天下七本槍〝片桐東市正且元〟居城と古の龍田9
大和猿楽坂戸座の発祥地―
能楽金剛流の祖
能楽流派の元になった大和猿楽四座(結崎座:観世流・圓満井座:金春流・外山座:宝生流、坂戸座:金剛流)の一つ坂戸座がここ龍田社で生まれた。奉仕に関わったのは、三里(服部・五百井・丹後)の人々。職能集団であり、中世龍田社と法隆寺に出仕したのである。この事は忘れられていたが、故高田良信長老などの働きかけによって平成9年「金剛流発祥之地」石碑が建立された(金剛流は現在能楽シテ方五流のうち唯一京都を拠点とする。 上京区・烏丸今出川下るに〝金剛能楽堂〟があり、宗家は26世金剛永謹こんごうひさのり氏。東京坂戸金剛流は昭和11年絶え、分家の野村金剛流が継承している)。以来2月に龍田社で奉納される慣例が出来た。
龍田衢の猿楽・龍田市・龍田社・落書事件記事・龍田入道の龍田氏・龍田古城・龍田古町は、まさに中世的世界(石井進・網野善彦の描く中世史)を彷彿とさせる場所である。
『嘉元記』記事に見る〝落書(らくしょ:犯罪人探し等の無記名投書)〟の例は、「法隆寺蓮城院に強盗が入った事件に寺は懸賞金を出したが解決しなかった。そこで龍田社で大落書を実施したと言うのである。17地区の住民に投票させた結果、600票が投じられ寺僧2人が20余票と19票を集めた。2人は無実を訴え自身で真犯人を指し出した結果、犯人の首が切られた」と記す。また、国司を兼ねる興福寺の〝衆徒〟に「龍田入道為定」の名がある。〝国民〟では無しに筒井氏・古市氏・鷹山氏などと同様、「衆徒」であった事が重要。
その〝龍田殿〟と呼ばれた『和州十五郡郷土記』に見る永正年間(1504~21)龍田政所の居城「龍田館(平城):龍田古城」は、自然地形を利用した天理教平安大教会と創価学会斑鳩平和会館間の西から中央公民館南の「字城垣内」の地である事が容易に推測出来るが、埋蔵文化財包蔵地に入れられず、復原想定図さえ作成されていないのが悲しい。近年小規模住宅開発が進んで消滅する日も近いが、文化財行政の調査は皆無である(片桐龍田城と同一地点と誤記する書籍が多いのは遺憾の極み)。
【freelance鵤書林184 いっこうB9記】