聖徳太子の聖蹟といかるがの里風景17
筋違道(すじたがえみち・すじかいみち)-
太子道(たいしみち)
大和の南北幹線道路は8世紀の古代都城制道路を踏襲して、〝上街道・中(橘)街道・下街道〟が近代までを道幅を減じて利用される。更に東西幹線道路は新益京時代の〝横大路:伊勢街道〟・春日一の鳥居を起点とする〝三条通:暗越え奈良街道〟・尼ケ辻から大和川伝いに亀ノ瀬を越える〝龍田道:奈良街道〟が健在であった。
もう一つそうした東西南北の地割には合わず国中を斜行する道が「筋違道」と呼ばれてきた。この道は太子が斑鳩から都であった遠飛鳥に通った道という伝承から何時しか「太子道」と俗称されてきた(昭和52年より法隆寺がイベントで始めた〝太子道をたずねる集い〟龍田から河内上太子叡福寺墓所までの道をも磯長ルート:太子葬送の道〝太子道〟と近年称しているが、そう呼ばれてきた事実は無い。あくまでその道は〝當麻道〟と〝竹之内茅渟道〟である)。
路(道)は、北で西方向に傾く、西偏20度前後(17度)を取る。現在は、安堵~三宅~田原本の生活道路に痕跡を留め、その他水田中にも畦道・畦畔として痕跡が確認出来る地点もある。時期的には推古朝(推古帝、崇峻5(592)年豊浦宮即位から舒明帝飛鳥岡本宮焼失の舒明8(636)年頃の時期)に相当し、以前・以後の正南北の軸線とは異なる方位を取るのを特徴とする。斑鳩町では高安から安堵飽波神社の方への斜行する道や水田畦畔に痕跡が残る。さらに安堵小学校付近で屈曲し、窪田に至る。この付近が『日本書紀』推古帝18(610)年に見える「阿斗の湊・河辺の館」である。三宅町屏風~田原本町多までは痕跡はよく現存している。以南については新益京の大規模造成で痕跡は消滅しているが、飛鳥地域などの発掘調査で幅員20m・東西側溝3m程の道路遺構が発見されつつある。
2018年4月に窪田の太子道沿いに「オブジェ案山子公園」が出来、高さ12mの〝太子モチーフの像〟が法隆寺の方角を向いて立っている。文献:岡本精一『太子道を往く-飛鳥・斑鳩そして磯長へ-』1987・『太子道-聖徳太子の道を往く-』向陽書房2002、酒井龍一「推古朝都市計画の復原的研究」『文化財学報』27集 奈良大学文学部文化財学科2001
【freelance鵤書林175 いっこうC17記】