病気と私 17 写真
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よろしくお願いします。
1979年~1982年(中学生)
中学2年以降は、とても落ち着いていたと思う。
小学5年生の時に買ってもらったカメラを持ち歩き、いろんなものを写真に収めていた。
カメラについてのエピソードは別に書かれているので興味のある人は見て下さい。
(↑でリンク先に飛べます)
写真部には、小学6年生の時に入ったと思うのだが、二つ上の先輩が3人いて、全員が同じ病気の人たちだった。(この中の一人は、私のラジカセを直してくれた先輩だ)
私が一眼レフカメラを買ってもらって間もなくの頃に、「そのカメラを見せてみろ」と声をかけられて、それ以来カメラの使い方などを色々と教えてもらうようになった。
先輩たちから教えてもらいながらも、マニュアル本の最初からカメラの操作を覚えていき、何度も読み返しているうちに、一ヵ月も経たないうちに機能のほとんどは使えるようになってしまった。
何か特別なことができるようになった気がして嬉しかった。
最初は暗室で印画紙への焼き付けを教わり、慣れてくると、真っ暗な状態で手探りで行うフィルム現像を教わった。
やり方そのものはすぐに覚えてやれるようになったが、トリミングのやり方など、仕上がる写真の状態を考えてやるには、出来上がった写真の善し悪しが判断できなければやりようがなかったので、経験不足の私には、どんな写真がいいとされるのかさっぱり分からなかったので、なかなか褒められるような仕事はできなかった。
顧問の先生がいたのだが、先生が部活にくることはほとんどなかったため、いつも先輩と4人で部活をやっていた。
現像できるフィルムは白黒フィルムだけだったのだが、顧問の先生が知り合いの写真屋から期限切れのフィルムを沢山もらってきてくれて、年間を通せば、先輩たちと平等に分け合っても20本近くのフィルムを使うことができた。
校外学習やイベントの時などはカラーフィルムを使い、部活の時には白黒フィルムを使っていた。
中学2年になると先輩方は卒業してしまい、写真部は私一人になってしまった。
そして年間で使用できるフィルムは100本近くあった。
「これを全て一人で使って構いません」
「今年の部員は君一人だから、文化祭の展示は個展にします。そのつもりでたくさん良い写真を撮って下さい。現像もプリントも一人でやらなくてはいけないので、がんばってやってくださいね」
顧問の先生からこう言われたが、個展というものがどういうものか知らなかった。要するにに沢山写真を撮って文化祭に展示できるものを用意するようにということだと思ったので、とにかく病院の敷地内しか行ける場所はなかったが、ひたすら被写体を探して写真を撮り続けた。
フィルムは沢山あったが、印画紙はそうはなかったので、焼き付けする写真は厳選しなくてはいけなかった。
部活の日に5本ものフィルムを一度に現像するのは容易ではなかったが、誰かに何かを言われるわけでもなく、一人暗室で黙々とやる作業は嫌ではなかった。
先輩方がいなくなったせいで、カメラを持ち歩く私は、とても目立つようになってしまい、カメラ小僧と呼ばれるようになっていた。
時には、写真を撮ってくださいと頼まれることもあった。
文化祭近くになると、撮りためたフィルムの中から、焼き付けするものを選ぶ作業になった。
これは、自分一人ではどうにもできなかったので、先生に相談して一緒に選んでもらうことにした。
先生には、よくこんなに一人で頑張ったなと褒めてもらった。
あまり褒められることがなかった私は、相変わらず褒められることには弱くてただ写真を撮っただけなのにと思いながらも、なんだかとても嬉しかった。
そして、最後に、どの写真をどのサイズで焼き付けるかを決めて、ようやく印画紙に焼く作業に入ることになった。
この作業も、私一人では心もとなかったので、先生にお願いして手伝ってもらうことにした。
特に、四つ切り以上の大きな印画紙に焼き付けするのは、失敗すると貴重な印画紙をダメにしてしまうために、とても緊張した。
文化祭前日には、教室全部を使って、先生と二人でパネルに写真を張り付ける作業を行った。
文化祭の当日になり、写真を展示した教室に行ってみると、〇〇〇〇個展と、大きく自分の名前が書かれていて驚いた。
最も驚いたのは、私の母親だった。
病院に来れば、スタッフに怒られるために来ているようなものだといつも言っていた母だったが、この日ばかりは、あまりに驚きすぎて、「こんなことやっていたのか?」とそこに展示してある写真が、私が全部撮影し、プリントしたものだということが、どうしても信じられないようだった。
私は、個展というものがどういうものなのか、この時に初めて知った。
そして、写真家ならば一度はやってみたいと思うようなことで、誰しもが簡単にやれることではないということも知った。
それとこの当時は、フィルム代もプリント代も、子どもが遊びでやれるほど安いものではなかった。
そんな時代に、100本ものフィルムを短期間で好きなように使っていいと言われて、撮るものがなくなるほど一枚を選ばずにシャッターを切れたことは、考えもしなかった有益な結果を生んだ。
ほとんどがシャッタースピード優先で撮影した写真だったが、撮影した時の数値はだいたい頭に入っていて、撮影した環境とカメラの設定がどう写真に影響するのかを記憶があるうちに確認できたのだ。
また、フィルムを消化するために意味のない写真を何枚も撮ることになったのだが、この意味のない「何を撮りたかったんだ?」というような写真が、焼き付けてみると、意外と何かを訴えるようなものになってしまうことがあったのだ。
今から考えてみると、50㎜の単焦点レンズ1本で、よくもあれだけの写真を撮ったものだと、自分でも不思議に思うことがある。
文化祭で個展がうまくいったおかげで、終わった後でも沢山の人から声をかけてもらった。
行事の度に、写真係を頼まれるようにもなったし、そこに自分の居場所ができたような気がした。
中学生になってからも、悪いことは相変わらずしていたが、さすがに見つかって怒られるようなヘマはしなくなっていた。
それと、病院側としては禁止しているようなことでも、それは仕方ないと思ってくれる人もいて(いわゆる話の分かる大人)、そういう人たちにしか笑顔は見せなくなっていた。
そして、嫌な相手には、相手にはっきりと分かるように拒絶する態度を見せるようになった。
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