埼玉
どれほどの絶望感に苛まれようとも朝の来ない夜は無く、四季の移ろいに気付かされる春。「蕗の薹にがみに恥じる不浄の身」と詠んだ。いや、待てよ、「恥じる」を「染みる」、いや、「染むる」ではどうか。いっそ、「染みたる」にしては云々。そのへんの解説を焦がれど今月の句会はあえなく中止と聞いた。
少し前の会合の折に「以上を以て挨拶に代える」と申し上げた際、見知らぬ御仁から物言いが付いた。代理ならぬ本人の挨拶に「代える」の言い回しは不適切、間違いではないかと。ふむふむ、言われてみればそうかもしれぬ。こちとらどこぞの模倣というか知らぬうちに口癖が如く発していた訳で。相手の純粋な善意と思しき助言に自らの勉強不足を詫びておいたのだけれども調べてみれば。本来の「挨拶」なるものは相手に迫る「動作」にてそれを「口上」のみに「代える」、本来ほどのものでもないが、との謙譲の意を含む、と解説に見れば、ほれみろ、などと騒がずも軽率な言葉遣いを恥じてみたり。
五十年以上も前の発刊ながら未だ瑞々しく些かの古さも抱かせぬ内容こそが本人の稀有な天才ぶりを物語る。当人の表現を借りれば、八の字は富士山、赤丸チョンチョンは太陽と誰もが同じ。太陽といえばこう、花といえばこうとそれは絵というよりも「符丁」に過ぎず。芸術は国民運動そのものであって一部の関係者のみならず総ぐるみの運動として全員が描くべしと「真剣」に語っておられて。かねてよりの一冊「今日の芸術」(岡本太郎著)を読んだ。
そんな著書において厳しく戒められるは西欧崇拝。そうでなければならぬ、と、その既成概念こそが可能性を阻害する要因。西欧何するものぞの気概は植え付けられた劣等感を払拭するに十分。そもそもに江戸時代なんぞ彼らの価値観で眺めるからその地味な服装がダサく見えただけの話、質素と不潔は異なるものにて治安に公衆衛生などは少なくとも花の都よりは...。いつぞやに発動されし入国制限なんぞもどことなく偏見が見え隠れしてそうな気がしないでもないのだけれど、ここに来てあちらの方がよほど深刻な事態に陥ってはおらぬか、と心配してみたり。そう、偏見といえば映画「翔んで埼玉」を見る機会に恵まれたのだけど良かったナ。
さて、歴史的緊急事態として後世に教訓を残すべく公式の記録作成が指示されたとか。かのニュートンが万有引力をはじめ顕著な成果を上げたのがペスト流行に大学追われた隠遁期とは知られた話。それはあくまでも副産物にて過去の文献に探す終息への道。桁違いの死者数を記録した二十世紀初頭のスペインかぜの流行などおよそ二年。画期的な新薬というよりもヒトの免疫が勝った結果に近いとか。ならば...違う、違う。
そう、公衆衛生といえば予算審査特別委員会における斎藤伸志君(自民党/高津区)の質疑。市内の公園トイレの清掃が杜撰ではないかと一年前にその原因を指摘し、改善を求めていたのだけれども目に見えた成果が上がっているとか。イベントの自粛とあらばホンかランか。都内などでも格段に美化が進む公園トイレ。本市とて。
(令和2年3月15日/2558回)