聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景15
2020.04.22 03:59
太子崩御の飽波葦垣宮と成福寺址
成福寺(本尊は嘉祥2年銘太子十六歳像)は近年まで本堂と龍宮門が存在したが廃寺となり鉄柵で覆われている。『斑鳩古寺便覧』に〝芦墻*宮〟は俗に神屋寺であると云い成福寺の事と記し、『法隆寺記補忘集』には、嘉祥2(849)に造営されたとする。この地は神屋(かみや・上宮)と呼ばれた法隆寺村東福寺の枝村。飽波葦垣宮は太子と膳妃が住まいした宮とされ、成福寺は其の跡地と法隆寺では伝えてきた。『聖徳太子伝古今目録抄』に葦垣宮にて崩じ給うとある。『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』には、推古帝が田村皇子を使わして太子を飽波葦垣宮に見舞った記事も散見できる。
隣接の都市公園上宮公園になった所は、斑鳩町が〝竹下内閣ふるさと創生一億圓事業〟で発掘調査の結果、奈良朝期の官衙的配置をとる大型掘立柱建物7棟(南北に庇が付く桁行7間梁行4間の東西棟建物と柱筋を揃えた桁行5間梁行2間の東西棟建物。東には桁行4間以上梁行2間の南北棟建物で構成され、正殿・後殿・東脇殿である)と井戸2基を検出、平城京所有同范瓦が出土した事から称徳帝の神護景雲1(767)・3(769)年、河内行幸の止宿「飽波宮行宮址」と判明した。太子の飽波葦垣宮址が伝承されていて奈良期に離宮の地として使われた結果であろう。公園は拙速にモニュメント・歌碑が林立していて、検出遺構を活かした遺跡公園とは程遠い。
飛鳥期の井戸の検出や遺物の分布よりこの地点より寺側にかけて太子宮址が埋没しているのは明白のようだ。この地が〝太子道〟の起点でもある。文献:平田政彦「称徳期飽波宮の所在地に関する考察-斑鳩町上宮遺跡の発掘から―」『歴史研究』33 1996
【freelance鵤書林173 いっこうC15記】