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災害後の子どものケアについて ~無理に表現させないで~

2016.05.15 11:50

テレビやフェイスブックで震災後の子どものこころのケアについて,これはどうなんだろう?と思わざるを得ないケアをしたり,知識を流布している方がいるので,最低限気を付けてほしいことを書いておきます。少し長いですが…

震災のような強い恐怖を体験するようなことがあると,自分の身を守るように,脳と体が緊急事態対応の状態になります。
次に危険が迫ってきてもすぐに対応できるように心身を興奮状態にして身構えた状態にして置いたり,危機が及ぶような場所を回避しようとしたりするような状態です。この緊急事態対応の状態は,当たり前の生活の中で起きてしまうと「異常」と言われる状態ですが,地震のような異常な状況では「正常」な反応です(異常な事態における正常な反応)。

ところが,この状態が長く続くと,心身ともに疲弊し,元の状態を回復することが難しくなってしまいます。
そこで,私たち大人はつらかったり大変だった状況を人に話をすることで少しずつ回復を図ります。でも,その相手は誰でもいいというわけではなく,その人にとって信頼する人,安心を与えてくれる人,この人だったらちゃんと聞いてくれるなぁと思う人である必要があります。
安心安全な関係を築ける相手に対して話をすること,そのことを通して本当に自分の生活が安心安全を回復してきたなという感覚を得ることによって,少しずつ緊急事態対応の状態が日常の状態へと戻っていきます。

これは子どもでも同じですが,子どもの場合には言葉で表現することが苦手です。
なので,遊びや絵をかいたりすることを通して,そうした作業が行われます。マスコミなどで取り上げられていて「どうなのだろう?」と首をかしげたくなるのは,子どもが十分に安心安全を感じていないのに,無理に思い出させたり,表現させようとしたりするアプローチをしている人たちの取り組みです。
ひどいものでは被災した家に連れて行き,無理にその時のことを思い出させようとするものがありました。そして,「この子はいい記憶の思い出し方をしました」と解説しています。「いい記憶の思い出し方」とは…?


10年ほど前,福岡西方沖地震という地震を経験しました。
震度6弱の地震でしたが,とても大きな揺れでした。玄海島という博多湾に浮かぶ島では局地的に震度7の揺れがあったのではないかと言われている地震です。
その時,私はある施設にセラピストとして勤めていました。地震の翌日,施設に向かい,子どもたちと会いました。中学生,高校生の子どもたちは私を見つけると口々に「昨日,地震の時こうだったよ」「むっちゃ怖かった」と話をしてくれました。彼らの話を一通り聞いた後,就学前の子どもたちが生活するスペースに向かいました。
子どもたちはプレイルームで遊んでいましたが,私を見つけると,私に床の上にあぐらをかいて座るように要求しました。私が床の上に座ると子どもは私の膝の上に立ち,「ガタガタして」とせがみます。私が膝をガタガタすると,膝の上の子どもは「地震だ~」と歯を食いしばり,本当に怖いといった表情をしていました。すぐに膝の上を飛び降りたその子は,部屋の隅で子どもたちが遊ぶ様子を見ていた保育士さんのところに走っていきました。保育士さんは彼らにとっての親代わりのおとなです。保育士さんは走ってきた子どもを抱き上げ,「怖かったね」となだめています。子どもも「うん。怖かった」と言っています。しばらくするとその子は保育士さんのところを離れ,再び私のところにやってきました。「して!」ともう一度ガタガタをしてほしいと言います。私が膝の上に乗せ,先ほどと同じことをすると,やはり同じように「怖い~」と言いながら膝の上で揺れています。そして,やはり同じように膝を降りると保育士さんのところに行き,なだめてもらっています。その子は4回ほどその過程を繰り返しました。「地震遊び」と言われる遊びです。被災後,そうした遊びをすることは本で読んで知っていましたが,直接体験したのはその時が初めてでした。ただ,その子の姿を見ていて気付いたことがあります。それは子どもの表情の変化です。最初に私の膝の上で揺られていたその子は,本当に怖そうな表情をしていました。しかし,3回,4回と繰り返しているその子の表情を見ると「怖い~」と言いながらも,膝の上で笑っていたのです。4回目に膝の上で揺られたその子は,保育士さんのところに行ったあと,私のところには戻ってこずに別の遊びに向かっていきました。他の子どもたちも同じように私の膝の上で遊ぶことをせがみました。

このとき私が感じたのは,膝の上にのせてガタガタするのは私でなければいけなかったのだなということと,その場所に彼らと一緒に暮らしている保育士さんが一緒にいてくれなければいけなかったのだなということでした。おそらくそのどちらかがかけていても,そうした遊びは起こらなかったと思います。

私たちは地震があるとテレビをつけ,震源や震度を確認します。そして,その情報をもとにしてどれくらい不安になったらいいのかを評価します。ところが,子どもたちにとってそうした情報はよく理解できません。子どもたちに理解できるのは,大きな揺れが来て,物が壊れて,大人も怖がっていて,自分もとっても怖かったということだけです。つまり意味の分からないとてつもない恐怖を体験するのです。私の膝の上で地震遊びをした子どもたちは,遊びなれたプレイルームで,いつも一緒に過ごす保育士さんがいてくれて,いつも体を使って遊んでくれるセラピストである私がいるという安心安全な状況を確認したうえで,その得体のしれない恐怖をもう一度だけ再現してみようとうするとてつもなく大きな挑戦に足を踏み出したのです。
膝の上で揺られると確かに怖い。怖いけれど,保育士さんのところに行くと,その怖かった気持ちが何となく収まっていく。
「あれ?大丈夫かな?」
もう一度子どもは私の膝の上で揺られます。
「やっぱり怖い」
でも保育士さんのところに行くと収まります。こうしたことを繰り返しながら,子どもたちにとってとてつもない,得体のしれない恐怖だった体験が,よくわからないけれど,まぁ,乗り越えられる体験に変化していくのだと思います。

このプロセスは,決して誰かに急かされて起きるものではありません。
子ども自身が納得して起きてくるものです。
大人にできることは,子どもたちが安心を感じ,安全に過ごすことができる環境,関係を準備してあげることです。
機が熟せば子どもたちは自然と自分の中にある不安を表現してくれるようになります。
そして,子どもなりに,子どもがした得体のしれない体験を心の中に収めることできる形にして,持っておくことができるようにしていくのです。

被災後,被災した時の体験を,いつ,だれが,どのように,どの程度表現させることがいいのかということについては,1つの明確な「これが良い」という指針があるわけではありません。なので,専門家のいうことにも,この部分はブレがあるかもしれません。
ただ,無理に思い出させたり,表現させたりすることは良い結果につながらないということは示されています。また,子どもにとって安心できる環境,関係でなければ,そうした表現を引き出すことはしないほうがいいということも同様です。

たくさんの情報があふれる中,どれが正しいかを判断することはとても難しいと思います。
ただ,第一に考える必要があるのは,子どもが安心,安全を感じられる日常が回復されることです。余震が続く中,心だけを日常に戻すことは子どもだけではなく,大人にとっても良くないことです。傷つき,不安を感じている時は,身を固くして,自分を守ることも大切なことなのです。