引き算の生き方とは 方丈記にみる安心感・満足感
「with&afterコロナ」の時代には「引き算の生き方」が求められると、一昨日、記した。「引き算」にはマイナスのイメージがあるが、そんなことはない。ひとことで言えば、際限のない物質的な充足や社会的地位向上には重きを置かない、生きる価値の中心点を置かない生き方のことだ。それは、いまさらかもしれないが、「方丈記」で鴨長明が記したような満足や安心感が高まった暮らしぶりだと考える。もちろん、自分がそんな悟ったような境地、暮らしをしているかといえば全く違う。マスク販売があると聞けば列に並ぶし、買いだめしておこうと考える、情けない小市民であることはあらかじめ告白しておく。
「軸」さえあれば
「引き算」の暮らしとは、要するに、自分にとって大切なもの・生き方は何かを絞り込んでいくことだ。もしもそれがわかれば、生きる上での「軸」ができる。これは間違いなく強みではないか。「あれもこれも」「他者と比べて」「どんどんイケイケ」といった生き方の終着点、到達点は死以外にないだろう。生きている限り始終何かを求め続け、落ち着くことはない。安寧はありえない。だが、軸があれば、たとえ物質的な充足を求めたとしても方向や「量」を間違えることはなく、早晩満ち足りた思いがするだろう。心は落ち着くだろう。
いまは鴨長明の時代に似ている
いまの時代は、鴨長明が生きた時代によく似ている。大地震があり、台風など自然災害があり、疫病が流行り、一族や「オトモダチ」のために政治権力が行使されて議論がないがしろにされた末に民が苦しむ。世も末かと思える激しい変化の日々。無常観。
鴨長明がたどり着いたのは、山中の小さな庵に必要最低限のモノを配して日々を過ごし、他者と比べることを超越した暮らしだった。そこで見い出した満足、充足感、安心感。まさに引き算の末に、生きる軸を見出した生き方だった。
<恨みもなく、恐れもなし。命は天運にまかせて、惜しまず、いとはず。身は浮雲になずらへて、頼まず、まだしとせず。一期の楽しみは、うたたねの枕の上にきはまり、生涯の望みは、をりをりの美形に残れり>
ここまでの悟りの境地には至らなくても、新型コロナウイルスによって日常が蝕まれ、失われたいまだからこそ、これまで「当たり前」だと思っていた暮らし、生き方をほんの少しでも見つめ直すチャンスだととらえたいと思うのだ。本当に会いたい、一緒にいたい人は誰なのか。大事なのは仕事だったのか。大切なのは社会的地位だったのか。
経済至上主義も追い払いたい
社会のありかたも大きく変わるだろうと、前回記した。これまでの社会は「経済のために」人が使われる社会だった。経済ファーストで、あたかもその手段でしかないかのように人が蔑ろにされた。典型的なのが非正規雇用者への待遇であることは多くを語る必要はないだろう(いまも冷酷に派遣切りが進み、住む場所さえ失う人たちがどれだけいることか)。
本当はバブル崩壊後に、遅くとも東日本大震災で絶対に気づいて方向転換すべきだったはずだが、なぜか、特にこの国では逆方向に進んでしまった。オリンピックや万博といったまさに昭和の発想から一歩も抜け出ない経済至上主義。経済効率を追求した一極集中(今回のコロナ禍ではまさにこの点が致命的な弱点をさらけ出している)や中央集権のゆがみ。感染拡大防止にはもはや他国のような都市封鎖など行動制限が不可欠な状態と素人目にも明らかなのに、踏み切れないいまの状況は、経済至上主義が根っこにあり、経済状況をおもんばかるからこそだろう。
一度、経済至上主義を頭から追い払いたい。大切なのは人だ。人がいて、生活があってこその経済で、経済は暮らしに従属するものだ。目指すべきは「V字回復」などではない。身の丈に合った、無理をしないサステナブルな経済こそが「引き算の生き方」には合っている。そんなことも合わせて考えたい。それがこのパンデミックからせめても得ることができるものの一つではないかと思っている。