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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 4 (18/4/20) 南風原町 (4) Teruya Hamlet 照屋集落

2020.04.19 07:32

Teruya Hamlet 照屋集落

照屋集落

照屋集落はこれまで訪れた南風原町の3つの字の集落と近い場所にある。特に本部集落とは非常に近い場所にあり、この二つの集落間の水場争いが長く続いていたのもなるほどと思う。他の集落と同様に、集落は緩やかな傾斜がある場所にある。照屋集落の起源は、1713年 (第二尚氏13代尚敬王の時代) に編纂された『琉球王国由来記』によると、黄金森のイシジャーヤマに、どこからか人が移り住み、その人物の長男が喜屋武、次男が照屋、三男が本部の始祖になり子孫が広がったと伝承されているが、いつ頃のことかは書かれていない。

[数日後に、喜屋武集落の黄金森の中にある上ヌ御嶽を訪ね、その由来を調べた際に更に詳しい事が分かった。村を起こした人物の関係はかなり違っているのだが、それによると、まずイシジャーに移って来た人物とは察度王統最後の王である武寧 (ぶねい、1356~1406年) の五男である本部王子だった。前述の「どこからか人が移り住み」と言われている人物は兼城村の村建てをした稲福大主 (いなふくうふしゅ) の三男の喜屋武 (ちゃん) であろう。そこで、本部王子は一族を連れて本部へ移住し、本部王子の家臣であった大城子 (うふぐすくしー) は照屋へ移住してそれぞれ喜屋武、本部、照屋の村建ての祖になったと伝わっている。」とある。]


人口は本部に次いで六番目に多い1600名。


南風原町の観光案内に従って見学する事にする。

メーミチ

集落は小さい。集落内は他の集落と同じ様に細い道路が入り組んで走っている。その中で少し広い道路が二つ。メーミチとナカミチ。メーミチがメインストリート。まずはこの道を走る。

集落の西の端にかすり工房がある。絣括り職人の看板が出ている。この集落も一昨日訪れた本部集落と同様に絣織工房が数軒ある。

ナガ毛/ムラヤー (村屋) / ナガモーヌ御嶽

このメーミチがメインストリートだったので、村の集会所であったムラヤー (村屋) があった。今は公民館と広場となっている。沖縄の集落では役場とか公民館を探せばそこが昔のムラヤー (村屋) やアシビーナ (遊び場=広場) だった事が多い。時代に伴い、形は変えてはいるが、集落の生活構成は維持されている様に思える。ここはナガモー (ナガ毛: 毛は原っぱの事) 公民館が元ムラヤーなのだろう。ここに御嶽がある。ナガモーヌ御嶽だ。なんの神かはわからないが、村を守る3つの神が並んで祀られている。

アシビーナ/サーターヤー跡

公民館の下の広場がアシビーナであろう。このアシビーナでは綱曳きや芸能や相撲のムラの行事で使われていた。テレビが無い時代はこの様な広場に住民が集まって皆で楽しんだものだ。小さい頃は自分の田舎でも同じだった。神社の境内下で夏になると石垣に幕でスクリーンを作って映画を楽しんでいた事を思い出した。ここ照屋ではやはり一番の祭りは綱曳きだ。長い間、行われずにいたのだが2010年に復活して続いている。南風原の各集落でも、8月上旬にこの綱曳きが行われている。綱引きの行事には舞方棒が披露されている。舞方棒は、舞台や祭事などの場における清めの意味をもつ開幕舞踊。力疫病・災害・悪霊を払う意味がある。

アシビナ広場の隅にサーターヤー跡 (製糖場跡) の碑があった。集落にいくつか製糖を行っている組があり、その製糖所があったのだ。

立派な石碑ではなく、コンクリート柱を建てる際に、コンクリートが乾く前に釘で碑銘を書いた素朴なものだ。沖縄にはこの様な素人が作った様な石碑が多くある。個人的には気に入っている。その村の人が大切に思い、記憶を残そうとしている気持ちが伝わって来る。

殿の下 (とぅんぬしちゃ)

公民館のすぐ下には殿の下(とぅんぬしちゃ) と呼ばれている場所があり、拝所となっている。ここは、首里王府時代に、王府に滅ぼされた安平田子 (あひたしー) の妾腹の次女の真呉勢 (まぐしー) が、浦添の仲間大主 (あかまうふす) を婿養子に迎えて住んでいた住居跡だそうだ。(別の資料では、真呉勢は津嘉山の玉那覇村の大屋子 [村役人] に嫁ぎ、玉那覇ノロとなったとある)  拝所には今でもお詣りが続いているのだろう。平御香 (ヒラウコウ) が供えられていた。

現在ではこのシバの代わりにフーフダ (符札) を家の四隅に貼り付けている貼り付けている。時々街で見かけることがある。東西南北に「持国天王」「広目天王」「増長天王」「多聞天王」の札を貼るらしい。小のシバは枯れると効力が無くなるそうで、フーフダ (符札) の方が効力が長持ちをすると思っているらしい。このフーフダ (符札) は神社や寺が売っており、氏子や檀家制度のない沖縄では神社や寺の貴重な収入だそうだ。



イシジャーヌシ

集落の西の端に地元ではイシジャーヌシと呼ばれている拝所が、南星中学校の敷地内にある。今はCOVID-19の影響で休校となっているのだが、校門が開いていたので、失敬して中まで入り見学。ここは先述の安平田子の終焉の地だそうだ。首里官軍に攻められ、逃げるもここで力付き戦死したという。この場所に拝所が置かれ、今でも子孫の方が御詣りに来るそうだ。この拝所は沖縄の先祖信仰の現れで、本土で神社で武将などが祀られているのとよく似ている。

安平田の御嶽 (10/22訪問)

安田平子の兼城按司となった後の伝説もある。(このことから当時は当時は照屋は兼城の支配下にあったと考えられる。)

「安田平子は勇にして巨富な人であり、家人も多く、備わらないものはない人であった。一家を津嘉山と喜屋武の際に構えて住んでいた。ある日、安平田の家で大宴を催した。その時、具志頭間切の人が安平田の家の前を通ったところ、自分も酒が飲みたくなって、水をくださいと言ってそこに入って行った。そしたら、酒を与えず本当に水をくれたのである。彼はそのことに恨みをもち、時の王に讒言をし、そのため安平田子は官軍に討ち殺されてしまう。しばらくしないうちにクバの木、マーニの木などが安平田の家に叢生した。亡夫の妻子は驚き別の地に遷る。遂にその家をもって御嶽と為し、之を名づけて安平田獄という。」

とあるが、別の記載では内嶺 (兼城) 按司になった安平田子が傲慢になり、この照屋に豪邸を築き遊興に耽ったという、それを嘆き見かねた義父の先代の内嶺按司が殺害したともある。さらに別バージョンでは、義父の先代の内嶺按司が安平田子に娘との離縁を申し出たことを安平田子が恨み、首里府に義父の内嶺按司が謀反を企てていると密告したが、逆に首里府に討ち取られたとある。

この後、兼城按司は安平田子の妾腹の息子が継いだとある。(また別の記事ではこの事で兼城按司が滅ぼされとあるが、この後も、兼城按司が歴史上登場しているので間違いだろう) 更に、安平田子の息子は琉球の名門「鄧氏古謝家 (とうしこじゃけ)」の祖となったと伝わっているという記述もあった。

安平田子の妾腹の次女の真呉勢 (マグジ) は父親を祀っ御嶽を照屋集落の外れに造ったと伝わっている。(妾腹の次女ではなく、正室の長女の真鍋 [マナベ: 津嘉山の玉那覇 [タンナファ] の根屋の大屋子に嫁ぎ玉那覇ノロとなり、ここに父の安平田子を祀ったとか、記事により異なっている。) 想像では、照屋での言い伝えと、その他の地域での言い伝えで、その地域の人たちの安平田子に対する感情の差ではないかと思う。照屋集落ではこの安田平子の伝説を組踊にする試みが2018年に始まったという。新作組踊は出来上がったのだろうか?

この日は安平田子の御嶽を見落としてしまった。後日、4月22日に兼城集落訪問の帰りに寄ってみた。場所は照屋集落の外れのそれ程遠くない小山の中にあった。

県道からこの小山を登ると一面畑になっており、畑の畦道の向こうに標識が見えた。標識のある入り口に行くと、小さな井戸がある。そこから上に登って行くと、祠が見えて来る。広場になっており、綺麗に整備されている。誰かが世話をしているのだろう。火の神 (ヒヌカン) と安平田の御嶽の二つの祠があった。安平田子は伝承ではそれ程良くは描かれていないが、照屋集落の人にはそう悪くは思われていない様に思える。

照屋ノロ殿内 (てるやぬんどぅんち)

照屋集落の拝所について、いくつか見てきたので、これ以外の拝所についても触れておこう。集落の北西部には、集落を守護している神々が祀られている空間がある。デームイモー (毛) と云う高台にある。ここには照屋ノロ殿内 (てるやぬんどぅんち) がある。殿内 (どぅんち) は屋敷の意味であるから、想像するにここには、琉球王朝政府から使わされた神官であるノロ (祝女) の屋敷があったのだろう。(当時はノロには1000坪近い土地を与えられていたと云う。明治44年までは行政からかなり高額の給料をもらっていた。今でも地域ではノロが続いている場所があるそうだ。)当然そこには拝所もあったはずで、ここがその拝所にあたる。拝所にはいくつかの祭殿がある。祀っている神様はわからなかった。

デームイモーの拝所

デームイモー (毛) の高台を北の本部集落方向に降りると、そこはデームイモーの拝所があった場所だ。公園の様になっていて、拝所は見当たらなかった。先程の照屋ノロ殿内の拝所に集約されたのではないかと思う。

照屋の石獅子

照屋ノロ殿内からさらに高台にのぼると、石獅子がある。戦前は南星中学校の体育館の辺りにあったのだが、ここに移設されている。石獅子については本部集落の石獅子については、一昨日の本部集落訪問記で触れたが、本部の石獅子が火山 (ヒーサン) の八重瀬岳に向けて、火災からの厄払い (ヒーケシ) で建てられたのを、照屋集落に向けて建てられたのと勘違いをし、その対抗として、この石獅子は本部集落に向けられている。昔はこの2つの集落は水場争いで仲が悪かったと云う。石獅子のすぐ隣には、またまた拝所がある。

東 (アガリ) の石獅子

照屋にはもう一つ石獅子がある。これも本部集落に向けて建てられている。2つも石獅子を本部に向けて造ったとは、余程、頭に来ていたのだろう。見終わって次に行こうとした時に、子供たちが「見つけたー」と叫び、石獅子に走り寄ってきて、石獅子にまたがった。後から、この子たちの父兄なのだろう、大人が追いついた。今日は土曜日だからなのか、子供も外に出れずストレスが溜まっているのか、石獅子巡りをしていた。この自粛自粛を言え荒れている仲、人も殆どいないところを回ってみるのも、一つの楽しみ方なのではないかと思う。

ユンヌカー (弓取り井戸)

先程のデームイモーの石獅子から本部方面に下り、デームイモー拝所をすぐのところに、井戸跡がある。ユンヌカー (弓取り井戸) と呼ばれている。言い伝えでは「この地に弓矢を射れば水が湧いてくる」とのお告げがあり、そのとおりに弓矢を射たら水が湧きだしたとある。今は井戸の前に拝所があるがこの金網で囲われている場所が広い水場であった。照屋集落の正月の若水 (仏壇にお供えする水) はここから汲んだ。ここは照屋集落と本部集落の境にある。石獅子のところで触れた水場争いとはここのことだ。実はこの井戸を掘ったのは本部の人達で、普段は本部の人達が使っていたという。これがこの井戸の所有権争いの原因になったそうだ。この場所から本部方面を撮った写真が右下。見えている建物は本部集落のもの。それ程近い場所にあった。


本部にはあまり井戸がなかったそうだ。それが水場争いを起こしたのだろう。集落で別の二つの井戸跡があった。



ティラジョウガー

井戸 (ガー) の一つはこれも本部集落に近い場所にある。


イシジャーガー

ナカミチの西の端にもう一つ井戸跡がある。ただこの井戸は大正時代に飢饉があった際に作られたもの。

ミーガー

安平田の御嶽に向かう途中にも井戸跡がある。ミーガーという井戸だ。草むらに埋没している。

水タンクのある家

照屋集落ではこの水不足対策として、雨水を貯めるタンクを設置していた。この水には近年、水道が引かれるまで苦しんでいたのだろう。今はもう数軒にしかタンクは残っていない。この古い家には3つも水タンクがあった。

集落の東側には川が流れており、昔は馬を洗ったクムイと呼ばれた場所があった。集落の西と東では事情が異なっていたのだろうか。

かすりの道

ユンヌカーの写真で判る様に、道路に装飾が施されている。これは本部のかすりの道が照屋まで伸びているのだ。照屋集落は主産業は農業であったが、副業で女たちが絣を織っていた。本部と同じ様に照屋集落内にかすりの道があるのだが、本部とは少し趣が変わって、かなり細い路地を通ってナカミチに抜ける。

ここにも道の塀に色々なかすり模様を展示してあった。

夜警団屋敷跡

かすりの道が通っているナカミチ西の端、多分ここが照屋集落の端っこなのだろう。ここに夜警団屋敷跡がある。ここは戦後、多く発生していた集落外からの泥棒などを監視する為に、集落の青年が詰めていた屋敷があったという。

今日はこれで終了。少しづつ、南風原がわかってきた様な気がする。沖縄は沖縄戦でほとんどのものが破壊され、観光資源がほとんど残っていない。御嶽とか、井戸とか、破壊されたグスク跡しかない。本土の様な派手な観光資源はない。しかし、南風原の4つの集落をまわって感じるのは、南風原の人々がどう生活をしていたのか、何を守ってきているのかが少しづつ見えてくる。残りの集落を巡るのが楽しみだ。


今日の夕食 - ニラ玉と豚汁