聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景13
惣墓極楽寺墓地と極楽寺址―
継子地蔵こと〝お迎え地蔵〟
極楽寺墓地は、大字法隆寺村に止まらす、近在の「墓郷18村」の〝惣墓〟(行基菩薩開基)である。ほぼ里郷とも一致するが、龍田町・富郷村域・安堵域も包括し、法隆寺歴代住職・僧侶墓地も含まれる。惣が生まれる中世前期よりの現代まで広範囲に連綿と850年続く墓地と思われ、夥しい数の無縁墓石や墓地の墓石は時代性を如実に示している。それらは地域の歴史を語る生き証人の石材群であるが、墓石や生きた墓地の文化財指定は出来ないのが現状である。大まかに記すと平安末期の凝灰岩製五輪塔から中世前期の閃緑花崗岩製傘付箱佛(阿弥陀、地蔵、地蔵と弥勒など)墓石・中世後期の一石五輪・半裁五輪塔・船形五輪墓石・近世期の船形名号・戒名墓石・和泉砂岩製位牌型墓標・幕末期の箱型墓標・明治期の閃緑花崗岩墓標・多重台座国内産石材・中共産石材などと変化し、各時期の組合せ五輪塔・宝篋印塔が加わる。現代人の信仰欠如と石材商の意向で産業廃棄物に成る場合が多いのはやるせない。平成5年町斎場の建設事前発掘調査が町教育委員会により実施されたと言うが報告されておらず詳細は不明である。
「墓寺」である〝光明山極楽寺〟の姿は、法隆寺に残された断片絵図から、本堂・墓所屋・焼香場・鐘楼の堂宇と〝悲田屋〟(現代流のホスピス・特養老人ホームに相当)が建つ寺院が描かれ供養の様子を想像することが出来る。
現在正面にある地蔵堂の石佛は永正5(1521)銘を持つ「地蔵菩薩立像」〝飯乞地蔵〟と呼ばれ、左手に大きな握り飯を持つとされる(実は宝珠)。〝死に際して一膳めしだけでは腹がへり心細かろう、握り飯を食らうならば進ぜよう〟と立っているのだと言う〝お迎え地蔵〟。
また、〝継子地蔵(ままこじぞう)〟との異名も持つ。「昔大和国龍田村にむくつけき女ありて、継子の咽を十日程はしてより飯を一椀見せびらかして言うやう。是をあの石地蔵の食べたらんには、汝にもとらせんとあるに。継子はひだるさに耐えがたく石佛の袖にすがりて願いかけるに、不思議やな石佛大口あいてむしむし喰ひ給ふ。さすがの継母の角もぽっきり折れて、それより我が産みし子と隔たり無く育みける」天明俳聖一茶『おらが春〝ほだもちや藪の仏も春の風〟』に見える。
この話が時を経て増幅転訛して、地元で継子いじめ民話を生んでいる。話が変形している処が面白いし、鳶で無く烏が現代ぽい。「昔、継子いじめする母があった。ある時、継母が団子を作り地蔵に供えた。山から烏が来て団子を浚っていった。〝団子を取ったのはお前だろ〟と怖い顔した継母が問い詰めた。身に覚えの無い継子は何度聞かれても〝知らない〟と答えたが、〝取って食べた事を白状しゃんな何も食べ差さへんよ〟と烏の罪を着せられてしまった。そんな時、継母は地蔵にお詣りし帰りかけると後ろから髪を引っ張る者が有る。振り返ると鰐口の紅白の紐が巻き付いている。離そうとすると一層巻き付く。たまりかねて大声で叫んだら、寺から出て来た院主さんが念仏を唱えて解くことが出来た。それから継母はすっかり改心し、優しい母親になった」云々である。『おらが春』説話が、幕末五百井の「日切地蔵尊」に移植されたと考えられるのである。歴史の法則性から何ら矛盾は無い。
【freelance鵤書林171 いっこうC13記】