息荒く香が答える。
ムキになんなよ。と笑う声がやっぱりとても懐かしいなとふと見上げればもうそこの角を曲がればアパートが見える場所まで来ていた事に、慌ててくるりと来た道を急ぎながら、
「ごめん!また詳しい時間とか教えて!特売始まっちゃう!じゃあ、また!!」
早口でそう伝える。
「あ?おい!槇村ーー」
まだ間に合うかな?と駆け足でいつものスーパーを目指しながら、香の頭の中はすでに今日のメニューで埋め尽くされていた。
電話の相手の柿崎拓実に会ったのは本当に偶然だった。
普段はあまり足を伸ばさない西新宿の外れで用事を済ませて帰路についていた香は、都庁近くまで来たところで突然の雷雨に見舞われた。
節約のため徒歩で来ていたため、生憎と傘の一本も持ち合わせておらず、激しくなる雨に打たれながら駆け抜けるように新宿西口の駅前にまで辿り着いた。
ずぶ濡れの体を少しだけ休めるためにすぐ側の軒下に滑り込み、前髪から伝う滴をふるりと被りを振るい振り落とす。
雨足は一向に治る気配がなく、体に纏わり付く衣類の不快感さに一刻も早く開放されたくて、しばしの思案の後、雨が強く打ち付けるアスファルトに足を踏み出そうとした。
「よかったら、どうぞ。」
差し出された傘が香の体をすっぽりと包み込むむ。
「へ?・・・」
黒い大きな傘の向こう側から明るい声が続く。
「おれはもう、すぐそこの建物までだから、使って下さい。」
香からは差し出された手の先の人物が傘に隠れてよく見えず、
「あの・・大丈夫ですから。」
と顔を傾けてそっと上方向を見上げれば、スーツ姿の短髪の男性が少し驚いた表情で香を見つめていた。
「いや・・その・・おれほんとにそこだから。返さなくていいから、だから、その・・あれ?も、もしかして槇村か??」
名前を呼ばれたことに驚く。
警戒心が一気に高まるが、記憶の中にあった懐かしい顔が目の前の男の顔に一致し、
「え?・・かき・・ざき?柿崎??えーーー!!?」
雨に打たれていたことなど忘れたように、弾んだ声を上げていた。
「えーってなんだよ。こっちがえーなんだけど。」
「ごめん。あんまりびっくしたからつい。柿崎?ほんとに柿崎だよね?久しぶり!高校の卒業以来じゃない?」
懐かしい記憶が一気に蘇る。
あの頃の思い出は大切な宝物のような特別な時間だった。
「だな。まさかこんなとこで槇村に会えるなんてな。新宿辺りにいるらしいとは噂で聞いてたんだ。」
「そうなの?」
「ああ。」
「いたよ。ずっと。」
「そっか。おれは去年まで別の県に配置されてたんだけど、今はそこの本社の人事課にいてさ。出先からの帰りに槇村に遭遇したってワケ。」
人懐っこそうな笑顔はあの頃と変わらない。
学生服姿の姿と不思議に重なり、変わらないことに何故だか安堵感を覚え、香の口から思わず笑いが漏れた。
「懐かしい。」
「おれも。」
「元気そう。」
「おまえもな。」
テンポの良い会話がなんだか気持ちが昂揚して、自然、笑顔が溢れる。
そういえばここ最近こんなふうに笑ったことなどなかった気がする。
楽しい。素直な気持ちでそう思った。
「お!こんな時間か。おれもういかなきゃ。
槇村、いいからこの傘持ってけ。気い使う仲じゃないだろ?」
ニヤリと柿崎が笑いながら、くいと再度傘を差し出した。
「でも・・・」
「いーから!遠慮するなんてらしくないんだよ。それよりさ・・あのさ、おまえがよかったらだけど、そのさ・・」
「なによ。そっちこそらしくないんですけど。なに?どうしたの?」
う〜ん?と腕組みしながら顔を柿崎に寄せて、なに?と確認するようにもう一度問いかける。
何故だか柿崎の体が一瞬固まったように静止し、ゴクリと唾を飲み込む音がした。
「柿崎?なんて顔してんの?ヘンだよ。」
「ヘンて槇村、おまえなあ・・相変わらずストレートなやつ・・まあいいや。あのさ、よかったら電話番号教えてくれないか?こんなとこで再会できたのも何かの縁だし。・・ダメ・・かな?」
なんてことないお願いだ。久しぶりに会えた旧友が盛り上がり、電話番号を交わすなんてよくある話だと思った。
高校時代の思い出を共有している相手というのは、いつでもあの頃に想いを馳せていけるという共通点が特別な気さえする。
「うん・・いいんだけどね・・」
「ごめん。嫌だったか?・・そうだよな。いくら何でも急だよな。」
「そうじゃなくて!!」
柿崎の申し訳なさそうな仕草に、両手をぶんぶんと振りながら香が声を上げた。
「こっちこそごめん。こういうの慣れてなくて、何て答えていいかわからなかったの。」
半分はほんとだけど半分のウソを混ぜて言葉を繋ぐ。
柿崎の言葉に脳裏をかすめたのは、恋人でもなければ、家族でもないのかもしれないただの同居人の男の顔だった。
パートナーではあるんだと思う。
でもきっとそれだけなんだろう。
気にする必要なんてないんだと思う。
獠がそうするように、あたしのプライベートはあたしのものなんだから。
柿崎の顔が、表情がはっきりとわかる事にもひどく安心できていた。
どうして獠や周りがぼやけて見えているのかわからなかったから。
「槇村、声かけまくられてるかと思ってた。」
「何言ってんの?そんなにおだてても何にも出ないよ?」
「まあ、いっか。」
「いいんだ?ほんと昔からそんなんだよね、変わんない。」
居心地の良さに、香の声が明るく揺れる。
「じゃあさ、また連絡していいか?」
「いいもなにもあたしでよければ。」
手早く番号を交わし、もう濡れるなよ!と一方的に香の両手に渡された傘はなんだかとても大切なものの気がしてそっと握りしめれば、心がふわりと温かくなった。
それが一週間前の出来事だった。
それから二日後に時間と場所を伝える電話があった。
そして今日。
出かける前に獠とあんなやり取りになってアパートを飛び出す形になった事に、心は重たいままでいた。
そういえば愛する者って言われた事も、妹のようにって言われた事もあれはきっと獠の気まぐれだったんだと思えた。
二人でシティーハンターと言ってくれたことももしかしたら全部、意味を持つものではなかったのかもしれない。
本当なんてどこにあったんだろう。
ふわふわとまたあの感覚がやってきた。
曖昧になっていく全部に重くなっていた心がふわりと浮き上がる。
背後から肩をポンと叩かれて、反射的に振り返ると、よ!と片手を上げて笑う柿崎がいた。
視界は少しもぼやけてはいない。
あれは一時的なものだったのだろうか。
バレンタインの今日の街並みは色とりどりに飾り付けが施され、新宿駅の真横に広がる並木道に繋がる店の中には、赤やピンクの幸せ色のハートの形のバルーンがいくつも飾られている。
「待った?」
「ううん。今きたとこ。」
ゆるりと笑い、香がはい。と差し出した。
「これ。この前借りた傘。ありがとう。すごく助かったけど、柿崎は濡れちゃったよね。ごめんね。」
「大丈夫だって言ったろ?こっちこそ気を使わせたな。」
傘を受け取り小脇に抱えると、柿崎が問いかけてきた。
「槇村、おまえさっき歌舞伎町の奥の辺りにいなかったか?おれ、ここに来る少し前に通ったんだけど、槇村が随分年配の人に何かを渡してるのを見かけたからさ。」
待ち合わせに来る前に伝言板を確認した後に、いつも獠がお世話になっている情報屋やお店に回りチョコを渡してきた。
柿崎が言っているのはその中の一場面だろう。
「あ、うん。いつもね仕事でお世話になってる人にチョコを渡してたの。バレンタインだから。日頃のお礼を込めて・・ね。」
まさか情報屋などとは言えないから、当たり障りのない言葉で返答する。
「そっか。そうだよな。今日バレンタインだもんな。けど、槇村どんな仕事してんの?」
ど直球でやってきた。
突然の問い掛けに、あ、えと・・と右へ左へ視線は不自然にさまよいながらも、
「た、探偵みたいな?街の何でも屋さんみたいなそ、そんな仕事!」
この手の質問は度々あるため、マニュアルのようにいつも通りの返答をする。
「槇村が?一人で?」
「あ、あの、えと、相棒とね。パートナーがいるの。以前はアニキがパートナー組んでたんだけど、アニキが亡くなってからあたしが引継ぎだの。」
柿崎の顔に動揺が浮かび、すまなそうに頭を垂れた。
「ごめんな、知らなかった。お兄さん亡くなってたんだな。余計なこと聞いてごめんな。」
「ううん。もう六年も前のことだもの。気にしないで。」
「槇村、六年も今の仕事を?」
「うん。」
人から見れば六年は長く感じるのかもしれない。香にとってのこの六年は、今思い返せば光のように過ぎ去った時間だった。
「そっか。信頼関係があるんだな。そのパートナーの人と。」
「信頼?・・どうかな。あたしまだまだ半人前で足手纏いなとこばっかりだから、信頼してもらえてるかわかんないや。」
えへへとバツが悪そうに香が笑う。
「・・槇村は信頼してるんだろ?その人のこと。」
「え?」
「わかるよ。槇村の今の表情見てたら・・な。」
「そうかな・・」
片方だけの信頼関係なら、一体それは信頼関係を成しているのだろうか。
獠がどう思っているかなんて今はもうわからないし、そもそもきっと最初からなにもわかってなんかいなかった。
パートナーという立ち位置が、獠に近付きたい他の女の人達よりも近くに居ただけで、心の距離感はなにも変わらないのかもしれない気がした。
もう顔も声も思い出せないあのヒトが言っていた気がする。
大切にしてくれたんだと。
心だけじゃないって。
心の距離は何度か近づいたあたしよりも、心だけじゃないヒトの方がより大切だったとしたら。
獠にはきっとたくさんの大切や運命やそんなものがあって、あたしはそうはなれないから。
ひとつだけでいいのに。
華やいだ街を歩く数えきれない人達の中のどこかに、この空の下のどこかに。
あたしのたった一つの本当はあるのかな。
「槇村・・なんて顔してんだよ。」
「あたし?え?」
柿崎の瞳がすっと細められて、困ったように笑う。
「・・行こうか。」
「うん・・・」
なんだかちゃんと顔が見れなくて、伏せ目がちに歩き出した。
「まーきーむーらー。なんだかわからないけど一人で抱え込むの、変わんないな。
なあ、腹へってない?店、予約してんだけど。」
「・・・ペコペコ。」
さらりと救い上げてくれる優しさが、時の流れを秒速で巻き戻していく。
連れてきた懐かしさでつん。と瞳の奥が温められ、ごめん。と小さく呟くと、ほーら、行くぞ。と、またさらりと優しさに包まれた。
並んで歩く先に見える景色は、青い空がやけに鮮やかに広がっている。
「ね、この前のお礼。あたしに奢らせて。」
「ばーか。そんなつもりでしたんじゃないから。それにさ、今日はおれに奢らせてくれよ。今日・・さ、バレンタインだろ?だから、な。」
「だから、あたしがーー」
「まーきーむーら!!あのな、外国では・・・いい。とにかく行こう。」
香の言葉を遮るように名を呼ぶと、そっと背中を押して、先を促される。
「外国?ここ日本だけど?」
「槇村・・・とにかく今日はおれの奢り!決まりなの。さあ行くぞ〜。」
「でも!」
「ほら、ぐーぐー鳴ってんじゃん。槇村の腹の虫。」
「はあ!??鳴ってないわよ。あ、でもお腹は空いたかな?」
二人顔を見合わせて笑う。
弾む心と足取りが比例していく。
煌めきを増す街並みに楽しげな二つの影が溶け込んでいった。
変わらない日常は変わらないまま過ぎていく。
2月14日のあの日は顔を合わすことが無かったから、用意していたチョコレートは結局渡せないまま
だった。
六年の月日は二人の間の距離感を形作り、曖昧さは日々色濃くなっていく。
いつも通りの朝に、リビングのカーテンを全開にして、空気の循環を行う。
まだ肌寒さが残る季節の名残は、心地よい刺激となり軽く深呼吸をすると、パチンと頬を軽く叩いて、よし!と家事を再開する。
床半分の掃除機をかけ終わり、付けっ放しになっていたテレビに気づき、リモコンに手を伸ばすと、ブラウン管の中から今人気急上昇中だという、艶やかな黒髪が魅力的な女性アナウンサーの爽やかな声が飛び込んできた。
「以上。こちらお台場からお伝えしました。今日はホワイトデーですね。一般的には男性側から女性へのお返しを渡す日になっていますが、外国ではバレンタインは男性側から女性への想いを伝える日でもあるので、今日はバレンタインに勇気を出せなかった女性の皆さん!このイベントに乗ってみるのもいいかもしれないですね。」
ピカピカの笑顔がなんだか眩しい。
いいかもしれない。なんてそうは簡単にいかないんだぞ。と苦笑しながらふと先日のことを思い出す。
「そうなんだ。だから、あの時アイツ・・・」
「アイツって?」
独り言に反応があったことに驚き、声の方に顔を向けるとリビングの扉に背を預け腕組みをして、こちらを静かに見つめる獠の瞳と視線がぶつかる。
「あ・・おはよう。ご飯用意できてるけど?」
ここ一ヶ月ほどは朝の支度や家事を早めにこなし、伝言板に向かう時間を獠が起きてくる時間より前に出かけていたため、随分久しぶりになる朝の遭遇に、軽い動揺が走る。
「・・はよ。おまえさあ、おれ質問してんだけど。」
「・・・・・」
なにを言えばいいのだろう。何故そんなことを獠が気にするのかわからなかった。
いつも通り、挨拶を交わし、眠そうな顔でキッチンに向かってくれれば、香だって通常運転に舵を切れたのに、はあと思わず軽いため息が漏れる。
「なんだよ。おれとは話すのも嫌だってか?
朝からため息なんてヒドイよな。・・おまえさ、おれのことなんで避けてんだ?」
「避けてなんか・・・ない。」
そうだろうか。そうだ。あたしは避けていた。
獠と言葉を交わすのを。顔を合わすことを。
朝の時間だけでなく、この一ヶ月、まともに話すらしない生活だったことに気づく。
獠が起きてくる時間に出かけ、ナンパなどで昼間出かけている時に帰宅して昼食と夕食を作り、帰宅する時間には自室に篭り、食事を一緒に取ることすらなくなっていたのだ。
「あれが避けてなくてなんだってんだよ?何怒ってんだよ?」
いつの間にか近づいていた獠が、なあ?と香の顔を覗き込む。黒い瞳と茶色い瞳がお互いを映し出している。
「怒ってる?あたしが?」
意外な言葉に香の瞳が揺れ、瞳の中の獠の表情も揺れていく。
「・・怒ってんじゃないならなんだよ。」
「なんで?どうしてそんなこと気にするの?
あたしと獠はパートナーでしょ?仕事の時以外はお互い自由だし、何してても関係ないし、干渉するなって獠も前に言ってたじゃない。だってあたし達家族でもないんでしょ?
だったら余計にだよ。」
頭がキリキリ締め付けられていく。またぼんやりと目の前がぼやけていき、わからなくなることへの不安から逃げるように視線を下に下げた。きっとまた獠の顔がわからなくなっているはずだから。
怖い。
ただその感情しかなかった。
怖いのは自分自身に。
積み上げてきた日常が壊れてしまうような、自分自身の変化に。
香。と名を呼ばれた。
怖くて顔が上げられないでいると、獠の親指で唐突に顎をすくいあげられて、漆黒の瞳に射抜かれる。
「香、ちゃんとおれを見ろ。」
「ちゃんと・・?」
真っ白い絵の具のように頭の中に白が弾ける。
「見てる!!あたし・・は・・」
やっぱり獠は気付いていたんだと思った。
こんな歪なあたしに。
白に朱や黒が混じり塗り潰されていき、目の前の色が、ぜんぶがわからなくなってくる。
「ーーー」
なに?紡がれた言葉は届かない。
思わず目を逸らすと、再度親指で持ち上げられた。今度はひどく乱暴に。
「ーーー」
わからないから、わからないまま首を横に振る。
獠は怒っているんだろうか。
それても呆れているのかな。
赤いシャツを両手でギュッと握りながら、
「あたしはパートナーでいる資格もないの・・かな?」
きっとひどく情けない顔をしてるはずだから、見られたくなくて頭を垂れると、獠の胸に触れた。
「ーーおまえーー何言ってーー」
少し届いた獠の声に握っていた両手がわずかに震える。
「あのヒトみたいにはなれないけど。
あたしは獠のパートナーではいたかったから。だけど・・・」
「ーーーー」
「近づいたと思ったのはあたしだけだったんだよね。でも・・あのヒトは言ってたから。
全部大切にしてくれたって。
あたしはそうなれなかっただけ。」
こんなこと言っちゃいけないってわかってる。
手放した感情は多分獠への恋心。
失くさないときっとあたしはあたしでいられなかった。
もう限界だったんだ。なにもかもが。
塗り潰された世界に色が正確に戻ってくる。
強く抱きしめられていることに気づき、ゆっくりと顔を上げると、
「バカヤロウ・・・」
とひどく切ない声が肩から首筋に降りてきて、獠が顔を埋めてきた。
くすぐったい。
あったかい。
そんな気持ちが胸に灯り、気づけばあたしは泣いていた。
プル。プルとリビングのサイドテーブルに無造作に置かれている無機質な塊が、揺れている。
何度も何度も。
出なくちゃ。と駆け寄ろうとした瞬間
息もできなくなる程に強く強く抱きしめられた。
呼び出しの揺れる音は切れることなく、ガラスの上に鳴り続いている。
意識をそちらに向けようと顔を上げると、唇に温かいものが触れた。
重なったのは獠の唇だった。
甘くて柔らかくてひどく胸が苦しい。
キスをされたんだと理解したが、性急過ぎるほどに浅く深く何度も何度も重なる唇に、思考が溶けていきそうになっていく。
運命感じちゃうなあ
運命感じてくれるなんて嬉しいわ
優しかったのよ、とても
私を大切にしてくれた
身も心もね
溶けていきそうになりながら、頭の中にいくつもの言葉が蘇り木霊する。
頭から爪先までが一気に現実へと覚めていく。
優しいけれど残酷なその唇で、これ以上勘違いさせられるのが怖くて、力任せに獠の胸を押し返して逃れようとするがそれを許してはくれない。
深く深くなる重なりに、瞳からは止まることなく涙が溢れ出してきた。
たくさんのものの中の一つに過ぎない存在になるのが怖かった。
失くしてもまた溢れ出すのなら、どうしたってあたしは。
いやだ。いやだ。と子供のように首を振る。
恋人でもなくてアニキでもなくて家族でもないなら、唯一のパートナーの立ち位置までも、攫われた唇と共に、曖昧な位置だと言われている気がする。
通り過ぎていく沢山のヒトの中の一つなんだと刻み付けられている気がする。
いやだ。
そんなのは嫌だから。
「嫌だっ!!」
ありったけに振り絞った声は掠れて、あまり響かなかったけど、獠の拘束が少しだけ緩まり、唇がゆっくりと離れていく。
黒い瞳が静かに問いかけた。
「嫌・・か?」
「嫌だよ。こんなのは嫌。獠にとって全部一緒でもあたしはそんなのは嫌だ。」
こんなのはきっと我儘だ。だってあたし達は
そんなことを望んだり、叱ったりする関係なんかじゃないから。
それでも止まらない。
戻ってきた感情は堰を切ったように止まらない。
「おまえのことがわかんねーよ・・」
ぽつりと呟くその声はやけに力無く聴こえてくる。
「あたしだってあんたのことがわかんないよ。最初から今までずっと。」
吐き出すように言って、目を閉じる。
「一緒なわけ・・ないだろうが。確かにおれはーー」
やっぱり怖いと思った。
先を聞くのが。
だからあたしは瞳だけでなく耳も塞ぐ。
視覚と聴覚を閉じ込めたのに、ヒリつくような空気に息を呑むと、腕を掴まれもう片方の腕も自由を奪われた。
「香!聞けよ。」
どうして?
「聞いてる。」
「聞いてねーだろうが!何言われたか知らねえけど、過去は変えられないけどな、それでも・・」
獠は滅多に声を荒げたりしない。
だから怒鳴られて体がすくんだ。
「・・すまん。怖がらせたか?」
あたしの怯えを悟った獠の掌が躊躇いがちに、頬を撫でる。
「おれは・・おまえと生きていきたい。」
涙が溢れた。
嬉しいという感情も
あたたかくなっていくような安堵感も
どこにもなくて
言われた言葉に、泣きながら首を振る。
嗚咽は止まらず、無理だよ。と言いながら崩れそうになる体を抱きとめられた。
あたしの頭を抱き寄せた獠の指先から優しさは確かに伝わるのに。
あたしは信じるということを手放した。
こんなことの繰り返しばかりに、信じられる心を今度は無くしてしまったのかもしれない。
「無理・・か?」
抱き寄せられた頭が、小さく縦に揺れる。
「・・そうか。」
降りてきた声はなんだかとても切なく聴こえて、腕の中でりょう?呟くと、耳元に頬を寄せられて首筋に獠の唇が触れ、確かめるように更に顔を埋めてくるから、りょお?と掠れるような声が漏れた。
「では、皆さん、よいホワイトデーになりますように。こちらお台場からお伝えしました。」
テレビからは溌剌と明るい声が漏れ聞こえてきている。
バイブ音はもう鳴り響いてはいなかった。
ぽん。と、頭が軽く跳ね、獠の掌が離れていく。
掌を追うように無意識に顔を上げると、獠の瞳がそこに在って一瞬絡まった視線が不意に暗くなり、唇を攫われた。
泣きたくなるくらい優しい重なりに、ただ身を任せ、そしてゆっくりと名残惜しげに離れた。
ラスト、お誕生日で終わります🙏
なんだか長くなりましたが、読んでいただいてありがとうございます(*´∇`*)
冴羽さんのお誕生日はあまりにも忙しくて何もできないままでしたが、
香ちゃんのお誕生日に一緒にお祝いできたらいいなと思います(*´∇`*)できるかな(*´-`)
2020.3.30