凝縮(ゆとり)世代が、日本にとって最後の牙城
【コラム】 この国には、合理的に物事を判断し、おかしいモノを「おかしい!」と目上でも断言できる人間がたくさん必要だ。打開策、それは凝縮(ゆとり)世代だ。彼らはゆとり教育で知識量が少ない。しかし、その脳の空いた分で思考力が養われ、論理力が高い。合理的な判断を得意とする。ナゼに凝縮世代という名なのかは、最下部を参照。
舛添都知事が五月十三日に記者会見を開き、『政治資金 規制法』違反の恐れのある会議費を家族旅行に充てたとされる疑惑について、釈明を行い返金を決めた。
同日に講談社は記事『総理、ホントに「給付型奨学金」創設を見送るんですか?/大西連』で、子どもの貧困対策の一環として、貧困家庭の子どもが大学へ行ける仕組みづくりをNPOらが始めたコトを伝えている。そして集英社は、記事「報道自由度で世界に赤っ恥…匿名でしか話ができないジャーナリズムの異常事態と安倍政権の手痛いダメージ」で現・報道機関の弱さを間接的に訴えている。
<そもそも経営者マインドがない>
国に匹敵する自治体「東京都」と数多の「大学」、わずかな「報道機関」。この国にとって全体的に必要な要素は、経営者マインド(精神)である。都民の税金を預かり、都民の生活をより良くする「東京都」。国の支援と親御さんからお金を預かり、学生の人生に寄与する「大学」。スポンサから資金を募り、国民が生き方の判断を行うタメに知識と見解を提供する「報道機関」。
舛添都知事は、もともと政治学者であり、経営者としての感覚は乏しい。大学は、経済学部や経営学部を有してるにも関わらず、需要と供給がそもそも合ってない。大学の理事会のコスト感覚がおかしい。報道機関は、株式会社なので営利を追求する。
誰の利益を彼らは優先してるか
こう視ると、報道機関は経営者マインドがある。しかし、それは二十一世紀の経営者マインドではない。日本の経営者らから神格化される故ピータ・F・ドラッカーは、二十一世紀の世界における経営主体はNPO(非営利組織)と断じた。営利追求型の株式会社では、世界をより良くするコトができない。NPOや財団、社団等が新たな時代を引っ張る。
株主の利益を追求する以上、現・報道機関や三菱自動車の様にユーザよりも株主を優先する。大学の理事会の利益を追及する以上、学生らよりも経営者マインドのない理事が優先される。政治家個人の利益を考える以上、国民(都民)よりも経営者マインドのない考えが優先される。
<現代は、巧くいってない>
これが結論だ。ならば過去の栄光や慣習を変えて、未来志向になる必要がある。社会人経験が少ない凝縮世代が必要だ。社会人経験がたんまりある者には、反旗を翻す意志が無い。ハッキリ物事の善し悪しを伝えるコトを止めてしまったのだ。それはそれで、以前は正しかった。
ただ、巧くいってない以上、それは止めるべきだろう。凝縮世代は上の世代から見て、空気が読めないなら、それで正しい。旧式の空気を読む必要はない。彼らは彼らの新式の空気を読める。上の世代は、新式の空気を読めない。故に、凝縮世代は、上の世代に縛られずに動いて良い。否、動けば生活が変わるし、国が変わる。
諦めてない者と共に
上の世代は諦めても問題ない。その責任は彼らで負うだろう。だが、凝縮世代は早くも諦めて良いのか。その責任を死ぬまで負うコトになる。二十世紀型の経営を二十一世紀を生きる者が、イマに適応させる。凝縮世代はまだ若く、可能性がある。
方法は一つ、上の世代でも諦めてない者がいる。政治では四十代の元気・松田公太、生活・山本太郎、三十代の自民・小泉進次郎、共産・吉良佳子。経済では、五十代の三木谷浩史、四十代の藤田晋らが立ち上げた新経済連盟。
<最後のまとまれる世代、凝縮世代>
凝縮世代が自身らだけで、上の世代(権力者)達と闘うコトは実戦経験的に難しい。だが、彼らと共に歩み実戦経験を積めば、一学年で百万パワーを得るコトができる。人口の話しだ。凝縮世代が十学年集まれば、一千万パワーだ。前回の衆院選で自民は二千五百万。凝縮世代が、この国で一大勢力になるコトが可能だ。上の世代は分断されてしまっていて、まとまれない。三十代を過ぎたら、まとまれない。
十代・二十代は、まとまれる力がある。凝縮世代を認め、力を伸ばす先輩が数える程だが、まだいる。その先輩から実戦経験を積ませてもらえば、一千万パワーも夢ではない。この国を抜本的に変える世代、それが凝縮世代だ。彼らは上が思っている以上に非常に賢く、根性もある。
そしてドラッカーは、NPO的な経営マインドについて、世界的に日本が先んじるとも予言した。