ジョゼフィーヌという生き方7 タリアン夫人とジョゼフィーヌ
《腐敗し得ない男》と呼ばれるほど清廉潔白で意志強固だった男ロベスピエールらのジャコバン派によって行われた恐怖政治は、「テルミドールのクーデタ」(1794年7月27日)で終結。このクーデタで、ロベスピエール失脚に決定的な役割を果たしたのはジャン=ランベール・タリアン。彼は、議会の壇上に上がり、短刀をふりかざしながら「暴君を打倒せよ」とロベスピエールを告発する演説を敢行した。彼はもともとロベスピエールと同じジャコバン派の議員でルイ16世の処刑にも賛成。1793年9月にボルドーに派遣され、反革命派に対する粛清も行なう。しかし、ここで一人の女性と知り合ったことでロベスピエールと距離を置くようになる。その女性とは元フォントネ侯爵夫人テレジア。彼女はボルドーで持ち前の社交術を発揮してその地の革命家たちを懐柔し、反革命容疑で逮捕された人々の救済活動を行う。しかし、そのためパリの公安委員会からで出た逮捕状によって彼女自身が逮捕されてしまう。テレジアなしの人生など考えられないほど彼女を愛していたタリアンは彼女を処刑台から救うためにクーデタを起こした、それが当時のもっぱらの噂だった。タリアンはテレジアの共犯者であることは公安委員会に知られ、タリアン自身もいつ断頭台送りにされるかわからなかったから、自身と愛人を救うためにクーデタを敢行したというのが真相だろう。
テレジアは人々から《テルミドールの聖母》と呼ばれるようになる。恐怖政治に呻吟していたパリの街に、古き良き日の自由闊達さを呼び戻してくれたのがテレジアであり、彼女は人々にとって救世主のような存在と人びとが考えたからだ。テレジアは、12月タリアンと正式に結婚。「寡婦通り」(現在のパリ8区の「モンテーニュ通り」)の「藁ぶきの家」(屋根は藁ぶきで外見はいかにも田舎の別荘といった感じだが、内装はギリシャ・ローマ風の装飾をふんだんに取り入れて流麗華美、家具調度類も贅を尽くしたもの。マリー・アントワネットがヴェルサイユ庭園の一角に造らせた「王妃の村里」【Le Hameau de la Reine】にある「王妃の家」を真似て造られた)にサロンを開いた。サロンの客たちはワイングラスを片手に賭博に興じ、それに飽きればダンスをする。それが延々明け方まで続く。恐怖政治の重圧が去った時、人々は一転して、今度こそ人生を思う存分楽しみたいと思った。狂ったかのように人々は踊りまくった。
この「藁ぶきの家」のもっとも熱心な常連の一人がジョゼフィーヌだった。フォンテーヌブロー時代からタリアンと知り合いだったジョゼフィーヌは、タリアンの計らいで他の囚人に先駆けてカルム監獄から釈放された。「藁ぶきの家」でタリアンの妻テレジアと出会ったジョゼフィーヌは、二人の境遇が似ていることに驚く。年齢は、ジョゼフィーヌ31歳、テレジア21歳と、10歳も差があったが、お互いにフランス以外の土地に生まれ、貴族に嫁ぎ、うまくいかずに別れていた(テレジアはマドリード近郊の銀行家の娘として生まれ、15歳の時パリでフォントネ侯爵と結婚し20歳で離婚)。二人は無二の親友となる。テレジアは絶世の美女であり、しかもその頃は若さの盛り。対してジョゼフィーヌは、さして見栄えのする顔立ちではなく、年齢の中年に差しかかろうとしていた。いつも並んでいた二人はこんなふうに言われた。
「テレジアは輝ける太陽、ジョゼフィーヌは、そのそばにある星でしかない」
それでもジョゼフィーヌはテレジアの親友であることをやめなかった。テレジアのそばにいることで得られる利益が大きかったからだ。当時のジョゼフィーヌは二人の子どもを抱えて一文無し。亡夫の財産も、彼女の財産も、国に差し押さえられていた。義父の老公爵とルノダン夫人は自分たちの生活で手一杯。マルチニック島の実家では、ジョゼフィーヌが革命騒ぎであわただしく島を離れた後、父親、妹が相次いで死亡。一人残された母親に援助を依頼する手紙を送るも送金はなし。ジョゼフィーヌは、この状況を打開する道を「藁ぶきの家」に見出す。そこには、政府関係者や銀行家、実業家、軍事物資を取り扱う商人など、政財界の多くの男性が出入りしていた。いずれも地位や名声を持ち、金に困らない男たちだった。ジョゼフィーヌは、ここで人脈を作った。また自分を養ってくれる愛人を見つけ、さらには結婚相手も見つけた。それがナポレオン・ボナパルトである。
テルミドールのクーデタ
詰め寄るジャコバン派を抑えて演壇を占拠し弾劾を続けるテルミドール派。ナイフを振りかざしてるのがタリアン。
「テルミドールのクーデタ」で撃たれるロベスピエール
マリー=ギエルミーヌ・ブノワ「タリアン夫人」
フォルス監獄に収監されていたタリアン夫人
ジャン・ベルナール・・デュヴィヴィエ「タリアン夫人」