真実は一つなのか
こんばんは。ポケモンgoではzacharyという名前を使っています。えいむです。
引きこもっていると全然捗りませんね。ポケモンgo。そろそろボールがなくなってきました。
近所のスーパーまでの間にスポットが一つしかないので、買い物に行ってもあんまり増えません。
そして引きこもりのお供に海外ドラマを見まくっています。
一挙放送を録画していたものを一気見したりもしてます。
実はコロナが流行り始める前にも一挙放送を録画したものをちびちび見ていたのですが
そのドラマはPassageという、ゾンビウィルスを人の手で加工してどうにか利用できるようにできないかという人間のエゴと、そういうウィルスや人間から愛する人を守ろうとする話でした。
実際の放送は昨年末だったので、私が勝手にこのタイミングで見たのですが
なんでまたこの時期に見ちゃったんだろう。とも思いました。
逆に、流行る前に見られて良かったのかもしれませんが。
これを見て感じたことは、愛を感じるためには悪を知らないといけないのか?ということ。
愛を大切に思えるように対比するものを知ることは必要なのか?ずっと標準的に愛と幸福だけ感じて生きることは不可能なのか?と。
今、自分が愛も幸福も得られてないと思っているからかもしれません。
でもそれって自分で自分を不幸にしようとしないと訪れないことでもあるのかも。
小さな幸せでも喜びをもって迎え入れ、思いっきり抱きしめて自分のものにする。
それを常に繰り返していれば、もし不幸なことが起こってもきっとこの後また幸せが巡ってくると思えるはずなのに。
小さな頃からけなされて、いじめられて、不幸であることを標準に育った私ですが
自分でそういう自分を受け入れなければそうならなかったのではないか、ということです。
未だにそうやって育ってしまった以上それ以外を知らないから、幸せとか誰か与えてくれる人が現れない限り無理だ。と諦めて、救世主を待っているような状態になっているのではないか。
だからいつまで経っても自分で幸せを掴みとれないのではないかと。
形而上学を学び始めてから少しずつ、そんな気持ちを払拭せねばと考え始めた私ですが。
昨日見たルシファーのセリフにそんな言葉がたくさんありました。
きっとこのルシファーのプロデューサーか脚本家にリチュアルマスターがいるんじゃないかとよく思うのですが。
まぁ題材が天使と悪魔と神と人間ですからね、そうでしょうね。
意思や意図というものが集中するとそこに現実を動かすだけのパワーが生まれるのです。
自分で自分をどうするか、自分で決められるのに、思い込みでそれを逃しているということ。
カバラの中でどこに意思を向けるかということについて考えました。
自分のことは自分しかわからないし、自分のことは自分でしか決められない。
人のせいにして済ませようとすればそれはその程度にしかならないし、それが自分の本心とは違うことであれば自分の望みとは違う自分になるということ。
イメージは自分で作るんです。
こんな今だからこそ、必要な考え方ですよね。
そんなこと言ったって、そんなふうに考えられない!という方は是非一度DNAアクティベーションを受けてみてください。
きっとちょっと違うスイッチが入ります。1時間1万5千円です。
古い自分を壊して新しく作り直したい!という方はイシスヒーリングがオススメです。1時間1万円です。
もっとちゃんと聞きたい!という方は是非アデプトプログラムを受けてください。
きっと探究心に火がつきますよ。連続する二日間で合計10時間8万円です。
気になった方はお問い合わせください。