ジョゼフィーヌという生き方12 懲りない女
ナポレオンの威光は高まるばかり。今や政府の最高実力者バラスでさえ、ナポレオンの顔色をうかがうようになる。ナポレオンも、自分にできないことは何ひとつない、という気がしてくる。しかし、自分の妻だけはどうにもできなかった。
ナポレオンがイポリットの存在を知るのは妹のポリーヌの告げ口による。ポリーヌはナポレオンや母親から恋人との結婚を反対されていたが、ジョゼフィーヌからも恋人との仲を遠ざけようとされたことで、彼女に恨みを抱いていた(イポリットに言い寄ったが、全く相手にされなかったポリーヌが、その腹いせから二人の関係を暴露したという説もある)。それでもジョゼフィーヌはうまくごまかし、夫の目を盗んでイポリットとの逢引きを続ける。イポリットに軍を離れさせ、知り合いのボダン商会に入れ、その2階に住みこませる。ここが密会場所。しかし、ポリーヌからジョゼフィーヌの浮気を知らされた長兄ジョゼフが調査に乗り出し、二人の密会の事実をつかむ。ナポレオンから問い詰められるジョゼフィーヌ。それでも知らぬ、存ぜぬで通し、怒ってみせ、泣いてみせ、最後には居直る。ナポレオンもジョゼフィーヌの涙には勝てない。結局、話はうやむやになってしまう。
離婚の危機が決定的になるのは、エジプト遠征(1797年~1801年)中のこと。1792年に始まったヨーロッパ戦争は、大陸ではひとまずフランスが勝利をおさめたが、反動ヨーロッパの黒幕はイギリスであり、イギリスをたたかない限りは、けっして戦争は終わらない。フランス政府はイギリス進攻を考え、その指揮をナポレオンに委ねようとしていたが、ナポレオンの考えは違った。ドーヴァー海峡を越えて直接イギリスに攻め込むのは無理だ、フランス海軍は弱体で、とうていイギリス海軍に太刀打ちできない、だから、エジプトを支配下におき、イギリスのインドへの道を断ち、間接的にイギリスをたたくのがいい、と。ナポレオンはイギリス進攻をエジプト遠征に変更するように政府を説得。ナポレオンの野心を恐れるようになっていた総裁たちは、ナポレオンをフランスから遠ざけるこの案を承諾する。
1798年7月3日、アブキールの港からエジプトに上陸したフランス軍は翌日には地中海岸の最重要都市アレクサンドリアを占領。そしてカイロに向けて苦しい行軍を続けていた。その頃である、ナポレオンが副官のジュノーから、妻の行状の一部始終を聞かされたのは。それまでは中傷だとして、どうしても妻の裏切りを信じようとしなかったナポレオンも、ジュノ―の詳細な説明を聞いては、やはり本当だったと思わざるを得なかった。7月25日、カイロ入城を果たした後、兄ジョゼフに手紙を書き、苦しい胸の内を明かしている。「ピラミッドの勝利」(「兵士諸君、4000年の歴史が見下ろしている」というナポレオンの言葉で有名)と呼ばれる輝かしい勝利を経てのカイロ入城。勝利の陶酔に浸っていてもいいはずのナポレオンの心境はこうだったのだ。
「家のことで、たいへん悩んでいる。というのは、ベールが完全に引き裂かれたからだ。・・・同じ人間に対して、同じ心の中で、矛盾する様々の感情を同時に持つというのは、悲しい境遇だ・・・。
フランスに帰った時田舎に別荘があるようにしておいてくれ。パリの近くでもいいし、ブルゴーニュ地方でもいい。冬はそこで過ごし、閉じこもったままでいようと思う。人間というものには、ほとほと嫌気がさした。僕は世間を離れて孤独になる必要がある。世において名を成すことなど、うんざりだ。心もひからびてしまった。栄光も色あせた。29歳にして、なにもかも使い果たし、僕にはもう、本当にエゴイストになることしか残されていない。家は僕のものにしておくつもりだ。けっして誰にも渡さない。もう僕には、生きる糧がない。さようなら、ただ一人の友よ。僕は今まで、君に不当な仕打ちをしたことは一度もなかったよね。」
この手紙を書いた1週間後の8月2日、さらにナポレオンを打ちのめす出来事が起きる。アブキール湾に集結していたフランス艦隊がイギリスのネルソン提督によって壊滅させられたのだ。ナポレオン軍はエジプトに封じ込められてしまった。それだけではない。地中海は完全にイギリスの政権下に入り、ナポレオンの手紙を運んでいた船も拿捕。手紙はイギリス本国に送られ、なんと紳士の国イギリスは手紙を英訳付きで公表した。
ジャン・レオン・ジェローム 「スフィンクス前のナポレオン」
「ピラミッドの戦い」
ジャン・レオン・ジェローム「カイロのナポレオン」