南留別志226
荻生徂徠著『南留別志』226
一 「ものゝふの八十氏」といふは、物部の姓に、支別多くて、八十姓あるとなり。姓氏録にのせたる見るべし。武士に氏多き事をいふといへるは誤なり。古に武士といふ事はなきなり。
[語釈]
●「ものゝふの八十氏」 『万葉集』巻三(二六四)に
柿本朝臣人麿の近江国より上り来(こ)し時に、宇治河(うぢがは)の辺(ほとり)に至りて作れる歌一首
もののふの八十氏河(やそうぢがは)の網代木(あじろぎ)にいさよふ波の行く方(へ)知らずも
とある。歌意は、「もののふの多くの氏、宇治川の網代の木が漂う波のように行く末のわからないことだなあ」。もののふは宮廷の文武百官のことで、大勢いることから八十氏という。八十は数が多いことを形容したもので実数ではない。氏は宇治。「うじ」の響きから「宇治」を引き出すための序詞。
●網代木 木や竹を編んで網にしたものを川に仕掛けて魚を獲るもの。
[解説]物部氏は古代における大氏族で、当時としては珍しく全国に支流が存在した。おもなものでも東国物部氏(陸奥・出羽)、下総物部氏、尾張物部氏、石見物部氏、備前物部氏などがある。徂徠もまた荻生の末裔で、物部姓を名乗った。その徂徠によると、「八十氏」は武士の多いことを意味するのではなく、権勢を誇った物部氏の多いことを言ったものとし、「もののふ」(武士)という言葉は古代にはなかったとする。その通りだが、「もののふ」といえば後世は「武士」という字を当てるようになり、意味も武官、武人といった護衛、戦闘要員に狭まったため、この意味から「武士がたくさん」と解する人が出てきた。徂徠は改めて原義によって解することを解く。伊藤仁斎は古義学、徂徠は古文辞学の祖で、ともに後世の解釈によらず、直接原典に当たり、原義から理解することを唱えた。これは当時全盛だった朱子学に対抗したものだが、その考え方は専門の漢籍だけでなく、国書においてもなされている。