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粋なカエサル

ジョゼフィーヌという生き方15  「フランスのエレガンス」

2020.04.12 06:31

ナポレオンは皇后としてのジョゼフィーヌの力量を高く評価していた。浪費癖は相変わらずで、例えば、前年に一度も履いたことのない靴が265足も残っているのに、520足も新たに注文したこともあった。膨大な数にのぼる衣装は、1年に二度整理され、侍女や召使に与えられた。時計、宝石も、入れ替わり立ち替わり参上する宝石商が勧める品を、ほとんど断らずに買っていた。人のいいジョゼフィーヌは「ノン」と言えなかった。それでもこうした浪費によって身につけられた「エレガンス」は政敵まで酔わせる働きをしたので、ナポレオン目をつぶらざるを得なかった。

 特別美人でもないジョゼフィーヌを優雅にしていたのは、足を地につけず、まるで浮いているかのように、軽々と流れるように歩く姿。その優雅さは見る人に安らぎを与えるものだった。何よりもジョゼフィーヌの武器となっていたのは声。ジョゼフィーヌの声はとろけるように甘く、その声に命じられたら、地獄に行くことさえためらわないだろうし、その声を耳にするすべての人に永遠の幸福が約束されるのではないかと思われた。ナポレオンはジョゼフィーヌの声を聞いていたいために、ベッドに入るとよく本を朗読させた。

 こんなジョゼフィーヌとの結婚を解消することになるのは、ナポレオンの跡継ぎへの執着だった。そして泥沼化しつつあったスペイン戦争に兵力をさくため、オーストリアと同盟関係を強化する意図もあったオーストリア皇女マリー・ルイーズと結婚。これはメッテルニヒの罠だったといっていい。ナポレオンは、オーストリアは自分の娘の嫁ぎ先と戦争をすることはないだろうと考えていたが、伝統的君主はそれほどあまくはない。マリー・ルイーズはやがてナポレオンを愛するようになり、息子(ローマ王、ナポレオン2世)も誕生。しかし連合軍がパリに攻め込んでくると、オーストリアへ避難するが、ナポレオンへの愛情が消え失せていたわけではない。エルバ島のナポレオンから手紙を受け取ると息子と会いに行こうとするもまわりが阻止。それどころか、ナポレオンへの思いを断ち切らせるために女扱いにたけた隻眼のナイスミドル・ナイペルク伯をあてがう。マリー・ルイーズはナポレオンも息子も忘れてナイペルク伯に夢中になりやがて結婚。

 一方、離婚してマルメゾンに移ってからのジョゼフィーヌはどうなったか。ナポレオンにとっても、マルメゾンは憩いの場だった。二番目の妃としてマリー・ルイーズを迎えた後も、息子ローマ王が生まれた後も、度々マルメゾンを訪れている。そうしたナポレオンを、ジョゼフィーヌは常に快く迎えていた。ときには二人で腕を組んで庭を散歩したり、白鳥と戯れたりした。殺人的政務に終われるナポレオンにとって、ジョゼフィーヌのいるマルメゾンは、逃避の場であり、幼子となって甘えられる場であった。ジョゼフィーヌは、ナポレオンがいつ来てもいい状態にしておいた。ナポレオンが使った椅子を一ミリたりとも動かさないようにしていたし、読みかけの本も、机の上にそのままさわらないで置いておいた。また、離婚のきっかけを作ったと言っていい「ポーランドの妻」マリー・ヴァレフスカとその息子アレクサンドルも、快くマルメゾンに迎えられた。ジョゼフィーヌは、自分のまわりにいる人びとが幸福に満たされているのを見るのが何よりも好きだった。

 しかし、そんなマルメゾンの平和な暮らしも、1814年3月末に突然破られる。対仏同盟軍がパリに侵入してきたのだ。ジョゼフィーヌはピレネー地方のナヴァールに避難。パリは大きく変わるが、ロシアもオーストリアもジョゼフィーヌとその子供たちには寛大だった。年金の額が減らされただけで、ジョゼフィーヌは以前同様マルメゾンに住めることになった。貴族や王党派も、ジョゼフィーヌを敬い、マルメゾンの訪問客は増える一方だった。ロシアのアレクサンドル皇帝はこんな手紙を送っている。

「フランスに来てからというもの、あなた様を讃える声しか耳にしておりません。ほんの小さな館においても、あるいは豪華な宮殿においても、あなた様の天使のような善良さを聞くばかり。」

 しかし、1814年5月29日肺炎で死去。最後の言葉は「エルバ島、ナポレオン」。良妻賢母からはほど遠いが、フランス女ならではの可愛らしさに満ちた51年の人生だった。

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