【博士(医学)の中尾誠利さん】「非常時に最前線にいるのが医者の務め。」9年間、茅ヶ崎から南相馬に通い続ける原動力とは
今回お話を伺う中尾誠利さんは、茅ヶ崎市に住みながら、約9年にわたり週3~4日も福島県南相馬市で医療ボランティアを続けてきました。そしてその活動とは別に、JMAT(日本医師会災害医療チーム)のメンバーとして、あらゆる非常事態の現場に立ち続けています。そんな中尾さんに、その活動内容や原動力について伺いました。(全2回)
■非常時に最前線に行くのが医者の務め
――― 中尾先生、お会いできて大変光栄です。本日もこれから南相馬に行かれるんですよね。
中尾 はい。3月14日に常磐線が全線開通したので、直接行けるようになったんですよ。
こっちからだと、基本的には仙台の方で乗り換えていたのでありがたいです。
――― 中尾先生はこの9年間、毎週毎週、南相馬まで行かれてきたんですよね。それも身銭を切って。
中尾 「よくやるね」って言われますね(笑)
途中から友人が県と交渉をしてくれて、一部補助が出るようになったので、いまは有償ボランティアという形になっています。
ただ他にもそういう活動をしている方はいますし、私は好きでやってることだから、全然大したことではないんですよ。
――― 十分大したことだと思いますが…
中尾 いえいえ、本当に大したことじゃないんです。
私の父はサラリーマンですけど、自分が医者になってお給料をいただいたときビックリしたんですよ。思っていたより額が高くて。
でもなぜ高いのかを考えたら、やっぱり非常時にボランティアでも現場に行くためなんだなって。
――― そう考えられる人は多くないと思います。
中尾 でもやっぱり、そうだと思うんです。
災害もそうですし、新型コロナウイルスもそうですけど、そういうときに率先して最前線に行くことが医者の務めなんですよ。
そう思えば、自分も周りも納得できるじゃないですか
要は保険みたいなもので、「いざという時にタダ働きするんだから仕方ねえか」って(笑)
――― 中尾先生はJMAT(日本医師会災害医療チーム)としてダイヤモンド・プリンセスにも行かれたと聞きました。
中尾 そうですね。規則で具体的な話はできないのですが、船内でやらせていただいたことは患者さんへの医療行為と…あとは場を和ませました(笑)
――― それも大事なことですよね(笑)
中尾 非常時には医者に限らず、ボランティアとして駆けつける多くの方々がいますよね。
私はその中の一人として、自分にできることをやらせていただいているだけですなんですよ。
■それは男がすたるでしょ!
――― 中尾先生が南相馬に深く関わるようになったきっかけはなんだったのでしょうか。
中尾 もともとは、震災が起きる前に南相馬の小高病院で、「応援医師」の募集があったんですね。
もう医者が3人しかいないから、誰か来て欲しいと。
――― それに申し込まれたのですか。
中尾 はい。それが2月の話で、そしたら地震が3月11日にあって、その翌日には原発事故に至った。
当然、もともとの応援医師の話はなくなったんだけど、やっぱり行く予定だったところですからモヤモヤするじゃないですか。
そしたら5月になって、南相馬の総合病院で今度は「医療ボランティア」の募集が始まったんです。
じゃあこれに乗るべなーってことで、5月30日から行き始めました。
――― もともとの「応援医師」は条件とか生活も踏まえて応募されたと思うのですが、「医療ボランティア」となると全く意味が違ってきますよね。
中尾 交通費からなにから全部持ち出しですから、あの頃は立ち食いソバ三食とかやってましたね(笑)
――― ですよね…。そういう条件であれば考え直すということはなかったんですか。
中尾 それは男がすたるでしょ!
自分が行くって決めていた場所で地震があって、津波が来て、原発の被害も出て。
だから行かないなんて裏切りじゃないですか。
――― だとしても、すごいと思います。
中尾 で、実際に行ってみたら、もともと行く予定だった小高病院の人たちがみんなそこにいて、「おーあなたが中尾先生か!」ってなって(笑)
その皆さんとはそこが初対面だったんですけど、「本当によく来たね!」ってお互い笑いましたよ!あははははは!(笑)
■医者である前に人として向き合う
――― 震災当初のことで、なにか心に残っていることはありますか。
中尾 まず最初にガツンとくらったのは、ある女の子との出会いで。
いまでも思い出すと泣けるんですけど…私は南相馬に入る前、石巻に入っていたんですね。
――― 最初は石巻だったんですか。
中尾 はい。南相馬の募集が出るまでの間は、石巻に行っていたんです。
そこで医療ボランティアをしていたら、ある女の子がね、いきなり抱きついてきて「おじちゃん怖い、怖い」っていう訳ですよ。
堤防がぶっ壊れていたんで、水が入ってくるのを見て「怖い、怖い」って泣いて。
――― はい。
中尾 その時に僕ができることって、抱きついて一緒に泣くぐらいしかできなかったですよ。
もうね、「医者なんてなんだ」と思ったんですよ。その時。
偉そうに医者として行ったけど、こんな小さな子にできることは一緒に泣くことしかないなんて。
――― 役に立つつもりで行ったけども…
中尾 医者としての仕事はしました。意義もありました。でもその子にはそれしかできなかった。
そこで殴られたような気持ちになって、価値観がガラッと変わりました。
まず医者である前に一人の人間として、皆さんと向き合わないといけないんだって。
■原発の決死隊
――― 石巻のあと、南相馬で医療ボランティアをしていたときは、どれぐらい働いていたのですか。
中尾 一番長かったのは120時間連続勤務ですね。丸5日間ぶっ通して働きました。
↓2011年当時の中尾先生
――― それほど過酷な状況だったんですね…
中尾 でもね、やっぱりあの状況で原発まで行った人たちには頭が上がらないですよ。
これも思い出すと涙が出るんですけどね…ある時、南相馬で外来をやっていたときに「先生、薬多めに出してくれないか」っていう人がいて。
話を聞いてみたら「これからいわき市に行くんだ」「いつ帰ってこれるか分からない」って言うわけですよ。
――― はい。
中尾 それ聞いてすぐ分かったんですけど、当時、原発で作業する人たちの拠点がいわき市にあったんですよ。
あの状況の原発で作業をするっていうのは…まさに決死隊。
それでお互いに泣いちゃってね。そういう人たちが当時たくさんいたんです。
――― そうですよね…
中尾 決死隊と言えば、東北電力の方々ともお話したことがあって。
原発を維持するには東北電力の電気が必要だったんですけど、いつ何が起きるかわからない原発に誰も行きたい訳がない。行ったら、死ぬかもしれませんからね。
でもそんな中で志願する東北電力の方々、まさに決死隊の彼らが南相馬にいたんですよ。
――― 中尾先生が医療ボランティアをされている南相馬に。
中尾 はい。南相馬は当時、「緊急時避難準備区域」に指定されていて、原則一般人は立ちを制限されていたエリアだったんですね。
でもある時だけ、あるお店に赤ちょうちんが出てたんです。「あれ?」と思って覗いてみたら、マスターが黙々とお酒を注いで、お客さんが笑って飲んでるんです。
――― つまり、そのお客さんが…
中尾 そう、東北電力の決死隊です。
明るい笑い声が聞こえるんだけど、雰囲気としてはすごく厳粛なんですよ。
あとで聞いたら、原発に行く直前の決起会だったんだって。
そういう知られざる人たちのおかげで、いまこうして生きられていると思うとね。
感謝しかありませんよ
■「“ありがとう”からはじめよう!」
――― 中尾先生は約9年もの間、南相馬に通い続けていますが、その原動力はなんでしょうか。
中尾 一言でいえば、皆さんへの感謝ですね。「ありがとう」しかないです。
――― 「ありがとう」ですか。
中尾 そう。とにかく、「ありがとう」から始めないと。
これ、いまでも大事に持っているんですけどね。
――― 「 “ありがとう”からはじめよう!」と書いてありますね。
中尾 当時の南相馬市には、これと同じのぼりがいくつも掲げられていたんです。
どんな状況でもね、感謝から始めないといけないんです。ギスギスやったって仕方がないじゃないですか。
――― つまり、感謝されたくてやっているのではなく、感謝しているから続けて来られたと。
中尾 はい。9年続けて来られたのも、現地で働いている人たちや、震災後に戻ってきた人たちがいたおかげなんですよ。
――― 常磐線の全線開通など、復興の兆しは見えていると思われますか。
中尾 私の中での復興の定義は、「皆が復興したと思うこと」かなと。
それぞれが、そう思ったときが復興したときだと思うので、それまでは私の活動も続けさせてもらうつもりでいます。
――― 心を打たれるお話をありがとうございます。インタビューの後編は、中尾先生が現在の活動を始めるまでの経緯などを伺います。
(次回につづく)
【湘南茅ヶ崎で暮らす人】博士(医学)の中尾誠利さん
・第1話 「非常時に最前線にいるのが医者の務め。」9年間、茅ヶ崎から南相馬に通い続ける原動力とは
・第2話 地元企業を大切にしないと、いざというとき地域は踏ん張れない
▼インタビュー・編集 小野寺将人(Blog / Facebook / Twitter)
2015年に茅ヶ崎市に移住し、2017年に「エキウミ」を立ち上げる。東海岸商店会の公式サイトの運営や、m'no【エムノ】のWEBマーケ、記事の寄稿も行う(SUUMOタウン、Gyoppy!、ARUHIマガジン、SPOTほか)。
▼編集アシスタント 青木亨太
1987年生まれ。小学生の頃茅ヶ崎に移住し現在まで25年間を茅ヶ崎で過ごす。幼少期の天然パーマが災いし、リーゼントを語源とした「リーゼン」という珍しいニックネームを命名される。30を超えた今も特殊なあだ名で呼ばれるが、平凡かつ普通のサラリーマンとして日々を過ごす。地域メディア運営に興味を持ち2019年より参加。
▼編集アシスタント 茅ヶ崎ポニーさん
東京板橋生まれ、横浜市戸塚育ち。2014年秋より茅ヶ崎暮らし。私的テーマは「まちとひと」「想いとルーツ」。『茅ヶ崎は 人も道も フラットなところ』が口ぐせ。しごとは、インターネットの企画や営業を10年ほど。ペンネームは小学生時代の弱小野球チーム「ポニーズ」から。
▼編集アシスタント 野口裕貴
「エキウミ」の動画・文章編集班。Web関連企業にてエンジニアとして従事。技術講師として教育事業も行う。現在は都内在住だが、何らかの形で茅ヶ崎に拠点を置きたいと思っている。