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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

日本宣教10-長篠の戦いと野戦築城戦術

2020.04.09 12:00

1575年、織田信長は武田勝頼との間で、天下分け目の「設楽が原の戦い」に勝利した。この戦いは鉄砲対騎馬の戦いとして、中世的戦法の敗北と一般的に評価されている。しかし信長ファン、武田ファンに分かれて評価は非常に微妙である。

そもそも織田・徳川連合軍は3万8千、対して武田は1万数千で数から見ても劣勢、なぜわざわざ決戦に及んだのか、勝頼と武田家臣団の両者に責任論が出ている。しかし織田にしても大軍を擁しながら、設楽が原で待っていたということも武田への警戒があったといえるだろうか?

織田軍の行った鉄砲戦術は、欧州では「野戦築城」戦術としてすでに使われている。馬防柵の前には堀が掘られ、障害物が置かれ、相手の突撃が遅れ、鉄砲で狙い易くされた。三段撃ちはこの頃否定的な説が多いが、欧州の例でもある程度の交代はあったようだ。

この戦術を使い手は、スペインのゴンサロ将軍ということで、宣教師達から信長へのサジェスチョンはあっただろうか。思いつきで武田に自分の新戦術を試したということは考えにくい。武田軍はこの戦いで1万を越える大敗を喫したとされる。ともかくこの戦いの大勝利で、信長の「天下人」としての地位は確立したといえる。

下はドラマでの「長篠の戦い」だが実際はこんなに単純ではなかった