K本県議
センセイ方の手柄自慢は今に始まった話ではないんだけど、「区内の防犯灯は全て私が...」との挨拶に「彼は全て自らがやったような顔をしていますが、そんなものではない」とかつて仕えた代議士が窘めた。私などは代議士の秘書時代から当人に随分と世話になってきただけにいつも賛辞を贈るんだけど「図に乗るから甘やかさないほうがいい」と秘書時代の先輩格となるHセンセイは手厳しい。
そんなK本県議と久々に夜席で御一緒したのだが、聞けばあらぬ誤解から当人のSNSが炎上、相手に目の敵にされるどころか脅迫されているとかで、ついには本会議場への入場の際に警護が付くことになったと本人。まぁこの世界は風呂敷が多いから話半分にせよ、一皮めくればその凶暴性は表の言い分と正反対、だいたいやることが陰湿で卑怯、子供のイジメに同じ。そんなヤツらは追い払ってやると啖呵を切ったものの、翌朝に後輩から予定を訊かれて「(昨夜に約束した)K本君の傍聴」と返事をすれば逡巡するそぶりすらなく勝手に別な予定を入れられてしまった。
ということでK本君には詫びを入れておいたんだけど、世渡りは私よりもはるかに上手いだけに...というよりも知名度を上げる為にあえて「意図的に」相手を利用しとるんぢゃないかというのが私の推察。まぁくだらん余興はその程度にして本題に。
需要と供給により価格が変動する仕組みを神の見えざる手と表現したその絶妙な言い回しに陶酔したのも昔の話。それにマルクス、ケインズが御三家か。自由競争に委ねることで必然的に着地点に到達するという競争の有益性を説いた先生に似つかわない本があることを「最近」知った。しかも「見えざる手」が登場する「国富論」よりも前に著されたものでありながら死の直前、つまりは「国富論」が絶賛された後にも大幅な加筆が行われているそうで、偉大な経済学者が人生の最後に辿りついた境地とはいかに。
著書の冒頭を紹介すれば「人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自らにとってなくてはならないと感じさせる」(第1部第1編第1章-道徳感情論-)との一文。やはり「富」より「道徳」なんだナ。
ということで、ラス・ロバーツ氏の「スミス先生の道徳の授業」(村井章子訳)を読んだ。副題には-アダム・スミスが経済学よりも伝えたかったこと-とあって、あくまでも同氏の勝手な解釈なんだけど、なかなか読みごたえのある一冊ではないかと。「人生をみじめにしたり混乱に陥れたりする時の大きな原因はある境遇と別な境遇の差を過大視することにある」とは世の嫉妬心を窘める意味で鋭い考察なんだけれども、それ以上に次の一文が目に付いた。