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「宇田川源流」 訃報 笑いの巨匠志村けん新型コロナウイルスの前で力尽く

2020.03.30 22:00

「宇田川源流」 訃報 笑いの巨匠志村けん新型コロナウイルスの前で力尽く

 志村けんさんが亡くなった。

まずは謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

実際に志村けんさんとは、一度麻布十番で飲みの席にご一緒したことがある。いや、正確に言えば、ご一緒したのではなく、我々が別な会合をしている隣の個室にいたという状況であった。こちらも芸能関係の人が多かったので、みんなであいさつに行った。その時に「一杯ずつ飲んで行けよ」気軽に言われ、全く芸能でも何でもない私もご相伴にあずかったことがある。個室で、グラビアアイドル(当時有名であった)の方と二人で一緒であったが、普段の志村けんさんのイメージとは異なり、かなり深刻な話をしていたようで、かなりしんみりとした感じである。口が悪い我々は「やっちゃった後の別れ話かな」などと悪いことを言っていたが、そのようなことが聞こえていても嫌な顔ひとつしない人であった。

深刻な話をしている状況で、全く関係ない人が入ってくるのは本来は嫌なものである。しかし、そこに我々が行っても「おお、飲んで行けよ」といって、表情を急に変えて、そのまま明るく迎え入れ「ちょっと話してるから今度飲もうよ」といって一杯飲ませて返すというのはなかなかできるものではない。ある意味で、その辺の人との対応の良さが、志村けんさんの魅力ではなかったであろうか。

まあ、すでに5年くらい前の話である。一緒にいた芸能関係の皆さんからすれば「かなり厳しい人」というようなイメージであった。私からすれば「笑い」に関しては厳しい人が少なくない。ある意味で「いいかげん」で笑いをとれるということはない。笑いをとるために命懸けという人は少なくないのである。志村さんの場合、「命がけで笑いを取りに行くがそれはテレビのためではなく前にいる人のためであった」という気がする。笑いをとる側と笑う側、「笑い」ということが基軸であるだけに「厳しい」とか「怖い」という言葉とは無縁に感じる。それができる人ではなかったか。


志村けんさんが死去、新型コロナ感染で肺炎

 肺炎のため東京都内の病院に入院していた人気コメディアン、志村けん(しむら・けん、本名・康徳=やすのり)さんが亡くなっていたことが30日、わかった。70歳。

 事務所によると、志村さんは今月17日に倦怠感の症状があり、自宅静養を開始。20日に東京都内の病院に搬送され、重度の肺炎との診察を受けて入院した。23日に新型コロナの検査で陽性が判明していた。

 今年は3月末放送開始の「エール」でNHKの朝の連続テレビ小説への初出演、初主演映画「キネマの神様」(山田洋次監督)の撮影が予定されていたが、映画の出演は辞退を発表していた。

 志村さんは昭和の伝説的音楽・コントグループ「ザ・ドリフターズ」のメンバーとして活躍。自身のエッセー「変なおじさん」によると、柔道の有段者で厳格な教師だった父が、喜劇中継を見て笑っていたことに衝撃を受け、お笑いの仕事に憧れを持つようになったという。高校卒業直前にドリフターズの付き人として、故いかりや長介さんに弟子入り。昭和49年、ドリフを脱退した故荒井注さんに代わって正式メンバーとなり、ギターを担当した。

 現在の東京都東村山市の生まれ。グループ加入後2年ほどはこれといったギャグに恵まれない時期もあったが、TBS系のコント番組「8時だョ!全員集合」の「少年少女合唱隊」コーナーで東村山音頭を披露したことが転機となり、一躍人気者に。童謡「七つの子」の替え唄「カラスの勝手でしょ」、加藤茶(77)とのヒゲダンスなどで番組の人気を支えた。

 同番組終了後はフジテレビ系「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」などで変なおじさん、だっふんだ、アイーンなど幅広い世代に親しまれるギャグを生んだ。

 多くのレギュラー番組を抱える一方、平成18年からは、バカ殿様が城の者たちとさまざまなコントを繰り広げる舞台「志村魂」を旗揚げ。ライフワークとして毎年公演を続け、コントを考える作家、演出家、演者として独自の笑いを極めた。

2020.3.30 産経新聞

https://www.sankei.com/life/news/200330/lif2003300017-n1.html


 志村さんは、親しくつきあったえいた人々に聞けば、かなり新しいものが好きであった。何も新型コロナウイルスでなくならなくてもと、不謹慎ながら思ってしまう。

私が小学校時代の志村けんさんの人気はすごいものであった。あの当時は「東村山音頭」である。確かレコードも出て、志村さんが東村山市の名誉市民になるなどというニュースがあったはずだ。ちなみに、今でも歌える。当時「8時だよ全員集合」でアイドルが出て歌を歌う「少年少女合唱団」の中で、いかりや長介さんの制止を振り切って詠うのである。まあ面白かった。当時の小学生は誰でもできたはずだ。当時は、他に対抗するものは「しらけ鳥」と「電線マン音頭」くらいであろうか。子供の間ではこれらができなければ相手にしてもらえないような時代であった。

当時のこれらの内容は、今のギャグとは違い、一つのものが何年も続いて流行っていた。一瞬で消えてしまい、数年後には消えてしまうというようなものとは全く異なるものであった。それだけに、その一つの笑いが、大きな輪になっていた。現在のような感じではなかった。まあそれだけ情報が少ない時代でもあったのかもしれない。

志村けんさんのすごいのは、その後も「ひげダンス」「アー・ミーマー」など次々と出てきた。加藤茶さんの「ちょっとだけよ」などと一緒で「かとちゃんけんちゃん」などと並び称されるものであったのだ。

そのような時代もありまたその才能もあり、「志村けん」という一つのブランドができていたような気がする。逆にそれだけ笑いなどには厳しかったのではないか。いまならばそのように思う。

最近、誰でもがユーチューブなどで人前に出て話をしたり、講師になったりというようなことがあり、誰でもが簡単になんでもできる時代、志村けんさんのような「お客さんのことをしっかりと考え、笑いに関して自分に厳しく努力する」というようなことは、今の若者は学ばなければならないのではないか。

  改めてご冥福をお祈りします