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うさねこまったり

病気と私 6

2020.03.31 16:51

 ----- 小学3年生の夏休み ----- (1975年7月~)

 父42歳/ 母40歳 /私9歳 

長期入院とはなったが、夏・春・冬の長期休みには外泊することが許されていた。 

最初の春休みに家に帰った記憶は全くない。2月に転校したのだからすぐに春休みになって家に帰ったはずなのだが・・・ 

 夏休みに家に帰ってきた私は、何もすることがなくただ家にいた。 (そもそも、少し動きすぎたり、何かにぶつかったりするとすぐに出血して具合悪くなるるため、年中大人しくしていろと言われていた。 面白そうなことをやるためには隠れてやるより仕方がなかったのだ)  

それを見かねたのか、何かのきまぐれか知らないが、ある日父は、私をバイクに乗せ町民プールに連れて行った。 もしかすると、自分も暑くて何もすることがなかったから、私をだしにして泳ぎたかったのかもしれない。町民プールは、ほぼ子供があそんでいるだけで大人はほどんどいなかったし、大人一人で泳いでいる人なんて居なかったのだ。  


この頃の私は、両肘関節と右膝関節に重篤な関節障害が出ており、右膝は”くの字”に曲がったまま伸びなくなっていた。 そのせいで、左足には異常な筋力が付いて、左足だけのけんけん(片足跳び)でどこまでも進んでいけた。 

ジャイアンツの王選手が一本足打法でホームランを打っていた時代だったので、自分ももしからしたあんな風になれるかも・・・と、わずかな期待ではあったが、真剣に思っていた。


 話を戻すが、私は歩けなかったこともあり、子供用のぬるいプールにただ浸かっているだけだった。そこにひとしきり泳いできた父がやって来て、泳ぎを教えてやると言って、私を足のつかない大人用プールへと連れて行った。 

床に足のつかないプールはちょっと怖かったが、こういうこと(身を任せる)に関して、父には絶対的な信頼をよせていたので、大人用のプールに入れてもらえたことはとても嬉しかった。

 父は、私の両手を引き、ある時は胸を両腕で持ち上げ、息継ぎの方法と、手で水をかくタイミング、頭を出すタイミング、足の動かし方など、一つ一つを順番に教えてくれた。 

父は無口な人だったが、顔の表情やうなずく姿で、私が父の言う事をちゃんとやれていることは理解できた。 水の中で目が明けていられるようになり、父が手を離しても沈まないでいられるようになり、そして、進まないまでもその場で息継ぎをして浮いていられるようになった。 

父が満足そうな顔をしてるのがとても嬉しかった。 私は、何をやっても家族に迷惑をかけるだけのダメ人間だったので、父が喜ぶようなことはこれまで一度もやったことがなかったのだ。 そのせいもあってか、鼻に水が入っても、目が痛くなっても夢中で言われるままに手足を動かしていた。 

父は、ずっと私のそばにいて、手を伸ばせばいつでもその手を握ってくれた。 そして帰る頃には、プールの短い方を休まずに泳ぎきれるようになっていた。  

私は、自分が何かを成し遂げたという経験がなかったので、言われるままに15mを泳ぎ切った時には本当に嬉しかった。 

父も私が泳げるようになったことは嬉しかったらしい。 家に帰って、父は母にこのことを話した。

「一日で泳ぎを覚えてしまった。水の中なら怪我もしないし、リハビリになるかもしれない」と。 


※ この頃母はメリヤス工場を退職して、父の叔父が経営する縫製工場で働き始めていた。 父の叔父が経営する縫製工場はとても景気が良かった。工場はいくつもあったが、更に作業場を増やすために、実家で使わなくなっていた古い家(母屋と同じ敷地内にあった)を改装して、そこに機械を持ち込んで工場にしていた。

父の叔父は、ずっと私のことを不憫に思い、事あるごとになにかと気にかけてくれていた。母が会社に勤め始めると、これはあいつが大きくなった時のために使えと、給与に色を付けて渡してくれていたりもした。

 

母が父の話を会社で話すと、父の叔父から「そういうことなら昼休みは遅くなってもかまわないからプールまで送り迎えしてやれ」と言われて、母は毎日私をプールへと行かせた。

 夏休みが終わり、病院へ戻るころになると、”くの字”に曲がってしまっていた膝が、両足で立てるぐらいになるまで伸ばせるようになっていた。 父はとても喜んで「動かさないと固まって動かなくなるんだから、血が止まったら動かさないとダメなんだ」と繰り返し私に言って聞かせた。

 そして、この父考えは間違ってはいなかったのだ。


 ※ 現在の治療法では、出血を薬で抑えたら、関節の拘縮を防ぐために腫れていてもすぐに関節を動かし始める。 当時は薬が貴重で、内出血がひどくならないと使うことができなかったため、こういった治療方法を誰も考えなかったのだ。「 痛みが出たらまずは安静にし、冷やしたりして様子を見る。それでどんどん腫れてくるようなら薬を使い止血する。止血後すぐに動かすと内出血を繰り返し関節の変形が進行するので、固定して動かさない」これが決められた治療方法だったのだ。

薬の開発が間に合わなかったことと、こういった治療法が主流だったことにより、私より年配の方々の多くは関節の変形と拘縮という重篤な障害を負う人が多かった。


 私が病院に戻ってから、泳いでいたらこんなに良くなった。動かさないとダメなんだと話したが、「たまたま、出血しなかったからこうなっただけだ」と、私の話を聞いてくれる人はいなかった。 


それでも私は、父の「動かせ」という言葉を信じた。


父にとっては、初めて実際に自分が面倒を見ることで、歩けなかった息子を歩けるようにしたということが嬉しかったのではなかろうか。


私にとっては「一切の運動はしてはいけない」と思っていた自分が、水の中でなら自由に動いていい、 水泳だけは普通の子と同じようにできる。というたった一つではあるが、確かな自信を得たことになった。 

このことは、その後何十年もの間、水泳は血友病でもやった方がいいと言える唯一のスポーツとして、私を支え続けることになる。