ジョゼフィーヌという生き方13 改心
1799年10月9日、ナポレオンは遠征軍をエジプトに置き去りにしたままフランスに帰ってきた。フランスの総裁政府は、エジプト遠征の間にますます人望を失っていた。政権が安定しないだけでなく、汚職まみれ。最高実力者のバラスは不正を働く軍需物資納入業者と癒着して甘い汁を吸い、酒池肉林の享楽的生活におぼれ、「腐敗した者どもの王」と呼ばれていた。社会風俗が乱れ、治安が悪化し、街道で旅行者が襲われる事件が頻発。前線では敗北が続いていた。ナポレオンが帰国したのはこうした状況を知ったからだった。10月16日にパリに到着。「一つの頭脳と一本の剣」を持つ強力な政府を構想し、クーデターを準備していた総裁の一人シェイエスと組んでクーデターを決行。「ブリュメール18日のクーデター」(1799年11月18日、19日)である。その後一か月の間に二人の関係は逆転し、シェイエスは元老院議長として体よくお払い箱にされ、政権はナポレオンの手に墜ちることになる。ナポレオンは12月に第一執政として正式に執政政府をスタートさせたが、当初はその政権も不安定だった。しかし、1800年5月、イタリアをオーストリアから奪い返すべく「第二次イタリア戦役」を敢行し、6月14日、「マレンゴの戦い」で勝利。ようやくナポレオンの政権は安定を得ることができた。
ところで、ナポレオンとジョゼフィーヌの関係だが、この間に大きく変化する。1799年10月10日、ジョゼフィーヌは当時政府の最高責任者の一人だったゴイエから、前日にナポレオンがエジプトから戻りニース近くのフレジュスに上陸したこと、早ければ5日ぐらいでパリにつくかもしれないことを聞かされる。呆然とするジョゼフィーヌ。彼女はナポレオンが離婚を考えていることを知っていた。それを書いたナポレオンの手紙は、イギリスによって公表されたが、国交が断絶していたため、一般のフランス人には知られていなかった。しかし、ある業者がその手紙をフランスでも出版しようとし、バラスがそれを差し止めた。1798年12月のことである。当然バラスはジョゼフィーヌにそのことを話したはずだ。ナポレオン帰国を知ったジョゼフィーヌは、すぐにナポレオンに会いに出発する。絶対に、夫の兄妹たちが自分よりも先に夫に会うことがあってはならない。ジョゼフィーヌを嫌うナポレオンの兄妹たちは、ナポレオンと離婚させようとあることないこと、夫に告げるに違いない。なんとしてでも自分が先に会い、夫の愛情を取り戻しておかなければならない。ジョゼフィーヌの計算では、リヨンで夫に会えるはずだった。しかし、リヨンに着いたジョゼフィーヌは、夫が前夜すでにリヨンを去り、パリに向かったことを知らされる。ショックで気を失いかけるジョゼフィーヌ。
ナポレオンは、10月16日朝6時、ヴィクトワール通りの館に到着。そしてジョゼフィーヌの寝室に直行。しかし、ベッドは空だった。彼女はイポリットと一緒s違いない。もう騙されない、ジョゼフィーヌとは離婚だ!ナポレオンは、二度とジョゼフィーヌの顔を見ないですますために、彼女の持ち物をすべて家の外に運び出させた。ジョゼフィーヌが帰り着いたのは、10月18日の夜11時。門を開けて入ろうとするが、門番からナポレオンから入るのを禁じられていると告げられる。門番小屋の中にジョゼフィーヌの家財道具が積み上げられているのが目に入る。彼女は門番の制止を無視して家の中に入る。そしてナポレオンの寝室の前に行く。ノックしても反応はない。「あなた」と呼んでも返事はない。ドアには鍵。少しは私の話を聞いてくださいと哀願するジョゼフィーヌ。しかし、いくら言っても無駄だった。同行した、ウージェーヌとオルタンスも泣きながら頼む。明け方近くになって、ようやくドアが開いた。三人の涙の合唱にナポレオンは負けた。姿を現したナポレオンは、目を真っ赤に泣き腫らしていたという。妻もあったが救いようのないほどの浪費家であっても、イポリットのことがあっても、今でもどうしようもないほどジョゼフィーヌを愛していたのだ。この後もイポリットと全く会わなくなったわけではないし、手紙のやりとりもあった。しかし、ジョゼフィーヌの恋多き女の時代は、この夜をもって終わる。この1か月後、ナポレオンはクーデターを起こしてフランスの統領となり、政治と軍事の支配権を掌握。ジョゼフィーヌはフランスのファーストレディとなる。
フランソワ・ブーショ「クーデターで五百人会議員らに取り囲まれるナポレオン」ヴェルサイユ宮殿」
ドミニク・アングル「第一統領ナポレオン・ボナパルト」リエージュ クルティウス 美術館
ダヴィッド「ベルナール峠からアルプスを越えるボナパルト」マルメゾン城