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うさねこまったり

病気と私 13 中学1年

2020.04.08 16:06

誤字脱字を含め本文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。

お気づきの点などありましたら、どうかコメント欄で教えてください。

よろしくお願いします。


1979年(中学1年)

中学に入学する時、学校では着る必要がなかったのに父は学生服を買ってくれた。

この学制服は、入学式の時と、卒業式の時の2回しか着ることはなかった。


当時、養護学校中等部の入学式で学生服を着ていた人はほとんどいなかった。着もしないものにお金を使うのはもったない、無駄だと考える親がほとんどだったのに対して、普通の中学生と同じようにしてやるのは当たり前だと思ってくれた父にはとても感謝した。

父の辞令を見ると、この頃、給与の年齢調整が行われ、いくつかの段階はあったが、一気に年齢に見合った給与になっていた。


父は、自身がとてもお洒落な人で、洋服をものすごく丁寧に選んで買う人だった。それから「靴の汚い奴は、何をやっても全てダメだ」といい、自分の靴はいつも綺麗にして履いていた。

父の靴はいつも綺麗だったが、毎日靴墨を付けたりはしていなかったので、汚れは付いていなかったが、色がくすんでくることはよくあった。

そんな靴に気づいたとき、時々気まぐれで、父の靴を磨いてやることがあった。タオルで表面の汚れを落として、靴墨を全体に着けて、傷などで白くなっているところは真っ黒になるまで墨を染み込ませ、また、タオルで靴墨を落とす。

最後は仕上げ用の布をつかって懸命にゴシゴシすると、ピカンピカンになるのだ。

そうして、きちんと並べて玄関に置いておくと、いつも父はとても喜んでくれた。

父には、「靴を磨いておいたよ」などとは一度も言ったことはなかったが、私が靴を磨いたことに気づかない時は一度もなかった。

給料が上がって、生活も楽になってきたこともあったろうが、おそらくはそんなことがなくても、中学の制服は買ってくれだろうなとそう思う。


ともかく、父に学生服を買ってもらったことが嬉しかったと言いたかっただけだ。


中学生になって間もなくのことだった。

病棟の医院長回診の時に私の右膝がきちんと伸びていないことを気にした整形外科の先生が、牽引(けんいん)して伸ばしてみてはどうかと主治医に話し、それが実施されることになる。

これにはさすがに参った。

牽引治療とは、ベッドの足元に滑車をつけ、重しをぶら下げて足を引っ張るという単純明快な治療法であるが、これをやるためには、24時間のベッド上安静が必要だった。


この日から、歩行禁止と、洗面と大便以外は、ほとんどベッド上で過ごすことになった。

これまでは、食堂でみんなで食べていた食事もベッド上ですることになり。嫌いなものを、スタッフに知られることなく捨てることもできなくなった。

養護学校も、新校舎への登校ができなくなり、院内で授業をうけることになった。


ただでさえ、色んなことが嫌になってきたいたのに、これはそこに更なる追い打ちをかた。


インヒビターがあり、注射が使えない。


私のしてきたことと言えば、いつも病院中を車いすで走り回り、挙句に玄関の自動ドアに突進してガラスを割ってみたり、友情ライン(病院にあった長い散歩道)で車いすレースをやり、ひっくり返って血だらけになって帰ってきたりと、とにかくやることと言ったら、無茶なことばかりだった。

(私だけではない、血友病患者には、私と似たようなことして怒られる人が他にもいたが、みんな上手に製剤を使ってもらうことができたので、私ほど目立っていなかっただけなのだ)


牽引治療は、こんな患者に対して、とても病院側として都合の良い治療であったろう。

6年生を過ぎてからは、だいぶ落ち着いて、あまりおかしなことはしなくなっていた。しかし、そんな変化は長年見てきたスタッフには、変化として何も映らなかったのだとも思うし、牽引治療の話が出たときに、おそらくはスタッフ全員一致で「それがいい!」と言ったに違いない。そう思った。


ほんのわずかだが期待はあった。

主治医はとても優しい人で、私は、何をやっても、一度も怒られたことがなかった。

病棟師長は「先生がきちんと怒ってくれないから何回言っても分からないんですよ、ちゃんと叱ってください」と事あるごとに言っていた。

先生は、そう言われるとやれやれと言った風に、私を別室に呼んで、何かしらの注意をしていたのだが、迫力も何もなく、どんな話をされたのかすら何も覚えていない。

そんな先生だったから、もしかしたら、牽引も反対してくれるのでは・・・

さすがにこれは自分のしてきたことを考えてみても無理な望みだったのだと、当時はそう思っていた。

今になって考えてみると、先生だけは、本当に私の右膝が伸びる処置だという理由だけで、牽引治療を了承したのかもしれないなとも思う。

結果的には、この治療のおかげで、右膝はほぼまっすぐに伸びるようになる。

私の絶望と共にいつ終わるとも知れないベッド上牽引生活が始まった。


時系列が少しおかしくなるが、思い出したので書いておく。

小学6年生になった頃から、母の面会は一週間置きになっていた。

私は、自分の小遣いが欲しかったこと、洋服は傘マークの付いた(レナウン)ものを買ってほしかったので、浮いた電車代から出してもらいたいと母に頼んだためだ。


それ以来、私は自分の洗濯物を自分で洗濯するようになった。

病院には洗濯板とタライがおいてあり、それは病院のスタッフが使用するものであったが、洗面所にいつも置いてあったので、勝手にそれを使って洗っていた。

靴下や下着はもちろんであるが、時にはジーンズなども自分で洗っていた。

洗面所には、病院で使うタオルなどを洗濯するための二層式の洗濯機があり、脱水機を使いたいと何度も思ったが、万が一、そんなことをしているのを見つかってしまったら、洗濯自体禁止だと言われるだろうと思って、一度も使ったことはなかった。


母は、靴下の汚れは普通の洗剤では落ちにくいだろうと、固形の洗濯洗剤を買ってきてくれた。そのおかげか、私の靴下は、他の子の靴下のように、黒ずんだりしていなかった。

靴下も、パンツもシャツも、私のだけはいつも真っ白だった。

それが、とても満足だった。

私が自分で洗濯するようになると、母が来なくても困ることが無くなったので、更に面会の期間が延びて、2週間空くこともあったが、何の問題もなかった。むしろそのおかげで、洋服を一着余計に買ってもらえるのは、有難いと思っていた。


私のベッドの周りは、いつも洗濯物が干してあり、スタッフには邪魔だから、洗濯物は病院に出せと、相変わらず言われていた。


今なら、自分の物を自分で洗濯することも子どもなんてすごく褒められそうなものだが、そんなことを言われたことは一度もなかった。もしかしたら、迷惑そうに言われていたおかげで、さらに意固地になってやめられなくなっていたのかもしれない。


ともかく、ベッド上から動けないとなると、洗濯などできるはずがない。そのため、2週間分の下着と靴下が必要になり、衣装ケースに入りきらなくなった洋服を、紙袋に入れたりして置くようになった。そしてそのことも、邪魔だと文句を言われた。

母には申し訳なかったが、2週間に一度、大量の洗濯物を持って行ってもらうよりしかたがなくなってしまった。


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