聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景14
業平道と高安の里―
斑鳩の業平伝説
天理櫟本(在原寺・神社:謡曲「井筒」)より西行、斑鳩を通過して十三峠を越えて河内高安の里へ至る道を、『伊勢物語』(125物語と209首和歌)23段「筒井筒」記事の「業平河内(高安)通い」道:〝業平道〟と呼称し、富雄川に架かる橋を〝業平橋〟(平成9年車通行の〝新業平橋〟施工)と称する。「風吹けば沖つしらなみ龍田山 夜はにや君がひとり越ゆらん」。また沿道には、〝業平姿見の井戸〟と云うものも各所にある(広峰社井戸・五百井井戸・郡山市新庄町鉾立井など。俗謡「ここは並松業平さまか 姿井戸とはこのことか」・文化財センター前に案内看板あり)。斑鳩大字高安を大和の人々は〝高安の里〟と称し、その昔(正暦(990~95年)の頃)業平を忘れない様に村名を「富ノ小川村」から「高安村」に変えたのだと云う。業平こと在原業平朝臣は実在の人物(天長2(825)~元慶4(880)年)で、日本人なら誰でも知っていた〝歌の名手・日本一の貴公子・美男子(⇔美女小野小町)〟である。
斑鳩を通過する道は、〝高安から法隆寺の寺前を通って西里の南側に出て龍田町の北側(龍田閑道)を通って戒下に出て平群川の板橋(業平橋:念仏橋)を渡って清滝道を行くとも、法隆寺並松を通って龍田町に出る路を言い、戒下を通って平群川に出る。大橋の北から西南へ下がって三室山の下を通って大和川北岸に通ずる道〟も業平道と言っている。
大字高安は承和年中(834~48年)業平が休憩の為立ち寄られた在所であるとし、字大門の北の藪地26坪の字坊屋敷に在原神社が存在したが、鎮守天満宮(祀神菅原道真)に移され摂社在原社を祀り業平伝説を伝えた(天保1燈籠・安政7年狛犬あり)。
旧暦8月17日の座衆神事(後10月17日)には六人衆が前触れ無しで御供搗き使用の釜を持って指定座衆宅を訪問し、主人を叩き起こして娘も若嫁も顔に釜の煤を塗った行事が存在したといい、祭礼には村娘が美男子業平に見初められては大変と顔に墨を付ける慣習もあったのだと云う。また伝説として「業平笛吹松から西の方(西大和・中河内)では東向きの窓を造らぬし、造ってはならぬ」と広く伝えられている。
天満宮境内の神宮寺大日堂(谷森善臣『藺笠のしずく』記載・昭和40年解体・跡を示す石碑あり)の他に東安堵との村外れ、筋違道と業平道の衢(今地蔵堂の祠を残す)には、太子建立とする廃常楽寺の法灯を持った両村相持ちの「高安寺」が明治7年まであった。薬師如来座像(重要文化財指定)他や扁額は大日堂に納められた後、融通念仏宗歓喜山勝林寺が保管している。尚周辺から埋納経を略した供養「一字一石経」(中世後~近世期)の出土を伝える。
【freelance鵤書林172 いっこうC14記】