Okinawa 沖縄 #2 Day 3 (16/4/20) 南風原町 (3) Motobu Hamlet 本部集落
Motobu Hamlet 本部集落
- 本部公園
- 龕屋跡の祠
- 本部赤嶺屋敷跡
- カンナ通り
- 本部石獅子
- 本部殿内 (もとぶどぅんち)
- イジュンガー (井泉)
- かすりの道
- かすり会館
- 絣織工房
- 大城織機製作所
- 糸張り (糊付張り伸ばし) 場
- 謝名門中 宗家跡
本部集落
9月10日に訪れた津嘉山集落から高津嘉山を越えた東側に本部集落がある。本部集落の起源は、1713年 (第二尚氏13代尚敬王の時代) に編纂された『琉球王国由来記』によると、黄金森のイシジャーヤマに、どこからか人が移り住み、その人物の長男が喜屋武、次男が照屋、三男が本部の始祖になり子孫が広がったと伝承されているが、いつ頃のことかは書かれていない。
[数日後に、喜屋武集落の黄金森の中にある上ヌ御嶽を訪ね、その由来を調べた際に更に詳しい事が分かった。村を起こした人物の関係はかなり違っているのだが、それによると、まずイシジャーに移って来た人物とは察度王統最後の王である武寧 (ぶねい、1356~1406年) の五男である本部王子だった。前述の「どこからか人が移り住み」と言われている人物は兼城村の村建てをした稲福大主 (いなふくうふしゅ) の三男の喜屋武 (ちゃん) であろう。そこで、本部王子は一族を連れて本部へ移住し、本部王子の家臣であった大城子 (うふぐすくしー) は照屋へ移住してそれぞれ喜屋武、本部、照屋の村建ての祖になったと伝わっている。」とある。
本部の案内では沖縄かすりの町をPRしている。14日に訪れた山川集落も含め南風原町ないのいくつかの字でも名産として挙げている。本部は南風原町の12の字の中で六番目の人口の町だ。ここにも観光案内パンフレットがあるので、それに沿ってまわってみることにする。去年にもここは訪れたのだが、軽く流してしまったので、今回はじっくりと見学する。
本部公園
まずは高津嘉山に沿って走る道路を登り、本部公園に行く。公園は高津嘉山の向かいの丘陵の上にある。高津嘉山には旧日本軍の司令部があったので、米軍はこの本部公園のある丘陵に陣を置き高津嘉山司令部を攻めたかも知れないと思った。
本部公園からは丘陵の斜面に広がる本部集落が臨める。この集落も先に訪れた津嘉山集落や山川集落と同じく丘陵斜面に村を構えていたのだ。
向こうに黄金公園 (写真左) と八重瀬山 )写真右) が臨める。
龕屋跡の祠
公園内には龕屋小屋 (ガンヤコヤ) がある。龕 (ガン) は亡くなった人を獅子頭と共に墓場まで運ぶ棺桶兼輿で、この龕を収容する小屋。那覇市の史跡にはこの龕屋には出会さなかったのだが、南風原町にはいくつも龕屋が残っており、資料館には龕が展示してあった。龕について調べた事は去年の訪問記に書いている。その時のリンクは下記。
本部赤嶺屋敷跡
本部公園がある側に赤嶺氏 (アカンミ) の屋敷跡がある。本部集落が全て見渡せる高台の上にある。第二尚氏の第17代尚灝王 (しょうこうおう) の時代 (1804-1834)、この高嶺氏は本部の豪農で首里王府の役人でもあり、この集落の実力者だった。言い伝えでは、祝い事には村人たちを招き入れ交流をしたりする徳のある人物であったが、案内板にあるように、ある事で打首になってしまった。(尚灝王は国王不適格者と言われており、晩年には精神病で自殺したとも伝えられているので、この赤嶺氏はその犠牲になったのかも知れない。尚灝王が晩年過ごした住居が浦添にあった。ここを訪問した訪問記は下にリンク参照) この処刑の前に龕と獅子頭を村に寄贈、全財産も村に寄付したそうだ。(龕は先程の本部公園の小屋で保管されている) 今でも村人からは赤嶺氏は敬われ、仏壇も村人に大切に管理されている。
本部では赤嶺氏の寄贈した獅子頭の獅子舞を継承保存している。毎年旧盆に披露されるそうだ。本部の獅子舞の舞型は、御月拝ん (月見)、クルビン手 (馬の動作)、シランガチ (全身がかゆそうに)、フィーバー巻ち (蛇の動作:写真右上) の4種類があり、きっかりと継承されている。
カンナ通り
本部公園を囲む道路はカンナ通りと呼ばれている。道路沿いにカンナの花壇が造られている。カンナは本土では7月~10月にかけて咲くのだが、沖縄では1年中咲いているそうだ。昔からあったわけではなく、15年程前から続けている。この後、集落におり見学するのだが、本部では史跡は多く無いのだが、村をあげて観光に力を入れているのがよくわかる。
色々な種類のカンナが咲いていた。
カンナだけでなく、それ以外の花も咲いている。今日は晴天で花を見ながら、自転車を押しながら歩く。気持ちが良い。
本部石獅子
カンナ通りを登りきった所に昔から残っている石獅子がある。本部には昔2つの石獅子があったのだが、もう一つは消失してしまった。沖縄の各家にあるシーサーの原型原型だ。シーサーのの歴史は歴史はそれ程は長く無く、明治初期に沖縄処分と呼ばれている琉球王が廃され琉球併合の後に庶民に広まったのだ。この時に庶民に瓦を使う事が許されたのがきっかけとなった。それまでは個人が石獅子を持っている訳ではなく、村の石獅子だった。石獅子はシーサーと同じく魔除で災いから村を守る役割をしていた。石獅子は村の入り口や災が来る方向に向けて建てられていた。ここ本部の石獅子は八重瀬町の八重瀬岳に向けて建っている。八重瀬岳は火山 (ヒーザン) と呼ばれ、八重瀬町やこの南風原町の集落は八重瀬岳の火山からの火事に悩まれていた。この地域は石獅子発祥の地で、八重瀬には県で最古の石獅子がある。ここから沖縄に広まったそうだ。石獅子を見てきたが、どれも滑稽で愛らしい顔をしている。今のシーサーのいかつい怖い顔でない。石獅子は琉球石灰岩で作られており、加工はしやすいが、細かいはできない。これが石獅子の味が出ている。本部石獅子が向いている八重瀬岳との間には隣の字の照屋集落がある。照屋集落は当時、本部とは水争いが、本部が自分たちに向けて石獅子を向けていると誤解し、本部に向けて石獅子を建て、一時期は険悪な関係だったそうだ。
本部殿内 (もとぶどぅんち)
本部公園から集落への斜面に拝所 (うがんじょ) がある。案内板ではこの拝所しか紹介されていない。本部殿内に行ってみてその理由が分かった。本来は多くの拝所があったのだが人口が増え宅地の開発で、それらの拝所をここに集約した様だ。拝所内に7つの遥拝所や殿内がある。
この所に拝所の様な所があった。沖縄独特の平御香 (ヒラウコウ) が供えられていた。拝所ではなく井戸跡だった。小さな井戸がコンクリートに囲われた中に見える。昔は水は貴重な物で、水を与えてくれる水場や井戸は信仰の対象だった。今では水道が完備されて、井戸はもう使用していないのだが、今でも大切に信仰されている。集落内でもう一つ井戸跡を見つけた。西門之井戸と書かれている。ここも同じ様に信仰の対象になっている。
イジュンガー (井泉)
本部集落の東の端にイジュンガー公園がある。イジュンガーのガーは井戸の意味と思っていたが井泉の意味もある。公園はそこそこの広さがある。元は溜池だったのだ。水場があったのだ。案内板には井泉とクムイがあったと書かれている。クムイは池の事。池のそばに井戸もあったのだ。集落に女性たちのたまり場だった。毎日、井泉に朝の水汲み、食事の準備で集まり、家で食事が終わったら、クムイに洗濯をする為に集まってくる。楽しくおしゃべりをしていた様子が浮かんでくる。ここにも平御香を備える拝所が造られていた。公園の周囲には沖縄かすりの染料の原料となった木が何種類も植えられて、それぞれに解説がつけられている。ここはかすりの村。
公園の周囲には沖縄かすりの染料の原料となった木が何種類も植えられて、それぞれに解説がつけられている。ここはかすりの村。(センダン-黄/茶、フクギ-黄、イスノキ-茶、モモタマナ・ゴバデイシ-黄、モッコク-茶、クチナシ-黄、カンヒザクラ-茶、オキナワシャリンバイ-赤茶、アカギ-赤茶、ヤマモモ-黄/茶、サキシマハマボウ-茶、ホルトノキ-茶) この様な植物の自然染料を使ったもは南風原花織と呼ばれ、明治時代に広まり、大正時代に技術を確立した。
かすりの道
上の写真でもわかる様にイジュンガー公園に沿っている道は綺麗に色タイルでデザインがされている。かすりの道と呼ばれている。1989年に整備された。絣 (かすり) の工房や史跡を繋いだ道で隣の字の照屋と喜屋武 (きゃん) にも伸びている。このデザインされたかすりの道を通って行けば、史跡巡りができる様になっている。面白い趣向だ。
道に沿って所々に琉球かすりの南風原花織のかすり模様を解説したパネルが掛かっている。この一つ一つを見ながら散策するのは面白い。飽きさせない工夫がされている。
かすり会館
かすりの道を辿ると、本部の東の端のほうにかすり会館がある。本部にある琉球事業協同組合が運営している。琉球絣の里 本部を全面に押し出している。ここでは琉球絣と南風原花織を展示、体験教室などを行なっており、入場は無料なのだが、コロナウイルスの影響で当面は休館となっていた。残念!
この絣織物の技術はインドからアジアの国々に、そして沖縄へは14~15世紀頃に伝わり、その後本土に伝播していった。琉球王府時代には、沖縄の各地で盛んに織られるようになり、特に、首里、那覇、宮古・八重山や久米島の島々では王府に納める貢納布 (こうのうふ) として織られていた。そのころの貢納布は、首里王府の絣デザイン集の「御絵図帳 (みえずちょう)」を基に製造していた。王府時代は、一般の人の着物の柄は、無地か縞柄に限定されていたが、明治以降、絣柄 (かすりがら) の着用が許され、需要が増え、それに伴い技術も向上していった。その頃の主要な織物産地は、那覇の小禄や泊、豊見城などで、南風原はしだいに技術を吸収、向上させ、大正から昭和のはじめ頃には生産が本格的になった。
かすり会館からかすりの道を辿り、集落の中心部に向かう。先に訪れた津嘉山集落や山川集落と同じく、斜面に細い路地が張り巡らされた地区に平屋建て家がぎっしりと集まっている。
絣織工房
集落内には、以前に比べて少なくはなったが、絣織工房があり、機織りの音が聞こえていた。
大城織機製作所
絣織工房だけでなく、沖縄ではここだけで、全国でも2カ所しかない織機屋がある。大城織機製作所だ。
糸張り (糊付張り伸ばし) 場
かすりの染めた糸を乾かして伸ばしてから機にかけるのだが、糸の乾燥と伸ばしのための設備がある。集落内に2カ所。共同の糸張り (糊付張り伸ばし) 場。
謝名門中 宗家跡
集落内に謝名門中 宗家跡があった。詳しい内容は書かれていないのでのでわからない。どの様な立場の人であったのだろう。謝名 (じゃな) は沖縄独特の苗字。琉球国今帰仁間切謝名村に起源を持つが、現在は沖縄本島南部に多く見られるという。案内板では謝名門中は本部内外で200名ほどいると書かれていた。インターネットでは全国で120人 (110人が沖縄在住) ほどいるとあった。謝名さんの殆どはこの本部の謝名門中の人なのだろう。残っている家屋は古いが、琉球王朝時代のものではない。ただ、敷地の広さや配置などはそれほど変わっていないだろう。門の奥には沖縄独特の屏風 (ピンプン) がある。宗家としては大きく無い。面白いのは、ドラム缶を縦に伸ばした様な、貯水槽が二つある。家の軒刺しから雨樋を伸ばして水を貯めていた。下の位置には蛇口がある。天水タンクというらしく、以前は沖縄全土にあったが、水道が普及し、使われなくなった。この様なものはいつ頃から使われていたのだろう。昔は水は貴重なものだった事がよくわかる。
これで本部の訪問は終了。まだ南風原町の12の字の4分の1が終わったのみ。次はどこに行こう。ただ、コロナウイルスで外出自粛の要請も出ている。この史跡巡りでは、公共交通は使用せず自転車での移動だし、こちらから話しかけないと人と接触はないので、リスクはないのだが、少し悩むところだ。本質は人との接触をしないという事で、外出するかどうかはその対策で、人との接触がなければ問題はないはずだが、世間は、外出する事自体が悪い事という風潮になっている。この最中に自転車で走っているのは白い目で見られるかも知れない。本末転倒なのだが、そうでもしないと自分の行動に責任を持てない人が多いのだ。という事で、毎日の外出は控えて、数日おきに留め、それ以外の日は自宅での勉強に充てよう。
今日の夕食はきゅうりと豚肉炒め。これは二月に東京に行った時に中国人シェフの王さんに教えてもらった中華料理で簡単で美味しい。