跡(あと)というものを考えてみる
株式会社バハティ一級建築士事務所
佐藤 誠司
跡(あと)について考えてみる。址とも書く。
手元にある辞書によると
あと【跡】
① 人や物が通っていったところに残された痕跡
② そこなわれた部分に残されたしるし
③ 事が行われた所。しるし
④ 事が経過していった形跡
⑤ 人や車の往来
⑥ ゆくえ。足跡
⑦ あとつぎ。家督
⑧ 先例。しきたり
旺文社 国語辞典(新訂版)
先日ある役所に協議に行く必要があり、場所はどこかと調べてみるとJR横浜線小机駅徒歩15分ほどとある。小机といえば小机城跡ではないかということで役所のあとは小机城跡に行ってみることにした。
私は城跡についてはわりとうるさ方である。
小机城は長尾景春の乱のときに太田道灌が「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」といって兵を励まして攻め落としたとか、時代は下り、後北条氏時代にこの辺り一帯の国衆がまとまって後北条氏配下で小机衆という勢力の中心となっていた等書き出すときりがなくなるのでこの辺で止めておく。
つまり小机は昔からこのあたりの戦略上重要な場所であったということでそのような場所には当然砦や城が築かれ、それにともないおのずと人が集まって街を構成したはずである。
しかし現在はサッカースタジアムがある以外は悠然と鶴見川が流れ、駅をおりても住宅地がパラパラとある程度の横浜の郊外の中でも比較的田舎の風景がのこるところである。
この小机城は、横浜市の城郭跡の中でも(もう少し広げて首都圏中でも屈指の)戦国時代の遺構をよく残す城跡としてこのスジの人たちの間では名の知られた城跡である。
無神経に第三京浜が通されているが、写真で言うところの第三京浜を挟んで左側に出丸のように使われた郭も残る。さっそく登ってみると、ダイナミックな遺構があらわれる。
連郭式の城といわれているので、2つの郭(本丸はどっちかというのには議論がある)を中心に、高さがゆうに5?10mはあろうかという竪堀がよく残っている。
ここでこんななんにもなくなってしまった小城跡なんぞではなく、城ならもっと天守閣等の建物の遺構等が残る有名どころのほうがいいではないかといった声が聞こえてきそうですが、城郭が好きな人間には、天守閣派と跡派というものがあり(私が勝手に思っているだけ)私は断然跡派である。特に建物(残っていても大抵はニセモノだし)なぞはなければないほどいいのである。
ここで跡というものを考えてみる。
上の写真を見てみる(実際行ってみたほうが断然よいのだが)と当然建物の遺構は残っていない。しかし山の地形を切り崩し、竪堀や郭などの遺構を見ていると、当時ここにいた人たちの営み(城跡の場合はもっぱら自分の身を守るためだが)が大地に刻まれている。そして脚を踏み入れると当時の人たちの息遣いのようなものが伝わってくる(少なくとも私には。。)
元来豊かな四季があり山も多く、木材で建物を作る限りでは材料に事欠(かなかった)日本では古来より建物を残すという発想がないお国柄である。つまり建物の大部分は自然の恵みとしての木材を使い、古くなり腐ったり、使えなくなったら自然からの恵みをありがたく頂戴して作り変えるのを前提として日本の建築様式は考えられている。伊勢神宮の式年遷宮は代表的な例である。この国の場合、建築とはその時必要であるから作る、一過性のある一種の「しつらえ」みたいなものなのかもしれない。「しつらえ」とは語義から考えても、あくまで外界との関係性があってはじめて成立する。そして外界との関係性がなくなるとその「しつらえ」は朽ちてゆくのである。
いにしえより人は歌においても、その「しつらえ」を歌に詠むことはなく、「しつらえ」より外界を思い、仰ぎ見て歌を詠み、もっぱらそれがなくなってしまった跡をみて、思って歌を詠む。
夏草や兵どもの夢のあと 芭蕉
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり 西行
ハイコンテクストな民族性と言語を持ち、繊細な情緒を持つ我々日本人には元来このような感性が備わっており、そして建築(しつらえ)についてもそのような感性を持っているのであろう。
現在はどうであろうか。。まるで反対のような気がするのは私だけではないと思う。
「先進国」のように豊かな生活に憧れたなりふり構わない高度経済成長やその後のバブル崩壊を経て、経済が停滞し、良くも悪しくも政権交代も経験して、ちょっとだけ成熟して「オトナ」になったこの国の現在においてそこあたりのギャップが表出してきているのかもしれない。
このようなことを考えながら、現在において建築を考えてみるのもいいのかもしれない。