いま「言わねばならないこと」を言う(2020.4.1-4.2)
2020年4月1日現在、日本および世界の状況に関して、「言わねばならないこと」があると感じ、できればまとまった文章を書きたいと思うが、残念ながらいま、そのための条件を持ちあわせていないので、以下、要点のみを記す。
①国家権力の際限なき拡大に強く反対する
②「挙国一致」「総力戦」なるものを拒絶する
③「最悪の事態」の〈先〉がありうることを想定する
④窮境にある人びとへの最大限の補償・支援を実現する
⑤生身の人間として、可能な限りの相互扶助を試みる
⑥切り捨てられる側に立つ
⑦真正の哲学が必要である
▼参考:桐生悠々「言いたい事と言わねばならない事と」
https://aozora.gr.jp/cards/000535/files/3612_20811.html
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〈われわれはすべて背中から未来へ入って行く〉
〈過去と現在が眼前にあって、未来が背後にあるものとすれば、この未来にはいささかオンブお化けじみた魔物がいるかに思われて来るのであったけれども、現在と過去・歴史にも魔物めいたものに事欠きはしないのであった〉
作家・堀田善衞(1918-1998)のエッセイ「未来からの挨拶ーBack to the Future」から引用した。堀田がこの一文を書いたのは1994年12月である(『未来からの挨拶』〈筑摩書房、1995年1月〉所収)。
〈歴史と眼前の現在(の現実)を明確に、如何なる偏見にも、また希望にも恐怖にも動かされることなく、眼前の歴史と現実を見て見て見抜いて〉いくならば、自身の背後に〈一つの未来像〉を見出しうる。
しかし、われわれの背後にあるもの(未来)を見ることができるのは〈ほんの少数の賢人だけ〉であり、〈ドストエフスキーはソヴィエト時代にはほとんど忌避され〉、〈ヨーロッパの現代を見抜いたかに思われた、見者ランボオは、ヨーロッパを捨ててしまった〉。
すなわち、〈予言者故郷に容れられず〉。堀田文の締めくくりはこうだ。
〈歴史の恒常的な現存在性(présence)が信じられているところへ、おそらく未来からの挨拶が届けられているものなのであろう。ーBack to the Future ! 〉
いま必要なのは、「温かなまなざし」などではなく「透徹した眼」であり、「前向きな発言」などではなく「事態を正確にとらえる言語表現」であり、「思いやりの心」などではなく「具体的なふるまい」であり、病む者・動けぬ者・弱りつつある者への想像力と連帯の意思表示、そして、もっとも愚劣なる奴らへの痛烈な批判と「個」の結集である。
(編集室水平線・西浩孝/前半部=2020.4.1記、後半部=2020.4.2記)
【付記1】
杉山洋一さん(指揮者・作曲家)の、コロナ禍をめぐるイタリア日誌を、ぜひ読まれたい。
〈伊語で深い沈黙を表す形容詞に、tombaleつまり「墓地のような」静寂という言葉がありますが、半世紀近く生きてきて、今ほどこの言葉を反芻したことはありません〉……
▼ウェブマガジン『水牛のように』2020年4月1日号
http://suigyu.com/2020/04#post-6748
【付記2】
詩人・藤井貞和さん(『非戦へー物語平和論』著者)の「錫の歌」もここにある。
Tin. 極地の微光、凍土の泥炭、ペスト。
Tin. それが歴史じゃなかったのか、と問う。
Tin. 三月の見えない敵に太陽を。
Tin. 詩の文法に終りを。 地球はわずかな生存とたたかう、
Tin. 植物のあとから。
▼同上『水牛のように』2020年4月1日号
http://suigyu.com/2020/04#post-6726
【付記3】
現政権を一刻も早く打倒すべきなのは言うまでもない。
以上。
(編集室水平線・西浩孝/2020.4.2記)