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うさねこまったり

病気と私 27

2020.04.22 17:17


誤字脱字等、その他本文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。

お気づきの点などありましたら、どうかコメント欄で教えてください。

よろしくお願いします。


----- 左目が見えなくなったということ -----


高校に入学して早々に、磐梯青年の家で集団生活に対する一泊での研修があった。

ちょっとした広間に卓球台が1台置いてあり、私も興味があったので、ゲームに混ざってやり始めた。

病院では車いすに乗った状態でしかやっていなかったので、立って卓球をするのはなんだか変な感じだった。

しかし、ラリーの応酬が始まると、私はやたらと完ぺきに相手に返せるようになり、いつしか、一本落としたら、落とした方が交代というルールになり、私はいつまでもラケットを離さずに持ち続け、同級生達が代わるがわるむきになってやりはじめたので、なんだか楽しくなってしまった。(事故前)

そんなことがあって、その時に一緒にやった同級生達から卓球がやたらと上手だと思われるようになった。


最初の球技大会の時から、左目は既に見えなかった。

そのことはもちろんクラスのみんなには話したのだが、負けてもいいので、やれそうならやってもらえないかと言われて、卓球は任されることになった。

卓球は、個人戦はなくて、ダブルスのみだったので、相方に迷惑をかけるのも嫌だったので、本当に自分でいいのか念を押して聞いたのだが、卓球は1クラスで1チームダブルス参加となっていて、誰もやりたがる人が居なかったこともあり、気軽にやろうということで、私も了承した。(私には他に参加できる種目はなかった)

翌年にはクラス替えがあって相方は別の友達になるのだが、結局3年間続けて卓球の種目を任されることになる。

卓球にはそれなりに自信があったのだが、見えなくなってからは、飛んでくるピンポン玉の位置が全く分からなくなってしまった。

ラケットに当たりさえすればちゃんと相手のコート内に落とせるのだが、当たらないことにはどうにもならず、空振りばかりでまるでお話にならない状態だった。

ともかく練習するしかないと思い、父も卓球は好きだったので、練習に付き合ってもらうことにした。父は毎日定時で帰ってくる人だったので、高校から帰ってきて取り合えず父と二人で何か食べ、19時ぐらいから隣の家にあった卓球台を借りて毎日練習をした。

(隣の家には、プレハブのような物置(土間)があり、そこに使われなくなった卓球台がおいてあった)

その甲斐あってか、1週間も過ぎた頃には、なんとなくではあるが、球が飛んできそうな位置が予測できるようになり、ラケットの中央でとらえられなくとも、なんとかラケットには当たるようになってきた。

しかし、遠近感がつかめないのだから、実際には位置の把握ができるようなることはなく、経験による予測の域を抜けることはなかった。

それでも、素人の遊び相手ぐらいまでには、やれるようになった。


試合は、2試合勝ち、3試合目で負けた。

卓球は、各学年、どこのクラスでも、全く力を入れていなかった。

3試合目で当たったのは、中学時代に卓球部だったという先輩相手だったので、たぶん目が見えていても勝てなかっただろうとは思ったが、見えないことによる試合中のストレスはとても大きいもので、勝っても負けても、あまり喜べるような状態にはならなかった。

ラケットを空振りすれば、誰だって普通に悔しい。

その悔しさは、通常、相手よりも自分が劣っているという悔しさだ。

私のそれはそうではないのだ。過去の自分より劣っているという悔しさであり、努力でどうにかなるようなものではなかった。

2年生になり、クラス替えがあった後も、同じ種目を任されて、3年間、同じ思いを味わうことになる。

スポーツは、水泳と卓球しかできなかったのに、卓球も思い通りにはできなくなってしまった。


就職してからは、二種免許が取れないため、施設利用者の送迎という仕事ができなかった。

退職した後では、タクシー運転手になれなかった。

大型自動車の免許もとれない、クレーン等の特殊免許も取れない。

歩かなくてもやれる数少ない仕事を失っていたのだ。


左側にある障害物によくぶつかる。

左肩はもとより、左目の上をいろんな場所にぶつける。

瞬間的にでも、何かあるのが見えれば、ぶつかるときに力がはいるため、ぎりぎりで止まれるか、間に合わないにしてそれほどの勢いで当たることはない。

しかし、何も見えていない状態で障害物に当たると、軽くぶつかっただけでもすごい衝撃がある。

病気が病気なので、額をぶつければ顔が紫色になるし、肩をぶつければ肩が内出血で腫れた。


失明して間もなくの頃は、右目に左目がきちんと追従していて、誰も左目が見えていないということが分からないような状態だった。

しかし、何年も過ぎてくると、左目が少しずつ外側に寄るようになってきて、左目だけが変な方を見ているように思われることがしばしば出てきた。

話しかけられた相手が、自分に話しかけているのか、左目の先にいる誰かに話しかけているのかわからないということが起こり始めたのだ。

そんなある日のことだ。

廊下でタバコを吸っていて、正面でタバコを吸っていた知らない人から、「何こっち見てんだ、なんか文句あんのか!」といきなり襟首をつかまれたことがあった。

隣に友達がいたので、友達が慌てて相手を制止してくれたが、これは注意しないといけないなと思うようになった。

左目が勝手に誰かの目線に入り、ジロジロ見ていると思われるようなことになったら、不本意な厄介ごとを起こすことになってしまう。相手が女性なら尚更だ。


それ以来、自己紹介をする時には、「私と話をする時には、左目はどこを見ているのか分からないので、右目だけを見て話をしてください」と頼むようになった。


遠近感がつかめないということは、本当にいろんなところで困ることがある。

釣りをしていれば、戻ってきた針を空中でつかめないし、メガネをかけるようになると中央部のフレームが狭い視界を更に狭めてしまう。

運転中に右目にゴミなど入ろうものなら、目を閉じるわけにはいかないため、大変な苦労をして道路脇に車を停めなくてはいけない。高速道路ならなおさら大変だ。


人生にはいろんな失敗があるが、私にとっての取り返しのつかない失敗のうちの大きな一つになった。


今回のブログを書くために、母に電話をして話を聞いた時のことを書いて置く


一通りの話が終えた後、母がこんなことを言った。

「お前が総合病院に運ばれた時、あの病院に薬がちゃんと用意されていれば、あんなに大変なことにはならなかったんだ」


その返事として私が母に話したこと。

あそこに血液製剤があったら、俺は助からなかったんだよ。

150kmも離れた仙台の病院まで救急車で運ばれていたら、兄貴が言った通り、到底間に合わなかった。

もちろん、兄貴があの日、途中で家に引き返して来てくれていなかったら、それでも助からなかった。

病院に運ばれてから一度だけ使った8因子製剤は、すぐに止血効果がなくなり、ファイバを使ってようやく血が止まった。

治験薬の開発が、1ヵ月でも遅れていたら助からなかった。

もし、総合病院で役に立たない注射を使い、そこで半日以上も様子を見られていたとしたら、その時点でもう助からなかったんだ。

総合病院が、約束を違えたことは、常識で考えれば訴えられるようなことだったけど、俺にとっては幸運だったんだ。

母は、「ああ、そうか、、」と一言返した。


人生には偶然なんて何ひとつない。

全ては起こるべくして起こったことなのは分かっている、

だけど、その必然の重なりは私にとってはあまりにも奇跡的であったことに間違いはない。

見えなくなった目を教訓とし、感謝しながら生きる以外にないではないか。


#血友病#血液製剤#ファイバ#失明