Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

たくさんの大好きを。

消えた青空 3

2020.04.11 11:55


「なんで?」


「どうして?」


「嫌だ!!」


香の口から飛び出す言葉はこれから先を望むものは一つもなくて、らしくなく動揺したおれは思わず弱音を漏らした。

「おまえのことがわかんねーよ・・」


思えば奥多摩以降少しづつ壊れていったように思う。

今までそこに在った光が次第に無くなっていることに気付く。

香の中に在ったおれに向けられていた光が、熱が。

ストレートな想いはいつからか消えていた。

依頼が終わり、依頼人が胸の中に飛び込んできた時にも、ぼんやりとする香を視界の端で捉えるが、空を見上げて僅かに笑っているように見えた。

胸の奥が嫌にざわついて煩かった。

瞳がこちらを向いていないことがたまらなく嫌だった。


おれはこの感情の名をもう知っていた。

香が教えてくれた。

名も知らなかった感情を。


獠。

獠。と呼ぶ声が心地よく、おれの聴覚は何よりも真っ先に香の声を捕らえる。

だから香の口から出た言葉が信じられなかっ

た。


「あたしだってあんたのことがわかんないよ。最初から今までずっと。」

見慣れた部屋のそのどれもがぐらりと歪んだ。


おまえはおれのことをーー

おれはずっとおまえだけはと

慢心に心底嫌気が差した。



あれは二月か三月のいつだったか、珍しく記憶が曖昧になっているが、馴染みの情報屋から声を掛けられて足を止める。

ネオン街に煌びやかな光が輝きが、眠らない街を忙しく掻き立てているようにあちらこちらで誘いの甘美な匂いが道行く乾いた心を甘く誘う。

アンテナをさり気なく張りながら、日課となっている夜の街の散策が、ここ最近は以前よりも更に顕著に逃げ場となっていることにため息を漏らしたその背後から、

「ため息なんてどうしたんだい?獠ちゃん。」

のんびりとしたその声に合わせるように、のっそりと振り返る。

「なんだよ、徹っつあんかよ。別になんでもねーよ。」

情報屋の中でも、この街に流れ着いた頃から懇意にしている男の姿をチラリと見やると、構ってくれるなとばかりに顔を逸らした。

今日は自身でも自覚があるほど虫の居所が悪い。今下手に絡む奴がいたのなら、加減などできないくらいに苛立っていた。

「・・獠ちゃん、なんでそんなにイライラしてんだい?・・香ちゃんのことかい?」

獠の右眉がぴくりと跳ね上がるが、表情は一切崩さずつまらなそうに答える。

「なんで香なんだよ?イライラなんかしてねえけど。これから楽しい時間の始まりなのに、水差すような事言うなよ。用はそれだけか?んじゃま、またよろしくな。」

片手を上げて去ろうとする獠の背中に、鋭い言葉が突き刺さる。

「いったいいつまで逃げてんだい?獠ちゃんがそんなんだから香ちゃんは・・・」

痛いところを突かれて、獠の歩みが止まる。

「もう知ってんだろう?香ちゃん、ここ最近何度か決まった男と会ってるよ。いいのかい?」

「なんでおれに聞くんだよ。香がどこで誰に会おうと、おれには関係ない。」

「・・・・・」 

この界隈の奴らは、こと香のことになるとお節介焼きばかりだ。おれには関係ない。

それは本音だ。

口を出せる権利などどこにもないから。

本音は時に厄介で、口を突いて出ればより真実のようで、イラつきは度合いを増していき早くこの場を立ち去りたかった。


「柿崎真也。都内に本社がある総合商社の若手で、去年地方から戻ってきたばかりだ。上からも下からも好かれるタイプで、いわゆる好青年。香ちゃんの高校の同級生さ。」

徹の瞳が憐みを含み獠を見つめる。

「なあ、獠ちゃん。もうとっくにこんなこと知ってんだろ?おれだけじゃなくて、新宿の馴染みの奴らは香ちゃんの事ならみんな共有してる。新宿の中で起きた事なら尚更だよ。耳に入っていないはずはないんだろう?」


獠ちゃん、香ちゃんが


男と会ってたよ。なんだか親しそうに


始めはさ、偶然だったみたいなんだけどさ、次からはありゃあ、待ち合わせだな


知らないわよ〜、同級生って特別なんだから


獠ちゃん!いいの!?バレンタインに会ってるなんて意味深じゃない?


次から次へと入ってくる耳障りな情報と共に、お節介な奴らはちくりと釘を刺すことを忘れない。

乗ってやるもんか。と思いながらも、

「獠ちゃん、顔こっわ〜い。」

と指摘をされ、感情のコントロールが上手く出来なくなっている事に思わず舌打ちが出た。

最後に入ってきた情報は、バレンタインから数日後に二人が会っていたと告げ、お決まりのように、獠ちゃんどうするんだい?とおれに答えを求めてくる。

だからおれに権利はないんだとささくれた胸の内は隠しながら、無言で立ち去った。


「まあな。いいんじゃないか?アイツもやっとこんな世界から足洗えるいい機会かもな。」

「獠ちゃん・・・そんなの今更無理なことぐらいわかってんだろ?名前が大きくなり過ぎたよ、獠ちゃんも香ちゃんも。」


徹の言葉に不意に槇村の顔が浮かんだ。

アイツは怒っているだろうか。

こんな世界に引き込んだおれに

アイツは悲しんでいるだろうか

もう戻れない場所まで香が来てしまった事に

実際は手段さえ選ばなければ、香を表の世界に戻すことは可能だ。それでもおれに恨みを持つ奴なんて腐るほど存在するから、リスクが0になることは多分おれが死ぬまであり得ない。頭の狂った奴はどこにでもいるから、表の世界に戻ったとしても香はやっぱり狙われてしまうだろう。

名を変え

顔も変え

まるで別人として生きるのなら

誰にも気付かれずに、別の人生を歩む事はできるのかもしれない。


だがおれが望んでも

香はきっと首を縦に振らない

極論、どんなことをしてでも生きていて欲しいおれの想いと

どこまでもまっすぐな香とでは見る世界の色が違いすぎるとわかっている。


「・・わかってるさ。例え離れてもアイツの全部はおれが守ってみせるさ。」

「獠ちゃん・・なんでそれを香ちゃん本人に言ってやらないんだい?そうすれば香ちゃんだって・・・」

「知らなくていいことだからさ。こんな世界の黒い場所なんてアイツは知らなくていいんだよ。」

「香ちゃんが望んだとしても?」

「それでもだ。」 

冷えた瞳は立ち入ることのできない闇を纏う。

口元を少し歪ませながら轍が寂しく笑った。

「香ちゃんには獠ちゃんしかいないよ。」

「どうかな?おれじゃなくてもアイツは

・・・」

「獠ちゃん・・・」

この街の住人は香に甘く優しく、そして変化に聡い。もう気付いているのかもしれない。


毎日の日課の時間の変化。

不自然なくらいに街での遭遇が無くなっていること。

逃げるように夜の世界に明け方まで潜り込んでいるおれの姿に馴染みの連中は訝しげな目を向けてくる。


避けられていることがわかっているのに、どうすればいいか分からず、ただ時だけが過ぎていった。

ああ、声を聞いてないな。

とぼんやりと空を見上げた。

こんな街にも見上げた視線の先にはちゃんと星空が広がっていて、あのどこかに槇村がいる世界があるのかとらしくなく非現実的な思考が過ぎっていく。

轍が静かに口を開いた。

「獠ちゃん、老婆心からのお願いごとだよ。

一度きちんと向き合ってごらんよ。おれ達はさ、香ちゃんの心からの笑顔が好きなだけなんだ。笑っていて欲しいんだ。あんな子いないだろ?おれ達みたいな地を這いながら生きてるような奴らにも、分け隔てなく情を分け与えてくれる。救われてるんだよ、本当に。」

「・・アイツ、なんでだろうな?ああいうとこ。きっと槇村譲りだな。」

「槇さんか・・懐かしいなあ。そうだな、槇さんもいつも俺たちに気遣いを寄越してくれた。獠ちゃんの言う通り、似てるんだな・・」

アイツらはすげえよ。

声にならない声で獠が呟いた。


あら?獠ちゃんじゃない?いいとこで見つけた〜と華やいだ声が近づいてくる。

今はそれが煩わしく思えて、繕うのも面倒で、「悪りぃな。今日んとこは帰るわ。」

と少し背を屈めながら、声とは反対方向に歩み出す。

「獠ちゃん!大事にしてやりなよ!またいいネタ用意しとくから。」

投げかけられた言葉には答えず、じゃあなと背を向け、闇に消えていく。

「獠ちゃん!」

「今日は無理だよ。諦めな。」

「なによ、難しい顔しちゃって!あ〜あ、フラれちゃった。でも何アレ?珍しいわよね?」

呆れたように女が首を傾げ、ため息を漏らした。クックッっと轍がたまらず声を立てて笑った。

「なによ!?ケンカ売ってる?」

「いや、おまえさんにじゃなくてな、いつもみたいに社交辞令を楽しむ余裕もないんだってごとだ。」

「社交辞令って・・ハッキリ言ってくれるじゃない?あーもう!ほんと、わっかりやすいんだから。香さん・・でしょ?」

「それしかないだろう?獠ちゃんがあんな風になるのは。」

「・・あれだけ新宿や付近でオープンに会ってたら、あっという間に広まっちゃうわよね。香さんもそこんとこ上手くやればいいのに!密会の場所なんて幾らでもあたしがーーフガっ」

コラコラと苦笑いで、轍が口を塞ぎ言葉を遮る。

「なっ!なにすんのよ!!あたしはねえ、香さんにっ!」

「あのだな、おまえさん今日の獠ちゃんの機嫌見ただろ?そんなこと万が一聞こえてみなよ?もう二度と、店になんか来てくれなくなっちまうぞ。」

「や、やだ、それ困る!ママにあたしが怒られちゃうし!!なし、なし!!今のなーーし!」

「はは。そこまで器が小さい男じゃないさ。」

む〜〜と膨れっ面が轍に顔を寄せ、抗議の声を上げる。

「からかったわね?びっくりさせないでよ。

でもさあ、案外根に持ちそうよ?あのタイプ。」

バッサリスッパリ気持ちよく切っていく。

徹の顔も緩み、そうだな。と冴羽獠に対する見解の一致に、ニッと笑い合う。

「香さん・・獠ちゃん捨てちゃわないよね?」

「さあな・・・」

「えーー!??さあなって。そこ、否定するとこだからね。むしろ、してよ否定。」

「散々待たせたからなあ・・しびれきらしちまったのかもな。それとも本気で惚れちまったのかな・・」

轍の言葉に女が目を剥く。

「・・嘘でしょ?」

「聞いてんだろ?香ちゃんの様子。」

「そうだけど・・でもっ!!」

「選ぶのは香ちゃん自身さ。このまま獠ちゃんが何もしなければ、香ちゃんだって・・な。」

「二人ともバカなんだから。大事過ぎてなんにもできないって、今時中学生だってもっと先に進んでるわよ?・・ほんっとバカ。」


「あたしね、獠ちゃん好きなの。」

「おれだってさ。」

「でも香ちゃんだって大好きなの。」

「偶然だな。それも同じさ。」

女がくるりと獠が消えていった方向に振り向き、すーと息を大きく吸い込む。

「バカーー!!!バカーー!!バカッ!!

いーくーじーなしっ!!さっさとくっついちゃえ!」

「!?んん?」

「はあああ、すっきりした!お腹空いてきたー。お店行ってなんか食べよっと。」

突然の出来事にあんぐりと口を大きく開けたままの轍に、ひらひらと片手を振り、まったね〜と軽やかに跳ねていった。

轍の瞳が楽しげに揺れる。

「若いって凄いな。とんでもない爆弾落としていきやがった。」

今頃どこぞでくしゃみの一つでもしているのかと目を細める。

頼むよ。と心の中で呟きながら、冷え込みが一層深くなってきた街の喧騒の中へと紛れていった。



角を曲がりアパートが見えてくると、のっそりと顔を上げ、これから帰る部屋の明かりを確認する。

今までならこの時間に帰れば灯っていた柔らかな光は、ここ最近はいつもそこには静かな闇が在るだけだった。

「寝てるか・・・」 

鍵を取り出し右手の中でカチャカチャと弄びながら、タンタンと打ち階段を上がっていく。玄関扉を開けながら香の気配を探るが、ひんやりとした廊下の先に続く部屋のどこにもそれらしき温もりは感じられない。

焦りが少し生まれる。手早く靴を乱暴に脱ぎ捨てると、ひんやりとした廊下を進みリビングへと続くドアを開ける。  

何故かどこにも感じられない。

留守を狙っての良からぬ輩の類かと、神経をより澄ませるが、そんな痕跡も嗅ぎ取れず意識を上に飛ばすと、一つ上の自身の部屋の扉からうっすらと明かりが漏れ、探していた気配の主の所在を捕らえてほっと安堵感が漏れる。

「ったく、なんだってこんなとこで寝てんだよ。」

扉をそっと開ければそこには風呂上がりの薄着姿で眠る香の姿があり、今度は脱力感が押し寄せてガシガシと頭を掻く。


こいつはどうしてこんなに色々と。

ベッドにもたれかかりペタンと床に座り込み、少し頭を傾けながらすうすうと眠る姿は、あまりにも無防備すぎて。

吸い寄せられるように近付くと、

「ばーか。風邪引くぞ。」

と極々やんわりと香の頭を撫ぜると、ふわりと柑橘系の甘いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐり、瞬時に色々な部分が熱くなってくる。


気付けば唇が触れる寸前だった。


ん・・と漏れた吐息で我に帰り、反射的に後ろへと後ずさる。


ヤバイ。おれ何しようとしてた?

10代のガキの頃じゃあるまいし、衝動的なんてそれこそ有り得ない。

そんなことはくだらないことだと思っていた。常に頭は冷えた部分があるのが自分だと認識しいたから、正直動揺はハンパない。


香といるといつもこうだ。

生きるか死ぬかの選択の中で、ベストを無意識に選んできた本能的な勘の部分までもが崩される。

闘いの最中、敵に背を向けるなんてあるワケがなかったのに。

だけど何故かそんな様にひどく安心する。

おまえの前だとおれはただの男になれる。

だけどな、同時に守っていけるのかひどく不安にもなるんだ。 

「なんでだろうな。多分おれにもおまえにもわかんないよな。」


再度側に寄り、愛おしげに頬を撫でる。

満たされる。

「おれは・・・」


おまえを失うのが怖いんだ。

生きていてくれさえいればいい。

どこかでこんな世界に関わることなく幸せに

側にいて欲しい

居なくなれば無意識に探してしまうだろう

側にいないことは失うことだ


どれが正解でどれが間違いかなんてわからなくて、その全部が本当の気持ちだから余計に定まらない。

「ごめんな、離してやれなくて。」

できるはずもない。

とうに答えはこの胸の奥底にあった。


香は。

何度もおれから離れようとした。

その手を掴み、その度に意味深な言葉や態度で翼を折ったのはおれの方だった。

「槇村に殺されるな。おれ。」

手の甲で額や瞳に軽く触れながら、ごめんな。とまた小さく呟いた。


頭の中に雪崩のように告げられた言葉の一つが蘇る。

「獠ちゃん、獠ちゃん!バレンタインから間もないのにまた会ってたらしいよ!なんだか込み入った話だったみたいで、香ちゃん泣いてるようにも見えたっていうじゃないか。」

またかよ。勘弁してくれよと思いながらも、泣かせやがった?と自分の事はまるっと棚上げに、胸がイラつく。

「それにさ・・・そのさ・・」

言いにくそうに男がこちらを伺うような視線を寄越す。

「んだよ、言えよ。」

「あ、ああ。あのさ、獠ちゃん。二人がキスしてるように見えたって。まさか、香ちゃんに限ってだよ。だけど、あいつらがそう言うから・・」

さっきとは違うイラつきが襲ってくる。

誰が?

誰とだ?

そんな動揺は微塵も見せずに、

「ふ〜ん・・いいんでないの?アイツもようやく・・か。」

「また、そんな!その後抱きしめてたって話は?」

そんなの聞いてないし、聞きたくもない。

「あーもう終わり、終わり〜!おれさ、これでも忙しいの!!ナンパもしなきゃだし〜」

「成功しないじゃん・・」

ずこっ。とワザとらしくこけて見せる。

いや、今の言葉は本気で心外だ。

「してるわっっ!!この前だってなあ!!いい感じになってだなあ!」

言いながら気づく。

そういえばいい感じにはなったけど、それからどうしたんだっけ?

ああ、なんだかんだ理由つけてもう少しで。のところで別れたんだったな。

最近はそんなのばっかりだな。駆け引きや会話は楽しいが、そこから先に進もうとすると、何故だか香の笑った顔が浮かぶ。

 

あー、おれこれを失くすのか?

と思考が一気にストップしていく。


泣きそうな顔。

あれは随分前に、もう寝てるもんだと思い女の香りを纏ったまま帰宅したおれに、思いがけず起きて待っていたらしい香が一瞬だけ見せた顔。言い訳なんていう仲じゃないし、そんなつもりもなかったからただやり過ごそうとすれば、

「おかえり。」

と一言告げ、寂しそうに笑って去ろうとした香の姿に心臓がうるさく跳ね上がった。

「待てよ。」

引き止めるつもりはなかった。

止めたところで何を言えばいいかわからなかったから。

一番面倒臭い選択を知らず選び取っている事に口調がいつもよりキツくなっていく。

「なんでよ。」

立ち止まってはいるが香は顔を合わせようとはしない。

「言いたい事あるんじゃねーの?」

「・・ないわよ。」

「嘘つけ。」

肩が揺れた。

振り向いた瞳は勝気さが全開で、下から睨み上げるようにおれを見ている。

「ないったらないから!・・あたしもう寝るね。」

何かに気づいたように、すっと顔を逸らし顔を歪めた。

「香。」

触れようとする右手は思わぬ力で振り払われ、思わず香の顔を凝視すると、見開いた瞳で動揺を隠せない香がそこにいて、ごめん。と力無く呟き、背を向け扉を静かに閉めて消えた。

「・・アホ。ごめんだなんてなんでおまえが言うんだよ・・」

気付いたんだろう。 

口に出さなくてもアイツの全部で伝わってくる。責められるよりキツイ。

振り払われたのは心までのようで、たったそれだけの事なのに、どうしてこんなに不安になるのかわからなかった。


香といるとわからない事だらけだ。

欲とか乾きとかその場限りの熱のやり取りとか、そんなものと引き換えにおれを見るあの瞳が曇るぐらいなら。泣き出しそうなさっきの顔が頭から離れなかった。

次の日、恐る恐るキッチンに行くと、いつもと変わらない様子の香がいて、

「・・はよ。」

と寝起きの声でボソッと言うと、

「おはよう、獠。」

と笑って答える。

答える一瞬前に、僅かだが指先が震えていたのをおれは見逃さなかった。

目元はうっすらと腫れぼったくなっていて、あれから泣いていたのだろう事は隠せない。

それでも日常を演じようとする香の姿がやけに儚く、心許ないくらいに小さく感じた。


いつか居なくなってしまいそうで 

命のやり取りの中なんかじゃなく、こんな事でなんて笑えないし、何よりこんな顔はさせたくない。

「はい。」

コトリとテーブルに置かれたマグカップからは温かな湯気が上っている。

「・・・サンキュ。」

「どういたしまして。」

目元を緩ませてふんわりと笑うその表情に、

胸が爪を立てられたようにギュウと痛み、同時に見惚れた。向けられた笑顔がこの日常が続いていく事を肯定されているようで、心底ほっとしていた。




そういえばあれからマリィーに言われたよな

「欲求不満がたまってるって顔してる。」

なんか海坊主にも言われたような。余計なお世話だ。そんなもんまで見透かすなんてこれだから裏の人間はタチが悪い。

まだ隣で情報屋が香ちゃんがーだの、だからさ、獠ちゃん!などと喚いているのを軽くいなして、ナンパに戻った。



思考の波にぼんやりと揺られていると、頬に触れていた掌が揺れ、香が床に倒れ込みそうになるのを、慌てて抱き抱える。

その柔らかさや首筋から香る香自身の甘やかな匂いに、衝動的に押し倒したい欲が下半身から湧き上がってくるが、いや流石にまずいだろうと理性がストッパーをかける。


危なかった。今のは危なかったぞ

寝ていても無自覚に煽るなんて反則だろ


ここで寝かせていると後々面倒だなと、最近の会話もない生活も後押しして、客間に戻すのが最善と判断をして両手で抱き上げる。

今夜は色々まずそうなのでなるべく視界に入らないように視線を上にずらしながら、客間へと急ぐ。

両の手にかかる重みに酔いしれそうだった。

ぶるりと頭を振り、これぐらいはな。と軽く香の頭に頬を埋めると、温かいものが胸を撫ぜた。

「ちったあ、気付けよバカ。」

理性総動員もいつまで持つかなと透き通るような白い肌に、気付かれぬように所有の跡を残した。




それからしばらくたつと世はホワイトデーなるものに沸き立っている。

香とは相変わらずで、わかりやすく接触を避けられているせいで言葉の一つも交わしていなかった。


関係ないし。おれには。

今年はもらってねーしな。

不貞腐れているワケではないよな。と独りごちる。


ちょうど一か月前のあの日は朝から嫌な空気になった。家族だのアニキだのといきなり思惑とは違う話を振られて、戸惑いと苛立ちでいつものようにやり過ごせなかった。

「おれは・・違うだろ。槇村の代わりはごめんだ。」

「そうでしょ?私に妹になって欲しいって言ったのは獠じゃない。獠はアニキとは違うけど、あたしが妹なら獠は兄でしょ?アニキはアニキ獠は獠だよ。」

あの時は確かに言った。家族の意味が悟られるのがどうにも恥ずかしさが襲い、妹という言葉で誤魔化した。

何を今更。

奥多摩での言葉を斜めの方向で受け取っていたのかと、どこまでも重なり合わない香の思考にも腹が立ってきていた。

立ち去ろうとする香の手首を掴み、

「おれはおまえのアニキじゃない。好きにすればいいなんてもう言ってやれない。」

ほとんど漏らしたことのない本音をぶつけながら、昨日美樹にキャッツで言われた言葉が頭を過ぎる。

『でもあれね、あれはきっととうとう愛想尽かされた感じよね。』

あれから、そうなのか?という不安とそんなわけがない。という慢心が胸に混在している。


おれが触れても熱を帯びないその瞳に、不安へと振り子はどんどん振れていく。

香が戸惑いで瞳を揺らすと、力を込めておれの手を振り払う。

胸に黒いものが落ちる。

顔を合わせていられなくて、逸らした視線の先は無機質な灰色が一面に広がっていた。

「好きにするよ。そうすれば獠は楽になれるの?家族にさえなれなら・・・」

飛び出していく背中は知らない誰かのようだった。




「はあ・・もういい加減にか。ったく柄じゃねえんだけどなあ・・」 

あれから続く不自然な日常の繰り返しは思った以上に、精神を疲弊させていた。

おれには関係ねーんだけど、今日というイベントに合わせてまた噂のヤツと会うんだろうか?

そう思って、サイドボードの時計に目をやると、最近香がいつも出かけていく時間よりはまだ随分時間があった。

くしゃくしゃと頭を掻き乱すと、意を決したようにベッドから降り立ち、手早く着替えを済ました。浴室にある洗面台に向かい、洗顔をして冷たい水で頬を軽く打つ。気分がクリアになっていく。

リビングに足を踏み入れようとすると、テレビから漏れる声と共に、

「だから、あの時アイツ・・」

香の呟きを耳に捕らえる。

「アイツって?」

扉に半身を預けながら、声の主を見つめる。

誰の事かは検討はつくが、あえて口には出さない。誤魔化すように話題を変える香に、再度問いかけると、黙り込みため息を一つ落とした。

避けられている上にため息までもかよと、責めるように問えば、

「避けてなんか・・・ない。」

と瞳を合わせる事なく、香が静かに答えた。

「あれが避けてなくてなんだってんだよ?何怒ってんだよ?」

俯き加減で表情が見えない事に、真意を探りたくて顔を覗き込む。

澄んだ薄茶色の瞳が揺れた。

「怒ってる?あたしが?」

本当に心外そうな表情を浮かべた香に、言葉が詰まる。

「・・・怒ってんじゃないならなんだよ。」

思考がうまく回らない。怒りじゃないならあれは。

紡がれた香の言葉は、一語一語他人の言葉のように胸を通り過ぎていく。

関係ない。とおれに諭すように告げる香はおれちが知っている香と同じなのだろうか。

逃げるように目を逸らし、交わろうとはしない香の名を呼び顎を掬い、瞳を合わさせる。


おれを見てろーー

「香、ちゃんとおれを見ろ。」

途端、取り乱し華奢な肩が震えた。

「おれは伝えたよな、あの時。」

聞きたくないとばかりに左下へまた視線を落とす香を再度捕らえる。

「おまえは・・おれと生きていくんだろ?」

なあ?と最後は届かない程に掠れた声に、首を振り、無言で否定の意思を突きつけてくる。おれのシャツを握る香の掌に心臓ごと潰されてしまいそうだった。

「あたしは・・パートナーでいる資格もないのかな?」

耳を疑った。

「香、おまえ、何言ってんだ?」

「あのヒトみたいにはなれないけど。あたしは獠のパートナーではいたかったから。だけど・・・」

「香?」

「近づいたと思ったのはあたしだけだったんだよね。でも・・あのヒトは言ってたから。

全部大切にしてくれたって。

あたしはそうなれなかっただけ。」

香の熱がぶつかってくる。

ここ最近、消えてしまっていた熱が塊となって真っ直ぐに淡々と向かっている。

止まらない想いは、突かれて痛い場所を晒していく。

香の言わんとする事を理解し、加減できないまま抱きしめた。



まだ香とパートナーと組んで間もない頃に、夜の世界に飛び込んで来たばかりの女といい仲になった。あの頃はおれの庇護下に潜り込んで来た香という存在をどう扱っていいか日々持て余していたこともあって、余計に後腐れない繋がりが楽で家を空ける時期も多かった。

昔の記憶にすらなくなっていた女がこの街に戻りおれの前に姿を見せたのは、行きつけのバーでの出来事で。

再会の会話の中に含まれる、意味深な誘いを

のらりくわりと交わしていた。

「だから、ねえ・・私、あの頃より聞き分けよくなったのよ?だからね、また。どう?」

本気を帯びた想いほど面倒なものはないな。

と顔には出さずに胸の内に秘め、道化のスイッチに切り替える。

「わあお!嬉しいけど、獠ちゃんみんなのものだからなあ?両手埋まっちゃってるかも〜」

軽い牽制を含んだ投げかけを、夜の世界を渡り歩いていただけあって、聡い女がその意味する事を汲み取り、さっと顔色を変える。

「あら?聞いてる話と違うんだけど。随分と前から獠ちゃん、誰ともいい仲になろうとしないって、た〜くさんの子達から聞いたんだけどなあ。ね。どうして?」

どうしてと聞かれても毛頭答えるつもりもないので、

「さあね。ま、噂は噂だかんね〜。好きに言ってればいいさ。」

と適当に濁す。正直かなり面倒臭い。 

「・・香さん?」 

「んあ?」

「でしょ?」 

「香はおれのパートナーだけど。」

ギリと唇を噛み女が声を上げる。

「だから、そうじゃなくて!香さんがいるから?あの人さえいなかったらーー。」

喚く女は好きじゃない。ただ一人例外を除いては。

「話はここまでだな。また今度大人の話でも・・な?」

そう言って立ち上がり去ろうとすると、

「獠ちゃん!!」

とジャケットを掴まれ涙目になる女に、またな。とやんわりと静止をかけてその手を離すとカランと店のドアを開けてネオン街の中へと身を滑らせた。


あの数日後に、香に接触したらしい話は数人の情報屋から本気で心配されたから知っている。

昔のことだろ?

と返せば、あの手のタイプは思い込み激しいのよ!!言わなくていいことまで言ってるわよ、きっと。

と、ラフレシアのママがダミ声髭面で、わあわあ喚きながら首をこれでもかは。と締めてきたから、危うく酸欠状態になりかけたので

「なにすんだよっ!!」

と抗議すれば、

「だいたいねー!!獠ちゃんもなんであんな女!!!きーーっっ!!」

と、今度は鼓膜が震えるような、野太いでかい声で羽交い締めされそうになったので、慌てて距離を取るが、流れる空気にひくつく。

「む、昔のことだっつーの!!」

「香ちゃんにとっては今も昔も関係ないわよっっ!!」

痛いところを突いてくる。

でもな〜、覚えてないぐらい昔だしな〜、あれだ、あれ。

ぴよぴよと産まれてのヒヨコが親を探すように、あちらこちらに瞳が泳いだ。刺すようなママの視線が怖すぎる。

「知らないからねっ!!」

「は??」

「知らないったら知らないんだからっ!!」

「だから、なにが?」

「女の勘をなめんじゃないわよ!」

いや、男だし。

いや、香?

アレは・・女だな。うん。目の前のは違うけど。あーだこーだと、散々頭の上で喚かれて、最後に、

「泣かすんじゃないわよ!」

とトドメを刺されたから、誰を?とちらりと横目で見ながらとぼけて見せれば、ああ?!と本気でヤバそうな睨みを浴びせてきた。

逃げるに限る。

さいならっ。とすたこらさっと逃げ出した。



今は逃げられない。

今までならあの手この手で棚上げにしていた核心が、ぱっくり口を開けて待っている。

男女間のことで向き合った事なんて覚えにないから、面倒臭いし、厄介だし、それでも気づけば言い訳ばかり頭で算段している自分に軽く目眩がする。いつからだ?おれ。

もう随分と前からだなと、観念のため息が漏れた。


抱きしめているのに背中合わせのように感じる腕の中の温もりは、溜め込んでいた想いを吐き出し涙を溢す。

香の涙はいつもおれを芯で揺さぶり、一人の男へと戻していく。

泣かれるとどうしていいかわからなくなるから、強く抱きしめた。おれはこんな術しか知らない。

「バカヤロウ・・・」

何を言われたか察しはつくが、かける言葉が見つからない。

バカはおれだ。

それすらうまく伝えられない。止まらない涙の粒と一緒に流れ落ちていく心ごと閉じ込めておきたくて、拘束を強めて首筋に頬を当てる。


プル。プルとサイドテーブルに置かれていた香の携帯が何度も揺れ、手を伸ばそうと逃げ出しかけた体を捕らえ、強くかき抱く。

頭に浮かぶのは最近頻繁に会っている奴の顔で、一度だけ遠目から見た男は香の横で楽しそうに笑う、ごく普通の男だった。

ただ側にいて

ただ笑い合って

またな。と次が当たり前に来る日常の世界がやけに色付いていて、知らず目を逸らしていた。


鳴り止まない音に応えようとする香は、やはりあちら側がいいのかと、湧き上がる何かに抗えず、遮るように唇を奪う。

体中のどこもかしこもが熱を帯びる。

こんなキスは知らなかった。

なすがままに体を預ける香の頬を掌で包み込みながら、何度も何度も重なっていく。


二人で溶けていけばいい


そう思いながら溺れていく思考の中、香が逃れようと抵抗を繰り返すが、点いた焔は止まらない。お構いなしに重ねていくと、掌に涙の波が次から次へと伝っていき、嫌だとばかりに香が左右に首を振っていく。

僅かに離れた唇が恋しかった。

離れてみれば、直ぐに囲い込みたくて胸が疼く。なのにおまえは。


「嫌だっ!!」

掠れたようなその声が耳に届き、体が強張る。

離れた唇と共に香の心を見失い、

「嫌・・か?」

力無く問い掛けるしかできなかった。

「嫌だよ。こんなのは嫌。獠にとって全部一緒でもあたしはそんなのは嫌だ。」

向き合うことから散々逃げてきた代償だと思った。戻ってきた香の熱は溢れて痛みを伴う。だから余計に見えなくなる。

余裕なんてものは綺麗さっぱり吹っ飛んでいく。


「おまえのことがわかんねーよ・・」

「あたしだってあんたのことがわかんないよ。最初から今までずっと。」

ぐしゃりと視界が歪む。

ずっと?

最初から?

いつから。どこまで。

全部一緒だと言う言葉の意味を思い知る。

触れることさえ躊躇われたが、分け合いたくて指の背で頬に触れ涙の跡をそっとなぞっていく。

「一緒なわけ・・ないだろうが。確かにおれはどうしようもない男だが、もうずっと前からおまえだけだって・・香?」

目を閉じ、耳を塞ぐ香にカッと頭に血が上り、両手をキツく掴み、無理矢理向き合わせ

「香!聞けよ!」

と感情のままに声を荒げ吐き出す。

「聞いてる。」

「聞いてねーだろうが!何言われたか知らねえけど、過去は変えられないけどな、それでも・・」


『香ちゃんにとっては今も昔も関係ないわよ!』


それでもと願うのはきっと自分勝手なんだと思う。それでも。


香の顔に怯えの色が浮かび、全身が強張っていく。

「・・・すまん。怖がらせたか?」

涙の跡をそっとなぞる。 


「おれは・・おまえと生きていきたい。」

見栄とか意地とか罪悪感とか。

そんなもん全部取っ払って、ただ一人の男として願う。香の瞳から涙が次から次へと溢れ出していく。

無理だよ。と首を振りながら泣きじゃくる香が腕の中で崩れ落ちそうになり、反射的に抱きとめるが、心は加速的に冷えていく。

再度、願いながら深く抱き寄せると、離れ難くて乞うように問う。

「無理・・か?」

腕の中の存在が縦に揺れる。

「・・そうか。」


この感情をなんというのだろう。

何もかも失くしてしまいそうなこの渇きは。


頼むから泣いてくれるな。

首筋にキスを落とすと、柔らかな温かさに触れ、痕跡を残すように頬を寄せる。

りょお?と掠れた声が胸の中から漏れて、名残り惜しげにゆっくりと離れ、ごめんな。と想いと共に薄茶色の癖毛の髪に触れた。

離れていく掌を追うように、見上げた香の瞳と視線が絡まる。

この全部はおれのものだ。と暴れだす身勝手な想いを蓋をして奥底に沈めながら、抑えきれないカケラに乗って、唇をまた攫った。

ごめんな。おれは本当に


「すまん・・・」

顔を合わせているとどうにかなりそうだったから、頭を冷やそうとリビングのドアに手を掛けた背中にアルトの声が届く。


「獠。」

おれはさ、香。

名を呼ぶおまえの声が一番好きだと思う。

言葉は言霊って美樹ちゃんが言ってたよな。


『すごく強い気持ちは言霊っていうより刃よね。ねえ、心当たりないの?』


「獠。」

言えよ。全部。

それごと攫ってやるから。

「知らねえからな。おれは。」

振り返り香に視線を合わせると、ひどく困ったように眉を寄せて笑っていて、眩しくて眩しくて渡せなくて、もういいよな?と全てを解放した。



2020.4.11








あとがき


終わるつもりが終わりませんでしたΣ(・□・;)長くなってます。ごめんなさい🙏

前のお話の冴羽さん視点です。

あと一回で終わります(*´ー`*)多分。絶対。うん、、私はどうしていつも長くなるの書きながら頭クラクラして力量不足を痛感しますが、書くのは描くのと同じくらい好きなので、いつも長々としている文章を読んで頂いてるのは本当にありがとうございますの気持ちでいっぱいです🙏

冴羽さんの過去は香ちゃんの中ではいつか向き合わざるを得ない事だと勝手に妄想しているので、それが根底にあるお話を書いてみたかったのがこのお話のきっかけです。原作のセリフから勝手に自分解釈の妄想膨らませてますので解釈違いなどなどそこら辺はゆる〜く片目で見て頂けたらと思います(*´ー`*)

マリィーさんのセリフとか海坊主さんのセリフとかなどからだいたいこんな時期からかなあと思っているだけなので(*´ー`*)

そこらへんの色んな方の色んな解釈も楽しそうで、うはっ❤︎となります😋

時間軸が行ったり来たりで分かりにくいと思いますが、力量不足でこれが精一杯なのでごめんなさい(´;Д;`)

読んで頂いてありがとうございました🙏