<江戸メデカルレポート>江戸のはやり病
ロンドン、パリに比べ、上下水道が完備していた100万都市江戸は、比較的穏やかな衛生的な町であったが、それでも庶民も武士も404の病に悩まされていたと云う。仏教の教えによれば、人間の身体は地、水、火、風の「四大」からなり、それぞれが101ずつの疾病をもち、これらに四大を掛けると404病となる。この404病に収まらないのが「金欠病」に「仮病」、仮病は「作病」とも書き「まやもの」とも云われた。おおつごもりの日、借金取りから逃げる八に熊と云った九尺二間の住民たちや、嫌な客に呼ばれた吉原の花魁がよく使う病である。それともうひとつ、施し様のないのが「恋の病」であったのは今も昔も変わらない。いつの世も決め手は御本人よりも「惚れ薬 佐渡から出るが いっち好き」である。
また、古代中国の考えとして、人間の「五臓」にはそれぞれ81の病があって、これに五蔵を掛けると405病、この数から「死」を除くと404病となり、和も漢も数字はぴったり一致する。「保険制度もねぇ、医者はやぶだし、薬だって高ぇだけで効きやしねぇし」てな訳で江戸っ子たちは、普段信じてもいねぇ「神様」の御札を貰ってきて入口に貼った。「久松留守」つまり久松さんは居ませんので、どうか他所へ行って下さい。お染さん どうか見逃しを。江戸時代、「お染風邪」が今回同様猛威をふるったという。江戸の医療は「魔よけ 厄よけ 神だのみ」病に対して闘うものでなく、関わりたくないものであった。呑んベえ的治療としては、熱燗の飲み残しでうがいをし、勿論それは胃の腑へおさめる。喉に良好、胃に満足、江戸は完全リサイクル、親の意見と同様、千にひとつの無駄がなかった。唯一つ無駄といえば、江戸っ子の見栄からくる「初もの喰い」。これも心のゆとりからくる「遊び」であった。この遊び心が周りを円滑にすると解釈すれば、こちらも千のひとつの無駄はなし、の次第となる。
江戸・東京の櫻もきびしい環境の下、健気に咲き始めた。染井吉野が終わったら枝垂れ、八重と続き、その後は「咲いてから 盛りの長い 乳母櫻」が、半永久的に咲き続く事になる。「花の命は短くて」の文言は、どの花を、どちらの女性(ひと)を指したものであろうか?未だに不明である。コロナに「感染しない」「感染させない」で、終わるのを待つのも人生、待つ間のひと時を春の陽だまりの中で、三毛(小太りで年増の、♀猫の場合が多いが)と、積んであった本を読みなおすのも、ニャンともいえないまったりとした充足感が生れてくる。「年々歳々花相見たり 年々歳々人同じからず」花が毎年同じ様にさいてくれるように、人間様もいつも健康で同じ笑顔を見たいものである。