ジョゼフィーヌという生き方6 カルム監獄
ジョゼフィーヌは、立憲国民議会議長となったアレクサンドルの別居中の妻として敬意を払われ話題の人となる。彼女はこの機会を大いに利用する。叔母のいるフォンテーヌブローの家を出てパリ市内に一人住まいを始める。自分を訪ねてくる人々と自由に交際し、結婚に結び付けたかったからだ。しかし、彼女に待ち受けていたのは過酷な運命だった。なんと、逮捕されカルム監獄に収容されてしまうのだ(1794年4月)。一体何が起こったのか?これには別居中のアレクサンドルが関係している。
実はアレクサンドルは陸軍大臣にも推挙されたにもかかわらず辞退。身の安全を考えてのことだ。彼には兄がいたが多くの貴族同様外国に亡命。もし大臣を引き受ければどんな中傷にさらされるかもしれないと危惧したのだ。そして彼が選んだのはライン方面軍最高司令官。これが大きな誤りだった。6万の兵を動かす立場に立ったわけだが、それまでアレクサンドルは戦場を経験したことなどない。結果として要衝の地マインツを失い、その責任を問われたアレクサンドルは、1794年3月逮捕された。この時代、反革命集団に対する警戒心が異常なまでの猜疑心を産むようになっていた。人々は貴族出身の将軍たちについて、「敵と内通し革命を潰すためにわざと負けているのではないか」という強い疑惑を抱いていた。アレクサンドルもその犠牲となり、革命に愛着心を持っていたにもかかわらず逮捕されてしまったのだ。彼はパリに連行されカルム監獄に収監される。
このことを知ったジョゼフィーヌはどうしたか?アレクサンドルの釈放運動に乗り出す。別居していたとはいえ、アレクサンドルは子供のことはよくかわいがり、子どもたちもなついていたので、いずれは一家4人で一緒に暮らしたいと考えていたのだろうか。ジョゼフィーヌは、この頃にはパリのサロンを通して、旧貴族からバリバリの革命家に至るまで幅広い人脈を築き上げていて、革命政府内の実力者の中にも何人かの知人がいた。ジョゼフィーヌは知り合いの革命家に片っ端から会って歩き、政府の関係諸機関に次々と陳情書を提出した。しかし、あちこちの政府機関に出入りするその奔走ぶりが裏目に出た(ジョゼフィーヌは反革命容疑で逮捕された将軍の妻、「軍の機密を探り出し、敵方に内通しようとしている」とでも思われたようだ)。こうして、1794年4月下旬、今度はジョゼフィーヌ自身が逮捕されてしまう。そして収容されたのは、なんとアレクサンドルと同じカルム監獄。皮肉にもジョゼフィーヌとアレクサンドルは、12年ぶりに一つ屋根の下に暮らすことになったのである。
二人は完全に和解。ただし、仲のいい友人として。アレクサンドルはジョゼフィーヌと同室のキュスチーヌ夫人と熱烈な恋愛をし、ジョゼフィーヌは夫のかつての部下オッシュ将軍に心を奪われた。男女の部屋は分けられていたが、庭などで会うことは簡単。いくつもの恋が芽生え、お互いの死をみつめながら大きく花開いていった。しかし、7月22日アレクサンドルは訊問のため呼び出される。理由は、軍事上の失策のためではなく、「牢獄内で陰謀を企てた」という、わけのわからないもの。死を目前にしてアレクサンドルは、尋問の間をぬってジョゼフィーヌにこんな手紙を書いた。
「私はまた、愛する祖国を離れるのを残念に思う。祖国のためなら千回でも喜んで命を捧げたことだろうが、もう祖国のために役立つことができないだけでなく、悪しき市民として祖国を離れなければならないとは、なんと残念なことだろう。このことを思うと心が引き裂かれ、わたしの評判を立て直してくれるよう、お前に頼まずにはいられない」
翌7月23日、アレクサンドルは他の44名とともに処刑された。夫の死によって、ジョゼフィーヌは自分の死も近づきつつあるのを悟る。そして自分の髪を切る。死刑囚は男も女も、ギロチンの刃の妨げにならないように髪を短く切ることになっていたからだ。しかし。死の恐怖の悪夢は突然中断される。7月27日、「テルミドールのクーデター」が起きたのだ。あと4日、役人に呼び出されるのが遅ければ、アレクサンドルは死なずにすんだ。そして、クーデターが起こるのがもう何日か遅ければ、ジョゼフィーヌも断頭台の露と消えていたかもしれない。
7月28日のロベスピエールの死刑執行 これをもって恐怖政治は終了した
マクシミリアン・ロベスピエール
1793年7月からは公安委員会に加わり、王党派や反革命派の策謀や外国の干渉という革命の危機から革命を防衛するためとして、厳しく反対派を粛清した